はじめに
現在、TRON プロジェクトといえば、組込みシステム向けのリアルタイム OS を開発するプロジェクトとほぼ同義です。しかし、それは2000年代以降の話で、1980年代から1990年代では組み込みシステムに限らず、独自の新しいコンピュータ体系を作るプロジェクトでした。TRON に関してのデマが多い中、この記事は初期の TRON プロジェクトの話を、当時の新聞や雑誌、坂村氏の著書や論文などを元に真実を説明しています。忠告しておきますが、当時の TRON プロジェクトのことを真面目に記事や動画にしたいなら、この記事を読まないで書くと恥をかきますよ。それぐらいこの記事と他の記事や動画には内容に圧倒的な差があります。
記事を読まないで勝手に結論づける人が多いので先に書いておきますが、パソコン用 TRON が潰れたのは、当時の多くの日本人が欲しいと思わなかったからです。構想時点では素晴らしい所もあったのですが、完成する頃には Windows や Macintosh が同等のものを発売しており、目新しさはなくなっていました。また TRON の仕様自体にも問題があり、他の OS とのデータ互換性がありませんでした。なによりアプリケーションが少なく、買った所で使い道がありませんでした。だから販売されたのに売れませんでした。しかしそれを米国の横やり(スーパー301条問題)のせいにする人が少なからずいます。スーパー301条問題への理解が正しければまだマシですが、これを日本の TRON 技術を恐れた米国が圧力で潰したと勘違いしている人が結構いるようです。パソコン用 TRON が日本で普及しなかったのは「国民機と呼ばれるほど人気だった日本独自のパソコンを作っていた NEC」と「子供たちの教育と学校現場の教師のことを考えていた文部省」が必死に抵抗したおかげです。
米国は「アメリカの威神にかけても日本の TRON プロジェクトを潰してやる」なんて一言も言っていません。本当にデマには呆れます。米国は TRON プロジェクトを中止させようと圧力をかけたのではなく、教育用パソコン問題に対して圧力をかけました。教育用パソコン問題への圧力とは、TRON OS を禁止することではなく、TRON 以外の OS も採用可能にしろと迫ることです。日本は教育用パソコンに採用する OS を「未完成だった BTRON OS」に限定しようとしていました。それは教育現場を実験場にした国産 OS の開発であり、子供たちのためという考えはありません。それに対して米国は OS はユーザーによって選ばれるべきだとフェアに競争しようと言ったのです。そしてフェアな競争をしたら BTRON は MS-DOS・Windows に負けました。子供たちはもう少しで大人が誰も使っていない独自仕様パソコンと OS を使った教育を通産省に押し付けられるところでした。パソコン用 TRON が普及しなくて本当に良かったと思います。
松下電器は「スーパー301条問題」の後に BTRON 搭載のワープロ専用機や教育用パソコンを発売しました。現在も BTRON OS(超漢字)は販売されつづけています。それが米国が TRON プロジェクトを辞めさせようとしなかった証拠です。おそらく多くの人は「スーパー301条問題」の前提にある「教育用パソコン問題」の詳細を知らないと思います。それこそが国産OSトロン潰しに隠された真実です。この記事ではその問題について説明し、米国の横やりよりも 「通産省 vs 文部省、NEC vs 弱者連合」の方が大きく影響を与えたことを説明しています。
なお、この記事では「当時の日本でなぜ TRON プロジェクトが必要だったか」については解説していません。IBM 産業スパイ事件とかセカンドソースの廃止とかの話ですね。その話についてはまた別の機会にやろうと考えています。
