──「人生をデータ設計で記録した男」の物語で、数えはじめたとたん、私は、見たいからではなく、数を増やすために見るようになった
〈ショートストーリー〉
年の暮れに、見た映画の記録を、数えてみたことがあった。
あの表を引き直してから、私はずっと、見た日を一行ずつ、書きつづけていた。一回見れば、一行。同じ映画でも、見るたびに増える。その年のぶんを、上から拾って、数えた。
今年は、五十二本。一週間に、一本。
悪くない数字だ、と思った。それから私は、毎年、暮れに数えるようになった。
数えるのは、面倒だった。記録は、毎年伸びていく。一年ぶんを数えるのに、何百行も、上から拾わなければならない。
だから私は、年ごとの本数だけ、別の表に書き写すことにした。
| 年 | 本数 |
|---|---|
| 2016 | 48 |
| 2017 | 51 |
| 2018 | 52 |
これなら、一目で分かる。今年は何本、去年より増えたか、減ったか。
ただ、この表は、少し嘘をつく。あとから古い映画の記録を一行足すと、合計が合わなくなる。書き写した数字は、写した時点で、止まっている。元の記録は動くのに、こっちは動かない。気づいたときには、ずれている。直すのは、いつも、私だけだった。
その表を、よく見るようになった。
すると、おかしなことが起きた。
十二月になると、私は、その年の数を気にした。今年は、まだ四十八本。あと四本で、去年に並ぶ。
それで私は、短い映画を選ぶようになった。長いものは、年明けに回した。途中で退屈でも、最後まで早送りで見て、一本に数えた。見たいから見るのではなく、数を増やすために、見た。
一本が、一本でなくなっていた。中身がどうでも、最後まで再生すれば、合計は、ひとつ増える。私は、映画を見ていたのではなかった。数字を、増やしていた。
あの、もう一度見て、まるで違って見えた映画。
あれも、この表の上では、ただの一本だった。年末に早送りで埋めた一本と、同じ、一。
本数は、その違いを、持っていなかった。
私は、その年から、数えるのを、やめた。
でも、一本見るたび、頭のどこかで、まだ、足し算が始まる。
〈技術ノート〉── 集計は、名詞でも動詞でもない
現場の覚え書きだ。物語が見落とした構造を正す。ただし崩れた記録を裁くためではない。崩すには、たいてい理由がある。
「年に何本」。これは、集計だ。
集計の持ち方は、二つある。
ひとつ。要るたびに、数え直す。その年の記録を、上から最後まで拾って、足す。これは、いつでも正しい。元が動けば、答えも動く。ただし、重い。記録が伸びるほど、ひとつの数を出すのに、長い列を、まるごと舐めることになる。── 前に、彼が、これで音を上げた。
もうひとつ。数えた結果を、別の表に、焼いて持つ。年ごとの本数を、書き写しておく。これは、速い。一目で出る。だが、古びる。書き写した瞬間に、その数字は止まる。あとから一行足せば、もう合わない。元の記録は流れつづけるのに、焼いた数字は動かない。しかも、それを合わせ直す者は、自分しかいない。誰も、勝手には直してくれない。
速いが古びるほうを取るか、正しいが重いほうを取るか。ただ取りの答えは、ない。
ここまでは、機構の話だ。本当の問題は、その先にある。
集計は、奇妙なものだ。マスタでも、トランザクションでもない。
マスタは、今どうであるか、という名詞だ。トランザクションは、いつ何をしたか、という動詞だ。集計は、そのどちらでもない。過去の動詞の山を、ひとつの数に潰した、凍った主張だ。いつも少し過去の、流れについての、動かない値。それは、あなたが何者かも答えないし、あなたが何をしたかも答えない。山の高さを言うだけで、山が何でできているかは、もう言えない。
そして、いちばん深いところ。
数を持って、それを見つめると、数は、測るための道具であることを、やめる。目的に、なる。
彼は十二月に、足りない本数を数えた。そして、数を増やすために、映画を選んだ。短いものを。早送りでも、最後まで。見たいからではなく、一を足すために。数えはじめたとたん、本数は、見ることの結果ではなくなった。見ることのほうが、本数を作る手段になった。
測るという行為は、対象の外には立てない。前の章では、ひとりの体で、それが起きた。健康と認定されたから、飲む。ここでは、もっと大きく起きる。何かを数えて、人の前に掲げれば、人は、その数を上げにかかる。そして数は、もとの何かを、測らなくなる。測るために作った数が、目標になったとたん、もう何も測らない。自分を最適化する、とは、たいてい、これのことだ。
ひとつ、思い出してほしい。最初の章で、彼は○をやめた。一回ごとの視聴を、別の行にした。同じ映画を二度見た、その違いを、消さないために。
集計は、それを、もう一度潰す。もう一度見てまるで違って見えた一本も、年末に早送りで埋めた一本も、本数の上では、同じ一だ。○がしたことを、集計が、一段上で、やり直している。
最後に。集計が、悪いのではない。「今年は何本」は、まっとうな問いだ。生の記録は、そのままでは使えない。要るのは、たいてい、絞った数字のほうだ。あれを焼いて持つのは、知恵だ。
間違いは、その数字を、自分だと思うことだ。
多くの人が、いつのまにか、この集計テーブルになっている。フォロワーの数。歩数。年に何本。自分について焼かれた、ひとつの数字。少し古くて、中身を潰した、その数に追い立てられて暮らす。名詞か、動詞か。── この本がずっと尋ねている問いに、ただ一人、どうしても答えられないのが、こいつだ。