はじめに
漫画インベスターZの4巻(2014年6月出版)には国産 OS トロンの話がでてきますが、その内容のほとんどが間違いです。この記事ではその間違いを全ページ訂正しています。もちろん漫画なので作り話というのは知っていますが、実在の人物と同姓同名の人が登場するため、実際の出来事だと勘違いしている人がいるようです。10年以上昔の古い漫画ですが最近でも某所で内容付きで宣伝されており、このままだとデマが拡散される一方なので、その間違いを徹底的に解説することにしました。私はインベスターZの著者が「トロンは潰れたというデマを広げた(広げている)」ことを批判しています。もっともデマを広げているのはインベスターZだけに限りませんが。困ったことですね。トロンプロジェクトを発足させた坂村健氏もインターネットには嘘ばっかり書いてあると嘆いています。それならば私が本当のことを書きましょう(この記事が気に入らない人はもっと良い記事を書いてね)。トロンに関する混乱は「トロンプロジェクト」と「教育用パソコン」という別の話の混同が原因です。この記事はその点に注意して読んでください。トロンプロジェクトは「パソコンは操作方法や仕様が統一されておらず使いづらい。過去との互換性を考慮せずに新しく仕様を作り直せば良いものができるはず。」という考えで始まり、開発するメーカーにとっては「将来、米国の技術が使えなくなったらどうしよう」という不安を解消できるプロジェクトでした。しかし IBM、Intel、Microsoft はトロンプロジェクトがやろうとした仕様統一を先に実現し、過去との互換性を保ちながら技術を発展させ、CPU や OS の利用を制限しなかったので、日本のパソコンメーカーは Windows を選びました。日本の学校に強制導入されなかった程度で普及しなかったというなら、一般市場や世界市場で戦って Windows に勝てるはずがありません。トロンパソコンの製造と販売は禁止されず、実際に発売されましたが、日本人はトロンを選びませんでした。Windows と勝負して負けた事実を無かったことにしたいためか、「国産 OS トロン」が販売された1990年代以降の歴史を隠蔽しようとする勢力があるかのように感じます。だからデマ話は「米国に潰された」で終わっているわけです。
【坂村健 - bit 1992年9月号別冊「コンピュータと法律」より抜粋】
私の好きな GNU プロジェクトのストールマン氏は「コンピュータのソフトウェアのようなものは、人類共通の財産だから全部フリーにしろ」というようなことを言っている。私は彼を非常に尊敬しており、心情的にはそういうふうにするべきだと思っているが、私ができるのは仕様までである。TRON プロジェクトで扱っているものは VLSI からオペレーティングシステム、さらにはアプリケーションまで非常に広い範囲におよんでいる。一人で製品まで作るのは不可能である。よって、私としては仕様までをストールマン氏流にフリーにしたが、そこから先は各デベロッパの権利の範囲としたのである。これが TRON プロジェクトリーダとしての著作権に関する基本的な考え方である。
ツッコミ: ストールマン氏流のフリーというなら仕様書はGNUライセンス流に再配布自由にすべきでは?
トロンプロジェクトは本質的に組み込み OS のプロジェクトです。ですが、この記事では特に明記しない限り「組み込み用のトロン OS の存在を知らずに Windows と比較したい漫画の内容」として2000年頃までのパソコン用のトロン OS を扱っています。漫画インベスターZにはさまざまなウソがあります。例えば 「Windows の10年前にトロンという OS があった」というウソは、真実は正反対で「Windows から10年近く遅れてパソコン用のトロン OS が発売」されました。Microsoft の OS が世界・日本のパソコン用 OS 市場を席巻した後に発売されたので勝てるわけがないんです。「米国がトロンを潰した」もほとんどウソで、日本政府が教育用パソコンからトロン OS 以外を排除しようとしたものの、日本メーカーと日本人の多くが Microsoft の OS を希望し、トロンが骨抜きになった最終局面で、日本の排他的なやり方に不満をいだいた米国からのクレームが目立っているだけというのが真実です。マイクロソフトがトロンを恐れたなんて事実もありません。それどころか現在ではマイクロソフトはトロンプロジェクトをサポートしています。パソコン用のトロン OS は政治的に潰されて何もできないままシェアを Windows に奪われたわけではなく、販売されてから10年以上の間 Windows に挑戦しつづけました。しかし多くの日本人はトロン OS を買うことはなく、使いやすい Windows 95 と抜群の安定性を誇る Windows XP が発売されたことでパソコン用のトロン OS の普及の夢は潰えました。結果から見ると開発速度と完成度の両方で負けていた日本用のトロンが、パソコン用 OS で世界の覇権を握る可能性はゼロでした。
漫画でトロンが政治的に潰されたことにしたいのは演出上の理由でしょう。Windows とフェアな競争で負けたという真実よりも、米国を全てを奪っていく敵国かのように表現し、卑怯な手段で潰されたトロンは本当は凄かったんだというストーリーの方が盛り上がりますよね? 漫画の演出のためには「トロンは米国に潰されていなければ困る」 わけです。だから実際には潰れていないものを潰そうとするわけです(注意: 私は「潰された」ではなく「フェアな競争で負けた」と言っています)。ストーリーを盛り上げるために悲劇を作り出すテクニックは、漫画などでよくあることなので、やるなとは言いませんが、実在の人物でやるのはよくありません。このようなストーリーは「日本が落ちぶれたのは全部米国が悪いんだ」などと考えている人には大好物なネタです。そういう人たちは日本航空123便の墜落事故は、裏でビルゲイツが手を引いており、本当は米国がミサイルを撃って墜落させられたんだと考え、そしてその脅しに恐れおののいた日本政府は自ら不利な要求を飲み込んだんだと陰謀論界隈へと突き進みます。漫画のウソに洗脳されてしまった犠牲者もいることでしょう。日本人は他人の仕事を評価しない傾向があるようですが、ビルゲイツの功績をちゃんと評価しましょう。
この記事は可能な限り信頼できる情報を元にしています。信頼できる情報とは、必ずしも坂村氏が言ったことではありません。これは当然ですよね? 例えば坂村氏が「米国政府はトロンを恐れた」と主張しても、坂村氏は米国政府の考えを知る立場にはないので、それは第三者の(坂村氏の個人的な)意見です。この記事では当事者の発言を最も信頼できる情報として採用しています。当時の新聞や雑誌も参考にしていますが、事実(実際に起こった出来事)や当事者へのインタビューと、記事に紛れた執筆者の意見を混同しないように注意を払っています。「本にそう書いてあるからそれが事実だ」みたいな一律の判断はしていません。実際、インタビューの形を取りながらも執筆者の意見が書いてある記事はたくさんあります。情報のソース元がどこか気になる方は「国産OSトロン潰しの真実「通産省 vs 文部省、NEC vs 弱者連合」の教育用パソコン問題」を参照してください。この記事では分量の都合からソース元は基本的に省略しています。
ここまで、インベスターZのトロンの話はウソだと散々言って来ましたが、著者が意図的にやったと言うよりは、2003年4月15日に NHK で放送された「プロジェクトX ~挑戦者たち~ 家電革命 トロンの衝撃」(DVD版)の改ざんされた歴史に騙されたのだと考えています。前提知識のない人が勘違するように作られている部分で見事に勘違いしているからです。あの番組は、Microsoft 社の陰謀であるかのような「悪質な印象操作」を行い、政治的に潰されて Windows に負けたトロンが「組み込み用という別の活路を見いだしてトロン復活」みたいなお涙頂戴のお話を作っていますが、トロンは最初から組み込み用として始まったものです。時系列を捻じ曲げるために、組み込み用の話とパソコン用の話をごちゃ混ぜにしているので、番組を見るとトロンプロジェクトがパソコン用の OS を作るプロジェクトとして始まったと勘違いしてしまいます。他にも番組で使われた OS を(コンピュータの)「心臓部」と表現する奇妙な言い回しが漫画にも登場します。漫画の著者は NHK に騙された被害者の一人です。とは言え調査不足と思い込みでトロンに対する風評被害を拡大させたという事実は否定できません(漫画のたかだか数ページのために事実検証するのはコスパが悪いというのは理解できますが)。この漫画に限らずですが、漫画の中の主人公がどれだけ博識でも、漫画の著者が知っていることより多くのことは知りません。漫画家は絵を描いたりお話を作るのはプロでも、それ以外の知識は普通の人並みです。中途半端な知識で現実の話を持ち出すとこういう事になってしまうという例です。どうせフィクションなんだからフィクションの世界の話で完結させたほうが、もっと自由にストーリーを作れるんじゃないでしょうか? 負けた日本を復活させるストーリーなら主人公に
合衆国日本! \(⚫️)/
とか叫ばせとけばいいんですよ。黒い制服を着た学生のシリアスギャグなのはどちらも同じです。漫画はフィクション、作り話です。現実と空想の世界を混同しないようにしましょう。
この記事を読むのが嫌ならこっちでも読んでね。
TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版
パソコンメーカー、ソフトウェアメーカー、学校がトロンにたいして期待してなかったことがわかるから。
自分用メモ
- 電子工業月報 1988年3月 TRON 協議会による TRON プロジェクトの年表
どうしてウソだと言い切れるのか?
漫画の内容がウソであるのを証明するのは簡単です。トロンプロジェクトは潰れていないからです。米国の圧力は1989年から1991年にかけてですが、トロン仕様は今も使われておりトロンフォーラムの活動は今も続いています。TRONWARE VOL.1 が出版されたのは1990年1月31日で、次号は2025年12月16日出版予定の TRONWARE VOL.216 です(本記事執筆時点)。
2014年に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」では、それまでの独自リアルタイムモニタに代わって、NEC が開発したトロン(正確には μITRON)仕様の OS「μRX116S/SF」が制御に使われました(参考)。2017年に発売された家庭用ゲーム機 Nintendo Switch(ニンテンドースイッチ)のコントローラー「ジョイコン」では、内部の近距離無線通信 NFC などの制御用に、イーソル株式会社が開発したトロン(正確には μITRON4.0)仕様の OS「μITRON4.0仕様準拠リアルタイムOS(PrKERNELv4 ?)」 が使われています(参考)。
米国の会社が開発した組み込みシステム用の OS「eCos」ではトロン(正確には μITRON3.0)仕様の API が POSIX と共にサポートされています(参考: μITRON/POSIX互換のRTOS「eCos」はカーネルもオプション!?)。注意: μITRON 互換レイヤーはオプション機能なので、必ずしも μITRON 仕様 API を使用しているとは限りません。
2018年にはトロン(正確には、組み込み用の μT-Kernel 2.0 仕様)は 米国電気電子学会 IEEE の国際標準規格「IEEE 2050-2018」となり、相互運用性の向上が期待でき、家電などの組み込み機器製品に、より採用しやすくなりました。また、情報技術の歴史的に重要な業績(25年以上前に達成された、少なくとも特定地域で重要な業績)を認定する「IEEE Milestones」に、2023年10月に「1984年: TRON リアルタイム OS ファミリー」(申請内容)が、2024年11月に「1989年: TRON 電脳住宅」(申請内容)が認定されました。ちなみに IEEE Milestones では、この記事に関連する次のような業績も認定されています。
- 1962-1972年: アポロ誘導コンピュータ(最初のリアルタイム組み込みシステム)
- 1972-1983年: Xerox Alto がパーソナルネットワークコンピューティングを確立
-
1974年: CP/M マイクロコンピュータ・オペレーティングシステム
- (面白いことに提案時のタイトルは「PC オペレーティングシステムの誕生」)
トロンフォーラムは毎年のように「国内シェア60%!」と宣伝しています。シェアについては「日本のイベント会場で100人程度に聞いたアンケート結果」というかなりバイアスが高いデータ(トロンフォーラムだけが他と全く異なるデータ)なので参考になりませんが、活動がずっと続いている証拠です。少し詳しい人は「組み込み用のトロンは潰されてないがパソコン用のトロンは潰された」と言うかもしれませんが、パソコン用のトロン OS「超漢字」は今も販売されています。最新版の Windows 用の仮想マシン上で動かす前提となった「超漢字V」は2006年に発売され、大規模なアップデートは行われていませんが、サポートは継続しています(現時点の最終修正リリース R4.560 は 2025年2月12日)。潰れたと言うならおかしいですよね? もう少し詳しい人は「教育用パソコンでの採用を断念させられた」と言うかもしれませんが、1990年8月にトロン OS「ET マスター」を採用した教育用パソコン「パナカル (PanaCAL) ET」も発売され一部の学校や教育機関に導入されました。潰れたと言うならおかしいですよね? パナカル ET がいつ頃まで使われたかはわかりませんが、1993年3月31日発売の TRONWARE VOL.20 に埼玉県の栄東中学校への導入事例の特集があります。潰されたはずの年から3年後です。
漫画の出版よりも後の出来事は知らなくても仕方ないですが、少し調べてみれば潰された話と矛盾する出来事に気がついたはずです。例えば 2003年には トロンは Microsoft と提携し、トロン(正確には、T-kernel)と 組み込み機器用の Windows CE .NET を組み合わせて動作させるための仕様策定を共同で進めることに合意した話が話題になっています(参照)。この件で坂村氏は、トロンと Windows が対立関係にあると言われてきたことについて「まったくの誤解だ」と断言しており、「TRON 対 Windows、Linuxという構図はない。リアルタイム OS は機械相手の OS、Windows など情報系 OS は人間相手」と違いを指摘しています。
- トロンとマイクロソフトの歴史的誤解(1/2) 2003/11/11
- トロンとマイクロソフトの歴史的誤解(2/2) 2003/11/11
- トロンとマイクロソフトの歴史的誤解 オーム社 技術総合誌「OHM」2004年2月号
ちょっとだけ ITRON の話
BTRON と ITRON の違いを知っている人は、パソコン用の BTRON は失敗したが、組み込み用の ITRON は成功したという話も知っているでしょう。組み込み用の ITRON 仕様が日本で成功した理由は、ITRON 仕様の OS を開発した多くのメーカーの「名もなき開発者たちの頑張り」があったからです。逆に言えば BTRON が失敗したのは松下電器以外のメーカーがパソコン用 OS を作ろうとしなかったからとも言えます(米国の圧力で OS を作れなくなったのではなく、利益が出ないとわかっている OS をメーカーは作る気がなかった)。
Windows を開発したのは Microsoft 一社、macOS を開発したのは Apple 一社ですが、トロン OS を開発した会社はたくさんあります。なんで同じ OS をいくつもの会社が作るの?と思うかもしれませんが、トロンプロジェクトはそういうものです。複数のメーカーから単三乾電池が発売されているの同じようなものです。そのために作るべき OS の仕様を公開しているわけです。仕様策定のトロンプロジェクトと Microsoft のような OS 開発会社は、性質が全く違うので、本来比べられるようなものではありません。もし◯◯製品にトロン OS が使われているという話を聞いたならば、どのメーカーが開発したトロン OS なのか調べてみるのも良いでしょう(大抵は非公開ですが)。
ITRON の成功をたった一人の研究者の功績にしてはいけません。いくら仕様があったからって、それを動く「モノ」に設計開発する人がいなければ絵に描いた餅です。以下は、ITRON 仕様の OS を開発したメーカーの一覧(ITRON仕様準拠製品登録制度 登録製品一覧 2004年5月11日現在 より抜粋)です。例えば Nintendo Switch の「ジョイコン」で機械の制御に使われているトロン OS はこの中のイソール社が開発した「PrKERNELv4」です。
補足: ジョイコンに採用された「μITRON4.0仕様準拠リアルタイムOS」の名前は「PrKERNELv4」と記載されている。
| トロン OS の開発メーカー | 開発されたトロン OS の名前(ITRON のみ) |
|---|---|
| ルネサステクノロジ | HI8-3X, HI8-EX, HI8, HI8-S, HI8-3H, HI-SH7, HI8-2600, HI7000, HI7400, HI7700 |
| ルネサスソリューションズ | MR3200, MR7700, MR1600, MR3800, MR30, MR32R, MR79 |
| 富士通 | Softune REALOS/907, Softune REALOS/896, Softune REALOS/FR, REALOS/SP |
| モアソンジャパン | MORTOS/n682, MORTOS/n68, MORTOS/n98 |
| NECエレクトロニクス | RX78K/III, RX78K/II, RX78K/0, RX78K/IV, RX850, RX850Pro, RX4000, RX4000v4 |
| ミスポ | NORTi/86, NORTi/H83, NORTi/Z80, NORTi/SH, NORTi/H85, NORTi/68K |
| スリーエース・コンピュータ | AAAOS86 |
| 東芝 | TR900, TR19 |
| 東芝情報システム | UDEOS/r39, UDEOS/i586 |
| イーソル | RX116, RX136, RX320, RX423, PrKERNEL, PrKERNELv4 |
| ソニー | SR900 |
| ファームウェアシステム | FS.ExRon-ARM, ExRon-SA |
| 川上 昌之 | 組み込み制御用カーネル Kernel, mKernel |
| ACCESS | μMORE v3.0, μMORE v4.0 |
| エルミックシステム | ELX-ITRON/SH3 |
| メンター・グラフィックス・ジャパン | Nucleus μiPLUS |
| エーアイコーポレーション | TronTask! |
| グレープシステム | ThreadX-μITRON |
| 日立エンジニアリング | Emkernel(Nios) |
多くのトロン OS があるのは、さまざまな会社が自社または他社の特定の CPU ごとに作っており、さらに準拠しているトロン仕様(ITRON1、μITRON2.0、μITRON3.0、μITRON4.0)が違うためです。また無料でソースコードが公開されているわけではないので、他社からライセンスを買うか、お金を払いたくないなら自分たちで作る必要があります。そして自分たちで使うためだけに作ったのであれば公開する必要はありません。ここに登録されていない製品(内部利用で登録の必要がない)ものを加えると、さらに多くのトロン OS があるでしょう。ほとんどが日本企業ですが、多くの会社がトロン OS を作っていることがわかります。
ところで、NEC が開発したはずの RX116 がイーソルのものになっている理由、誰か理由を知らないでしょうか? 会社的なつながりがあるように思えず、権利を買ったのか、同じ名前で同等品を開発した別物なのか、よくわかりません。
漫画の各ページの訂正と解説
この記事では漫画の該当ページの内容を訂正しながら、実際にはどうだったのかを解説しています。並びは漫画のページ順番で飛ばしているページはありません。トロンの話の全体(前後の関係ないページ)については公式が公開してるので、気になる方は以下を参照するか本を買ってください。内容が間違っていると指摘されて炎上したやつで、コメントのツッコミも参考になるので読むとよいでしょう。【世界の標準OSは、Windowsでなく日本製のはずだったって話。】などと書いていますが、それは「当時を知らない人だけが言っているファンタジー」 です。世界中に Windows が普及してしまった後に、日本だけで販売した日本語専用のトロン OS が、世界の標準 OS になるなんて、どう考えてもあり得るわけがないんです。
最低限の前提知識として、1980年頃のパソコンメーカーは、自社製パソコン専用の独自 OS を標準搭載している場合もあったことを覚えておいて下さい。当時はメーカーが OS を自社開発するのも普通のことで、汎用 OS である CP/M や MS-DOS を採用している場合でも自分たちのパソコンで動くように修正していました。もちろんその頃はウインドウシステムなどない時代で OS も小さいため、開発はそこまで大変ではありません。また OS の代わりにプログラミング言語の BASIC が採用されている(パソコンの電源を入れたら BASIC プログラミング環境の画面になる)場合も多くありました。当時は BASIC でプログラムを書くことも、パソコンの一般的な使い方でした。BASIC は米国でホビー用の言語として IBM PC などのパソコンに採用され、それが日本のパソコンにも持ち込まれた形です。ここでのホビーとは「コンピュータを使うこと自体が趣味」という意味で、「趣味(絵を描いたり音楽を作ったり)のために使うコンピュータ」という意味ではありません。当初のパソコンはビジネスで使えると思われておらず、ホビー用から始まり IBM PC の登場によってビジネスで使用されるようになりました。多くのパソコンが当時ベンチャーだった Microsoft が開発した BASIC を採用していました。Microsoft が OS を開発する前の話です。パソコン本体と OS や BASIC は独立したものではなく、各メーカーのパソコン専用の付属品または別売りのオプションという形で提供されていました。
トロンプロジェクトとは
トロンは「日本で独自に開発されたパソコンの基本ソフト (OS) のこと」ではありません。トロンは新しいコンピュータ体系を作るプロジェクトの名前で、「トロン」という名前の OS は存在しません。この漫画ではトロンを OS と説明しており、初手から間違えていることになります。トロンを知らない読者はここでトロンを Windows と同じような OS のことだと誤認してしまい、以降のトロンに関する話の全てを正しく理解できなくなってしまいます。逆にトロンを正しく知っている読者は「コイツはいきなり何を言い出してるんだ? (ㆆ_ㆆ)」と白目になってしまうでしょう。漫画の舞台は、ある高校生の自説を、昔を忘れたおじいちゃんが聞いて、猫がシャーシャー言ってるだけの、ツッコミ不在のお茶会です。
TRON は The Realtime Operating system Nucleus の略で「リアルタイムオペレーティングシステムの核」という意味です。それなら TRON は OS の名前であっているのでは?と思うかもしれませんが、おそらく途中で意味が再定義されています。最初の論文、1984年3月の「情報処理学会第 28回全国大会」で発表された「マイクロプロセッサ用標準リアルタイムオペレーティングシステム原案」を読む限り、トロンは組み込み用 OS の核(中心部分)を指しているように思えます。しかし2ヶ月後の1984年5月の「第4回マイクロコンピュータ応用国際会議(IMAC)」時点では、トロンはプロジェクト名かつ、選択可能な TRON モジュールの組み合わせで OS を構成するアーキテクチャとなっています。この時点の構想では、さまざまな産業機械用に最適化された OS を生成する A-TRON (Adaptive TRON) に加え、汎用 OS として、組み込み向けの I-TRON (Industrial TRON)、ビジネス向けの B-TRON (Business TRON)、素人向けの優しいインタフェースを実装した家庭向けの H-TRON (Home TRON) があり今とは少し異なっています。この時に坂村氏は組み込み用 OS、I-TRON/86(8086 CPU用)と I-TRON/68K(68000 CPU 用)を、(おそらくプロトタイプとして)開発しているようですが、本命は新たに構想に加わった専用 CPU「トロンチップ」用でしょう。そのためにはトロンチップを開発しなければいけないわけで、「bit 1984年09月号」には「とどめのノイマン型プロセッサを作るプロジェクトである」と、まるで CPU を作るプロジェクトのようなことが書かれています。これはトロンの核がシリコン化(半導体上の回路として実装されること)を想定していたためです。つまり OS の核を作るということはトロンチップを作ることでもあり、核はハードウェアによる実装だからトロンは速い(はずだ)ということです(実際にはトロンチップは遅かったという噂もありますが)。その後、人が使うインタフェースとしてトロンキーボード仕様やヒューマンマシンインタフェース仕様など、さまざまな仕様が加わり、トロンはコンピュータ全体の仕様を作るプロジェクトとなりました。
トロンプロジェクト(の基本プロジェクト)には、ITRON、BTRON、CTRON、MTRON、TRONCHIP というサブプロジェクトがあります。ITRON は産業(組み込み)用、BTRON はビジネス(パソコン)用、CTRON はサーバー用、MTRON はこれらを統合するコンピュータのためのサブプロジェクト、TRONCHIP は CPU を作るサブプロジェクトです。CTRON は後で追加されたサブプロジェクトで、BTRON がシングルユーザー用だったのに対して、CTRON がマルチユーザーに対応する仕様が加えられています。当時のトロンプロジェクトは1980年代に行われた1990年代の技術水準のためのプロジェクトでした。米国の圧力は1989年から1991年にかけての話ですが、1990年をトロン元年と位置づけ、この頃からトロンプロジェクトは(完成度が低い BTRON をよそに)応用プロジェクトに力を入れ始めます。この重要なタイミングで BTRON 仕様の改良に力を入れなかったのは Windows に負けた理由の一つになるでしょう。トロン電脳住宅、トロン電脳ビル、トロン電脳都市、トロン電脳自動車網など、何を目的としたプロジェクトなのかわからないレベルまで風呂敷を広げましたが、現在(2000年代以降)は組み込み用 OS の仕様と T-Kernel 実装を開発するプロジェクトに落ち着いているようです。
トロン OS の思想の背景には性能が低かった当時のマイクロコンピュータのパフォーマンスを最大限に引き出そうとする大前提があり、効率重視で「リアルタイム」を目指したものとなっています。現在の ITRON は RTOS(リアルタイムオペレーティングシステム)の一つと言って差し支えないと思いますが、トロンにおけるリアルタイムとは大型コンピュータのバッチ処理と比較して「すぐに反応する」程度の意味で、それを目標に設計するということのようです。つまり機械相手の ITRON では数ミリ程度のリアルタイム性が求められるが人間相手の BTRON ではそうではない(例えば「Now Loading」のような誤魔化しもありえる)ということで、そういう意味では Windows も(RTOS ではありませんが)リアルタイムな OS と言えるでしょう。トロンプロジェクトの歴史は40年と長いゆえに、プロジェクトの目標や使われている用語のニュアンスは微妙に変化しています。