一部で「国産OSトロン」などという変な呼び方が流行っているようですが、トロンという名前の OS は存在しません。初期の初期には TRON (The Real-time Operating system Nucleus) という名前の、組み込み用 OS を作ろうとしていた可能性がありますが、すぐに TRON はプロジェクトの名前となりました。TRON プロジェクトでは「OS の仕様」が作成されました。組み込み用の ITRON、パソコン用の BTRON、他にサーバー用 CTRON や、謎に終わった MTRON、CPU を作る TRON チップなどの仕様書が作られました。
TRON プロジェクトは最初から組み込み用コンピュータの仕様 (ITRON) を作成するプロジェクトで、ほとんど日本に限られますが成果を上げて現在まで続いています。その一方でビジネス用コンピュータ(パソコン)の仕様 (BTRON) を作ろうとした計画は失敗に終わります。失敗した原因は、TRON プロジェクトを発足させた坂村健氏がマーケティング論を無視し、ユーザーが欲しいものではなく自分が作りたいものを作ったため、Windows に技術とビジネスの力で負けて売れなかったというだけなのですが、米国やビルゲイツが卑怯な手段で潰したみたいな悪意ある歴史に塗り替えられています。そして当時あれほど話題になった 「通産省 vs 文部省」「NEC vs 弱者連合」の教育用パソコン問題が隠蔽されています。本当に不思議なことに、「国産OSトロン」などと言っているものの多くが、教育用パソコン問題に触れないのです。「国産OSトロン」という変な言葉を使ってるぐらいですから、TRON の事を知らないのでしょう。可哀想なことに、今ではパソコン用トロンは何でも米国のせいにする陰謀論者のおもちゃになってしまいました。
教育用パソコン問題を隠蔽し、すべてを米国のせいにしようとしたのが、NHK の番組「プロジェクト X」 です。この番組では避けては通れないはずの教育用パソコン問題をほとんどバッサリ切り捨てるどころか、関係者や当時の日本人のすべてが BTRON の採用に賛成したかのように演出されています。なぜ発売された「国産OSトロン」を当時の日本人は買わなかったのか? あなたはその問いに答えられますか? さらにこの番組は 2003 年に放送されたのに 1990 年代の話をカットしており、当時を知らない人の多くが、発売された BTRON が Windows と戦って負けたことを知らずに、Windows と戦わずして米国の横やりで潰されて消えたかのように勘違いしています。「国産OSトロン」を知っているのに 1999 年に発売された BTRON OS「超漢字」のことを知らないのはプロジェクトXで超漢字を放送しなかったからです。プロジェクト X で数々の「捏造」と「過剰演出」が横行していたことはよく知られています。
この記事でこれから説明する話はすべて事実です。他の記事がソースも出さずに想像で「昔の日本には Windows よりも優れた OS あったんだ」などとしたり顔で語っているのに対して、この記事では事実であることの証明として、信頼性が高い当時の新聞や雑誌をふんだんに引用しています。
TRON プロジェクトの概要
TRON プロジェクトとは OS を開発するプロジェクトではなく、「コンピュータの仕様」を開発するプロジェクトです。現在の T-Kernel は置いといて、2000 年代より前の TRON プロジェクトで最終的に作るものは紙の仕様書でした。実際に動作するコンピュータや OS を作るのはコンピュータメーカーの仕事です。以下は当時の TRON プロジェクトが完了した想定での TRON プロジェクトとメーカーとユーザー(消費者)の関係図です。
- TRON プロジェクト ・・・ コンピュータ(OS、CPU、ハードウェアなど)の仕様書を作る
- 参加したメーカー ・・・ 仕様に従って実際に動作するコンピュータを作る
