──「人生をデータ設計で記録した男」の物語で、○のついた一本は、いつ見たかも、何度見たかも持てない
〈ショートストーリー〉
中学のころ、私は見た映画を紙に書き出していた。
ノートの見開き。左に題名。右に二つの欄。「見た」と「まだ」。見たら見たの欄に○をつける。それだけだ。
単純で気持ちがよかった。○がひとつ増えるたび、自分が少し大きくなる気がした。題名の右端が○で埋まっていくのを眺めるのが好きだった。いつか全部の右が○になる。そういう表を作りたかった。
ある日、友達に聞かれた。
「あれ、もう見た?」
見た、と答えた。ノートにもちゃんと○がついている。
「いつ見たんだっけ?」
口ごもった。覚えていなかった。去年か、もっと前か。○は見たことを教えてくれる。でも、いつ見たかはどこにも書いていない。
その夜、○の横に小さく日付を足した。思い出せるぶんだけ。これでいい。見たかどうかと、いつ見たか。ふたつあれば足りる。そう思った。
足りなくなったのは、ずっとあとだ。
子供のころに見た一本を、何かのはずみでまた見たときだった。同じ映画なのに、まるで違って見えた。前は退屈だった場面で、息がつまった。あの頃の私に見えなかったものが、見えた。
ノートに書き足そうとして、手が止まった。
○はもうついている。日付も、ひとつ入っている。今日見た日を、どこに書けばいい。○の上に○を重ねるのか。日付の欄はひとつしかない。古いのを消して書き換えるのか。でも最初に見た日も、本当のことだ。消したくなかった。
二回見た。なのにノートの上の私は、その映画をただ「見た」一人のままだった。一回目の私と二回目の私は、別人なのに。○は、それをおなじ一つにしてしまう。
私はページを破って、引き直した。
題名の下に、見た日を縦に並べる。一行に一回。同じ映画でも、見るたびに一行増える。
| 題名 | 見た日 |
|---|---|
| その映画 | 1998/08/15 |
| その映画 | 2014/05/03 |
○の欄は、もう引かなかった。
見た日が一行でもあれば、見た。一行もなければ、まだ。それで足りた。
〈技術ノート〉── ○は、最新の答えだけを持つ
現場の覚え書きだ。物語が見落とした構造を正す。ただし崩れた記録を裁くためではない。崩すには、たいてい理由がある。
○は、フラグだ。見たか、まだか。ひとつの問いに、ひとつの値で答える。
フラグは、マスタの持ち方だ。マスタは「今どうであるか」を持つ。今この映画を見終えているか、いないか。マスタはいつも「今」の一点を指す。だから○は、いつ見たかを持てない。何度見たかも持てない。状態には時間の奥行きがない。状態は、流れの最新値にすぎないからだ。
二回目が壊したのは、ノートではない。○という持ち方そのものだ。一回性の出来事を、マスタのひとマスで受け止めようとすると、二件目の行き場がなくなる。出来事は積み重なる。マスタは上書きされる。形が、最初から違う。
彼が引き直したのは、視聴ログ ── トランザクションだ。一回の視聴を、一行の出来事として記録する。日付つき。何度でも増える。
新しいノートに、「見た」の欄はもう要らない。「見たか」は、持つものではなく、数えるものになった。トランザクションが一行でもあれば、見た。一行もなければ、まだ。マスタは、トランザクションの列からいつでも導ける。逆はできない。○からは、一件の視聴も取り出せない。
では○は間違いだったか。そうではない。「この映画、もう見たか?」── レンタル屋の棚の前で要るのは、その一ビットだけだ。日付も回数も要らない。フラグは、その問いに最小の手数で正しく答える。安くて、速くて、十分だ。
○が嘘になるのは、それを人生の記録だと思った瞬間だけだ。フラグは、今どうかを答える道具であって、どう生きたかを覚えておく道具ではない。間違っていたのは○ではなく、○に背負わせたもののほうだった。
二回目のあの映画が、一回目と違って見えたこと。その差こそが、彼の過ぎた時間だった。○は、それをひとつのマスに畳んでいた。畳まれていたと気づけたのは、二回目を見たからだ。フラグのままなら、畳まれたことにすら、気づかない。