トロンは「OS を開発するプロジェクト」ではなく「仕様を作成するプロジェクト」 です。知っている人のために説明するなら、macOS や Linux などの Unix 系 OS が準拠または参照している POSIX や SUS (Single Unix specification) のようなもので、OS を作るためのものではなく、OS 間の相互運用性を高めるための標準規格です。例えば BTRON サブプロジェクトでは「BTRON 仕様」を作成します。そしてメーカーが BTRON 仕様に準拠した BTRON OS を組み込んだ BTRON パソコンを開発します。そのパソコンは他のメーカーが作った BTRON パソコンと互換性があります。ただし BTRON 仕様を満たしただけでは十分な実用性があるとは言えないので、各メーカーは独自で便利な機能やアプリケーションを追加する必要があります。このような用語の使い方をしますが、単に BTRON と言ったときは、プロジェクトを指していたり、仕様を指していたり、OS を指していたり、パソコンを指していたり、それら複数を指していたりするので、文脈によって判断が必要な場合があります。トロンプロジェクトでは仕様を作成しますが、そうは言っても動くものを作らずに完璧な仕様は作れません。実験機を作り、フィードバックを得て仕様を練り上げる必要があります。そのパソコン用の実験機の研究開発を行っていたのが、トロンプロジェクトの趣旨に賛同して参加した松下電器(現在のパナソニック) です。トロンプロジェクトが成功するか否かは、参加メーカーがどれだけ本気で取り組むかにかかっていました。
トロンパソコンの初期の研究開発は、松下電器産業の中央研究所で行われました。開発チームの結成は1984年の夏頃です。それとは全く関係ない話ですが、1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で大勢のトロン開発者が亡くなったというデマが流れています。これがデマであることは搭乗者に中央研究所に所属する人が一人もいなかったことで証明されているので信じないようにしてください。詳細が気になる方はこちらへ
なぜトロンプロジェクトは仕様を作るのかと言うと、異なるコンピュータ間に互換性を持たせるためです。1990年代の前半頃までの日本の各メーカーのコンピュータは、それぞれ独自の仕様を持っており互換性がなくても当たり前でした。互換性がないというのはメーカーや機種ごとにコンピュータ本体やキーボードの形や接続端子が違い、利用可能な周辺機器も異なっており、ソフトウェアも特定の機種に対応して作られたものを買う必要があったという意味です。たとえ CPU が同じでも CPU 以外が違っていました。そのため別のメーカーのパソコンに買い替えたりすると、これまでの知識や買ったものが役に立たなくなっていました。開発者特有の話をすると、CPU ごとのアセンブリ言語でのプログラムが異なることが問題になっていました。当時はメーカーが OS を開発するのも普通でしたが、OS が異なるとアプリケーションは動きません。そこでOS の仕様を統一しよう(標準規格を作ろう)というのがトロンプロジェクトの目的です。別の言い方をするとOS の部品化です。各メーカーが仕様を満たした OS を作ることで、OS をネジやクギと同じように別メーカーの互換品へと交換可能な部品にしようとしていました。開発者視点ではトロン仕様で定義された OS のインタフェース (API) を使い、(当時利用がまだ多かったアセンブリ言語ではなく)移植性の高い C 言語でのプログラム開発が想定されていました。ただし坂村氏は、今あるものをツギハギで拡張するよりも、新たに作り直して綺麗にしたほうが将来のためになると考えており、「古い時代との互換性」は切り捨てる方針でした。トロンプロジェクトにおいては「過去」はないのであまり関係ありませんが、例えば Intel の CPU や、MS-DOS や Unix は古い設計なので新しい時代には対応できず、新たに作り直したトロンの方が有利であるというのが坂村氏の考えでした。残念ながらこの考えは、それぞれが互換性を保ちながら改良を実現させたことで間違い(トロンが有利とならなかった)であることが示されました。
米国製のパソコンは、プログラミング言語が英語なので米国人に有利、トロンはプログラミング言語が日本語(!?)なので、日本人なら誰でもプログラミングができるようになる(!?!?)。だからトロンが完成していれば日本人が世界を席巻できていたという「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」を地で行っている記事を見かけましたが、もちろんそんなアホな話はありません。トロンの標準的なプログラミング言語は(英語に近い?)C 言語です。
トロン仕様で決めるのは最低限のインタフェースのみ(POSIX や SUS も同様。トロンプロジェクトでは「弱い標準」と呼ぶ)で、中身や機能をどうするかは各メーカーが自由に決められます。言い換えると製品レベルで必要になる全体の仕様や設計図(ソースコードなど)はないので、トロン仕様だけで便利なパソコン・OS は作れません。例えばパーソナルメディア社が開発した純国産トロン OS「超漢字」には文章編集ソフトや表計算ソフトや小物と呼ばれるさまざまアプリケーションが含まれていますが、これらは BTRON の仕様では規定されていません(「BTRON1仕様 ソフトウェア仕様書」で最低限の仕様が決まっていた可能性がありますが入手が極めて困難なので不明)。各メーカーで自由に開発していいけれども、最低限の互換性はメーカーが違っていても持たせましょうというのがトロン仕様が目指したものです。もっとも各メーカーがバラバラで OS を作りながら完全な互換性を実現するのは難しいので、プロジェクトの当初の想定通り複数のメーカーが BTRON OS を開発していたら、互換性問題に悩まされることになっていたでしょう。実際 T-Kernel で「弱い標準」から「強い標準」に変えたのは十分な互換性を実現できなかったことが理由の一つです。
トロンの仕様は世界中に公開されているため、日本だけではなく世界の誰でも利用できます。つまり米国企業もトロンプロジェクトの成果を利用してパソコンや OS を開発できるということです。日本で開発されたトロン OS は「純国産 OS」でしょうが、米国企業が開発したトロン OS は純国産ではないですよね? トロンプロジェクトは国外にも広まっており、現在はどうなっているのか知りませんが、米国には北米連絡事務所が開設されており、2000年8月には韓国トロン協会が設立され、2017年には中国に TRON 技術デモセンターが開設されているようです。なんか日本の技術が米国に盗まれたなどと言っている人がいるようですが、盗むまでもなくトロンの仕様は全世界に今も公開されています。だってトロン仕様を世界に広めようと思ってるんだから、誰でも使えるように公開するしかないでしょう? もしトロン仕様が本当に優れていれば、国内外の多くの企業がトロン仕様を採用した製品を作っていたでしょう。しかし組み込み用を除いてほとんど採用されませんでした。仕様を作る以上、良い仕様を作ろうと考えるのは当然のことですし、関係者は優れていると主張するものですが、実際に優れているかは動くものを使ってみなければ判断できません。トロン仕様は本当に優れていたのでしょうか? 良いものを作れば普及するはずですよね? その逆もしかりです。普及させるには何が必要でしょうか? 良い製品はユーザーの意見を取り入れて何年もかけてようやく出来上がるものです。一人の天才の考えだけで生み出せるようなものではありません。漫画ではトロンパソコンが世界に普及しなかった理由を米国からの圧力のせいにしていますが、単に仕様を採用したいと思うほどの魅力を作り出せなかったというだけです。もし魅力があると思うのなら今からでも採用すればいいんですよ。トロン仕様の何がダメだったのか、その理由を語ってもよいのですが、量が多くなりすぎるので別の機会にやろうと思います。
ここまでの話を踏まえて漫画のセリフを正しく修正すると「トロンは日本で独自に開始された新しいコンピュータ体系……つまり仕様を作るプロジェクトのことだよ」となります。2001年に開始された「T-Engine」プロジェクトではソースコードの提供を始めるなど違いがあるのですが、この記事では特に明記しない限り2000年頃までのトロンプロジェクトの話です。なお、トロンプロジェクトは産官学ではなく産学のプロジェクトです。つまり民間企業(産)と大学(学)のプロジェクトであって、日本政府(官)によるサポートはありません。大学(坂村氏)が仕様を作成し、製品化は民間企業が行うという担当分けです。大学としては「仕様は作ったので、後は製品を作りたいと思った会社が作ってください」と丸投げです。いつ製品が販売されるのかと聞いても「それはメーカーの都合で決まることなので、発売されるかどうかも含めてわかりません」というのが、いつもの答えでした。大学にとっては研究プロジェクトでしかないので、その理屈はわからなくもないですが、産学プロジェクトを名乗るのであれば、もう少し製品化についても気にかけて、実用性を高める仕様作りをするべきだったと思います(いくら昔の話でも1980年代後半ならサウンド系 API ぐらい基本仕様に含めるべき)。トロンを世界に広めたいと思うならなおさらです。もっともプロジェクトの参加メーカーは仕様の提案もできたわけで、仕様を提案しなかった企業が悪いとも言えますが。いずれにしろ BTRON 仕様は予定通り1990年代の初めに完成しましたが、その時の技術水準のままで止まってしまった仕様です。Windows 95 以降のコンピュータ技術の発展が BTRON 仕様に反映されていないので Windows に負けて当然なわけです。
日米のパソコンOS開発競争
漫画では「昔……日本とアメリカはパソコンのOSの研究開発をお互いに競っていた」と言っていますが、日本のパソコン用 OS の研究開発は、米国より遅れて始まりました。そもそも OS の研究開発は日本と米国、国家間の競争ではありません。米国内ではすでに複数のメーカーが研究開発を競っていました。米国で最初にパソコン(≒マイコン)用 OS が発売されたのは1974年の CP/M です。1978年にApple II に Apple DOS が組み込まれて発売され、1981年に IBM に頼まれた Microsoft が MS-DOS (IBM PC 用は PC-DOS) を開発します。後にパソコンでも使われるようになるミニコン用 OS を含めると Unix が1969年に誕生しており、1970年代の終わり頃には米国の大学で Unix の研究開発が行われていました。例えばカリフォルニア大学バークレー校で「BSD Unix」が公開されたのは1977年です。米国内では早くから OS の研究開発が行われており、パソコン用 OS も1970年代にすでに発売されているというのに、1980年代に走り始めた周回遅れの日本が米国と研究開発をお互いに競っていたと言われても恥ずかしさしかありません。同じ位置を走っているように見えて米国の先頭集団からトラック1周分の差がついている状態です。
ちなみに日本は大型コンピュータやミニコンピュータ用の OS も開発しており、(パソコン用以外を含む)国産 OS の開発はトロンが最初ではありません。トロンよりも前から日本は米国の最先端技術に追いつこうと頑張っており一定の成果を上げています。もっとも大型コンピュータの話をすると「米国に奪われなかった話」になってしまうため、「米国に何もかも奪われた話」にしたい著者にとって都合が悪く漫画にはできなかったのでしょう。他にもスーパーコンピュータの世界では、地球シミュレータ (2002) や京 (2011) や富岳 (2020) など日本は世界一位になっています。こちらは OS の話ではありませんが、コンピュータの分野で日本の技術が米国に負けていない例です。
トロンプロジェクトの発足は1984年です。これはプロジェクトが開始された年であり、パソコン用のトロンの開発に成功した年ではありません。これから作り始めです。ちなみに Windows の開発が始まったのは1981年です。1984年時点でパソコン用のトロン OS はありません。Windows 1.0は1985年に発売されました。繰り返しますが、トロンプロジェクトは仕様を作成するプロジェクトで、動作するパソコンや OS を開発するのはメーカーです。トロンパソコン(BTRON OS を含む)を研究開発をしていた松下電器が開発に成功したと言えるのは1987年ですが、これは BTRON 仕様が完成してない時点での実験機で、発売可能な実用レベルのものとは言えないでしょう。ソースコードは公開されておらず関係者以外は誰も手に入れらないため、実験機の完成度がどの程度のものだったのかは闇の中です。関係者は当時としては優れていたと言うと思いますが、それは当時の Macintosh(漢字 Talk 1.0)と比較して使い物になったのでしょうか? 技術が優れていたかではなく便利に使えたかです。一般の人が買える トロンパソコンは(松下電器から後を引き継いだ)パーソナルメディアが1991年に発売し、PC 互換機用の BTRON OS は1994年に発売しました。つまり、日本のパソコン用 OS の研究開発は米国から10年は遅れていると言えます。
余談ですが日本は1985年にシグマプロジェクト(Σプロジェクト)という通産省主導の国家プロジェクトを開始しており、そちらも失敗するわけですが(失敗事例としてトロンよりも有名)、日本のソフトウェア開発の生産性を高めることを目的に各種開発ツールやソフトウェア部品を開発と標準化を行う予定で、標準 OS として System V 系 UNIX をベースにしていました。パソコンとワークステーションとで世界が違うとは言え、日本政府はトロンと競合する OS のプロジェクトを進めていたことになります。まあトロンは日本の国家プロジェクトではありませんからね。国家プロジェクトとしては米国発の Unix を推進していたということです。またパソコンの共通規格としては、1983年に日本のアスキー社と Microsoft によって提唱された MSX 規格が、日本初で世界へと広がった規格としてありました。8ビットパソコン(ホームコンピュータ)用の規格で MSX 自体、ゲーム用途としての利用が多かったのですが、1990年頃まで広く使われたパソコン用の仕様でした。ちなみに MSX では OS として Microsoft が開発した MSX-BASIC や MSX-DOS が使われていました。他にも通産省主導の国家プロジェクトである「第5世代コンピュータ」の開発や、トロンプロジェクトと競合するプロジェクトとして、日本 IBM と産学共同で東京大学の前川守氏が発足させた「ギャラクシー計画」があったりと、トロンだけが日本の IT プロジェクトというわけではなく、当時は色々あったんです。
漫画のセリフをよく読むと、「Windows より前に画期的な OS の開発に成功した」とは書いてありますが、その画期的な OS がパソコン用とは書いてありません。したがって、「Windows より前に画期的な組み込み用の ITRON OS の開発に成功した」という意味の屁理屈なのかもしれなせん。ただ組み込み用 OS を含めるのであれば ITRON よりも間にも、米国で開発された組み込み用 OS はあります。初期のものは1960年代の NASA のアポロ宇宙船に搭載されたアポロ誘導コンピュータ用の専用 OS、1973年の DEC の RSX-11 や RT-11、1976年の Intel の iRMX、1979年の Microware の OS-9 などです。もし組み込み用 OS の存在を知りながら、あえて「Windows より先に ITRON OS が開発された」という意味なら、相当性格が悪いですが、まあそんなことはないでしょう。発足と開発を勘違いしたと考えるのが自然です。アポロ誘導コンピュータの専用 OS は特注品で例外だとしても、やはり日本の組み込み用 OS の研究開発は米国から10年遅れだと言えます。
日本の宇宙開発では「はやぶさ」など TRON 仕様の OS が使われた事例はありますが、NASA など海外の宇宙開発 TRON 仕様の OS が使われた事例はないと思われます。宇宙機の制御とは関係ない何らかの機械に組み込まれていた可能性はあるかもしれませんが、大々的な報道は見つかりません。ちなみに宇宙飛行士が日常的に使うパソコンであれば Windows が採用された事例もあるようです(参考 スペースシャトル・コロンビア号で、富士通のペンコンピュータが利用される 1997年)。最近は Linux に変更されているらしいですが。
GUI が搭載されていない OS(MS-DOS など)は一般人が使うには難しく、パソコン用 OS とは認めないと考える人がいるかも知れませんが、当時、MS-DOS を採用したパソコンは家庭用として広く普及しており、その考えは間違いです。ですが仮に GUI が搭載されたパソコンに限定するとしましょう。当時、そのようなパソコンは、スーパー・パーソナルコンピュータ(スーパーパソコン)と言われていましたが、スーパーパソコンに限定したとしても日本は米国から遅れています。スーパーパソコンの最初のアイデアは1968年のアラン・ケイの「ダイナブック構想」 と言われています。これは現在のノートパソコンや iPad のような平面スクリーンのコンピュータで、(無線)ネットワークにつながり、キーボードとスタイラスペン付きのタッチディスプレイを備え、子供たちがノートブックの代わりとして使えるコンピュータを構想したものです。
坂村氏の著書(例 「bit 1980年07月号」、「コンピュータとどう付き合うか」- 1982年10月)でもダイナブック構想は言及されており、1982年に電子協(日本電子工業振興協会)で作成された 1990年代の「未来のオフィス」を描いたスライドショーでは、その中で登場する架空のスーパーパソコン「ペルセポネ」など、随所にダイナブック構想の影響が見られます(フューチャ・オフィスシステム(FOS)に関する調査報告書 [昭和58年]、カラー: コンピュートピア 1983年10月 - 特集 未来オフィス・システムの実現)。余談ですが、東芝はダイナブック構想の名前にあやかり、世界初のノートパソコンと言われている「DynaBook」を1989年に発売しました。それよりも前、1985年に発売された世界初のラップトップ PC「T1100」(IBM PC/XT互換、MS-DOS 2.11)は IEEE Milestones に認定されているようです(参考 ラップトップPC「T1100」が「IEEEマイルストーン」に認定)。日本もなかなか頑張っていますね。
より抜粋
「ダイナブックは、世界で初めてのノートPC※1です」
だから何なのでしょうか。歴史とは、これまでも、これからも、私たちが想い続けること、約束し続けること、だと信じています。1985年に、アランケイ氏の 「ダイナブック」 ビジョンに共感し、世界初のラップトップPC※2を発表して以来、私たちはずっと、パーソナルなコンピューターが、単なる 「計算機」 ではなく、「インテリジェントな道具、学習のメディア」 であるべきだと考えています。
※1 1989年、世界初のノートPC「DynaBook J-3100 SS001」を発売。
※2 1985年、世界初のラップトップPC 「T1100」 を商品化。
最初に発売されたスーパーパソコンと言われてるのが、1973年にアラン・ケイが暫定ダイナブックとして制作(一応限定的に販売されている)した Xerox Alto で、それを継承した Xerox Star は1981年に発売されました。Apple は Alto の GUI を真似て、1983年に Apple Lisa を発売し、1984年に Macintosh を発売しました。Microsoft も同じく Alto の GUI を真似て、1985年に Windows 1.0 を発売しました。これらは発売であることに注意してください。トロンプロジェクトは発足が1984年です。Windows 1.0 は使い物にならなかったと主張する人がいるかと思いますが、対するパソコン用トロン OS は同じ頃に動くものはなにもありません。したがって GUI を搭載したスーパーパソコンに限定したとしても、日本のパソコン用 OS の研究開発は米国から5年から10年は遅れていたと言えます。Microsoft は1987年12月に Windows 2.0 と OS/2 を発売します。OS/2 は IBM と共同開発した MS-DOS の後継となる予定だった OS で、OS/2 は完全なマルチタスクを実装しており、1988年11月の 1.1 から GUI をサポートしました。1990年5月 に発売した Windows 3.0 が世界的にヒットしたことで Microsoft は OS/2 の開発から撤退しますが、トロンパソコンは次の年の終わり(1991年12月)にようやく発売されました。
漫画の「OSはアメリカの発想で研究も開発もすべて独自に行ってると思ってた……」の所は何が言いたいのかわからず、著者が何をどう解釈したのか理解できません。「研究開発で競う」を日本と米国が同じ舞台で競っているのだから、独自の舞台で研究開発していないと考えたのか? そもそもトロンプロジェクトというのは、アメリカの発想の研究開発を真似するのをやめて、日本独自の発想で研究開発をしましょうというものです。日本に OS があったと知らなかった前提の発言とすると「OS は米国が独自に研究開発していたもの」という意味なのか? どう考えても前後のセリフとつながりません。
漫画では「日本は Windows よりも前に画期的な OS の開発に成功した」と言っていますが、これは漫画の著者が「発足と開発と勘違いしている」「Windows 以外のパソコン用 OS の歴史を知らない」「Windows の歴史を知らない」「Windows 以外の Microsoft 製 OS の歴史を知らない」のいずれか複数、または全てです。ダイナブック構想(1972年)、CP/M(1974年発売)、MS-DOS(1981年発売)、Apple Lisa(1983年発売)、TRONプロジェクト(1984年発足)、Windows 1.0(1985年発売)、Windows 3.0(1990年発売)、最初のトロンパソコン(1991年12月発売)など、正しい歴史を知っていれば、パソコン OS の研究開発は「むしろ日本のほうが先行していた」とは恥ずかしくて言えないはずです。せいぜい「(日本に限れば)もう少しで並びそうな所まで追い上げた」ぐらいです。まあ所詮、投資に興味があるだけの高校生が語る自説です。こんな適当な話をドヤ顔で言っている少年を見ての一言が、「(こいつマジで言ってんの?)…… 信じられない」なわけですね。
MS-DOSとWindowsの躍進
Microsoft がパソコン用 OS で躍進するきっかけは1981年の MS-DOS の開発です。1995年の Windows 95 の発売ではありません。なぜ漫画で Windows 95 より前の Windows が無視されているのかというと、プロジェクトXで登場するのが Windows 95 だからでしょう。補足ですが Microsoft は Xenix という名の Unix(AT&T から正式なライセンスを受けてパソコンに移植したもの)を1980年にリリースしており、MS-DOS は Microsoft の最初の OS ではありません。Xenix は技術者やメーカーの間では有名で、1980年代後半頃までは MS-DOS が家庭用の簡易な OS で、Xenix はビジネス用の本格的な OS という扱いでした。初期の頃は BTRON の方が Windows よりも優れていたと主張する人がいますが、多くはその他の Microsoft 製 OS(OS/2 や Windows NT)で先に実現されていることに気づいていないだけです。確かに Microsoft のパソコンシェアは Windows 95 の発売で大きく「躍進」しましたが、「躍進のきっかけ」は、Windows 95 そのものではなく、1980年代から1990年代にかけて MS-DOS でパソコン用 OS の世界を支配したこと、そして Windows の普及へとつながる Windows 3.0 の世界的なヒット、その裏で行われていた次世代の Windows NT 3.1 の開発によるものです。Microsoft の OS は Windows 95 を発売する前から、据え置きパソコンでの高いシェアを獲得しており、将来のさらなるシェア拡大のための準備を行っていました。それは当時 Windows よりも技術で先行していた Unix と、使いやすさ (GUI) で先行していた Macintosh に追いつこうとするためです。発売すらされていない BTRON はアウトオブ眼中だったと思います。
Microsoft は設立された頃に OS を持っておらず、BASIC の開発と販売で有名なベンチャーのソフトウェア会社でした。1981年に IBM が Apple 対抗のパソコンを販売するときに、IBM に相談されたことがきっかけで Microsoft は MS-DOS(IBM 版の名前は PC-DOS)を開発しました。IBM PC はヒットし、世界では多くのメーカーが IBM PC の互換機を開発するようになりました。PC 互換機が多く登場した理由は、IBM が開発期間短縮のために自社で部品を作らずに、すでにあるもの(外部調達可能なもの)の組み合わせでパソコンを設計したため、他の会社も同じやり方で同等のパソコンを簡単に作れるようになってしまったからです。日本では各メーカー独自の互換性のないパソコンであふれていましたが、日本のメーカーでさえ輸出用には PC 互換機を開発していました。それら多くの PC 互換機で動いたことが MS-DOS のヒットへとつながりました。米国でも初期の頃は各メーカーで独自のパソコンを作っていましたが、米国は日本よりも早くに PC 互換機としてパソコンの規格統一が実現されました。もし日本でも早くに規格統一がなされていたらトロンの出番はなかったかもしれません。日本で PC 互換機の普及が遅れたのは漢字が表示できなかったためです。トロンは仕様による規格統一と日本語表示で日本での普及を目指しましたが、それが必要ない米国にトロンを持ち込んでも勝ち目はなかったでしょう。ちなみに、MS-DOS は Microsoft が何もない所から開発したわけではありません。短い納期(3ヶ月程度)に間に合わせるために、SCP 社が開発していた 86-DOS の権利を(86-DOS の開発者ごと)買い取ったものがベースとなっています。さらに 86-DOS は CP/M を参考に作られています。良くも悪くも Microsoft は良いと思った外部の技術を取り込んで自社の力にする考えの会社です(Xenix もそうだし TRON との提携もそうだし Linux もそう)。なんだ自社で開発してないなら技術力なんてないなと侮らないようにしてください。作る技術はあっても作ると時間がかかります。Microsoft は IBM と同じように、すでにあるものを利用して開発時間を大幅に短縮させたのです。その話については以下のページを参照してください。読むとわかると思いますが、Microsoft が MS-DOS を開発するきっかけを作ったのは日本人です。シフト JIS を開発して MS-DOS を日本語対応にしたのも日本人ですし、日本人は世界中で使われている Windows の普及に大きく活躍しています。同じ日本人として誇らしいとは思いませんか?
