──「人生をデータ設計で記録した男」の物語で、これとそれを同じ一つと見なすかは、現実ではなく、私が決めていた
〈ショートストーリー〉
若いころ、買い物のメモに、私はただ「コーヒー」と書いていた。
ブラジルだろうが、何だろうが、同じだった。茶色くて、苦くて、目が覚めれば、それでいい。切れたら、買う。それだけの行が、ひとつ。
| 品目 | 量 |
|---|---|
| コーヒー | 200g |
あるとき、私はコーヒーに、こだわるようになった。
産地で、味が違う。同じ産地でも、焙煎した日で、違う。同じ豆でも、先週焼いたのと、今週焼いたのは、別物だった。
私は、一つずつ、書くようになった。
| 産地 | 焙煎日 | 味 |
|---|---|---|
| イルガチェフェ | 5/10 | 花のような香り |
| イルガチェフェ | 5/24 | 浅煎り、強い酸 |
同じイルガチェフェが、二行ある。昔の私なら、どちらも、ただの「コーヒー」だった。一行だ。今の私には、別の、二つだった。
ある日、古いメモが出てきた。「コーヒー 200g」。
笑ってしまった。これで、よく平気だったな、と。
でも、すぐに、おかしな気持ちになった。
あの一行を書いた私と、いま二行に分けている私は、同じ私だ。同じものを見て、片方は一つに、片方は二つに、数えている。
どちらかが、間違っているのではなかった。私が、線を引く場所を、変えただけだった。これとこれは同じ。これとこれは違う。── その線は、コーヒーの側には、なかった。私の側に、あった。
それで、ふと、こわくなった。
同じコーヒーかどうかを、私が決めていたなら。
「コーヒー 200g」と書いた私と、焙煎日まで書く私。○の表をつけた中学生と、息子の終わりの欄を書き換えた父親。これを全部、ひとつの行に、まとめているのは──
そこまでで、やめておいた。古いメモを、また、しまった。
〈技術ノート〉── 主キーは、現実には書いていない
現場の覚え書きだ。物語が見落とした構造を正す。ただし崩れた記録を裁くためではない。崩すには、たいてい理由がある。
これまでの章は、ぜんぶ、記録と現実の隔たりの話だった。台帳が、どれだけ現実から遅れ、ずれ、古びるか。
この章は、その手前の話だ。隔たりが生まれるより、前。何を一行として立てるかを、決める瞬間の話。
「コーヒー」と一行で持つか、「イルガチェフェ・五月十日焙煎」と一行で持つか。これは、精度の差ではない。列を増やせば細かくなる、という話でもない。決めているのは、もっと手前のことだ。── これとそれは、同じ一つか。それとも、別の二つか。
それを決めるのが、主キーだ。
主キーとは、「これとこれは同じ」「これとあれは違う」という、あなたの宣言だ。テーブルを作るとき、人は知らないうちに、何を一つの個体と数えるかを、決めている。コーヒーの単位を、豆の種類にするか、焙煎ロットにするか。それだけで、世界の解像度が、決まる。
そして、ここがいちばん大事なところだ。その切れ目は、コーヒーの側には、ない。
現実のコーヒーは、「私は一種類だ」とも「私はロットごとに別物だ」とも、言っていない。同じ豆を、一つと見るか、二つと見るか。それは、見る側が、現実に押しつける線だ。主キーは、現実から見つかるのではない。設計者が、現実に、引く。
では、粗いほうが、雑なのか。
そうではない。粗い主キーは、怠けではなく、判断だ。決めるのは、目的だ。切らさないために買う。その目的になら、「コーヒー/200g」で、足りる。そこへ焙煎ロットまで持ち込めば、使い道のない列が増えて、運用が潰れるだけだ。細かくすることは、それ自体では、偉くない。こだわりの細かさが正しいのは、飲みくらべるからだ。飲みくらべないなら、その細かさは、ただのごみだ。
目的が違えば、同じものの定義が、違う。それだけのことだ。だから、ズボラな自分から見れば、こだわる自分は、病んで見える。こだわる自分から見れば、ズボラな自分は、何も分かっていない。どちらも正しく、どちらも、相手には狂って見える。ここで、裁定はしない。
ひとつ、書いておく。名前を主キーにすると、ぶつかるし、古びる。同じ名前の別物が現れたり、名前のほうが変わったりする。意味のない、ただの通し番号だけが、粒度や名前の変更に振り回されず、「何を同じとするか」を、人の手に残す。意味がないから、嘘をつけない。
最後に。
この本はずっと、あなたは名詞か、動詞か、と尋ねてきた。だが、その問いの手前に、もっと古い問いがある。
そもそも、あなたを、何で一つと数えるのか。
きのうのあなたと、きょうのあなたは、同じ一行か。別の二行か。こだわる者が先週の豆と今週の豆を別にしたように、朝ごとのあなたを、別の行にすることも、できる。あなたが、ずっと一人の「あなた」でいられるのは、自分を、いちばん粗い主キーで、握っているからだ。
それは、発見ではない。設計だ。あなたが、自分に引いた線だ。
いちばん最初の章で、ある父親が、息子を「二本足で歩く」という、ざっくりした一行に立てた。何気なく、誇らしく。あのとき彼が無自覚にやったことを、人は、自分自身にも、ずっと、やっている。