序 ── 移動手段マスタ
〈ショートストーリー〉
公園の向こうから、息子が駆けてくる。
「おとーさーん!」
両手を振っている。転びそうで転ばない。
あんなに小さかったのに。生まれたては首もすわらなかった。抱くのもこわごわだった。それがもう、自分の足でこっちへ走ってくる。
いつの間に、こんなにしっかり歩けるようになったんだろう。
思い出そうとした。ハイハイをやめたのはいつだったか。初めてつかまり立ちした日に、私はその場にいたか。最初のよろめく一歩を見ていたか。どれももやがかかって曖昧だった。気づいたら息子は歩いていて、もう走っている。
でも今日のことは、はっきりわかる。
しゃがんで受け止めた。腕の中で息子は笑っている。汗のにおいがした。私はこの子を、ちゃんと抱きとめられた。
息子はすぐ身をよじって、また次の何かへ駆けていく。
「おとーさーん、はやくー!」
その背中を見ながら、ポケットからスマホを出す。
息子が生まれた日から、私は一覧表をつけている。何でも表にしてしまう性分だ。名前。生年月日。身長。体重。そして移動手段。子のことは何ひとつ取りこぼしたくなかった。
移動手段の欄には、少し前まで「伝い歩き」と入れてあった。それを消して、打ち直す。
移動手段マスタ
| 移動手段 | valid_from | valid_to |
|---|---|---|
| 二本足でしっかり歩く | 2022/11/14 | 9999/12/31 |
valid_fromには今日の日付を入れた。今日から、息子は自分の足で歩く。
valid_toは、いつも通り9999/12/31。ずっと先の来やしない日付。終わりのないものに、私はいつもこれを入れる。
保存した。
これでいい。今、息子がどうやって移動するか。その事実が正しく記録された。最新の、たったひとつの真実。
間違えない。記録できている。
〈この本の読み方〉
この本に、心をgitで管理するような不思議は出てこない。ここにあるのは現実だ。ある人が自分の人生を、その時々の道具で記録しつづけた。手で引いた紙の表から、スマホの中へ。道具が変わるたびに、その人は何かに気づく。
各章は二枚で一組になっている。
- 〈ショートストーリー〉が、記録の現場で起きた人生のひとときを描く。書いている本人は、自分が何を取りこぼしているかをまだ知らない。
- 〈技術ノート〉が、その現場をあとから訪ねて、見落とされた構造を正す。現場を裁くためではない。たいていの場合、その崩し方には理由があったと肯定するために。
物語で覚える。ノートで確かめる。物語を信じすぎないために。
さっき父がvalid_toに書いた9999/12/31。来ないことになっている、あの日付。あれが何だったのかは、本のずっと終わりのほうでもう一度あなたを待っている。
あなたは名詞だろうか。それとも動詞だろうか。