IBM も Microsoft もすでにあるものを利用して、大幅な時間短縮に成功しましたが、コンピュータ体系のすべてを新しく作り直すことを目的にしたトロンは完成までに時間がかかりました。パソコン用 OS の市場を MS-DOS に奪われてしまったのは当然の結果といえます。良いものを作りたいならいくらでも時間をかければよいでしょう。ただし世の中に普及させたいならビジネス的な視点、マーケティング的な視点がなければならないことを思い知らされます。どちらにしろ一人で大きな物を作ることはできないわけで、高い技術を持った人を雇うのも、他社の製品や会社を買うのも大差ありません。
日本で据え置きパソコンの高いシェアを MS-DOS が握ったのは、日本で圧倒的なパソコンシェアを握ることになる日本電気 (NEC) が MS-DOS を採用したためです。NEC は 1980 年代初頭、いち早くビジネス向けや教育向けにパソコンを投入したことで、70% 以上(諸説あり)とも言われているほど圧倒的なシェアを誇りました。MS-DOS は NEC だけではなく、他のメーカーのパソコンでも、全てではありませんが採用されていました。ただし、Microsoft が作った MS-DOS は PC 互換機用で、そのままでは日本のパソコンでは動かなかったので、日本のメーカーは自分たちのパソコンで動くように修正しています(初期の Windows も同様)。そのため、NEC PC-98シリーズ用の MS-DOS や 富士通 FMR シリーズ用の MS-DOS という区別がありました。現在ではメーカーが Windows を修正することはないと思いますが、それはパソコンの仕様が標準化され、修正したい部分はドライバの開発で対応できるようになったためです。しかしそれでも当時は、将来 Microsoft が著作権をたてに MS-DOS の修正を禁止し、自社のパソコンで MS-DOS が使えなくなるのではないかと日本のメーカーの間で不安がありました。その不安を解消するのが「それぞれのメーカーが自分たちの OS を持とう」という考えのトロンプロジェクトでした。実際には Microsoft はメーカーへの OS の供給を禁止するようなんてことはせず、メーカーは Windows を使い続けることができました。
ソフトウェア会社の多くは MS-DOS 上で動くアプリケーションを開発し、特に NEC の PC-98 シリーズ用に開発しました。ハードディスクがまだ普及していない頃、パソコンはフロッピーディスクから起動していました。起動に使うフロッピーディスクには OS とアプリケーションの両方が記録されており(当時のプログラムはそれぐらい小さかった)、フロッピーディスクをパソコンに差して電源を入れるだけで、MS-DOS のコマンドを入力することなく、簡単にアプリケーションを起動して利用できました。NEC はこのアプリケーションと組み合わせて使う MS-DOS のライセンス料を請求しなかったため、ソフトウェア会社は OS を組み込んだ形でソフトウェアを販売できました。トロン OS を無償だと勘違いしている人が一定数いるようですが、それを言うなら MS-DOS は実質無償でした。この方針は1987年に変更になり、一部で「とうとう Microsoft が著作権を主張しだした。MS-DOS が自由に使えなくなるぞ。」と騒ぎになったようですが、実際には OS の供給をパソコンメーカー経由に限定したというだけで、大きな問題にはなりませんでした。フロッピーディスクからアプリケーション起動する場合には少し困ったことになりましたが、古いバージョンの MS-DOS を使い続けたり、MS-DOS の互換 OS(MEG-DOS など)の使用で回避できました。NEC はアプリケーションに組み込む MS-DOS を無償にしたことでシェアを拡大しました。「無償」はシェア拡大の戦略の一つであって、ボランティアでやっているとは限りません。
「一般ユーザーが使えるレベルの実用的なパソコン」は MS-DOS 時代からありました。当時多くの人がワープロ専用機(ワープロしか使えない主にプリンタ一体型のコンピュータ、後期にはペイントや表計算などオフィスソフト相当のアプリケーションも使えるようになりましたが)の代わりに MS-DOS 上で動く「一太郎」や「松」を使っていましたし、表計算ソフトの「Lotus 1-2-3」などもよく使われました。パソコンを買い替えて使い方が変わると困りますが、他メーカーのパソコンに乗り換えない人にとっては関係ありません。操作方法の違いで困るのは会社で複数のコンピュータ(業務用の専門機)を使い分けなければならないときぐらいでしょう。コマンドで操作する MS-DOS は一般ユーザーが使うには難しかったと思いますが、そもそもフロッピーディスクをパソコンに差して電源を入れればアプリケーションを使えたので、一般ユーザーは MS-DOS を意識する必要自体がありませんでした。そういう意味で MS-DOS は組み込み OS に近い存在でした(ただしハードウェア組み込みではなくソフトウェア組み込み)。MS-DOS を使う場合でも、昔は操作方法が書かれた分厚いマニュアルが付属していたのでどうにかなりました。余談ですが、トロンプロジェクトの目標にはこの分厚いマニュアルをなくすことがありました。現在、分厚いマニュアルは付いてきませんが、問題は解決されたということでいいんでしょうかね。さまざまな周辺機器が発売されるようになり、1990年頃にハードディスクが一般に普及して OS やアプリケーションをインストールして使うようになると、ハードウェアやソフトウェアの設定などで MS-DOS を使う必要が出てきて使い方が難しくなってきました。その問題を Windows 95 は大きく改善させ(プラグアンドプレイによるハードウェアの自動設定など)、スタートメニューやタスクバーの実装で初心者でも使いやすくなりました。そして全世界的な大規模プロモーションをした結果、Windows 95 は大きく躍進しました。トロン OS には(最新の超漢字も含めて)スタートメニューやタスクバーに相当するものがありません。考え方違うと言われれば、その通りかもしれませんが、やっぱり普通に使いづらいと思います。また、トロンプロジェクトは売るような製品を持っていないため大規模プロモーションを行える広告費もありません。トロンは技術では Windows に負けていないと主張しますが、技術だけで勝てないことは最初からわかっていることのはずです。ITRON が日本で普及したのは大きな競争相手がいなかったからです。
プロジェクトに賛同した企業の思惑
(前ページより)すでに1980年代にWindowsより10年進んでいたと言われるOSを日本人が開発していた……

1980年代に Windows より10年進んでいたと言われる(パソコン用)OS を日本人「坂村健」は開発していません。「日本人が開発していた」のか「坂村健が考案した」のかどっちなんだい?と聞きたくなる文章ですが、坂村氏がトロン仕様を考案し、日本人(松下電器の開発チーム)が開発したという意味なら一応あっていますが、そんな意図ではないでしょうね。ここでは考案(開発開始)と開発(発売)が混同されています。
Windows が開発開始されたのは 1981 年でトロンよりも先行しています。当初は Interface Manager と呼ばれていました。Windows という名前に変更され、一般に Windows が公表されたのが1983年11月です。この頃トロンはありませんでした。トロンプロジェクトの発足は1984年で、その頃 ITRON 仕様の叩き台はありましたが、BTRON 仕様の作成はこれからです。松下電器の BTRON 開発チームが 1984年の夏頃に結成されたようなので、ここを BTRON OS の開発開始にしたとしても半年近く Windows よりも遅れていることになります。実験機なら1980年代に開発していたと言えますが、パソコン用トロン OS を販売できたのは1990年代に入ってからです。組み込み用のトロン OS なら1980年代に開発して発売されていましたが、漫画ではパソコン用 OS の話のはずです。組み込み用 OS は求められる機能が全く違うので Windows と比較しても意味はありません。ところで Windows より多く使われてるからトロン大勝利とか普通にコンプレックス丸出しで恥ずかしいと思うんですが、いい加減 Windows と比較するのやめませんかね? それって「Windows は macOS より多く使われてるから Windows 大勝利」とパソコン用 OS 同士で比較するより酷いですよ? 「このハンバーガーとコーラは世界で一番売れている。だから世界一うまいものに決まっているだろ」と言っているようなものです。
確かに坂村氏はトロンが使いやすいと宣伝していましたが、それは「操作方法や機能を統一すればコンピュータは使いやすくなる」程度の意味です。当時のコンピュータは各メーカーごとに操作方法が違っており、それが使いにくい原因であると坂村氏は考えていました。そのことを坂村氏は「自動車はどのメーカーでもハンドルやブレーキが同じ場所にあり、違う車でもすぐに運転できる」とよく例えていました。確かに操作方法の違いは使いにくい原因になりますが、操作方法が同じでも車によって快適さや運転のしやすさは違いますよね? 当時の日本人はタイプライター文化がなかったこともありキーボードを使うのが苦手で、キーボードアレルギーという言葉もあったぐらいです。今から振り返るとそれは単に慣れていなかっただけだと思いますが、それに加えて操作方法や機能が統一されていないことが「パソコンの使い方を勉強したのに違うパソコンは使えない」と苦手意識を増長させていました。皮肉なことにトロンパソコンでは、新しいキーボード配列のトロンキーボードを使い、今までとは全く違う形に統一したので、今までのパソコンを使ってきた人たちにとっては「また新しいパソコンの使い方を学ばなければならないのか?」と思われていました。
当時のトロンの使いやすさの比較対象は、Windows ではなく MS-DOS や BASIC です。初期の MS-DOS は日本語が扱えなかったため、英語の MS-DOS コマンドや BASIC プログラムを入力せずに、日本語も扱えるトロンパソコンは日本人にとって使いやすいと宣伝していました(注意: 日本語でプログラムできるという意味ではありません)。最初から GUI で使う OS を構想していたため、使いやすいという宣伝は間違いではありませんが、当時は(BTRON だけではなく)GUI を実装するのが精一杯の段階で、快適レベルの「使いやすいユーザーインタフェース」はどうあるべきかは、まだ研究の初期段階です。したがって 1980 年代にトロンが使いやすいと言われても「当時としてはね」なのです。YouTube に BTRON OS(超漢字) の動画がいくつかありますが、Windows 95 と比べても古臭く感じるはずです。開発時期からもわかるように BTRON OS は 1990年頃(Windows 3.0 時代)のユーザーインタフェースでそれから大きな改善はありません。操作方法を統一したため、使いやすい操作方法に改善できなくなったのではないでしょうか? 慣れの問題でもありますが、「ファイルを編集する」という思想で「新規ファイルで保存する」ができない(標準化された操作方法「トロン作法」でない?)ため、アプリを起動する時は、最初に「原紙」となるファイルをコピー(新しい実身の作成)してからファイルを開くというよくわからん作業が必要で使いづらいと思う人が多いでしょう。と思いきや保存ファイルがない「小物」はアプリを直接起動するという一貫性の無さもあります(参照)。まあこれは、超漢字という BTRON OS の実装の問題で仕様のせいではないかもしれませんが。もちろん当初の Windows も使いにくいですよ。発売後に改善を続け Windows 95 で大幅に使いやすくなり、改善が行われないトロンを置き去りにしました。
漫画の 「使いやすく抜群の安定性を誇っていた」が事実なのか疑問です。いつの時点のトロン OS の話をしているのかわかりませんが、開発の初期段階で安定しているわけがなく、関係者以外は誰もトロンパソコンを使ったことがありません。上級者(開発者や技術者)にとっては使いやすいかもしれませんが、コンピュータに詳しくない一般ユーザーが使いやすいと感じるかどうかは別問題です(実身/仮身とか小学生や初心者に教えて使いやすいと言うと思います? パソコン嫌いを増やすだけだと思うのですが。実身/仮身が簡単だと思うならこちらを読んで下さいね。Q1004 あたりオススメ)。開発中に公平な判断で使いやすく安定性が高いと証言できる人はほとんどいないでしょう。トロンであっても教育なしに使えるようなものではなく、坂村氏自身も自動車に教習所があるようにトロンも使い方を教える教育機関が必要であり、「コンピュータは勉強しなければ使えない」とか「『勉強しない人は TRON を使わないで下さい』と言いたい」とか、誰でも使えるとか、そんなものは絶対に作れるわけがないとまで言っています。つまりは「(操作方法「トロン作法」を勉強して使い方を学べば)他も使い方が同じだから勉強しなくても使える」という意味なので最初の勉強は必要なのです。使いやすいさと簡単に使えるかは別の概念なので、勉強すれば(慣れれば)使いやすいというのはありえますが、初心者にとっては勉強しなくても直感的に使えるほうが使いやすいと思うでしょう。
BTRON OS は過去との互換性が必要なく、機能が少ないこともあり起動速度などいくつかの点で優れていたと思われます。初期版はフロッピーディスクからでも起動できるほど小さかったようですが、アプリケーションをインストールして使う時代には、試用とトラブルシューティング以外にメリットはありません。安定性に関しては Windows 3.x/9x は低くなってしまいましたが、その理由は OS を経由せずにハードウェアを直接使おうとする MS-DOS アプリとの互換性を保つためです。安定性を犠牲に膨大な MS-DOS アプリケーション資産を継承したことで Windows の方が実用面で優れていました。BTRON OS が Windows よりも優れている所がいくつかあったのは事実ですが、優れていないところもあるわけで、総合力で Windows に負けました。ちなみに MS-DOS というか NEC の PC-98 シリーズは品質も高く非常に安定して動作していたことを知っておいてください。MS-DOS はアプリケーションのバグで OS ごと停止する場合もありましたが、そもそもアプリケーションに重大なバグがなければ何の問題もありません。重大なバグがないのは大前提で、もし重大なバグがあれば OS が強固でも使い物にならないですよね? だから MS-DOS は長い間(今も?)工場などで産業用機械の制御用 OS として使われました。用途によってはマルチウインドウは必要なく、キー操作で扱える専用画面で十分です。マルチタスクや ITRON や RTOS レベルのリアルタイム性能も必要ありません。システム全体で見ると MS-DOS でも「使いやすく抜群の安定性を誇っていた」わけです。
トロン OS は無償で使えるオープンソースだったとか、無償で提供する予定だったとか言うデマも見かけます。実際には、パソコン用のトロン OS のソースコードは公開されたことがありません(だから誰もソースコードを持ってないんですよ!)。無償とか自由に修正できるとか、それは開発したメーカーにとっての話です。そりゃ自分たちでソースコードを書いたのだから無償で自由に修正できて当たり前でしょう? だからトロン OS を採用したパソコンを作ったとしても、販売価格は Windows パソコンに比べて大きく下がることはなかったでしょう。当初トロン OS の仕様書を入手するには TRON 協議会(TRON 協会)への加入が必要でした。企業しか会員になれず、企業向けレベルの入会費と年会費(企業規模に応じて数十万円から数百万円)が必要でした(注意: 現在は個人でも年会費1万円で会員になれますし、基本的な仕様は会員にならずとも無料で入手できます)。会費はトロンプロジェクトの運営資金です。完全にボランティアではプロジェクトは続けられませんし、トロンプロジェクトがお金を取るのは当たり前です。そうやってお金を出して手に入れた仕様書を読んで、OS が欲しいメーカーは仕様を満たすようにソースコードを書いて OS を開発しますが、それは大変な仕事なので可能なら OS を買う方を選ぶでしょう。坂村氏が言っている「無償」とはトロン仕様にしたがって開発した OS のロイヤリティだけです。つまりメーカーが自社で開発したトロン OS を有償で販売したり、コンピュータに組み込んでばら撒いても、坂村氏にお金を払う必要はないですよという意味です。メーカーが開発したトロン OS の権利は開発したメーカーのものなので自由に扱えます。もちろん無料でオープンソースのトロン OS を開発してもよく、それをやろうとしていた B-Free というプロジェクトもあったのですが、開発途中で断念しており、今のところパソコン用のトロン OS に無償で使えるオープンソースの実装はありません。その一方で Windows 互換(Windows アプリが動く)の Linux ベースの OS Lindows (Linspire) はありましたし、現在も活動は続いている(無償のオープンソース版は Freespire)わけですから、世の中わからないものです。
機械工業経済研究報告書 61-3 (技術体系の転換と機械産業のソフトウェア戦略) 1987年5月 より
Q:TRONに関する権利を放棄されたのでしょうか。
坂村講師:放棄していませんよ。しかるべく手続きを取ってくれれば、無償で著作権を上げると言っているだけです。著作権は当然認めています。そうでないと、著作権は世の中にないという発想になってしまいますから、とんでもない話で(笑)、著作権は僕が持っています。Q:それは具体的には、どんなものなんですか。
坂村講師:オペレーティングシステムに関するものです。それとマイクロプロセッサの命令セットそのものです。
しかるべき手続きというのは、私が納得のいくようにインプリメンテーションしてくれるということで、規約もあって、TRON協議会に入る必要があります。そうしないと性能の悪いものにTRONという名前をつけてばらばらマーケットに出されて「TRONてこんなに悪いものなのか」と言われるのはいやですから。
そういう人たちに対抗するために、特許だ、著作権だは全部押えています。断りもなくTRONという名前を使って悪いことをやったりしたら、協議会が主体となって裁判を起こします。本当に「TRONを普及するために、その規格を使わせてください」と言った場合には、「一個使ったら10円頂戴」とか「100円頂戴」ということを言わないで、無償で全部出すということを言っているのです。年会費で50万円とか100万円とかの実費は取っていますけどね。
※補足: OS の API セットや命令セットに著作権は認められていませんが、当時はまだコンピュータ関連の著作権について十分な整理がなされていませんでした。商標権で守られている「TRON」という名前は勝手に使えませんが、TRON 互換の OS や CPU は坂村氏の許可なく自由に作れます。特許で保護されている部分は除きますが、保護期間は20年なので今は切れているでしょう。当時は日本全体が著作権の理解に乏しく、不正コピーが普通に行われており、なんなら著作権を主張するほうが悪いように思われていた時代でした。
漫画の著者は「1980年代にトロンという OS を坂村氏が開発していて、それを無償で使えたと勘違いしている可能性が高い」と感じます。少なくとも漫画の読者は勘違いしてしまうでしょう。ちなみに米国では 1970年代中頃から Unix がほぼ無償(実費のみ)のオープンソース(という言葉はまだありませんでしたが)で配布されました。当初 Unix は自由に使えましたが、商用利用が開始され不自由になっていったことで、1983年にリチャード・ストールマンがオープンソース(正確には「自由ソフトウェア」)の Unix を開発する GNU プロジェクトを開始しました。一方で1984年に発足したトロンプロジェクトはオープンアーキテクチャ(仕様のみ公開)止まりです。オープンソースとオープンアーキテクチャでは考え方が全く違うので、似たようなものと考えてはいけません。自由を目指した GNU プロジェクトと、メーカーがビジネスをするためのトロンプロジェクトは、正反対の部分(例えば GNU はソースコードを公開するが、トロン関連はソースコードを秘匿しがち)もあり比べるようなものではありません。ともかく無償で公開するのも米国が先だったわけで、アメリカの研究者たちにとって「無償で公開されている点が革新的だった」わけではありません(米国の出来事を知らない日本の研究者にとっては革新的だったかもしれませんが)。したがって「その先進性はアメリカの研究者たちを驚愕させた」という話も事実なのか怪しいです(「米国の技術を使ってないんだ!?」と驚愕したかもしれませんが)。初期の頃にトロンを知っていたのは日本のメーカーぐらいのはずです。トロンが発表されたのも、1984年の東京で開催された日本電子工業振興協会主催の「第4回マイクロコンピュータ応用国際会議」ですし(「国際」だからといって米国主催で米国で開催されたわけではない)、プロジェクトへの参加企業も日本企業がほとんどで、現在でも活動の中心は日本です。
当時の研究者たちのブームは Unix です。Unix はソースコードも公開されていたので企業や大学で広く研究されました。例えば Unix のソースコードを詳細に解説した「Lions' Commentary on UNIX」は米国で1976年に出版されています。Unix は1976年に石田晴久氏によって初めて日本にソースコードが持ち込まれたと言われており、日本でも1980年代の初め頃に大学で研究が始まり、1983年に設立された JUS(日本 UNIX ユーザ会)は日本での Unix の普及に大きな役割を果たしました。1980年代の中頃にはJUNET(大学間ネットワーク)が本格的に運用され、国産 UNIX の開発も始まりました。トロンは1987年に米国の IEEE Micro(「TRON概論」がその完訳増補版)で特集が組まれており、その頃なら米国人でも知っている人は知っていたと思いますが、米国の多くの研究者にとっては、日本がやってる謎のプロジェクトと言ったところでしょう。だってその頃、実験機の開発が発表された程度でソースコードの公開はなし、仕様書の入手にも TRON 協議会への加入が必要でお金がかかる、使ってみようと思ってもトロンパソコンすら入手できないんですよ? 英語の論文も一部公開されてはいますが多くの情報は日本語なわけで「その先進性はアメリカの研究者たちを驚愕させた」と言われても、初期のほとんど何も手に入らない段階で何に驚愕したのかわかりません。米国の研究者たちが驚愕したなんてのは漫画の著者の作り話でしょう。
トロンプロジェクトは140社以上の企業が集まって結成されたわけではありません。まずそんなに多くの会社がパソコンを作っていたわけがないですから。トロンプロジェクトは日本の大手メーカー8社によって結成され、初期の段階では一般会員(メーカー)の募集は行われていませんでした。メーカーが集まった理由は「坂村氏が開発した革新的なパソコン用 OS に驚愕したから」ではありません。何度も繰り返していますが、この段階で OS はまだ開発されておらず、そもそも OS はメーカーがこれから開発するものだからです。各メーカーの思惑はバラバラだと思いますが、多くは米国企業が知的財産権(特許や著作権)の保護を強化したことで、将来的に米国企業が開発した技術を利用できなくなるかもしれないという不安から、米国企業が権利を持っている技術に頼らずにコンピュータを開発しようという坂村氏の考えに賛同したから参加したのです。その背後にはトロンプロジェクトの母体であった日本電子工業振興協会の後押しがあったでしょう。米国企業の技術ではないというのが最大のポイントで、各企業が自分たちが自由に使える CPU や OS を持つためでした。大手8社は全てがパソコン用の BTRON に興味を持っていたわけではありません。少なくとも当初は NEC は ITRON、富士通と日立と三菱はトロンチップ(富士通と日立は大型コンピュータ用の CPU として計画)、東芝と沖電気と NTT は CTRON(注意: CTRON は NTT のプロジェクトで必要になったため後から追加された)に興味を持っており、BTRON に興味を持っていたのは松下電器です。
当時の日本企業は、米国企業の発想で作られたコンピュータを真似していました。例えば富士通や日立は大型コンピュータの世界で覇者となった IBM のコンピュータの互換機を(勝手に)開発していました。互換機の開発は一応は合法な行為でしたが、膨大な研究費を投資して新技術を発明した企業にとっては、技術を盗む行為でしかありませんでした。そのため米国企業は知的財産の保護を強化し、当然ながら訴訟問題(IBM 産業スパイ事件など)へと発展していきました。そこでトロンプロジェクトが作ろうとした新しいコンピュータ体系は、誰でも真似して作ってよいと決めました。それが「無償で公開」の本当の価値です。タダで使えてお得とかいう単純な話ではなく知的財産権に関する訴訟問題の話なのです。ちなみに NEC は Intel 製の互換 CPU を開発していましたが、これは「セカンドソース」と呼ばれる正式なライセンスを受けて製造販売するものです。当時は製品の安定供給のためにセカンドソースが認められており、IBM が IBM PC に Intel の CPU を採用したのも複数の会社が同等の CPU を供給していたためです。しかし競合会社に同等の製品を作らせるのがビジネス上不利になると考えられるようになると、次第にセカンドソースは許可されなくなっていきました。そのため NEC は独自 CPU の開発を行い、独自 CPU のための OS が必要であると考え、開発を進めていました。その際にトロンプロジェクトの発表を知って ITRON 仕様 OS の開発に乗り換えたという経緯があります。ただし NEC は BTRON には興味を持っていませんでした。