TRONプロジェクトが発足した1984年は、コンピュータはまだ漢字を扱えませんでした。正確には漢字を扱えたコンピュータもありましたが機種ごとに扱う方法が異なっていました。NEC版のMS-DOSは1983年から日本語に対応しているのですが、TRONプロジェクトは1982年から1983年にかけての調査を前提に始まったプロジェクトで、コンピュータが漢字をうまく扱えない時代を前提にしています。当時は漢字を扱えるように設計したこと自体がアピールポイントになるような時代でした。つまり Windows よりも漢字に強いという意味ではなく、漢字が表示できないコンピュータ時代において漢字が扱えるというアピールです。
コンピュータメーカーはコンピュータを作り、コンピュータの中に組み込まれた OS もコンピュータメーカーが作ります。つまり「松下電器製 TRON OS」「NEC 製 TRON OS」「富士通製 TRON OS」などと、各メーカーの TRON OS が作られるという想定でした。なんとも無駄な作業に思えますが、乾電池に例えれば「松下電器製 乾電池」「NEC 製 乾電池」「富士通製 乾電池」を作るのと同じ発想です。当時の OS には GUI なんて複雑なものはなく、コンピュータに含まれる小さな部品扱いでした。「OS なんてどのメーカーでも仕様書さえあれば簡単に作れるもの」と思われていた時代でした。その前提は 1990 年代に入りすぐに覆ってしまったため、パソコン用の TRON プロジェクトは基本的な思想レベルで時代に乗り遅れて通用しなくなってしまいました。
一部で「OSを無償で使える」と勘違いしている人がいるようですが、無償なのはメーカーが坂村氏に支払うロイヤリティです。Windows と TRON OS の違いは、Windows は Microsoft が OS を作ってメーカーが利用するものなのに対して、TRON OS ではメーカー自身が OS を作るという点です。
- Windows ・・・ Microsoft が OS を開発する
- TRON OS ・・・ メーカー自身が OS を開発する(もしくは他のメーカーから買う)
坂村氏は OS の仕様書は作っても OS 自体は作っていないので、メーカーは OS 作る(もしくは誰かが作ったものを買う)必要があります。Microsoft(や他のメーカー)が作った OS を使うならお金を払うのは当然ですし、自分たちが作った OS なら無料で使えますが開発コストがかかります。OS に限らず自分たちで作るか外部の製品を買うかは、どちらが儲かるかで決めることになるでしょう。つまり Microsoft から OS を買っているのは、その方が儲かるとメーカーが考えているからです。今は無料で使える Linux があるのに、それでも Windows を買っているわけです。
TRON プロジェクトの場合、Linux とは違ってタダで使えるパソコン用 OS があるわけではありません。タダメシ食えると思って来てみれば、タダなのは「レシピ(の利用料)」だけで、材料を買ってきて料理は自分でしてくださいねという話です。しかもレシピと言っても書いてあるのは基本的な作り方(麺以外の具のない「素ラーメン」)だけで、実際のラーメンにはネギ、ゴマ、紅生姜、チャーシューなどを入れます。何を入れるかは自由です。ラーメン店を開くとして、他の店との競争に勝つためにアレンジを加えるため、材料や作り方や味は違います。またラーメンだけあっても店の経営がうまくいくわけではなく、サイドメニューや内装なども重要です。ラーメンだけでは商売になりませんが、それでもレシピに従っていればラーメンが作れるわけで、ラーメン店を経営したい人にとっては嬉しいでしょう。そしてそのレシピが素晴らしければみんなそれを参考して作るはずですが、TRON の仕様書は全世界に無償で公開された(英語版の仕様書もある)のに、それに従ってパソコン用の TRON OS を作ったメーカーはほとんどありませんでした。理由は想像できますよね?