トロンプロジェクトには日本の大手メーカーが参加しました。おそらく多くの会社は大手メーカーが参加しているし、「これは大きなプロジェクトになるぞ」と思い、その成果を利用しようとして参加したのでしょう。周辺機器やソフトウェアの開発で必要な情報は、当初トロンプロジェクトに参加しなければ得られませんでした。坂村氏が描く「SF チックな未来構想」に惹かれて参加した企業もあったかもしれませんが、お金を出す会社が参加する論理は基本的にはビジネスです。最終的に儲かると信じているからお金を出して参加するのです。トロンプロジェクトは新聞やテレビで大々的に報じられましたが、トロン仕様や情報の詳細を知るには TRON 協議会(協会)の会員になる必要がありました。少なくとも当初のトロンプロジェクトはメーカーのためのプロジェクトで個人会員はありませんでした。個人での参加ができず、(Linux とは異なり)コミュニティが作れなかったのはパソコン用 OS として失敗した理由の一つになるでしょう。パソコンはその名の通り個人が使うコンピュータとして作られたわけですから、個人が参加できないのはよくありません。坂村氏はプログラミングなしで使えるパソコンを構想していましたが、プログラミングをしたい個人は多くいますし、特に昔にパソコンを買う人の多くはプログラミングをするために買っていたわけです。1980年代のプログラミング環境は大学で使う Unix か MS-DOS や BASIC しかほとんど選択肢になりません。1990年代になると PC-UNIX や Linux が選択肢に加わりますが、メーカーのためのトロンでプログラミングをしようとする人は限られていたでしょう。
1984年に8社の大手メーカーが参加したトロンプロジェクトは、1986年6月に日本電子工業振興協会内に「TRON 協議会」が設立され、国内外の企業の参加が呼びかけられて約40社が集まりました。TRON 協議会の設立から1年後の1987年6月で60社を突破し、1988年3月に通産省管轄の社団法人「TRON 協会」として独立した時点は約100社が集まりました。140社以上が集まったのはプロジェクト発足から5年後の1989年11月頃 (TRONWARE Vol.3 より)です。TRON 協議会時点では、AT&T ユニックス・パシフィック(株)、日本テキサス・インスツルメント(株)、日本ユニバック、モトローラ・インク、日本 AMD が、TRON 協会時点には、アップルコンピュータジャパン株式会社、インテルジャパン株式会社、日本ディジタルイクイップメント株式会社、日本アイ・ビー・エム株式会社、日本ユニシス株式会社、ウィンドリバーシステムズ株式会社、横河ヒューレット・パッカード株式会社などの外国系企業も含まれています(「電子工業月報 1988年3月号 と TRONWARE Vol.2 より)。敵対技術になりかねないプロジェクトの内部情報を得るために会員になったという噂もあったようですが、米国企業はトロンプロジェクトを脅威に思っていたわけではないことがわかるでしょう。1990年8月時点では 142社のうち外国系企業は25社 (TRONWARE Vol.6) です。つまり、およそ 18% が外国系企業というのが「140社以上の企業が集まったトロンプロジェクト」 の正体です。日本中の企業が一致団結して進めていたプロジェクトだと思っていませんでしたか?
ちなみに現在のトロンフォーラムの会員リストを見ると幹事会員(一番偉くて高いやつ)に日本マイクロソフト株式会社が含まれており、(T-Kernel の件で提携した2003年頃から?)20年以上に渡って Microsoft はトロンプロジェクトを支え続けていることがわかります。もう Microsoft を悪く言えませんね? Microsoft がトロンを恐れる理由なんてないんですよ。なぜなら、もし BTRON が普及していれば、Microsoft は Windows に BTRON 仕様を組み込めば良いだけだからです。実際、Microsoft は Windows に POSIX を組み込んだり、Linux を組み込んだりしています。Microsoft が新たに BTRON 仕様の OS を作って、それで世界を席巻して大儲けしていた可能性もありますね。もし松下電器かパーソナルメディアが Windows を超える OS を作れたのなら恐れたかもしれませんが、仕様でしかないトロンを恐れる理由はありません。
教育用パソコン仕様をめぐる国内騒乱
まず最初に「文部省が」と書いてありますが、正しくは通産省と文部省の共管の CEC(コンピュータ教育開発センター)です。トロンプロジェクトの足を引っ張る通産省の存在を忘れてはいけません。「学校に配布する教育用パソコンにトロンの採用を決定」というのは、学校で使うパソコンの標準 OS がトロン OS に決まったとか、全国の学校にトロンパソコンを配布することが決まったという話ではありません。教育用パソコンは学校が機種を選んで買うものです(国からの補助金はありました)。それでは「トロンの採用を決定」とはどういうことなのでしょうか? これは、1993年度(1993年4月) から教育課程として学校でパソコン教育を行うことになりました。それに合わせて「教育用パソコン」の仕様を CEC が決めるので参加したいメーカーは仕様案を提出してください。そして各メーカーは決まった CEC 仕様に従った教育用パソコンを開発してください。という話なのです。やろうとしていることは「新しい仕様のパソコン(OS 含む)の開発」です。CEC 仕様ではない教育用パソコンもすでに販売されており、どのパソコンを買うかは学校の自由です。あくまでパソコン教育用のためのパソコンの仕様を CEC が考えたという話です。そしてメーカーからの提案というテイで、CEC 仕様案の一部としてトロン仕様の一部が採用されました(注意: 後で撤回されます)。建前上は CEC 用の OS (CEC-OS) を開発するという話で、CEC-OS の仕様にトロン仕様を採用したという形であって、トロン OS そのものの採用というわけではありません。この CEC 仕様とはパソコン全体の仕様で OS だけではなくハードウェアの仕様も含まれています。この段階では CEC 仕様はまだ「案」です。この仕様案は「CEC コンセプトモデル '87」と呼ばれており、その名の通り1987年時点でのコンセプトでしかありません。なお最終的な仕様は1990年に決定され「CEC 仕様 '90」と呼ばれることになります。1987年時点では「(CEC の教育用パソコンの仕様に)トロン仕様の採用を内定」です。決定したも同然として扱われていましたが、まだ本決定ではなく、ちゃんとわかっている新聞や雑誌の記事には「トロンが採用されると見られている」と正確に書かれています。もちろんトロンが採用されない場合の有力候補は一般のパソコンで広く使われていた MS-DOS です。
「教育用パソコン」と「トロンパソコン」は別の仕様のパソコンで、この2つの間に互換性は考慮されていません。トロンパソコンはまだ未完成で仕様なんて固まっておらず、互換性を考慮しようとしてもできません。「教育用パソコン」はあくまで、パソコン教育で使うパソコンのための独自仕様です。なぜ学校に導入するためだけに新しいパソコンの仕様を決めるのかと言うと、当時のパソコンは各メーカーごとに異なり互換性がなかったからです。義務教育としてパソコンを教える以上、全国で同じものを同じように教えなければなりません。いくらシェアが大きいからと言って、NEC のパソコン専用の教科書を作るわけにはいかないわけです。だからどのメーカーのパソコンを導入してもパソコン教育に問題ないように、また同じ教育用ソフトを使えるように、同じ仕様のパソコンを作ろうという話になりました。教育用パソコンの仕様に採用されたトロン仕様には、フロッピーディスクのフォーマット形式、実身/仮身、GUI や API 仕様などがあり、マルチタスクやマルチウインドウへの対応も要求されていたようです。名目上は CEC-OS の仕様を満たしていれば良いためトロン OS でなくとも良いのですが、MS-DOS 上にこれらの機能を実装するのは難しいため、誰もが「トロン OS の採用」と言っていたわけです。ただしハードウェア仕様に関しては基本的にトロン仕様は採用されておらず、トロンパソコン特有のトロンキーボードやトロンチップの採用はありません。キーボード配列には新 JIS 配列(一般的な JIS 配列とは異なるもの)が採用されました。この話からは、たとえ教育用パソコンにトロン仕様が採用されていたとしても、トロンパソコンの普及につながったかどうかは疑問であると言えます。OS の API が同じでアプリケーションの移植は簡単と思われても、動作検証などで移植コストはかかりますから、ソフトウェア開発メーカーが仕様の違うパソコン用に移植して販売するとは限りません。
教育用パソコンの仕様策定を主導した CEC(コンピュータ教育開発センター)は、通産省(現在の経済産業省)と文部省(現在の文部科学省)の共管です。共管といっても仲が良かったというわけではなく、どちらかと言えば対立していたと思われます。トロンプロジェクトと CEC には直接の関係はないことに注意してください。おそらくですが、坂村氏は教育用パソコンに関する話し合いには参加していないんじゃないかと思います(基本的に関係ないので)。教育用パソコンの仕様書に BTRON 仕様書の内容を含める関係で著作権と商標権が関わってくるので、坂村氏にはそれに関する許可を貰ったぐらいでしょう。産学プロジェクトであるトロンプロジェクトには日本政府は関わっていませんが、教育用パソコンの開発と導入には日本政府(CEC、通産省と文部省)が関わっています。これが後で重要になってくるので覚えておいて下さい。名目上が、トロン仕様は参加したメーカー全12社中の11社(API 仕様などの「共同提案仕様」は7社)から提案された形になっていますが、実際には仕様案の提出を各メーカーに依頼する直前に、通産省から「トロン仕様を採用するように」と行政指導とも取れる異例の通達が行われました。したがってトロン仕様の採用は通産省が水面下で決めたと言っても過言ではありません。ちなみにトロン仕様を希望しなかった1社は最大手メーカーの NEC で OS に MS-DOS を提案しました。NEC は ITRON にはもっとも早くに関わっているのですが BTRON には関わっていないわけです。そもそも通産省からの通達が行われる前は、NEC、富士通、日立による計画で MS-DOS の採用が優勢でした。それが通産省の横やりで覆されてしまったわけです。なぜ最初に誰もトロン仕様を提案しなかったのか? そりゃ未完成のトロン仕様を提案するなんて常識で考えればありえません。だから NEC は通産省から打診されたときに断ったのですが、裏やり取りで気づけば BTRON 連合ができていたため、NEC は大きく反発しました。
なぜ通産省はトロン仕様の採用を通達したのでしょうか? 1987年時点でトロンパソコンは未完成なので、(坂村氏がどれだけ主張していたとしても)使いやすいからとか教育に向いているからという理由なわけがありません。関係者以外使ったことがないんですから、どんなものかもわかりませんよ。トロン仕様さえ、まだ変更される可能性があります。もしこれが文部省であれば教育上の理由があるのかもと考えますが、通達したのは通産省です。通産省は(教育ではなく)、国産大型コンピュータ、第五世代コンピュータ、シグマプロジェクトなど、コンピュータ産業の育成を担当しています。つまり、通産省は学校教育現場を実験場にして国産 OS を育てようとしたと言えます。ひどい話ですよ。パソコン教育であれば子供たちのことを考えるべきで、コンピュータ産業の育成をするのは結構ですが、それは別の場所で行うべきです。どうやら「学校でトロンを学んだ子供たちは卒業してからもトロンを使う」という考えで普及につなげることを目論んでいたようですが、実際には卒業後に使うパソコンは普及している MS-DOS なわけで使い方の違いに混乱し「学校で学んだことは実生活では役に立たない」と思うはずです。「マウスでクリックして使う」という操作方法はどの GUI OS も同じなので、完全に役に立たないわけではないでしょうが、学校での練習用パソコンとしか思われないでしょうね。トロンを教えたいなら順番が逆で、まず一般的なパソコンにトロンを普及させてからにするべきでしょう。これは NEC がトロン仕様の採用に反対した理由の一つでもあります。ちなみに文部省は早い段階(米国の圧力の前)で「既存のソフトウェアやハードウェアを継承できないマシンを認めるわけにはいかない」と明言(日経エレクトロニクス 1988.1.25 「特集 TRON」)しており、NEC に近い側の立場です。だからこれは通産省 vs 文部省の争いでもあるんです。ちなみに「特集 TRON」の記事では通産省は学校教育用は特定メーカーの製品は採用できない(これはわからなくもない)、OS はパブリック・ドメインでなければならない(TRON はパブリック・ドメインじゃないんですが?)と言っています。自分たちの都合で OS を修正したかったんでしょうね。この記事では「松下電器の BTRON は本当に出来上がっているのか?」という心配や、BTRON が従来のソフトウェアを継承しない点で大きな反発が予想されるなど書かれており、NEC だけではなく BTRON の採用に関しての否定的な意見は当初から多かったことがわかります。
「孫正義起業の若き獅子 - 大下 英治 (著)」によると、孫正義氏は、この頃に「トロン潰し」を行ったようです。トロン潰しと言っても、問題にしていたのは教育用パソコンの仕様が通産省の横やりでトロン仕様の採用に決定されるプロセスなので、トロンプロジェクト自体を潰そうとしたわけではないと思われます。この時に孫氏は、通産省の幹部、機械情報産業局長の棚橋祐治氏と同局 情報処理振興課長の林良造氏にコンタクトを取っています(役職などは当時)。教育用パソコンにトロン仕様を推し進めていたのは CEC の通産省関係者なので、孫氏の働きかけがトロン指定の撤回に影響を与えた可能性は考えられますが、さすがに米国に訴えてスーパー301条の制裁候補に指定されることになったというのは考えすぎでしょう。孫氏の主張は「日本の国益を守るべき通産省が政策として、海外コンピュータの製品を締め出そうとする行為は鎖国であり、これでは日本の技術が遅れてしまう」です。
NEC は MS-DOS ベースの仕様を提案しましたが、かといって他のメーカーはそれを素直に受け入れられない理由がありました。最終的な目的として教育用パソコンの仕様は統一しなければなりません。これは教育内容の統一や教育に使うソフトウェアの移植性や周辺機器の互換性のためです。つまりどのメーカーのパソコンでも購入したソフトウェアやハードウェアが使えるようにしなければなりません。ハードウェアの違いを吸収していない MS-DOS では、単純に採用しただけでは互換性は実現できないので簡単な話ではないわけです。NEC(初期の MS-DOS が優勢だったときの NEC、富士通、日立)は「アウター OS」方式を提案していました。これは MS-DOS の外部(ミドルウェア)でグラフィック機能などのコンピュータの違いを吸収する方式ですが、アウター OS 方式ではメイン OS が MS-DOS で、Microsoft が権利を持つため中身を自由に修正できない(教育用のための修正することを考えていたっぽい)ため、それで実現できるのかと疑問視され受け入れられなかったようです(正直、アウター OS のほうが筋が良いと思う)。各メーカーが(エプソンのように)NEC 製パソコンの互換機を作るという案もあったようですが、内部技術を秘匿したいためか NEC は反対したようです。それならば全てのメーカーでトロン仕様(トロン OS)を採用すればメーカー間のパソコン内部に違いがあっても互換性は実現できるはずなので良いですねというわけでトロン仕様なわけです。日本のパソコンが PC 互換機のような形で統一されていなかったがゆえの苦しみです。もちろん教育現場でもすでに高いシェアを握っている NEC からシェアを奪還しようという打算もあったでしょう(注意: 一部の学校では何年も前からパソコンが導入されています)。NEC は多くの MS-DOS 用アプリケーションを持っていたため、通産省は 「それが通用しない舞台でなければ日本のメーカー間で公平な競争にならない(?)」と考えていたようです。その考えは NEC のこれまでの頑張りを無に帰す行為なわけで、まさに「出る杭は打たれる」というやつです。米国製の OS を擁護する NEC の高田由氏は、通産省に国賊呼ばわりされたようですが「そこまでいうなら、今あるコンピュータを全部ナタでぶち壊してみろ」と言って猛反発しています(「マイクロソフトの真実」より)。まあ当然ですよね。
最大手 NEC の反対理由は、一部の学校はすでにパソコンを導入しており、対応するソフトウェアやハードウェアを購入しており、一部の先生は BASIC プログラムも自作しているのだから、それらが使えないものを導入するわけにはいかないという至極当然のものです。しかし多数決の論理で BTRON 派が優勢でした。そこで NEC はアウター OS に代わって「BTRON OS に対応するが MS-DOS も使えるマルチ OS」を提案します。元々は BTRON OS に一本化する予定でしたが、CEC 仕様を守っている限り追加機能をもたせることに問題ないはずですし、競争という点でも好ましいものです。この NEC の提案は受け入れられましたが、多くの MS-DOS 用アプリケーションを持っている NEC の力を削ぐことはできないため、一部の通産省幹部はこの結末に失望していたようです。通産省と文部省、そして各メーカーの思惑が渦巻く議論の末、1987年10月に BTRON OS 仕様を採用した「CEC コンセプトモデル '87」が完成し、5ヶ月後の1988年2月までに試作機の開発を行うことになりました。ただし NEC は BTRON OS と MS-DOS の両方に対応するには時間が足りないとして予め1988年5月までにあらかじめ延長してもらっています。試作機の完成は CEC 仕様の完成を意味するものではありません。そのことは CEC がはっきりと言っています。試作機の完成は、メーカー間や周辺機器の互換性検証や、教育現場の先生など評価を始めるための前提条件であり、この後に大きな問題が発覚する可能性もあります。だからこの時点ではトロン仕様の採用は「内定」であって「決定」ではないわけです。漫画の「日本の大手メーカーは次々と試作機を作り」というのは、CEC の業務の一環として評価のためのたたき台として教育用パソコンの試作機の開発を参加メーカーにお願いし、メーカーがそれを開発して提出したいう話です。別に教育用パソコンへのトロン仕様の採用に各メーカーが沸き立って「乗るしかない、このビッグウェーブに!」と自発的にトロンパソコン発売に向けての試作機を次々に開発したわけではないということです。各社のトロンパソコン発売の意気込みなんて、否定寄りの様子見ですよ。嘘だと思うなら「TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版 - VI. CAIシステム、ハード編」を読んでください。ちなみに試作機の開発には日本アイ・ビー・エムと日本ユニバック情報システムが参加しており「日本の」大手メーカーだけではありません。
試作機の提出は1988年2月、各メーカーに与えられた開発期間は5ヶ月(NEC は7ヶ月)もありません。そんな短い期間で各メーカーは BTRON OS を搭載した教育用パソコンの試作機を開発できるものなのでしょうか? 当然ながら、一から開発していたのでは間に合うはずがありません。作った教育用パソコンの試作機は、(NEC を除いて)松下電器が開発した BTRON パソコンの実験機がベースとなっており、BTRON OS も松下電器から供給されました。要するに松下電器製の BTRON パソコンの OEM 相当であり、もちろん松下電器にライセンス料を支払っています。ほとんど同じパソコンをいくつも作って、それで正しく評価できるのか甚だ疑問ですが。NEC は自社のパソコンと独自に BTRON OS を開発しようとしていました(ライセンス料を払いたくなかった?)。そして試作機を2ヶ月遅れで提出したわけですが「BTRON OS の仕様が不完全で実装できない、仕様が固まれば改めて提出する」と言って、MS-DOS と UNIX の両方が動作する教育用パソコンを提出しています(注意: 元々 CEC 仕様案以外の試作機を提出しても良いとなっていた)。そりゃトロンパソコンもトロン仕様も完成してない段階なので当然ですよね? NEC が MS-DOS と UNIX に対応するパソコンを提出できたのは、1984年の時点で「PC-UX」という PC-98 シリーズ上で動く UNIX を発売済みだったからです。その後、通産省の説得で NEC も松下電器から BTRON OS を供給してもらうことに同意し、1988年8月頃に MS-DOS と BTRON OS に対応するパソコンを提出したようです。その結果、教育用パソコンの BTRON OS は松下電器製で独占される形になりました。ちなみに三菱電機、沖電気工業、三洋電機、シャープの4社は1989年10月に共同で AX パソコン(PC 互換機にハードウェアによる日本語対応を加えたもの)ベースの教育用パソコンを開発しています。おそらく松下電器の BTRON OS を AX パソコン向けに移植したのだと思われますが、最終的に発売されなかったようです。

TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版 - 18 ページより (注意: 教育用パソコンの参加企業ではありません)
教育用パソコンの試作機が完成し1988年の中頃から評価が始まります。教育現場の先生たちなどに実際に使ってもらい意見を求めたわけですが、誰も使ったことがない新しいパソコンなわけで、何も問題が出ないわけがありません。多くの意見として一般のパソコンとの互換性(継承性)の必要性が指摘されました。NEC や文部省の反対理由は正しかったわけです。一部の先生はすでに BASIC で教育用のプログラムを自作していました。他にも BTRON OS にはハードウェアを扱う機能がない(工業高校などで機械の制御などに必要)という指摘もあったようです。また、BTRON OS にはバグもあり、その対応に時間が取られたようです。そりゃ世の中でまだ使われてない実績のない OS なんだからそうなりますよ。予定(当初の評価期間は1988年末まで)はずれ込んでおり、1993年度からのパソコン教育に影響が出つつありました(注意: パソコンの生産、パソコン室の確保、教育用ソフトウェアの開発、教科書の作成、先生の学習など、他にもやらなければならない作業は山程あります)。元々、教育用パソコンは BTRON OS に一本化する予定でしたが、教育用パソコンは従来のパソコンとの互換性が必要(MS-DOS も動く必要がある) とはっきりわかりました。NEC のパソコンだけではなく、AX パソコンベースなら当然 MS-DOS は動作しますし、松下電器の教育用パソコン(実は提携している富士通製パソコンの互換機)でさえ MS-DOS が動作します。トロンプロジェクトの構想では最終的に専用のトロンチップを開発して使う想定でしたが、順番として先に Intel 80286 用に開発していたのが役に立った形です。この頃は OS/2 が MS-DOS 後継として選択肢になり始めており、GUI が搭載されることが明らかになっていました。まだ主流は MS-DOS でしたが(日本語版 Windows 3.0 は 1991年1月発売)、MS-DOS が動くのであればおそらく Windows も動いたでしょう。パソコン用 OS が大きく変化する中、どのメーカーも MS-DOS を締め出そうとは考えませんでした。
このように「日本の大手メーカーは次々に試作機を作り」という話は「実用化まであと一歩」とは程遠いわけです。作ったのは教育用パソコンの試作機であって、トロンパソコンの試作機ではありません。作ったといっても松下電器のトロンパソコンを少しカスタマイズした程度です。試作機の完成は教育用パソコンの仕様を評価するためのものであってトロンの採用はまだ本決定ではありません。たとえ教育用パソコンにトロン仕様が採用されたからといって、各メーカーからトロンパソコンが市販される保証はありません。もし教育用パソコンで学んだ子供たちが、一般のパソコンでもトロン OS を使いたいという流れになったら、ようやく一般向けのトロンパソコンの開発の開始です。他にも BTRON OS 用のアプリケーションがほとんどないという致命的な問題が残っています。実はハードよりもソフトウェアのほうがシビアで、すでに MS-DOS 用に開発しているものをわざわざ BTRON OS 用に作り変える理由がないからです。嘘だと思うなら「TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版 - VIII. CAIソフト編」を読んでください。CEC は教育用のアプリケーションを作ってもらうために1989年2月に「BTRON ソフトウェア懇談会」を設立しました。しかし BTRON OS 用にアプリケーションを開発するには、まず BTRON パソコンが完成していなければなりません。開発ツールや開発環境も必要です。新しいプログラミング方法を学ばなければなりませんが本屋に行っても本はありません。初期の Windows でもアプリケーションが少ないという問題はありましたが、ここで登場するのが MS-DOS や技術的に劣ると言われる Windows 1.x~2.x の存在です。OS としては使いづらくとも開発環境の準備として役に立ったわけです。MS-DOS や Windows が動くパソコンと開発環境があるのに、はたして BTRON OS 向けにアプリケーションを開発するでしょうか? BTRON OS は「ソフトウェア開発するってレベルじゃねーぞ!」な状態なわけです。こんな状態では、BTRON OS はソフトウェア会社に特別に作らせた教育専用アプリケーションを動かすための専用 OS にしかならないでしょう。
教育用パソコンの開発を口実にした通産省による BTRON OS 普及計画には、1989年4月に米国が立ちはだかりましたが、その前に日本(NEC、文部省、教育現場の先生たち、その他の大手メーカー、ソフトウェアメーカー)が立ちはだかっていました。
教育用パソコン市場の開放を迫る米国
(前ページより)しかし1989年! その前にアメリカが立ちはだかる!

重要なことなので、ここで改めて思い出して下さい。トロンプロジェクトの活動と、CEC による教育用パソコンの開発は別の話です。この混同が非常に多く目立ちます。本当にわかってないのか? 意図的に混同させてないか? と思うぐらいです。坂村氏も「トロンプロジェクトは世界に門戸を開いている。やましいことはなにもない」などと言っていますが、それは教育用パソコンの話ではありません。トロンプロジェクトには日本政府は関与していませんが、CEC は日本政府(通産省と文部省)が関与しており、各メーカーの教育用パソコンの開発と学校への導入には国からの補助金が投入されています。いくらトロンプロジェクトには税金など投入されていないと主張しても、それは教育用パソコンの話ではありません。
ここまでの話は、松下電器がトロンパソコンの実験機の開発に成功した頃に、教育用パソコンの仕様にトロン仕様の一部が内定し、NEC vs BTRON 連合のごたごたを経て、開発された試作機で評価を行っている段階です。まだトロンパソコンも BTRON OS も未完成なわけで、米国が恐れるようなものは何も完成していません。少なくともこの時点で、トロンが世界を席巻する可能性なんてゼロです。なぜならこの時点の BTRON OS は日本語専用で英語版すらないため、世界に輸出なんてできやしないからです。もともとトロンプロジェクトは(世界を見据えてはいたようですが)日本人のためのパソコンを作るプロジェクトです。英語が扱えることと英語版は違います。英語版はシステムのメッセージ(GUIなど)が英語でなければならず、通貨単位や日付形式などの違いに対応しなければなりません。英語以外にも対応するならもっと大変です。例えばアラビア語は右から左に文字がつながっているかように書く言語ですが、超漢字でさえアラビア文字を正しく扱えません(参照 「超漢字」の「多言語」と称する機能について)。トロンプロジェクトとしては仕様で文字コードが割り振ってあるのだから、対応した OS を開発すれば扱えるはずという立場だったのだと思いますが、実際の BTRON OS は対応していないわけです。元々 BTRON OS は現地のメーカーが開発するという想定なので、日本企業が作るトロン OS は日本語版以外に対応する必要はありません。だから米国メーカーが開発できるように英語版の仕様書も同時に作成しているわけです。トロン OS は世界中の文字を扱えると主張していましたが、仕様として世界中の文字を扱えるように設計されていると言うだけで、実際には世界で使える OS にはなっていませんでした。その一方で MS-DOS はすでに各国の言語や文化に対応したバージョンが作られており、日本を含む世界に輸出されていました(例えばアラビア語対応版は1988年の MS-DOS 3.3 から)。
米国はこの段階で「トロンが世界を席巻する」などと恐れる理由がないわけですが、それではなぜ米国企業が打撃を受けると考えたのでしょうか? それは日本の教育用パソコン市場に米国企業が参入できなくなるからです。貿易として言えば、米国は「トロンの輸入を阻止したい」のではなく「MS-DOS、OS/2、UNIX を輸出したい」という話です。米国側は、トロン協会に対して「トロンプロジェクトの活動に反対するものではない」と伝えており、トロン協会もそのことを認知しています。米国が日本に圧力をかけたのは、教育用パソコン市場(と CTRON を採用した NTT の次世代の光通信事業ですが、本質は同じなので省略します)に対してです。米国はトロンを脅威に思ったのではなく、教育用パソコン市場が不公正だと思ったのです。日本政府は最初、教育用パソコンに採用する OS を BTRON OS に一本化しようとしていました。これは日本政府の政治的圧力で BTRON OS 以外、米国企業の OS(MS-DOS や OS/2 や UNIX)を排除しようとしているのと同じことです。この計画は、NEC の反発と教育現場の先生たちの意見から「MS-DOS への対応は事実上不可欠である」と判断され、BTRON OS への一本化はなくなっていましたが、米国が圧力をかけた時点では BTRON OS への対応は必須でした。つまり「日本の教育用パソコン市場に参入したいなら、米国のパソコンメーカーは BTRON OS を自作するか松下電器から買いなさい」と言っているのと同じなわけです。そんなことを言われたら、例えば Macintosh を売りたい Apple はどうすればよいのでしょうか? Apple はすでに優れた GUI 対応 OS を持っており、BTRON OS を作る必要はありません。CPU が違うため松下電器から買っても動きません。当時の Apple は教育に力を入れており日本の教育市場も視野に入れていましたが、これは日本政府の政治的圧力による外国企業の排除以外のなにものでもありません。

日経エレクトロニクス 1990.5.14 特集トロンの光と影
米国の圧力の1989年4月28日とは米国のスーパー301条の制裁候補が発表された日ですが、実はその約半年前の1988年9月9日(教育用パソコンの評価期間中)に USTR から日本政府に対してクレームが来ています。その内容は「教育用パソコンの OS を松下電器一社に限定するのは貿易の国際ルール違反(後ほど説明)ではないか」ということです。教育用パソコンの話はトロンプロジェクトとは関係ないため、おそらくですが坂村氏はこの話を(当時は)気づいていないように思えます。このクレームに関しては「教育用パソコンの OS は松下電器製に限定しているわけではなく、どの企業でも BTRON OS を開発できる」と返答して、収まったかのように思われていました。しかし OS の開発期間を考えれば、松下電器から買う以外が選択肢になるとは思えませんし、実際、NEC も自社開発を断念しました。「どの社でも作れると言っても市場に参入できないなら意味ないじゃん」ということです。「当時日本に自動車や家電製品で圧倒され巨額な貿易赤字を抱えていたアメリカ」は、貿易赤字の原因が日本の不透明で閉鎖的な商慣習のせいで米国企業の参入が難しい仕組みとなっているからと考えていました。別に何の理由もなく日本を脅そうとかしていたわけではありません。日本の商慣習が閉鎖的であるという考えはある程度は正しかったのですが、自動車や家電製品に関しては単に日本製品が優れていたからというのが大きな要素であると考えられています。ともかく日本のやり方に不満を抱いていた当時の米国には、日本の返答は屁理屈にしか聞こえなかったことでしょう。通産省の横やりで水面下でトロン仕様の採用が決定され、松下電器製の OS に独占される過程は閉鎖的な商慣習にしか見えません。教育用パソコン市場は日本のマスコミによる報道で一兆円に近い規模になると言われており、米国にとって無視できない市場でした。
1989年4月28日にスーパー301条の制裁候補が発表されたとき、教育用パソコンは BTRON OS への対応は必須ではあるものの、MS-DOS に対応していても良い(むしろ推奨)ことになっていました。また、教育用パソコンの試作機の開発には、日本アイ・ビー・エムと日本ユニバック情報システム、2社の米国企業(「日本」がつくので米国企業と言い切って良いのか少し悩みますが)が参加しています。もちろん指定された BTRON OS は(名目上は)どの企業でも開発できます。しかし米国は「TRON 以外の OS、例えば MS-DOS、OS/2、UNIX でしか動作しないコンピュータは、事実上この調達から排除されることになるだろう」として、制裁候補に指定しました。つまり「BTRON OS への対応が必須」なことを問題視しており、「MS-DOS や UNIX しか動かないパソコンでもいいじゃん」「うちは BTRON OS なんて作りたくも買いたくもねーよ」と言っているだけで、日本の企業が BTRON OS を採用するのを禁止しようとはしていないわけです。米国企業「うちは BTRON OS を採用しないぞ!」→ 松下電器「それならうちが BTRON OS を採用するよ!」→ 米国企業「どうぞどうぞ!」です。だからこそ松下電器は BTRON OS 搭載の教育用パソコンを発売できたのです。最初からフェアな競争で BTRON OS が選ばれていたなら米国は文句を言わなかったでしょうが、日本政府が未完成の BTRON OS を採用するなんて常識では考えられないことをしたから文句を言っているわけです。さらに、そんなことをしてると日本の市場だって困ったことになるぞと心配までされています(参照 「TRONを名指ししたスーパー301条で米国は本当はなんと言ったのか?(日本語訳)」)。
トロンというか教育用パソコン市場の独占は、スーパー301条の制裁候補になりましたが制裁対象にはなりませんでした。そういう意味でもトロンは潰されませんでした。制裁対象にならなかった一番の理由は「CEC が教育用パソコンの仕様から BTRON OS の指定を撤回した」からでしょう。坂村氏は反論によって制裁対象から外れたと自分の功績のように主張していますが、反論内容は教育用パソコンの件ではなく、トロンプロジェクトは外国企業を差別していないという内容(トロン憲章)なので的外れです。おそらく米国(USTR)は坂村氏にトロンプロジェクトがどういうものなのかを参考として聞きたかっただけで、それを理解したと言っただけなんじゃないかと思っています。実際、坂村氏が反論が受け入れられたと思った後も、米国と日本の間で教育用パソコン市場に関する協議は続いています(例 1989年9月のハワイで開催された日米貿易委員会の議題の一つ)。トロンは制裁対象にはなりませんでしたが制裁候補からは外れていないのです(だから 1989年版、1990年版、1991年版の3回取り上げられた)。CEC が BTRON OS の指定を撤回したとき、日本経済新聞は「BTRON OS の採用を断念した」と報道しました。しかし CEC が言っていることは、OS をどうするかが白紙に戻ったという意味で断念したわけではありません。そのためすぐさま CEC は「BTRON OS の採用断念は事実ではない」反論しました。最終的に、CEC は1990年7月に「教育用パソコンの OS は何でも良い」と決定します。
教育用パソコンの OS に特定のメーカーの製品を採用するわけには行かないと言うなら、どれでも良いと決めれば問題解決です。もちろん BTRON OS でも良いわけで選択の自由度が上がって競争という意味でも好ましいものです。この決定で文句を言うとしたら BTRON OS 以外を排除したい人だけでしょう? しかし OS が自由であれば教育用パソコンの当初の目的、各メーカーのパソコンの仕様を統一するという目的が果たされません。いや、ちょっと待ってください。パソコンの仕様を統一することは教育用パソコンにとって本当に必要なことでしょうか? パソコン教育の基本に立ち返ると、本当の問題は教える内容が統一できないことのはずです。それではパソコン教育で教えるべき内容はなんでしょうか? という話になります。というか、それはそもそも最初に考えなければいけないことのはずです。なぜいきなり教育用パソコンを作るという話になったのでしょうか? それはコンピュータ産業の育成を担当する通産省が CEC で主導権を握っていたからでしょう。おそらくですが、私はここらへんで主導権が文部省に移ったのではないかと推測しています。文部省は教育が担当ですから、学校教育のこと、教育現場発生している現実の問題、先生の希望を優先的に考えています。パソコン教育に支障がなければ、パソコン自体に違いがあっても大きな問題ではありません。使いやすいウインドウシステムやマルチタスクは便利ですが、どうせ授業の一コマで使うのは一つのアプリケーションのみです。むしろ意図せず他のアプリに切り替わったりせず、一つのアプリに集中できたほうがが混乱しなくて良いまであります。インターネットもありませんし、調べられる情報は用意された教材からのみです。授業でアプリ開発をするわけもありませんから、教育用のパソコンなんてどれでもいい(市販のパソコンでいい)じゃないですか? BTRON OS を使うには教育が必要と考えていた坂村氏にとっては、学校で BTRON OS の使い方を教えるというのは願ってもないことだったのだと思いますが、学校で教えるべきは応用の効くパソコンの使い方であって、BTRON OS 専用の授業をすべきではないでしょう。
CEC の最終的な仕様は「CEC 仕様 '90」と名付けられ、1990年7月に発表されました。CEC 仕様の三つの柱は「教育独自の機能」「互換性」「継承性」です。継承性とは古い機種や将来の機種や現行の一般的な機種とのつながり(さまざまな資産が継承できるか)を意味しています。ちなみにキーボードの新 JIS 配列の指定も取りやめになりました。トロンキーボードにも当てはまりますが一般のパソコンで使われてない配列に慣れさせても困るだけだと思います。もちろん新 JIS 配列でもトロンキーボード配列でもいいと思いますよ。ただそれが一般のパソコンで普及してなければ子供たちは困るでしょうという話です。メーカー間の互換性ついては以前から重視されていましたが、互換性の実現にはコンピュータの仕様を統一すれば良いというのが以前の考え方でした。たしかにそれはそうなんですが、それは現実的なのか?という話で無理だったわけです。代わりに「CEC 仕様 '90」では、当時の教育で重要と考えられていたプログラミング言語「Basic」と「Logo」の言語仕様(命令)を統一しました。そして教材データの互換性を確保するために教材作成支援システム(オーサリングシステム)用の「交換用教材データ」仕様を発表しました。BTRON ではデータ形式を OS の仕様として TAD 形式に統一し文字コードに TRON コードを使うことでデータの互換性を実現していましたが、そんなことをしなくても保存形式として「交換用教材データ」形式を定義し、アプリケーションはその形式に対応または内部形式に変換すればデータの互換性は実現できますよね? 「交換用教材データ」仕様が実際にどれだけ利用されたかは知らないのですが、Windows と macOS のように OS が異なっていたとしてもデータの互換性を保つ方法はあるわけで、必ずしも OS 側で決める必要はありません。同じアプリケーションを各メーカーのパソコンに移植するのも、高級言語と十分なライブラリがあれば、そう難しくないでしょう。以前の仕様で CPU に Intel 80286 が指定されていた理由は、バイナリレベルでの互換性を実現しようとしており、当時はまだアセンブリ言語でアプリケーションプログラムを書くことが想定されていたためです。BTRON OS 用にアプリケーションを開発するなら C 言語を使うでしょうし、バイナリレベルの互換性なんて元から必要なかったのではないでしょうか?
CEC 仕様 '90 の参考リンク
さて、漫画では次のような順番で、起こった出来事が書かれています。
- トロンプロジェクトから手を引くことを迫った
- 次々と日本メーカーはトロンからの撤退を表明した
- 文部省も教育用PCでのトロン採用を取り下げた
- 一般ユーザー向けOSとしての命運は尽きた
これは内容が間違っているのもそうですが順番が間違っています。正しい順番(2番目と3番目が逆)で内容を訂正すると次のようになります。
- 教育用パソコンのトロン指定の撤回を迫った
- CEC(通産省と文部省)は教育用PCでのトロン指定を取り下げた
- 1年半以上経ってから国内外のメーカーはトロンから撤退しだした
- 一般ユーザー向けOSは発売されて今も販売されている
すでに説明しましたが、米国はトロンプロジェクトから手を引くことを迫ってはいません。教育用パソコンからのトロン指定の撤回(BTRON OS が動かなくてもいいじゃないか)と迫りました。トロンプロジェクトから手を引けと迫られていないのだから、日本メーカーはトロンから撤退する理由がありません。だから2番目に起きたのはメーカーのトロンからの撤退ではなく、教育用パソコンのトロン指定の撤回です。確かにその後にメーカーのトロンから撤退(トロン協会からの脱退)は起こりましたが、それはスーパー301条の制裁候補が発表されてから1年半以上経った後で、むしろ制裁候補が発表された直後はトロン協会への参加は増えています(後述)。そして最後ですが、(教育用パソコンではない)一般ユーザー向けの BTRON OS(「1B」や「超漢字」)は発売され、超漢字は今も販売され続けているので、一般ユーザー向けOSの命運は尽きていなかったというのが史実です。
メーカーのトロンからの撤退(トロン協会からの脱退)の話をもう少し掘り下げます。まず貿易摩擦に影響がありそうなトロンプロジェクト発足時の大手8社は撤退していません。撤退したのは一般会員です。漫画では日本メーカーとなっていますが、トロン協会には米国メーカーも参加しています。教育用パソコンで試作機を開発していたメーカーで1998年2月10日時点で撤退しているのは米国関連企業の日本アイ・ビー・エムと日本ユニバック情報システムだけで、トロンパソコンの試作機の開発していた日本のメーカーは撤退していません。調べていませんが撤退した会社で貿易摩擦の原因になりそうな会社ってどれくらいあるんでしょうね。1年半以上経った後からはメーカーのトロン協会からの脱退が始まっていますが、これはつまり、「トロン指定の撤回」から「トロン協会からの脱退」の間に別の出来事があったということです。その話は一旦置いといて「スーパー301条の制裁候補に指定されたことでトロンが有名になり参加希望企業が急増した」話をしましょう。この話は他でもない、坂村氏が言っていることなのです。

Voice ビジネス特集 夏季増刊号 1989 「スーパー三〇一条顚末記」 坂村健 134ページ
これを見つける前に、私は「米国はトロンプロジェクトから撤退しろなんて言っていないのだから、圧力の直後から日本のメーカーがトロンプロジェクトから次々と撤退するのはおかしい」と考えていました。この点が腑に落ちなかったわけですが、坂村氏が逆に増えたと書いているのを見つけたときは「ほら、やっぱりね」と思いましたよ。そして当時のトロン協会の会員数の変化を、いくつかの確からしい情報(「◯日現在」「◯日時点」と書いてあるものは聞きづてではない可能性が高い)からまとめました(補足: プロジェクトXの書籍版には「最大時に150社を超えた参加企業は、70社にまで激減した。」とある)。なおスーパー301条の制裁候補の発表というのは「1989年版 外国貿易障壁報告書 公表」のことです。各年の外国貿易障壁報告書の一覧はこちら。
- 1988年10月20日現在: 118社 TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版
- ▶ 1989年4月28日: 1989年版 外国貿易障壁報告書 公表(1回目)
- BTRON と CTRON に対しての市場の閉鎖性を懸念
- 1989年11月頃: 140社以上 (TRONWARE Vol.3)
- 1989年11月10日: 145社 (Bit 1991年3月 臨時増刊 スーパーマイクロプロセッサ)
- 1990年1月10日: 142社 (TRONWARE Vol.2)
- 1990年3月10日: 147社 (TRONWARE Vol.4)
- ▶ 1990年3月30日: 1990年版 外国貿易障壁報告書 公表(2回目)
- 主に CTRON に対しての懸念で BTRON の懸念はやわらぐ
- 1990年8月: 142社うち外国系企業25社 (TRONWARE Vol.6)
- 1990年9月: 142社および5団体(電子材料 1991年2月)
- 1990年10月1日: 142社 (Asahiパソコン 1991年2月))
- ▶ 1991年3月末?: 1991年版 外国貿易障壁報告書 公表(3回目)
- CTRON や TRON に関連するその他の事項を注意深く監視
- 1991年6月頃?「現在142社」(2000年のコンピュータ社会を読む)
- 日付は本の出版日。具体的な日付は不明
- 1995年頃: 69社 + 賛助会員5社(トロン協会 ウェブサイト)
- 1991年~1995年の間に減った?