コンピュータメーカーの多くは、コンピュータを作る材料の一つである OS を、作るよりも買ったほうが良いと考えました。ラーメン店だって麺やスープを必ずしも自分の店で作っているわけではありませんよね? それと同じです。
自分で TRON OS を作る道を選んだ場合、当然 OS の開発コストがかかります。TRON OS の開発コストはコンピュータ代に含まれて消費者に販売されます。消費者は OS 代が無料だと思うかもしれませんが、その分コンピュータ代が高くなるわけで、TRON パソコンの方が安いとは限りません。「OS 代はコンピュータ代に含まれている」という構図は、Windows パソコンや Mac を買ったときに OS 代が無料に見えるのと同じです。コンピュータ代に含めることで無料のように見せかける販売方法は、OS 代よりも高いコンピュータを販売しているからできることで、OS 単体で売る場合に有料販売しなければならないのは TRON OS でも同じです。現在発売中の BTRON OS である超漢字 は税込み 19,800 円で販売されています。
私は超漢字に興味はないので買いませんが、BTRON が欲しいと言ってる人は買えばよいのではないでしょうか? ファンなら口先だけじゃなくて実際に買って BTRON を支えてあげましょうよ。
TRON プロジェクトの時系列
1984 年に開始された TRON プロジェクトは、組み込み用 OS の仕様を作るプロジェクトから、組み込み用コンピュータに加えパソコンやサーバーなどのコンピュータ(OS や CPU やキーボードを含む)の仕様を作るプロジェクトとなりました。仕様書を作ると言っても、頭の中で考えただけで完璧なものが作れるわけがないので、まず坂村氏によって仕様書のたたき台が作られ、そのたたき台を元にメーカーがプロトタイプを作り、その結果を反映させながら仕様書を完成させるという流れで進みました。パソコン用の TRON (BTRON) の研究開発を担当したのが松下電器(現在のパナソニック)でした。TRON と Windows の OS 開発競争を時系列で整理すると次のようになります。Windows の方が明らかに先行していることと、BTRON は発売されていることを読み取ってください。
1970年代後半から1980年代の日本ではパソコンはある程度ブーム(みんな BASIC プログラムを書いていた)になってはいましたが、多くの人にとっては耳にはするけどまだよくわからないもので、米国の最新の OS 開発の状況は伝わっていなかったでしょう。その一方で日本では坂村氏が NHK などで盛んに未来のコンピュータや TRON プロジェクトを宣伝していました(NHK の 中学校特別シリーズ「ハロー!コンピューター」1986年4月11日 - 10月31日、コンピューターの時代 放送年度:1987年度 など)。また、朝日新聞や日経新聞でもしばしばニュースになっていました。つまりパソコンに疎い当時の日本人の間では、日本で開発されていた TRON のほうが有名だった(かもしれない)というわけです。

朝日新聞 1986年11月2日 1面 (ここには1983年から提唱とあるなぁ……)
上記の朝日新聞の記事には「どんな機種でも操作は同じ」とありますが、この機種とは NEC、松下電器、富士通、日立、東芝、シャープなどが販売しているパソコンの機種のことです。当時はどの機種でも共通で使える Windows のような OS がなく、それぞれの機種で操作方法が違っていたりアプリケーションやデータの互換性がありませんでした。それを日本は(Windowsではなく)TRON という規格を作り、各メーカーが規格通りに OS を作ることで、TRON 仕様に準拠した複数の OS 間で操作方法を統一しようとしていました。Windows は Microsoft だけが作っている OS ですが、TRON プロジェクトでは複数のメーカーが、それぞれ TRON 仕様の OS を作るという違いがあります。
昔はアプリケーションが記録されたフロッピーディスクをパソコンに差し込んで電源を入れることで、アプリケーションを起動していました。表計算ソフトやワープロソフトを使うだけの人にとっては、小さな OS (MS-DOS) はアプリケーションディスクの一部として組み込まれているもので、OS の存在を意識する必要はありませんでした。Windows 3.0 が登場する1990年前後にハードディスクが普及し、大きくなった OS やアプリケーションをハードディスクにインストールする使い方では OS を意識する必要が出てきます。そして Windows 95 ではパソコンを持っていない人でも知るような OS となりました。当初 OS の存在を意識していなかった関係で「TRON のほうが OS 開発で先行していた」などという勘違いが起きていると思われますが、それは米国の最先端のコンピュータ技術を知らなかった人の場合です。