参考: その後の履歴
- トロン協会時代
- 2002年7月30日 正会員 71 社 + 賛助会員7社
- 2006年4月1日 正会員 72 社 + 賛助会員7社
- 2009年11月11日 正会員 53 社 + 賛助会員5社
- 2010年に組み込み用の「T-Engine フォーラム」に統合
- T-Engine フォーラム(2002年6月設立)
- 会員種別の細分化、年会費無料の学術会員が追加
- 2003年6月15日 228社
- 2003年7月28日 284社
- 2003年9月 Microsoft と提携
- 2003年10月2日 318団体 企業 317社 + 学術会員 1団体
- 2004年2月10日 437団体 企業 429社 + 学術会員 8団体
- 2007年3月30日:500団体 企業 436社 + 学術会員 64団体
- 2009年1月31日:392団体 企業 320社 + 学術会員 72団体
- 2011年3月31日:296団体 企業 207社 + 学術会員 89団体
- トロンフォーラムに名称変更
- トロンフォーラム(2015年4月1日)
- 2015年5月1日:211団体 企業 121社 + 学術会員 90団体
- 2025年 11月 30日現在:149団体 企業 70社 + 学術会員 79団体
直前、直後のデータがないので断定はできませんが、会員数は1989年の制裁候補に指定された直後には増えており、1991年から数年後の間に減っている事がわかります。このデータから、「多くのメーカーが貿易摩擦に巻き込まれるのを嫌ってトロンから手を引いた」という説が否定されます。可能性として、外国貿易障壁報告書の1回目の発表時点では、「まだ1回目だから大丈夫」と楽観的に考えて、2回目が発表されてから焦りだして、半年ぐらい経ってからトロン協会からの脱退したのか?とも考えたのですがしたが、(そういう楽観的でノンキな企業があったかもしれませんが)全体的には違うと考えています。考えてみれば1回目の後、米国が何をしてくるのかわからないわけで、2回目の後に脱退するとか「判断が遅い」と言われても仕方ありません。なぜ私が2回目の後に脱退した可能性を考えてしまったのかを思い返すと、プロジェクトXの書籍版に『二年連続のリストアップというアメリカの圧力の前に、制裁を恐れたメーカー各社は完全に腰が引け、次々と「トロン・パソコン」の開発から撤退していった』という文章に引きづられてしまったからかもしれません。制裁を恐れるメーカーなら一年目の時点で腰が引けて撤退していますって。改めて見返した番組では、平成2年(1990年)にアメリカがトロンをスーパー301条の候補から外したと言った後にプロジェクトから企業の撤退が止まらないと言っており、その時に正しく時系列を把握していれば2回目の後に脱退したという違和感に気づけていたかもしれません。ちなみに TRON は 1991年版の外国貿易障壁報告書でも「7. OTHER BARRIERS」として取り上げられており、プロジェクトXなどで明らかにされていない3回目があります。実は三年連続のリストアップなのです。主に CTRON が懸念事項となっていますが、1990年に制裁候補から完全に外されたわけではありません(さすがに1992年版では外されていますが)。それではなぜメーカーはトロン協会から脱退したのでしょうか? 1990年10月から1998年2月までの会員数の情報を見つけられていないので、7年半かけてゆっくり減ったのか、ある時点で突然減ったのかは判断できませんが、注目すべきは1990年頃から1995年頃までの間に何が起こったかです。答えを先に言えば「Windows 3.0 の発売」と、ほぼ同じタイミングの「松下電器の BTRON パソコン発売の断念」と、「CEC 仕様 '90」の発表です。
まず前提として知る必要があるのは、松下電器(の上層部)は BTRON OS を教育用パソコンのための OS と考えていたという事実です。つまり MS-DOS や Windows と競合する一般のパソコン用の OS とは考えていなかったということです。もちろんこれは上層部の話であって、BTRON OS を開発していた現場のチームは違うと思いますし、坂村氏の考えとも一致していません。もし教育現場で普及し、それが一般のパソコン市場にも影響を与えるようになったら考えを変えていたとは思いますが、少なくとも松下電器としては(米国の圧力の前から)「BTRON のマーケットは学校にあり」と考えていたわけです。だから松下電器はトロンパソコンの発売断念を発表した後に、BTRON OS を搭載した教育用パソコン「パナカル ET」を発売したわけです。


田原総一朗のパソコンウォーズ : 90年代のパソコンをプロデュースする男たち 1988年12月 105ページ
教育用パソコンとトロンパソコンは仕様の違う別のパソコンで、トロンパソコンはまだ未完成であることを思い出して下さい。トロンプロジェクトの計画では、この後に専用の32ビットのトロンチップを使ったパソコンの開発(それが本来のトロンパソコン)へと続きます。16 ビットの Intel 80286 用に作られた BTRON OS からの修正は小さくないでしょう。BTRON OS の開発終了は先が見えないし、アプリケーションの開発もこれからです。教育用パソコンの開発は BTRON OS 開発にとっての一定の区切りではあっても、トロンパソコンそのものの実用化へはほど遠いわけで、松下電器が断念するのも無理はありません。松下電器の BTRON パソコンの発売断念(1990年6月4日)は、ほぼ同じタイミング(1990年5月22日)に発売された Windows 3.0 の影響が大きいはずです。
教育用トロンOSの開発に協力した松下電器産業の三木弼一(60)は、坂村教授とは少し違う感想を持っている。
「トロンOSも結局はビル・ゲイツに負けたのです。どこも彼が作ったウィンドウズ3.1にかなわなかった」。政治力だけではなく、技術とビジネスの力で負けた、というのだ。
松下電器がトロンパソコンの発売断念を発表した1ヶ月後、1990年7月3日に CEC は教育用パソコンの最新仕様「CEC 仕様 '90」を発表します。そこには教育用パソコンの OS は指定されていませんでした。CEC は OS を指定しなかった理由を当時に大きく変化しつつある OS をこの段階で決めてしまうのは時期早々であると考えからだと言っており、米国からの圧力ではないとも言っています。つまりは学校で学んだものと卒業してから使う OS は全然違うかもしれないじゃないかということです。実際、1995年に Windows 95 が発売され、2001年には Windows XP が発売されました。1993年からの中学校の教育課程で学んだ人が社会に出る頃です。

たしかな目 : 国民生活センターの暮らしと商品テストの情報誌 (61) 1991年3-4月号 86ページ
高井専務理事 = CEC の 高井敏夫 専務理事
取材での冒頭、高井専務理事は、「結論から言うと、CEC仕様の策定と、貿易摩擦や日米構造協議は全く関係ない。最初から外資系の企業も会員になっていたし、CEC仕様は内部の議論によってのみ決まってきたものです」と強調した。
「先端技術の進化の速度は速い。ここでOSレベルで仕様を決めてしまうのはいかがなものか。互換性といっても、やがては今あるどんなOSでも使えるようなパソコンが一般化するかもしれない」
「仮にトロンを採用したとして、教育界と産業界・実社会とで、普及にタイムラグ が生じたらどうなるか。学校で覚えたパソコン操作法が、社会に出たときに役に立たないことになりはしないか」
「それがトロンを放棄した、唯一最大の理由です」
松下電器がトロンパソコンの発売を断念するということは、BTRON OS の開発中止とほぼ同じ意味で、他のメーカーにとっては BTRON OS の 供給元がなくなるということです。もちろん BTRON OS は誰でも開発できるので、各メーカーで独自に BTRON OS の開発を継続していくことは可能です。しかしこれから新たに OS 開発に乗り出すということですから、大きな後退であることに違いありません。開発コストもかかりますし、いつ完成するかもわかりません。すでに Windows が選択肢となりつつあります。それならば Microsoft から Windows を供給してもらったほうがメーカーとしての利益もでると考えるのは自然です。教育用パソコン仕様策定での BTRON 連合は、対 NEC として集まったようなもので、松下電器以外のメーカーは BTRON 開発に本気ではなかったんです。AX パソコンベースの教育用パソコンを開発した4社は、BTRON OS への対応が必須でなくなったために発売しなかったようです。そして CEC が教育用パソコンの仕様から OS の指定をやめた後から、メーカーのトロン協会からの脱退が始まったと推測できます。米国からトロンプロジェクトから手を引けと迫られてないのに1年半後に撤退を開始したと考えるよりも、Windows 3.0 の発売をきっかけに松下電器が BTRON パソコンの発売を断念し、教育用パソコンでも必須ではなくなったことで、多くのメーカーが BTRON OS は普及しないだろうなと考えて撤退したと考えるほうが自然ではないでしょうか? そして ITRON に期待してた残り半数のメーカーは残りました。ちなみに CEC が BTRON OS を採用するということで1989年2月に設立された「BTRON ソフトウェア懇談会」からも1990年頃に多くの企業が撤退したようです。理由は同じで BTRON OS 向けにソフトウェアを開発する気がなくなったんでしょうね。おそらくすぐに「BTRON ソフトウェア懇談会」は廃止され、その後にパーソナルメディアが1991年に「BTRON ソフトウェア開発機構」を設立します。その後の情報は調べても見つからないので、どれだけの企業が参加したのかは不明です。
残念ながら BTRON OS はパソコンメーカーが採用したいと思う OS ではなく、フェアな競争では Windows に勝てず、通産省が教育用パソコンの OS として推し進めるしか普及する道はなかったということです。松下電器の BTRON パソコン発売の断念は、トロンプロジェクトからの裏切りのように思えるかもしれませんが、トロンプロジェクトが行っていた BTRON 仕様書の作成できるまで膨大な投資を行って研究開発を行っていたのだから十分道義を果たしていると思います。そして松下電器の後を引き継ぎパーソナルメディア社から、トロンパソコンや PC 互換機用の BTRON OS が発売されました。大きく後退したのは間違いありませんが、ここでトロンの一般ユーザー向け OS としての命運は尽きたわけではありません。トロン OS は発売されたのに、それを買わなかったのは当時の日本人です。トロンパソコンが普及しなかったのを米国のせいにする理由はゼロではありませんが、ほとんどは日本国内の問題です。
マスコミがトロンを悪者にし、潰した
この記事で、私は「トロンプロジェクトは潰れていません」と言っています。パソコン用トロン OS に関しては Windows に負けたと言っていますが、元々トロンプロジェクトは組み込み用 OS の開発から始まったプロジェクトで、途中で潰されることもなく、今も組み込み用 OS を開発し続けています。最近に T-Kernel などからトロンを知った人(2000年以前を知らない人)は別として、なぜ多くの人がトロンは終わったプロジェクトだと思っているのでしょうか? それはマスコミがトロンを終わったプロジェクトかのように報道したからです。だから「マスコミが悪い」わけです。そしてマスコミと同じように、漫画インベスターZもトロンが潰れたかのように描いています。だから、この漫画の読者がトロンは潰れたと思っているわけです。坂村氏は「マスコミが酷かった。マスコミのせいで風評被害になった。」と言っています。「風評被害」の言葉の意味を説明するまでもないかもしれませんが、根拠のない噂やデマ、誤った情報が広まることによって、評価が損なわれたり損失を被ったりすることです。つまりマスコミがデマでトロンプロジェクトの評価を下げたのです。トロンプロジェクトの評価が下がるとトロン協会からの会員の脱退が増えてしまうでしょう。つまり会員から集める会費(トロンプロジェクトの運営費)が少なくなってしまうということです。
トロンプロジェクトは産学プロジェクトなので日本の政府は関わっていません。日本のものではないのだから、「大切な技術」を日本の政府が放棄することになるわけがありません。日本政府が関わっていたのは教育用パソコンの開発ですが、元よりトロンプロジェクトは教育用パソコンとは無関係です。トロンプロジェクトは坂村氏によって発足され、メーカーが開発しているプロジェクトです。つまり技術を持っていたのは坂村氏とメーカー(パソコンに限れば松下電器)ということになります。松下電器にとっては「大切な技術」を放棄したことになるかもしれませんが、それは松下電器が自ら選んだことです。他のメーカーは様子見でしかなくトロンパソコンには本格的に参入しませんでした。だからといってトロンプロジェクトが「大切な技術」を手放したわけではなく、今も BTRON OS 仕様を世界中に公開しています。パーソナルメディアが松下電器の後を引き継ぎ、BTRON OS 仕様を採用した「B-right」を開発し、セイコーの BrainPad TiPO で採用されたこともあったり、DOS/V 用の「B-right/V」開発し、それを採用した「超漢字」が発売されていますが、その他の日本を含む世界中のメーカーは BTRON に興味がないというのが現実です。もし興味があるなら今からでも採用してるでしょう?
一連の騒動にマスコミが関係しているのは事実でしょう。マスコミは確かに日米貿易摩擦の問題を大々的に報じており、ハンマーで叩き壊す映像を何度もテレビで流していたかもしれません。しかし、こんなあからさまなパフォーマンスに震え上がるわけがないでしょう? 馬鹿らしい。おそらく漫画の著者はマスコミが関係していることまではわかっても、その理由がわからなかったのだと思います。そしてこんな適当な話で誤魔化したのだと思います。米国を悪者にしたいという筋書きが透けて見えます。
当時、トロンパソコンは未完成で輸出も何もしていませんでした。だから貿易摩擦の原因になるはずがありませんが、マスコミはトロンプロジェクトが貿易摩擦の原因になっているかのように扱いました。坂村氏はマスコミから「米国企業の参入を拒んでいるんですか?」などと聞かれて「それは違う」と何度も説明していたようですが、おそらくそのやり取りにうんざりしていたことでしょう。米国企業の参入を拒んでいたのは日本政府が関わっている教育用パソコンの方です。なぜか坂村氏は教育用パソコンの話をしないわけですが、おそらくトロンプロジェクトとは無関係の教育用パソコンの詳細を坂村氏は知らないからでしょう。スーパー301条の制裁候補に指定された時点では、教育用パソコンは トロン OS への対応が必須だったため、(トロンプロジェクト自体は外国企業の参入を拒んでいませんが)教育用パソコンは米国企業の参入を拒んでいる状態でした。米国関連企業(日本アイ・ビー・エムと日本ユニバック情報システム)はトロンパソコンを開発するということで参入していましたが、その他のトロンパソコンを作ろうと思っていない会社、Apple や Unix を開発していた会社などは参入できないでしょう。CPU が異なるコンピュータでは松下電器が開発した BTRON OS は動きませんし、今から BTRON OS を開発しろっていうのも無茶苦茶な話です。
スーパー301条の制裁候補に指定された理由を、坂村氏はマスコミによる誤った報道が原因で米国が誤解してしまったからだと考え、その誤解を解くために奔走させられたようです。教育用パソコンのトロン OS 指定が撤回されたとき、日経新聞はそれを「トロン採用断念」という間違った見出し(断念したのではなく必須でなくなっただけ)で報道しました。このような見出しをつけられると、トロン採用の芽はなくなったと考えてしまうメーカーもあります。それ以外にもマスコミはトロンプロジェクトが潰れたかのような報道をしたのでしょう。つまり、マスコミがトロンを貿易摩擦の原因だとか放送したせいで「風評被害になって」メーカーがトロンプロジェクトは潰れたと誤解し去っていった(と坂村氏が考えている)ということです。マスコミは、うまく行ってるときは持ち上げておいておいて、いざ問題が出たら手のひらを返して叩き始めるというのは今も変わりませんよね? トロンプロジェクトは国家プロジェクトではなく製品を売っているわけでもないので、活動の原資はトロン協会の会費です。マスコミの風評被害で会員数が減るのはトロンプロジェクトにとって死活問題なわけです。マスコミが米国労働者の怒りを放送したことで「アメリカは本気で怒っている」と日本政府や輸出企業が震え上がってメーカーが逃げ出したとかそんな馬鹿げた話ではありませんよ。すでに説明した通り、米国の圧力から1年半以上経ってからメーカーが脱退を始めたんですから。
坂村氏自身もまたマスコミからの中途半端な情報に惑わされた可能性があります。スーパー301条の制裁候補の発表(1989年版 外国貿易障壁報告書)は1989年4月28日に発表されました。ゴールデンウィークの休暇中、坂村氏はそのことを長野県の山小屋(軽井沢?)で、試験放送中の NHK の BS チャンネルで初めて聞いたようです。携帯電話は当時もあったようですが普及率は0.4%程度なので持っておらず(ポケベルは持っていたと思います)、素早い情報の入手は不可能だったと考えられます。坂村氏は大学に飛んで帰ると、新聞社の取材申し込みの電話が鳴り響いていたそうです。日経新聞の4月30日(日)の朝刊には、坂村氏のコメントが掲載されており、同紙同日の別のページには制裁候補に指定された理由が書いてあるのですが「日本政府による教育用パソコン市場の閉鎖性」が問題であるとは書かれていないんですよね。これでは坂村氏はトロンプロジェクト自体が制裁候補に指定されたと勘違いしてしまうでしょう。

日本経済新聞 1989年4月30日 89年USTR貿易障壁報告 対日分の要旨 政府調達、外国社を差別 特許や商標面にも不満
備考 「教育用パソコン市場の閉鎖性」が問題であるとは書かれていない

日本経済新聞 1989年4月30日 産業界、困惑と反発
備考 明らかにトロンプロジェクトの話をしている(教育用パソコンの話ではない)
坂村氏は「濡れ衣です。トロンは世界中のどの社も自由に作れます。」とか「事実誤認だ。トロン協会には米国企業も参加している。」とか反論しているわけですが、それはトロンプロジェクトの話であって教育用パソコン市場の話ではないわけです。もしマスコミがトロンプロジェクトが制裁候補に指定されたかのような話をして坂村氏が勘違いしたならば、トロン協会の的はずれな反論にも納得がいきます。つまり「米国は正しく理解していたが、マスコミによって米国の指摘が歪められ、坂村氏に正しく伝わっていなかった」ということです。もちろん米国側が正しく情報を伝えていなかった可能性も考えられますが。実はこのマスコミが悪いという話は「Voice ビジネス特集 夏季増刊号 1989」の「スーパー三〇一条顚末記」でも述べられています。ともかく、米国はトロンを名指ししたわけではなく、トロンプロジェクトに関連するものとして教育用パソコン市場の閉鎖性を指摘したのに、それが(今も)誤解されているわけです。スーパー301条の件において、トロンプロジェクトは関係ありませんが、教育用パソコンには関係あります。よく調べればわかることなのですが、誰もそれに気づいていないのか、そのことを指摘している人が(ほとんど)いないのが不思議です。
漫画では「輸出制限といった貿易のルール違反を大国アメリカがするはずもないのに」と書いています。用語の使い方が少し気になっていて、米国がスーパー301条の制裁としてやるのは「(日本に対しての)輸出制限」ではなく「(米国への)輸入制限」のはずです。関税をかけたりして日本製品が米国で売れづらくするわけです。この文章の前に「日本の政府や輸出企業が震え上がった」とあるので、(日本の)「輸出企業」に輸出しづらくなるように制限するから「輸出制限」と書いてしまっただけかな?とも考えたのですが、その後の「貿易のルール違反」が気になります。スーパー301条は問題が解決しなければ制裁するものなので「大国アメリカはするはず」なんです。なんで「するはずもない」なんて書いているのか不思議でしたが、同じ時期に問題になった COCOM(ココム)規制と混同しているのではないかと考えました。ココム規制とは共産主義国への戦略物資や技術(ようするに戦争の道具)の輸出を制限するために定めた「対共産圏輸出統制委員会」の規制で、ソ連など特定の国に対して輸出制限が行われていました。もちろん日本は共産主義国ではないので輸出規制の直接の対象国ではありませんが、一部の軍事転用が懸念されるソフトウェア技術の輸出(例えば DECUS の一部)が制限されたものがありました。またココム規制に参加していた日本企業がソ連に技術を流出させた(1987年の東芝機械ココム違反事件)として政治問題に発展していました。ココム規制は「軍事転用が可能な技術」の(米国からの)輸出制限なので、なんでも輸出制限できるものではありません。また輸入制限(日本から米国への輸出制限)をするものでもありません。ここで「ココム規制としてはできるはずがない制限」を米国がやろうとしたと勘違いすればと「貿易のルール違反」という発想になるのかなとも思いました。ココム規制に巻き込まれて米国の最先端技術を手に入れられないのは困りますが、米国の技術に頼らない(国産技術を開発する)のなら輸出制限されても困らないですよね?「輸出制限といった貿易のルール違反」とは何の話をしているのか、何が言いたいのかよくわかりません。
貿易のルール違反をしたのはむしろ日本です。日本は原則として「開かれた貿易」を選んでおり国内市場への参加を広く認めています。その一つが GATT の「政府調達協定」です。これは各国政府が行う物品やサービスの調達(繰り返しますが「政府の調達」の話です)において、外国企業に対しても自国企業と同様に公正な競争の機会を与えることを目的とした国際協定です。つまり教育用パソコン市場に対して、外国企業にも公正な競争の機会を与えなければならないということです。「教育用パソコンに BTRON OS を指定しても、BTRON OS 自体は外国企業でも開発できるのだから問題ない」という考えも一理ありますが、教育用パソコンの導入までの時間を考えると現実的には松下電器から BTRON OS を買うしか手がないわけで、そもそも BTRON OS を開発したいと思っていない企業(NEC も含む)にとっては、日本政府による教育用パソコン市場の不公正な独占にしか見えないわけです。米国も政府調達要件に POSIX を指定したではないかという反論もあるとは思いますが、POSIX に準拠した OS はすでに日本も開発していたので、日本企業を排除することにはなりません。ちなみに米国政府が Unix ではなく POSIX を指定したのは、Unix 限定だと他の企業を排除してしまうからです。米国政府はフェアな競争のために POSIX を選び、その結果 Microsoft は Windows を POSIX 準拠にして乗り越えてしまいました。OS は政府が決めるのではなく市場のフェアな競争で選ばれるべきものであるというのが米国の考えです。そういう話もあって「CEC 仕様 '90」の発表のときは、この仕様はガイドラインであり、必ず CEC 仕様を満たした教育用パソコンを作らなければいけないということではなく、学校側も導入するパソコンは自由に決めて良いと、強制力はないことを何度もくり返し言って、米国企業を差別するものではないと明確にしています。
結局のところ、「トロンを人質に差し出した」に相当することは何もありません。トロンの何かを米国に差し出したりしていませんし、BTRON OS を採用した教育用パソコンは発売されましたし、今も BTRON OS は発売されています。もしメーカーが BTRON OS を使いたいと思っていれば、BTRON OS を採用した教育用パソコンはいくつも作られていたでしょう。採用しようと思えば採用できた BTRON を採用しなかったということは、メーカーは BTRON を自ら手放したということです。これはパソコン用の BTRON の話であり教育用パソコンとは関係ない ITRON には米国の圧力はまったくなく、メーカーは ITRON を手放しませんでした。
さて、漫画にはペリーらしき人物や黒船らしき船が登場しています。この話はまさにペリーの黒船来航の話と同じで、日本は教育用パソコン市場を鎖国していて、米国は開国を迫ったわけです。もしトロンが世界を席巻するというなら広い世界で戦わなければならないわけで、鎖国で小さな島国に閉じこもっていても世界を席巻などできるはずがありません。それなら鎖国を解いても問題ないはずですよね? ところで漫画の著者はペリーの黒船来航についてなにか勘違いしてませんかね? 刀や鉄砲を持った武士が泣いていますが、これは何を表しているんでしょうか? ペリーが黒船で攻めてきて、武士が日本を守ろうと戦ったが負けてしまい、日本は脅されて恐れおののき、望まずに開国してしまった、くやしい、なんて話は史実ではありませんが、なんで偉そうに構えるペリーに幕府が何かを差し出すような絵を描いてしまったんでしょうか?
基本ソフトを持たないという選択
マスコミのハンマー叩きのパフォーマンス映像を無視できずに震え上がるメーカーなんていないでしょう。むしろ呆れる人が大半だと思います。YouTube で探したらそれらしき動画が見つかったので載せておきます(日本車を壊すアメリカの労働者 『日米貿易摩擦』)。こんなのことをしても何かが変わるはずがないのに、もったいないですね。まぁ、売れない原因が売れない製品を作る米国メーカーにあると悟らせないための、不満を持つ労働者のためのガス抜きイベントでしょう。当時のテレビでどんな内容が放送されたのか記憶にありませんが、不安を煽ったり国益を考えない報道をしたのだろうということは否定しません。現在、マスゴミと言われたり偏向報道でオールドメディアと揶揄されてるとおりです。
メーカー間の競争の話を日本 vs 米国の話にするから、話がおかしな方向に行くわけですが、考えても見て下さい。OS を Microsoft に握られているのは米国のメーカーも同じです。OS を握られているから利益を上げられないというなら、米国のメーカーだって同じはずです。仮に松下電器の OS が普及したとしても、その場合 OS を握るのが松下電器に変わるだけで構図はたいして変わりません。漫画では「日本は全力でトロンを守るべきだった」と言っていますが、それでは米国は全力で Windows を守っていたでしょうか? 米国政府は Microsoft を何回も独占禁止法違反で訴えていますよね? 他にも UNIX を開発していた AT&T も電話事業に関する独占問題により1984年に会社分割が行われるまで UNIX の商業展開が行えませんでした。米国は Microsoft も AT&T も守ってないですよ。だから日本 vs 米国の話にして、米国は米国企業を守っていると考えているから話がおかしくなるわけです。
トロンはメーカーが OS を買わずに自社で開発できるようにするためのものなので、自社で OS を開発していれば、製品に組み込むときに OS 代を払う必要はなくなります。しかし、言うまでもないと思いますが、何かを自社開発したからといってメーカーの利益が上がるとは限りません。自社開発では開発コストがかかるわけで、買ったほうが利益を上げられる場合もあります。そもそも国内メーカーの家電製品であっても、その中身の部品の多くは外国製でしょう? 中身が外国製でも最終組み立てが日本ならメイド・イン・ジャパンを名乗れますし、国産牛であっても日本での飼育が一番長ければ外国生まれでもかまいません。今どき完全国産なんてものはほとんどありません。自社で OS を持ったほうが利益を上げられると思うのであれば、作ればいいんですよ。BTRON OS の開発は禁止されていません。ただし BTRON OS は1990年代のための仕様で古く、作り直しに近い修正を行わなければ使い物にならないでしょう。そうしてトロンを復活させたとしてもトロンという名前を再利用しただけで中身は互換性のない全くの別物です。
もしメーカーの利益が重要というなら、BTRON OS を復活させるよりも Linux を採用したほうが良いと思います。Microsoft にお金を払う必要はありませんし、オープンソースで動作する OS もあるので開発費も大幅に減らせるでしょう。アプリケーションも豊富に揃っています。だから、本当に Linux 搭載パソコンを販売すればいいと思うのですが、一般向けの Linux 標準インストールパソコンをほとんど見かけないのは、販売しても売れないかサポートなどでコストがかかるのでしょうね。メーカーからすれば Windows パソコンを作らないという選択肢はないわけで、Linux パソコンは追加の選択肢でしかなく、作らないほうがコストがからないのでしょう。メーカーは「基本ソフトを持たない弱さに苦しみ続けている」のではなく、基本ソフトを持つと苦しむことがわかっているから基本ソフトを持たないわけです。
国家戦略ならあったのではないでしょうか? 教育用パソコンに未完成の BTRON OS を指定して、他の OS を排除し、BTRON OS を育てて、ゆくゆくは一般のパソコンでも BTRON OS を普及させるとという戦略が。あまりにもお粗末な戦略で国内からの反対意見で失敗に終わりましたが。他にも多くのコンピュータメーカーが参加した、通産省主動した国家プロジェクト、第五世代コンピュータの開発やシグマプロジェクトがあったではないですか? こちらも失敗に終わりましたが。今では日本政府が舵取りをしだしたら、その業界は崩壊するなんてことも言われていますね。
将来 IT 時代がくるなんて程度のことは、当時の誰でも予想できていました。ただしソフトウェアの重要性というか、ソフトウェアそのものを理解できていなかったように思えます。それはトロンプロジェクトも同じです。シグマプロジェクトではソフトウェア開発の生産性を上げるために「ソフトウェア部品を組み合わせるだけで開発できる」ように部品を標準化しようとしましたが、それはソフトウェア開発を製造業に見立てて「部品を組み立てる作業」に変えるという発想でした。しかし、実際のソフトウェア開発は製造業ではなく、創造性が必要な研究開発であり、設計作業であり、サービス産業です。シグマプロジェクトが失敗したのはソフトウェアの部品化という前提が間違っていたわけです。トロンプロジェクトでも同じ間違いをしており、OS を部品にしようとしていました。最初に正解の OS の仕様を作り、あとはそれを製造するだけという考え方です。しかし、実際のパソコン用 OS を見てもわかるように OS の仕様は変化し続けていくものです。完璧な仕様なんてありませんし、変化が容易なソフトウェア開発に製造業の考え方を持ち込んで最初に完璧なものを作ろうと考えれば、変化を前提としたソフトウェア開発に負けるのは当然です。坂村氏自身は創造性のある仕様策定をしていたかもしれませんが、実際の OS の開発者はその仕様を実装するだけ。これでは「米国の発想のコンピュータを真似して開発する」が、「坂村氏の発想のコンピュータを真似して開発する」に変わっただけです。機械が相手の ITRON はそれで十分だったかもしれませんが、人間が相手の BTRON には通用しませんでした。
日本が守るべきは「ソフトウェア」ではなく「ソフトウェア開発力」です。「モノ」ではなく「モノづくり」の力。トロンを守るのではなくトロンのようなものを開発できるソフトウェア開発者を守る(育てる)。坂村氏がいなくても同じ事ができる人を育てるということです。トロンを守ってもトロンしか生き残れませんが、トロンを作れるような人を育てれば、トロンでもその先にある新たなシステムだって作れたでしょう。「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」というやつです。実際の所、もはや OS だけでは十分な利益を生み出せない時代になっています。それにいち早く気づいた Microsoft は早くにクラウドサービスに軸を移動しており、最近では AI にも力を入れています。トロンプロジェクトでもそうですが、世界を考えずに日本独自で仕様を作るという考え方にも問題があります。日本で独自に標準規格を考えても、世界ですでに同等の標準規格があれば、日本から標準規格を提案してもそれが採用されることはないでしょう。せいぜい提案した内容の一部が世界標準規格に組み込まれる程度です。日本はガラケーで一度は技術的には世界最先端を達成できましたが、そこからの変化ができず、すぐに国際的なスマホに追い抜かれてしまいました。今からスマホの OS にトロンを使ったとしても、クラウドサービスがなければ Android や iPhone に太刀打ちできないでしょう。形のないソフトウェアや、漫画、アニメ、ゲームなどの知的財産を軽視し、形のある物しか「モノづくり」としてしか見ていなかったことが、日本が IT で世界をリードできなかった原因だと私は考えます。
スマートフォン用 OS でも負けた日本
漫画では「トロンが一般的OSの地位を確立していればITにおける現在の日本の立ち位置は全く違うものになっていた」と言っていますが、日本は2000年代からおよそ10年間、トロンが携帯電話 OS の地位を確立していました。それでもスマホに負け、携帯電話 OS の地位は奪われました。この前例に当てはめると、トロンが一般的OSの地位を確立していたとしても、いずれその地位は奪われていたと予想できます。
もうスマホしか知らない世代になっているので少し説明すると、携帯電話自体は1980年代後半には誕生しています。最初は電話ができるだけでのもので、大きく重い肩掛け式でしたが徐々に小型化され、液晶画面(初期の頃は縦数行、横十数文字で画像は表示不可能)がつき電話帳機能や簡易的なメール機能などが追加されていきました。携帯電話は1990年代後半頃に広く普及し、1999年に NTT ドコモがiモードサービスを始めます。これは携帯電話からインターネットに接続可能するもので、この頃から携帯電話の機能は高機能化していきます。i モードではメールの送受信ができたり、ブラウザを使ってウェブサイトを見ることができ、アプリをインストールしてゲームなどもできました。これだけを聞くと今のスマホと同じように思えるかもしれませんが、画面は小さく、メールで送信可能な文字数は限られ、ウェブサイトは専用に作られたものしか見られず(一部の特殊な機種を除く)、アプリでできることは限られ、ゲームはファミコンかせいぜいスーファミレベルでした。一部の人は「これはもうパソコンのようなものだ」などと言っていたようですが、パソコンの代わりとして使うのは到底無理でした。通信料(パケット代)は今よりもはるかに高額で、インターネット接続端末としてはほとんど使い物にならず、キャリアが用意していた「公式サイト」にアクセスするための端末でした。このような1990後半からの高機能化した携帯電話はフィーチャーフォン(世界的な呼称)と呼ばれ、2000年代後半からの日本での独自進化(おサイフケータイ、ワンセグ、赤外線通信など)したものは、ガラパゴス諸島での生物の独自に進化になぞらえてガラパゴス携帯(通称ガラケー)と呼ばれています。国外でもフィーチャーフォンは高機能化していきますが、2007年の iPhone の登場でスマートフォンへと進化していきます。日本ではガラケーが便利だったため、スマートフォンへの移行が数年遅れました。
ガラケーで使われていたトロン OS は組み込み用の ITRON 仕様です。元々が電話しかできない携帯電話に組み込まれた OS と考えれば ITRON 仕様の OS の採用は順当な進化でしょう。スマホで使われているのはパソコン用の OS がベースですが、当時の携帯電話は性能が低くパソコン用 OS をベースとするのは不可能です。iモードサービスが登場した頃、携帯電話でインターネットに接続するというのは最先端で、ガラケー特有の機能を加えると当時の日本の携帯電話の技術は優れていました。しかし長続きはしませんでした。これはトロンが組み込み用 OS としては成功したが、パソコン用 OS としては失敗した構図と同じと言えます。日本のガラケー技術が海外に広まらなかったかについてはこの記事の対象外ですが、発想が日本独自で海外でのニーズを捉えられておらず通用しなかったと考えられます。(日本製の家電製品は輸出できていても)トロンプロジェクト自身が世界に羽ばたけない理由と同じと言えます。日本人は製造技術を進化させるのは得意でも、新しい製品やサービスを生み出すのが苦手なのでしょう。ガラケーの惨状を見る限り、日本が IT で世界をリードしていたとは考えられません。そもそも「日本」と言っている時点でおかしいですよ。世界をリードするのは特定の会社です。かつて日本のパソコンで大きなシェアを持っていた NEC のような会社です。日本で足並みをそろえましょうとか言って教育用パソコンを BTRON OS 限定にして、NEC の頑張りを無駄にするような「出る杭は打たれる」をやっているから、日本には Microsoft や Apple や Google といった会社が生まれないのでしょうね。
もし、トロンがパソコン用 OS の地位を確立していたとしても、10年程度日本で使われていただけで、結局は Windows、macOS、Linux に負けていたと思われます。奇遇なことに10年という期間は BTRON OS が Windows へ挑戦した期間と一致しており、そこが独自で頑張れる限界なのかもしれません。仕様を共通にして各メーカーから似たよう機種を作っているだけでは、仕様を大きく超える新しいものは作れません。これはトロンプロジェクトのコンセプト自体の性質です。標準化は技術の進化が落ち着き差別化できなくなってからやるもので、最初からやると競争が無くなってしまい進化もできなくなってしまいます。坂村氏は中身の作り方(製造方法)は自由だから競争があると主張していましたが、競争が必要なのは仕様そのものです。トロンプロジェクトは OS の仕様を作るのではなく、最初から OS を作るべきだったのでしょう。仕様を作りたいなら、作った OS の仕様を仕様書として公開すればよいだけです。T-Kernel が今それをやっています。まあ、こういう話をしても、そもそもこの漫画はトロンを OS のことだと勘違いした前提での考察なので全てが的外れでしかないわけですが。もしトロンが世界に広まっていれば、ビルゲイツや米国企業がトロン仕様の優れた OS や製品を開発して、米国が IT で世界をリードしていたんじゃないでしょうかね。日本が技術を独占しているわけではなく、タダで使えてお金儲けしていいんだから最高じゃん?
おまけ: BTRONの発売とWindowsへの挑戦
漫画では1990年以降の話は Windows 95 が登場するぐらいしか出てきません。ページ数の関係で仕方なかったのかもしれませんが、もう一つの考えられる理由はインベスターZが参考にしたと思われる番組、プロジェクトXで1990年以降の話が登場しないためです。プロジェクトXではトロンプロジェクトが米国の圧力で潰され、そして突如登場した Windows 95 によってパソコンの市場を失ったという話に演出されていました。実際にはパソコンの市場は1980年代の後半には MS-DOS に奪われており、互換性のある Windows がそれを継承しました。そのパソコン市場に、後発参入した BTRON は 1990年代に発売され、およそ10年以上にわたって Windows に戦いを挑み続けました。結果は言うまでもなく惨敗なのですが、教育用パソコンの BTRON OS 指定の撤回(1990年)で、一般ユーザー向け OS としての命運が尽きたわけではないことを説明するために、少しだけこの話をします。
松下電器が BTRON パソコンを断念した後、BTRON は後を引き継いだパーソナルメディア社から発売されました。あまり聞いたことがない会社だと思いますが、パーソナルメディア社は1980年に設立された会社で、松下電器が BTRON OS の研究開発を始める時に、開発チームが OS 開発に慣れておらず心もとないからと、坂村氏から紹介されたトロンプロジェクトに初期の頃から関わっている会社です。その中の一人、松為彰氏は1984年3月、トロンプロジェクトの発足前に「マイクロプロセッサ用標準リアルタイムオペレーティングシステム原案」で、坂村氏と共同で論文を発表しています。
パーソナルメディアが BTRON パソコン 電房具「1B シリーズ」を発売したのは1991年12月です。これは BTRON OS が組み込まれたパソコンで OS 単体の発売ではありません。パソコンは松下電器の Panacom M がベースとなっており、富士通の FMR-50 シリーズの互換機です(PC 互換機ではありません)。ようするに松下電器が研究開発していた BTRON パソコン(および教育用パソコンのパナカル ET)を引き継いだものです。その後、1994年に PC 互換機用の BTRON OS を発売しました。次に1990年から2001年までに発売された BTRON パソコンと BTRON OS、そして Windows の代表的な機種やバージョンを紹介します。教育用パソコンのパナカル ET は一般市場での発売ではないので無視するとして、このように1991年から2001年頃までの10年間、Windows に挑み続けていることがわかると思います。
| BTRON | 一般向け GUI OS | ビジネス向け GUI OS | |
|---|---|---|---|
| 198x | Windows 1.x - 2.x | OS/2 1.1 (1988) | |
| 1990 | パナカル ET(教育用パソコン) | Windows 3.0 | |
| 1991 | 1B/note(BTRON パソコン) | ||
| 1992 | 1B/desktop(BTRON パソコン) | Windows 3.1 | |
| 1993 | Windows NT 3.1 | ||
| 1994 | 1B/V1 | Windows NT 3.5 | |
| 1995 | 1B/V2 | Windows 95 | |
| 1996 | 1B/V3 | Windows NT 4.0 | |
| 1997 | |||
| 1998 | B-right/V | Windows 98 | |
| 1999 | 超漢字 | ||
| 2000 | 超漢字2 | Windows Me | Windows 2000 |
| 2001 | 超漢字3、超漢字4 | 一本化 ➡ | Windows XP |
BTRON の Windows への挑戦はパソコンの販売から始まりました。BTRON パソコンは1991年に発売されましたが、BTRON のためだけに 40 万円以上もする新しいパソコンを買う人は少なかったでしょう。PC 互換機で日本語を表示するソフトウェア技術「DOS/V」の登場により、1990年以降、日本でも PC 互換機が主流になっていきました。その流れに対応する形で、1994年に PC 互換機用の BTRON OS「1B/V1」が発売されました。しかしこの時点ではまだ(PC 互換機ではない)PC-98 シリーズのシェアが高く売上は伸びなかったと思われます。逆に言えば PC-98 版と PC 互換機版の両方(他にも FM TOWNS 用などがありました)の Windows を開発していた Microsoft は強かったということです。ちなみに 日本で PC 互換機が PC-98 のシェアを逆転したのは1996年頃と言われており、NEC も1997年に PC98-NX シリーズを発売し PC 互換機の軍門に下りました。PC-98 版の Windows Me は発売されませんでしたが、PC-98 版の Windows 2000 は発売されました。Windows がインストールされていればどのパソコンでも同じ Windows アプリが使えました。専用のトロンチップを使う BTRON は、ワークステーションの形で計画されていましたが主流にはなれませんでした。1998年に32ビット化した BTRON OS「B-right/V」を発売しました。OS の32ビット化という点では BTRON は Windows よりも遅れていました。
すでに説明している通り、Windows が躍進するきっかけは、パソコン用 OS 市場を支配した1990年前半までの MS-DOS 時代にあります。この時代に多くの MS-DOS 用アプリケーションが誕生しました。GUI は使い勝手を向上させますが、ユーザーが使うのはアプリケーションです。坂村氏はアプリケーションはいくら数が多くとも本当に必要なものは少なく、新しい機能に対応していない古いアプリケーションはいずれ作り直されるから重要ではないと考えていたようですが、ユーザーが移行を考えるその瞬間に、一つでも使っているアプリケーションが新しいパソコンで動かなければ躊躇するものです。ゲームのように作り直されることがほぼ無いアプリケーションもあります。長い目で見れば作り直されるのは事実ですが、互換性が必要なのは、作り直されるまでの時間稼ぎです。
互換性がなくても新しい環境への移行が行われる場合もあります。例えばレコードから CD、ファミコンからスーパーファミコンへの移行です。互換性のない環境に乗り換える理由は、新しく発売される音楽やゲームソフトが新しい環境でしか使えないためです。もちろん CD や スーパーファミコンの方が技術的に優れているというのも理由ですが、音楽やゲームがなければ買いません。もし BTRON だけでしか動かない「誰もが欲しいと思うビックタイトル」があれば、BTRON を買う人がいたかもしれませんが、そのようなものはありませんでした。なければ OS 開発メーカーが自分たちでアプリケーションを作るしかありませんが、OS の仕様を作るトロンプロジェクトに比べ、OS を開発・販売するパーソナルメディアの作業がどれだけ大変なことであるかに気づくと思います。Microsoft はビジネスユーザー向けに Office ソフトを作り、ソフトウェア開発のための Visual Studio を作り、業務システム用のデータベースサーバーとして SQL Server を作り、インターネット時代にすばやく対応しブラウザを作りました。超漢字にもこれらに相当するアプリケーションはありますが、デモアプリと言われても仕方ない程度の簡易機能しかありません。
Microsoft が IBM と共同で開発していた OS/2 は完全なマルチタスクを実現しており、1988年の OS/2 1.1 から GUI を備えていました。OS/2 は安定性が高く、協調型マルチタスクの Windows 3.x よりも技術的には優れていましたが、技術的に優れた OS/2 ではなく、MS-DOS アプリとの互換性が高い Windows 3.0 がヒットしました。Windows 9x は MS-DOS アプリとの互換性のために安定性は低いものでしたが、使いやすさを大きく改善し、ゲームやマルチメディアに対応する機能(DirextX など)を強化するなど、MS-DOS の世界で存在していたアプリケーションを、Windows の世界で実現できるように改良を推し進めました。その裏で開発していた Windows NT はビジネス向けの機能を優先しており高い安定性を実現した代わりに重かったため、一般向けに普及するまで数年を要しました。Windows 9x は 2001年に Windows XP が発売されるまでのつなぎとして重要な役目を果たしました。Windows は特定のバージョンが強かったと言うよりも、過去との互換性、プラットフォームとしてユーザーの資産を大切にしてきたこととユーザーの意見を OS に反映させたことで選ばれ続けてきました。
1999年、パーソナルメディアは B-right/V をベースに使用した「超漢字」を発売します。この奇妙な名前は多くの漢字(13万文字)を扱えることをアピールしたかったのだと思いますが、逆に言えばそれぐらいしかアピールできる点がなかったとも言えます。最初の MS-DOS は漢字を扱えず、最初から漢字が扱えるように設計された BTRON には大きなメリットがありました。しかし Microsoft はすぐに Shift JIS を開発し、日本語版 MS-DOS はおよそ7000文字の日常的に困らない漢字(他の国ではその国の文字)を扱えるようになりました。BTRON は世界中の文字を統一的に扱えるというメリットが有りましたが、Windows NT が採用した Unicode も同様に世界の文字を統一して扱えるようになりました。ただし16ビット固定の Unicode 1.0 だったため、BTRONに比べて利用頻度の低い珍しい漢字を扱えませんでした。Windows 2000 で Unicode 2.0 に対応し、Windows XP 以降では 16ビットの範囲を超える文字(サロゲートペア)の対応も進み、超漢字ほどではないにしろ多くの漢字を扱えるようになったため、超漢字のメリットは大きく失われました。2006年の超漢字Vでは18万文字を扱えるようになりましたが、現在超漢字の開発はほぼ停滞しているようで、トロンコードでは 最新の Unicode 文字(絵文字など)は扱えません。かつてはトロンコードに収録する文字を募集する「TRON 文字収録センター」なんてのもあったようですが、2001年あたりでフェードアウトしているようです。2025年9月にリリースされた Unicode 17.0 の文字数はおよそ16万文字なので、このペースなら5年後には文字数でも追い抜いているでしょう。トロンコードは同じ文字が重複登録されているため実際の文字数が不明ですが、超漢字でしか使えない文字ってどれだけ残っているんでしょうね。それらが全部 Unicode に登録されてしまえばトロンコードの役目は終わりでしょう。
BTRON OS は起動が速いというメリットがあったと思いますが、高機能・高性能なハードウェアへの対応が弱いという欠点があります。これはハードウェアメーカーが BTRON OS 向けにドライバを開発しないのが大きな理由です。パソコンメーカーがパソコンの全てを提供していた時はドライバも自分たちで提供すればよかったのですが、さまざまな会社からハードウェアが発売されるようになると、それに対応するのが難しくなりました。1990年代後半から2000年代前半にかけて多くのメーカーから拡張ボード(グラフィックボードやサウンドボードなど)が発売されパソコンは高性能化しましたが、BTRON はその恩恵に預かれませんでした。2006年に発売された超漢字Vは本物の OS ですが、仮想マシンにインストールして Windows 用のアプリケーションのような形で使うように設計されました。仮想マシン技術を使うと同一の古いハードウェアのパソコン上で動かしているように見えるため、BTRON 自体が新しいハードウェアに対応できなくても、Windows 上で動かすことができます。ただし高性能な仮想ハードウェアが使えないことに変わりはなく、起動が速いだけで動きはもっさりしています。また、仮想マシンに Windows 標準の HyperV ではなく VMWare を使うため(2006年に HyperV はなかった)、インストールが面倒で将来的に使い続けられるのか不安が残る形になっています。
多くのハードウェアメーカーは Windows 用のドライバしか開発せず、Windows 以外の OS ではハードウェアを使えなくなっていきました。同じ理由で Linux もハードウェアへの対応で苦労していますが、オープンソース文化に賛同した多くの人の協力のお陰で、オープンソースのドライバを開発し続けています。また、Linux(カーネル)ではドライバを含む OS の中身を秘匿できないように GPL というライセンスが採用されています。これにより GPL ライセンスを採用したソフトウェアは人類の資産となります。しかしトロンプロジェクトは、アーキテクチャはオープンですが、ソフトウェアの権利は開発したメーカーにあるという考え方で、OS の中身をオープンにする必要はなく、むしろ企業秘密の保持のために中身を秘匿できることをメリットとしています。日本のメーカー優先のプロジェクトで、英語の情報も少なく、個人開発者への開発ツールや技術情報の提供も遅れたため、Linux のような大きな開発コミュニティの構築も行われませんでした。現在はパソコン用 OS の開発は諦めたように思えます。代わりに組み込み用プロジェクトとして、2000年代以降、オープンソースで T-Kernel / μT-Kernel の開発をしており、個人開発者に対しても参加しやすくしているようで、Linux コミュニティのやり方を参考にして変化したんだろうなと考えています。
現在のトロンプロジェクトは組み込み用なので、いつまでも Windows と比較してるのは馬鹿らしいです。現在の挑戦相手は同じ組み込み用 OS で世界でよく使われている FreeRTOS や Zephyr などでしょう。日本初の組み込み用 OS は世界の組み込み用 OS に勝てるのか? トロンは標準規格として普及するのか? その結果が出るのはこれからです。
組み込み用トロンOSが潰れなかった理由
組み込み用トロン OS (ITRON) が潰れなかった理由は、利用者(一般消費者)からの反対がなかった(あり得ない)からです。パソコン用 OS は人が直接使う OS なので、OS が異なると操作方法が変わったり今までのアプリケーションが動かなくなったりと問題が発生します。しかし組み込み用 OS では、組み込んだ機器が動けば十分なため、どの OS が使われていようが一般消費者の知るところではありません。組み込み用 OS を気にするのは開発者だけです。また、教育用パソコン市場とは異なり、日本政府が外国製の組み込み用 OS を排除しようとはしなかったため、米国からの圧力もありませんでした。
米国にバレなかったから潰されなかった?