米国から10年遅れの OS 開発
TRON の開発は Windows の開発から5年は遅れていました。MS-DOS や他の OS も含めれば日本は10年遅れており、TRON プロジェクトが先進的に見えたのは、多くの日本人が米国の最先端の Xerox Star(1981年発売)や Apple Lisa(1983年発売)を知らなかったからでしょう。しかし実際には米国では 1984 年時点で TRON パソコンのようなパソコンが発売されているのに対して、日本では 1984年から開発を始めたに過ぎません。日本でも専門誌では、1985 年に発売されることになる(当初の予定は1984年4月発売だった) Windows 1.0 や、すでに発売中の Apple Lisa や、VisiCorp の VisiOn といった競合するウインドウシステムとの比較記事が特集されています。以下は 1984 年に出版された雑誌で、TRON プロジェクトが発足するよりも前です。
BTRON のウインドウシステムはこれらを研究して作られています。そのことは、1985年、BTRON 開発が始まった頃の坂村氏の論文で、Xerox Star、Apple Lisa、Macintosh、デジタルリサーチ社の GEM、Windows の名前が登場していることからも明らかです。

情報処理 Vol.26 No.11 1985年11月 創立25周年記念特集号 「BTRONにおける統一的操作モデルの提案」 坂村健
ちなみに、Windows 1.0 は当初からカラー対応です。ただし当時のハードウェアの限界から色数は少なく、特に液晶ディスプレイはモノクロでした。カラーで動作する Windows 1.0 のデモが見たい人は YouTube でいくらでも見つかるでしょう。なんでわざわざこんな事を書くのかというと、Windows は当時モノクロだったが TRON はカラーを実現していたみたいな馬鹿なことを言っている記事を見かけたからです。ハードウェアさえ対応していれば、カラー表示なんて難しい技術なわけがないでしょ。当時すでにカラーのパソコンゲームだって発売されているというのに。
パソコン用 TRON (BTRON) が失敗し、組み込み用として復活したというのは、プロジェクトXの作り話
すでに説明していますが、TRON は最初から組み込み用 OS として開発されました。パソコン用 TRON (BTRON) が失敗したから、組み込み用として新たな道を見つけて復活したというのは、NHK の番組、プロジェクトXによる作り話です。このことは他でもない坂村氏自身が否定しています。
実際のBTRONを開発したのは松下電器
すでに説明していますが、「実際に動作する BTRON OS」を開発したのは松下電器です。坂村氏の TRON プロジェクトは「BTRON OS の仕様」を作成しました。TRON プロジェクトでは松下電器以外のメーカーも BTRON OS を開発することを想定していましたが、実際には他のメーカーは BTRON OS の開発に参入しませんでした。海外メーカーも BTRON OS を開発できるように、仕様書は英語版も作成されましたが、海外メーカーも BTRON OS の開発に参入しませんでした。
松下電器は教育用パソコンやワープロ専用機など、限定的な用途に BTRON OS を採用しました。松下電器が BTRON パソコンの発売を断念した後、後をパーソナルメディアが引き継ぎました。
BTRON は日本以外では使えなかった
BTRON は日本のために作られた OS なので、当初は日本でしか使えませんでした。これは米国からの圧力があった時点では、BTRON を米国に輸出することなんて到底できなかったことを意味しています。
超漢字4(2001年12月21日発売)の英語対応は、2002年6月19日に行われました。
超漢字V(2006年10月27日発売)の英語対応は、2009年7月24日に行われました。
もちろん英文字の表示や入力は最初からできます。しかし米国に対応するには英文字が扱えるだけでは足りません。米国の日付形式や通貨が扱えなければならないからです。英文字を扱えることと米国で使えるかどうかは別の問題です。ユーザーインターフェースもそれまでは、日本語でしか表示されていなかったわけで、当然日本語がわからない人には使えません。英語に対応すれば終わりというわけではなく、それぞれの国の言語やその地域の日付や通貨などに対応しなければ外国の人は使えません。