なんか一部で、日本が ITRON を使っていることをひた隠しにしたから「米国にバレずに潰されなかった」と考えている人がいるような気がするのですが、バレてないわけがありません。なぜならトロンは米国のコンピュータ技術に関する学術雑誌 IEEE Micro で1987年に特集が組まれているからです。普通の人ならともかく「日本がやっているトロンプロジェクトとは一体何なんだ? 米国経済の脅威になるのか?」と考えて調査するような人たちが気が付かないわけがありません。
組み込みでは一般的にどの OS を使っているかを公開しません。公開しないのは公開する必要がないからです。パソコン用 OS は人間が直接使う OS なので、操作方法そのものですし、アプリケーションをインストールする必要があるので、利用者が OS を意識します。組み込み用 OS でも一部アプリケーションをインストールする場合もありますが、その場合は代わりに機種が指定されていたり(ワープロ専用機など)、特定の決められた方法(ガラケーのiアプリなど)でインストールします。MS-DOS の時代から HDD にインストールして使うようなアプリケーションは動作可能な機種や OS を明示しており、(完全な初心者は別として)一般の人でも MS-DOS 時代から OS の存在を意識していました。昔のゲームソフトのパッケージの裏を見れば「対応機種: PC98シリーズ、MS-DOS 3.3 以上が必要」とか書いてありますから。
組み込みの世界では機械の中身を企業秘密として秘匿するのは一般的です。ITRON を使っていることを隠しているわけではなく、秘匿するのが一般的で特に言う必要がないから言わないだけです。だから家電製品にトロンの文字がないのは当たり前なのです。プロジェクトXでは組み込み機器にトロンの文字がないことを「日陰の技術となっていた」などと言っていますが、それはプロジェクトXが「日陰の技術」呼ばわりしているだけです。名前がないだけで日陰の技術というなら、家電製品の中身なんて、ほぼ日陰の技術じゃないですか? CPU とかメモリとか記憶媒体とか。
なぜ組み込み用トロンは日本で成功した?
ITRON の仕様は小さく早い段階で OS が開発されたからです(例: 1984年11月の NEC の ITRON 仕様 OS「RX116」など)。開発が早いということはライバル OS がまだ普及していないということです。ここが開発まで10年かかってしまった BTRON との違いです。ITRON 仕様の OS が完成した頃、他の組み込み用 OS がなかったわけではありませんが、多くは米国製で日本語の情報やドキュメントも少ないという問題がありました。元々組み込み機器では OS の必要性が少なく、OS を使わないことが(今も)多くありますが、OS を使おうと思ったときに、日本語の情報が豊富な ITRON があれば、日本人がそれを使おうとするのは当然です。逆に日本以外で ITRON があまり使われていないのは、英語やその他の言語の情報やドキュメントが少ないためです。米国には米国製の OS が十分そろっているため、わざわざ ITRON を使う理由がありません。
ITRON 仕様の OS は多くのメーカーが開発していますし、公開した仕様に従えば自社で互換 OS を作れます。社内に自分たちが開発した ITRON 仕様 OS があれば、外部から買ってくる必要はなく無料で使えます。ですがお金がかからないと言うよりも、必要な場合に自由に修正できる方が重要でしょう。機械を動かすだけの機能があれば十分なので高度な汎用性は必要ありません。むしろ使わない機能は無い方が効率の点で優れています。このように組み込み用 OS とパソコン用 OS とでは要求が全く違います。ただ最近では組み込み機器でもインターネットやファイルシステム(USB メモリの exFAT)の対応など、高度な情報処理が必要になってきているため、オープンソースとなった T-Kernel ではその問題を解決すべくミドルウェアの開発に力を入れているようです。
組み込み用OSは部品、パソコン用は製品
組み込み用 OS が潰れなかった理由は、トロンプロジェクトの前提通りの OS だからです。トロンプロジェクトは組み込み用 OS のプロジェクトとして始まりました。そしてパソコン用 OS にも手を出しましたが、パソコン用 OS は組み込み用 OS とは全く違うものでした。坂村氏もこの2つが違うことには気づいており、「組み込み用 OS は機械を相手にする」「パソコン用 OS は人間を相手にする」という説明をしていました。もう一つの違いは「組み込み用 OS は部品」であり、「パソコン用 OS は製品」だということです。この考え方は坂村氏やトロンプロジェクトの考え方をうまく説明でき、日本がソフトウェア開発に弱い原因も、形のないソフトウェアを製品として見れなかったという理由で説明できます。
組み込み用 OS は、その名の通り、家電製品、自動車、産業機器などの中に組み込まれた OS で、機械を制御するための OS です。考え方としては CPU やメモリや半導体、ネジやクギや歯車と同じようなものです。このような部品の多くは規格化され、いくつかのメーカーから同等品が供給され、互換製品に交換可能です。それを実現するには部品の仕様が正確に定められ、部品が仕様を満たす必要があります。ただし部品の中身がどうなっているかは気にしません。仕様を満たした部品を正しく高品質に作れることが、種子島の鉄砲伝来からの日本が得意とする製造の技術力です。
パソコン用 OS は部品を組み合わせて作る製品です。かつて OS が大型コンピュータの付属品だった頃、確かに OS はコンピュータを動かすための部品でした。大型コンピュータを小さくしただけの初期のパソコン用の MS-DOS なども部品に近い OS でした。しかしパソコンがスーパーパソコンへと変化したように、OS も部品から製品へと変化しました。ブラウザのような従来はアプリケーションと言えるようなものもまで OS の一部として組み込まれました。これは超漢字でも同じで、スーパーパソコン用 OS はソフトウェア製品なのです。ソフトウェア製品はハードウェア製品と区別がありません。例えばワープロソフトとワープロ専用機とは、どちらも同等の機能を提供する製品です。その製品を実現しているのがハードウェアなのかソフトウェアなのかという違いはユーザーにとってはどうでも良いことです。
坂村氏は OS の仕様を定義して交換可能な部品にし、さまざまなメーカーが同等の OS 開発して、場合によっては他社へ供給できるようにしようとしていました。しかし製品は標準化できるようなものではありません。Unix は POSIX という形で標準化しているじゃないかと思うかもしれませんが、POSIX に準拠した製品である macOS や Solaris を見てもわかるように、これらは全く異なる OS で、OS 自体が交換可能になっているわけではありません。POSIX で標準化されているのは OS の一部の基本的な API のみです。言い換えると、仕様を定義して標準化できるものは OS の中にあるソフトウェア部品、つまりシステム標準 API や、ライブラリや、ファイル形式や、文字コードです。トロンプロジェクトではパソコンや OS 全体をまとめて仕様にしていましたが、個々の部品単位で仕様にする必要があったということです。部品単位で仕様になっていれば、製品は使用する部品の取捨選択が自由に可能になります。例えば対応する画像形式を OS の仕様にしてしまえば、OS の仕様を変更しなければ新しい画像形式に対応できなくなってしまいますが、OS に含めなければ新しい画像形式が誕生しようが陳腐化して消えようが OS は気にする必要がありません。トロンプロジェクトはなんでも OS の仕様にしてしまったのが間違いでした。これは当時の考え方では再利用可能な部品が OS だったためです。ライブラリで再利用するというアイデアがまだ十分広がっていなかったのです
忘れてはいけないパソコン用 OS の重要な役目はアプリケーションを動かすためのプラットフォームです。MS-DOS の時代からすでにプラットフォームへの変化が始まっていたのですが、坂村氏はその変化に気づけなかった、もしくは気づいていたけど取り入れられなかったと考えられます。補足しておきますが、坂村氏は μBTRON がワープロ専用機のような専用機のための OS で、BTRON はアプリケーションで役目を変えられる「万能モノマネ機械」という区別をしています。しかし BTRON の仕様は変化させられる枠組みを作っただけで、プラットフォームとしての機能が十分ではありません。つまり、BTRON はモノマネ能力を持っていますが、μBTRON 以外へ変身する能力が不足していたということです。プラットフォームであるパソコン用 OS は、多くの機能を提供する必要があります。これは作られるアプリケーションが千差万別だからです。しかし BTRON が提供する機能は少なく、限定された用途(電子文房具)での使い方しか考慮されていないように見えます。これはそれ以外の機能はメーカーが追加するものという考えだったのかもしれません。
忘れてはいけないパソコン用 OS のもう一つの役目は、ハードウェアの違いを吸収することです。パソコン用 OS はより多くのハードウェアに対応しユーザーにはその違いを(性能以外)意識しなくてすむようになっています。つまりパソコン用 OS(製品)のユーザーにとっては、ハードウェア(部品)はどうでも良いということになります。なんならソフトウェアで実装されていたって構いません。一方で、組み込み機器では主役はハードウェアです。OS は特定のハードウェアをうまく制御することが求められますが、それ以外のハードウェアに対応する必要はありません。パソコン用 OS とは逆に、電子機器(製品)のユーザーにとっては、組み込み用 OS(部品)はどうでも良いということになります。なんなら OS 核がシリコン化され CPU に実装されていても構いません。このように考え方が正反対と言っていいほど異なるため、トロンはパソコン用 OS には適合できず、当初の考え方通りの組み込み用 OS では潰れませんでした。
国産OSなら安定性とセキュリティが高い?
当然ですが、日本製だからって OS が安定してるとかセキュリティが高くて安全とかそういう事はありません。ですが、トロン OS と Windows や macOS、Android や iOS を比べた時、トロン OS の方が安定していて安全でしょう。しかし、その理由は組み込み用 OS で機能が少ないからです。例えばインターネットとの通信機能(TCP/IPプロトコルスタック)を持っていなければ、インターネット経由で攻撃されることはありません。組み込み機器にとってインターネットとの通信機能は、必ずしも必要なものではないので、インターネットとの通信機能を削除すれば(用途は限定されますが)安全になります。これがトロン OS が安全であるという理屈です。したがってトロン OS が安定していて安全だからといって、パソコン用 OS やスマホ用 OS として実用になるレベルまで機能を増やしてしまえば、安定性やセキュリティは下がってしまいます。
トロンフォーラムには「脆弱性情報特設サイト」というものがあります。そこにはこのように書いてあります。
この特設サイトでは、T-Kernel、μT-Kernel及びT2EXといったTRON系OSやミドルウェア、さらにITRON仕様準拠OSに関係すると思われる脆弱性に関する情報を告知し、集約してまいります。
特にITRONにつきましては、トロンフォーラムから提供しているのは仕様だけであり、インプリメントは各社によってさまざまです。このため、トロンフォーラムがそれらの各社によって実装されたITRON仕様準拠OSに対する責任を持つわけではございませんが、それらのOSを利用されている方の利便性向上のため、このサイトをご用意いたしました。
脆弱性情報は少ないため安全に思えるかもしれませんが、それでも脆弱性はありますし、上記の説明のとおりトロンを使った製品が安全かどうかは、どのミドルウェアを使ってるかにも依存します。さらに ITRON に関しては仕様であり、脆弱性があるかは製品によるため、判断が難しいことがわかります。つまりどちらも ITRON 仕様の OS を最小しているけど、あちらの製品は問題なかったけど、こちらの製品はダメということがあるわけです。組み込み機器のメーカーは中身を公開してないので、脆弱性があるか分かりづらいわけですね。脆弱性があったとしても、特定の製品の問題なので、トロン(仕様)の問題とは言わないでしょう。
先のページによると「T-Kernel 2.0 Extension(T2EX) に含まれるTCP/IPプロトコルスタックは NetBSDの実装をもととしており」とあります。もし NetBSD の TCP/IP プロトコルスタックに脆弱性が見つかれば、T2EX にも影響があるでしょう。安全と言うならば、NetBSD のおかげと言えます。NetBSD のコードを書いた人は日本人ではないでしょうから、T2EX を組み込んだ T-Kernel は純国産とは言えなくなりますね。念のためですが私は純国産とかにこだわっていませんよ。純国産にこだわっている人って、内容もわからずに純国産って言いたいだけでしょ?という話です。
日本企業は某国のように怪しいものは埋め込まない善良な企業ばかりであるという理屈を持ち出せば国産製品は安全と言えるかもしれませんが、本当に安全なのか?と考えると、そのトロン OS はどのメーカーの製品でどういう人物が開発に関わっているのかも気になってくるはずです。トロン OS はメーカーが自由に修正できるので、悪意があるコードだって埋め込むことができます。そうやって OS だけを気にしても、組み込み機器ならそれを構成するその他の部品の生産国がどうなっているかも気になってくるはずです。例えば何かの家電製品に見せかけた爆弾を作れば、トロン OS は国産で安全だとしても、正しく爆弾として爆発するということです。
国内メーカーを信じているから安全という考えは、それはそれで良い思いますが、国産 OS だからといって安全が保証されているわけではありません。製品の中身を確認できない以上、安全かどうかは誰を信じるかです。坂村氏が日本人であることは関係ありません。なぜならトロンはどの国でも生産でき修正もできるからです。だからトロンを使えではなく国産製品を使えということで、万全を期すなら中に含まれる電子部品も全部国産にしろという話でしかなく、開発に関わっている人も全員日本人にして、外国人との付き合いがないか確認しろという話になります。コストがかかるからメーカーはやらないのだと思いますが、全部国産にしてくれると良いですね。
まとめ
パソコン用のトロン OS が普及しなかった原因について、米国の圧力はそれほど大きな要因ではなかったことがわかったと思います。「トロンプロジェクトから手を引け」「トロンパソコンの開発をやめろ」それはプロジェクトXとインベスターZが作り出したデマです。教育用パソコンが OS トロン限定でなくなったのは、米国の圧力よりも日本国内でのごたごたのせいが大きく、普及しなかったのは単純にパソコン用トロン OS の開発が遅すぎて、仕様が完成した頃にはメーカーの興味も失われ、発売された頃には人々は買う理由がなくなっていたからです。
トロンプロジェクトは元々組み込み用 OS のプロジェクトです。パソコン用 OS にも手を出しましたが米国企業よりも研究開発で大きく遅れていました。頑張り次第では追いつけたかもしれませんが、進む方向を間違えました。それは組み込み用 OS とパソコン用 OS との違いを十分に理解できなかったことが原因でしょう。パソコン用 OS(製品)に何が必要か世の中がまだわかっていない段階で、組み込み用 OS(部品)の発想で仕様を作ろうとしたことが間違いでした。そして1980年初期の計画のままにプロジェクトが進行したため、世の中の変化から大きくズレてしまいました。過去との互換性を切り捨てて作り直すという戦略は、互換性を保ちながらの進化を実現させた Intel に敗北し、全体をまとめて設計するトータルアーキテクチャの考え方は、パフォーマンスが重要な組み込み用 OS ではうまくいきましたが、変化が激しいパソコン用 OS では柔軟性の欠如につながりました。
パソコン用 OS は 1981年に発売された IBM PC とその互換機で動作する MS-DOS が世界で圧倒的なシェアを握りました。すでに世界で広く使われている MS-DOS と日本人のための OS の開発計画、1980年代にほぼ勝負はついていました。トロンパソコンの実験開発をしてたのは松下電器ほぼ1社でした。松下電器のトロンパソコンの実験機が完成した頃、そこに降って湧いたのが教育用パソコンでのトロン仕様の採用、これが唯一の日本でのトロン普及の希望でした。日本のコンピュータ産業を育成しようとしていた通産省が舵を取り、未完成のトロン仕様を採用するという信じがたい決定が行われようとしていましたが、最大手メーカー NEC と文部省の反対で、トロン OS への一本化は回避されました。その他の松下電器以外のメーカーはトロンパソコンに賛成したものの、開発はほぼ様子見でした。
教育用パソコンの試作機を使っての評価は、一般のパソコンとの継承性が必要であるという答えでした。実際の教育現場で望まれたパソコンは MS-DOS が動くパソコンでした。評価の最中、米国から トロン OS を採用したくないコンピュータが教育用パソコン市場から日本政府の圧力で排除されるのは不公正な商慣習であるとクレームが来ました。その頃 Windows 3.0 が発売され世界中でヒットし、BTRON の市場を教育現場にあると考えていた松下電器は BTRON パソコンの開発を断念しました。さまざま状況の変化により、CEC は最終的に教育用パソコンの OS を指定しないことにしました。BTRON OS の搭載が必須でなくなったため、松下電器以外のメーカーは BTRON OS を採用しませんでした。松下電器は BTRON 仕様の教育用パソコンを発売した後、BTRON OS の開発から撤退しました。トロンパソコンに期待していたメーカーは、BTRON OS に芽がないと気づくと次々とトロンプロジェクトから脱退しました。
トロンプロジェクト自体は継続していましたが、BTRON OS の成果が十分でないまま、プロジェクトの興味はトロン電脳住宅などの応用プロジェクトへと移りました。BTRON OS の開発はパーソナルメディアが後を引き継ぎましたが、BTRON OS が大きく改善されることはありませんでした。その一方で Windows は大きく改善を続け、Windows 95 や Windows XP の発売で、BTRON OS を大きく引き離しました。2000年以降、BTRON OS の開発はほとんど停滞し、2006年に発売された超漢字Vは Windows 上で動くアプリケーションのような形になっていました。トロンプロジェクトは組み込み用 OS の開発から始まり、途中で風呂敷を大きく広げましたが、最終的に組み込み用 OS を開発するプロジェクトへと戻っていました。