言うまでもなく、MS-DOS や Windows は最初から英語に対応しています。理想は各国の言語に対応していることですが、英語にしか対応していない OS と 日本語にしか対応していない OS があったとき、国際言語と言える英語に対応している方が使えるユーザーが多いでしょ。さらに MS-DOS や Windows は多くの国に対応しています。
Windows が標準機能として多言語(日英だけではなく複数の言語)に対応したのは2007年のVistaからですが、企業向けや限定機能として1996年の Windows NT 4.0 から対応していました。それ以前の Windows は各国ごとに専用のものが作られていました。一人のユーザーが複数言語を切り替えて使うということはあまりないことを考えると、日本語でしか使えない BTRON よりもはるかにマシといえます。
ちなみに、2000年5月31日発売の TRONWARE VOL.63 には、株式会社セネットから中国版(+英語版)の B-right/V である B-right/VC MLE (MLE は Multi Language Environment の意味、C は Chinese?)が発売されるという発表がありました。しかし、それ以上の情報が見つからず、おそらく発売されておらず 2001 年前後に開発を中止したように思えます。2002年の超漢字4の英語対応キットは B-right/VC の中止から生まれたものかもしれませんね。ともかく、ここからもわかるように BTRON は日本版と 2002 年以降の英語版しかなく(人工言語のエスペラントは無視します)、それ以外の国で使えるようなものではありませんでした。TRON が世界を席巻するはずだったなんて、TRON を知らない人が後から想像した幻なんです。
TRON よりも先に MS-DOS が日本や世界を席巻していた
TRON (BTRON) と Windows の比較の話をする前に、MS-DOS が日本や世界を席巻していたことを指摘する必要があります。Microsoft の OS は Windows が最初ではありません。MS-DOS と Windows の歴史はつながっています。また、そもそも TRON (BTRON) が対抗していたのは MS-DOS で、TRON が主張するメリットは Windows ではなく 1980 年代初期の MS-DOS と比較した場合のメリットです。MS-DOS の存在をなかったものにしてしまうと、TRON が Windows よりも優れていたと勘違いされます。
TRON は 1984 年にプロジェクトが開始されましたが、これは OS が完成した年ではなく、OS の開発を始めた年です。MS-DOS は 1981 年に開発されており、1983 年では日本でもさまざまなメーカーが MS-DOS を採用していました。MS-DOS は GUI をサポートしていませんでしたが、これを理由に MS-DOS では TRON (BTRON) の比較にならないというのは的はずれな意見です。ユーザーが利用したいのは OS そのものではなくアプリケーションだからです。
MS-DOS 用に作られた多数のアプリケーションは Windows でも動作しました。TRON よりも先に MS-DOS が日本や世界を席巻し、多くのアプリケーションが作られました。1990年代に BTRON と Windows の両方が完成したとき、ユーザーがそれまで使用していたアプリケーションが動いたのは Windows です。
BTRON は Windows 95 ではなく Windows 3.x に負けた
IBM が 1981 年に IBM PC を発売し、Microsoft の MS-DOS や Windows が順調にシェアを伸ばしている最中、松下電器で TRON パソコンの研究開発が行われていましたが、国産パソコン用OSトロン (BTRON) は Windows 3.0/3.1 に負けました。このことは Windows 3.0 が発売された 1990 年当時に、BTRON 開発を行っていた「松下電器 情報システム研究所」の所長だった三木弼一(みき すけいち)氏が次のように証言しています。
教育用トロンOSの開発に協力した松下電器産業の三木弼一(60)は、坂村教授とは少し違う感想を持っている。
「トロンOSも結局はビル・ゲイツに負けたのです。どこも彼が作ったウィンドウズ3.1にかなわなかった」。政治力だけではなく、技術とビジネス後からで負けた、というのだ。
ウィンドウズは90年に出た3.0、翌年の3.1からグンと使いやすくなる。いまのようにマウスで栗一句して使えるようになった。データ処理速度も上がった。
Windows 95 の発売で BTRON OS が普及しなかったような話は作り話で、それよりも前に勝負はついていました。考えてもみてください。Windows 95 は売れましたが OS だけ買っても意味がありません。それ以前に Windows 95 が動くパソコンを持っているという下地ができていたからこそ Windows 95 は売れたのです。多くの人がパソコンを持っている中、それとは互換性がない独自仕様のパソコンを同じぐらいのタイミングで出しても売れなくて当然です。1990年5月22日に発売された Windows 3.0 は世界中でヒットし OS 会社としての Microsoft の成功を決定づけました。BTRON の研究開発を行っていた松下電器が Windows 3.0 発売の直後にパソコン用 BTRON OS の発売を断念したのが何よりの証拠でしょう(注意 断念したのはパソコン用であり、この後に BTRON OS を搭載したワープロ専用機や教育用パソコンは発売されています)。
米国の圧力で TRON が潰されたと考えている人に言っておくと、上記には「関係筋(誰?)」の意見として、非関税障壁だと騒がれたことがあるという理由が書いてありますが、これは誰の意見かわかりませんし、なにより「TRON 計画関係者」の意見として、非関税障壁と指摘したのは教育用パソコンとして BTRON OS を採用する動きをしたからであって、それがなくなったのだから BTRON を発売することになんの問題もないはずと、米国の圧力は関係ないじゃないか言っていることがわかります。
TRON プロジェクト関係者(坂村氏含む)に松下電器の考えがわかるはずがないので、BTRON 発売を断念した理由を坂村氏に聞いても意味がありません。松下電器のことは松下電器関係者に聞く必要があります。BTRON プロジェクトの撤退を決めたのは、先程「Windows 3.1 にかなわなかった」と言っていた三木氏のようですが、以下では米国の横やり(スーパー301条の件でしょう)がすべてではないという証言しています。

金融情報システム : FISC 9月(233) 2000年9月 13ページ
Windows 3.0 が Microsoft にとって大きな転機になったのは、1987年から1990年にかけて IBM と共同で開発してた OS/2 からの撤退の理由としても知られています。当時 Microsoft は MS-DOS の後継として OS/2 を開発していました。当時の OS/2 は 16ビット(後の IBM が単独で開発した OS/2 2.0 は32ビットです)でしたが、完全なマルチタスクを備え、ウインドウシステムも実装されていました。しかし Windows 3.0 が大ヒットしたため、計画を変更しました。全く新しい設計で 1988 年に開発が始まった Windows NT の最初のバージョンが 3.1 なのも Windows 3.0 の後継の企業向けバージョンを意味しているためです。こういった内容から、Windows 3.0 が Microsoft の方向性に大きな影響を与えた重要なリリースだったことがわかります。Microsoft は Windows 95 で躍進したわけではないんですよ。
Windows が成功したのは MS-DOS 時代から互換性を重視し続け、Windows が登場したときすでに多くの使えるアプリケーションを持っていたからです。単に Windows 95 が素晴らしかったというだけではなく、ユーザーが持っている多くのソフトウェア資産をすくい上げていたから Windows 95 は売れました。OS として未熟な部分があったとはいえ OS を販売していた MS-DOS では、BTRON が発売されるまでの 10 年間に、多くのソフトウェア会社から多くのアプリケーションが作られました。これが「大学の教授として時間をかけてでも優れた OS を作ろうと考えていた坂村氏」と「ビジネスとして消費者が使えるものと望むものをいち早く提供しようと考えていた Microsoft」との決定的な差です。ユーザーが本当に使いたいものは OS ではなくアプリケーションです。もちろん優れた OS はユーザーにとってもアプリケーション開発者にとっても便利ですが、優れた OS がなくてもアプリケーションで同じ事ができればそれで十分です。アプリケーションは OS が完成してから作られるので、この時点でパソコン用 TRON は Windows から 10 年遅れていたことになります。いくら構想が素晴らしくても使えなければ絵に描いた餅なわけで、発売されておらず「使えないもの」では「使えるもの」にはどうやっても勝てません。
発売されたトロンパソコン (BTRON)
陰謀論者は国産OSトロンが "潰された" と思っているようですが、実際には発売されました。すでに書いているように超漢字として現在(2025年時点)でも発売されており、(機能拡張は行われていないようですが)メンテナンス修正は続いています。BTRON パソコンの開発は松下電器からパーソナルメディア社に引き継がれ、まず BTRON パソコン (1B/note) が1991年12月に販売されました。
画面がモノクロなのは液晶ディスプレイのせいです。当時はまだカラーの液晶ディスプレイは珍しいものでした。カラー表示ができたのは分厚いブラウン管ディスプレイ (CRT) です。元々 BTRON は専用のトロンチップを使う独自仕様のパソコンを作るプロジェクトなのでパソコンから販売するのはある意味当然わけですが、ハードウェアには松下電器が開発していた Panacom M(PC 互換機ではないが CPU には 80386 を使う)が使われ、独特な形状の TRON キーボードはなく通常の JIS 配列です。TRON キーボードは起伏があるためノートパソコンには適しません。その意味で本来の TRON キーボードが普及することはあり得なかったと言えます。ノートパソコン用の μTRON キーボードもあるのですが、正確には当時は「ノートパソコン」ではなく「ラップトップパソコン」というその名の通り膝の上で使う・・・と思いきや、重くて移動可能と言うだけで机において使うパソコン用です。現在の MacBook のような薄型パソコンではせいぜいハの字型にできるぐらいで、起伏のある「手に優しいキーボード」で統一するのは無理だったでしょう。
トロンパソコンは、デスクトップパソコンも発売されました。ここに見えるのが TRON キーボードです。他にもこれらのシリーズでいくつかのバリエーションが発売されているようです。
PC 互換機で動く BTRON OS (1B/V1) も発売されました。BTRON は独自のコンピュータ体系から単なる PC 互換機用の OS の一つとなってしまいました。PC 互換機を使うということは、BTRON の仕様からハードウェア部分がまるまる無くなってしまったようなものなわけで、BTRON プロジェクトとしては大きな後退です。一応トロンチップを使う MCUBE も発売されましたがパソコンよりも高額なワークステーションで販売数もそれほどないはずで自然と消滅したようです。1B/V1(1994年4月発売)の後継として 1B/V2(1995年11月発売)や 1B/V3(1996年12月発売)も発売されましたが、1B シリーズは16ビット OS で、32ビットの Windows NT 3.1(日本語版は1994年1月25日発売)や内部に 16 ビットコードが含まれる準32 ビットの Windows 95(日本では1995年11月23日発売)に比べて見劣るものとなっていました。BTRON OS は1999年11月より32ビット OS の「超漢字」シリーズに生まれ変わりましたが、2006年10月発売の「超漢字V」では、新しいハードウェアに対応する力もなく、Windows 用の仮想マシン上で動くアプリケーション扱いで発売されています。
このように BTRON パソコンも BTRON OS も発売されたわけですが、1990 年頃より BTRON の開発はほとんど停滞したように思えます。考えてみれば TRON プロジェクトは「OS の仕様」を作るプロジェクトなわけで、魅力ある OS を作るのはメーカーの仕事です。OS の仕様は最低限のものしか決まっておらず、例えば BTRON の仕様にワープロソフトや表計算ソフトといったアプリケーションは含まれませんし、コントロールパネルなどの相当する機能や、現在では OS の一部であるかのように扱われているブラウザなども含まれていません。坂村氏にとっては BTRON の仕様書が完成した時点で、BTRON プロジェクトは完了だったのかも知れません。坂村氏は各メーカー共通の OS 仕様書を作るだけ、それを元に独自の使いやすい OS を開発して売るのはメーカーの仕事、共通する OS の仕様に含まれない部分については TRON プロジェクトの対象外というわけです。そしてメーカーは BTRON を作ろうとしないので、BTRON が普及する訳がありません。もちろんメーカーが BTRON を作らないのは貿易摩擦とか非関税障壁とかではなく、単に BTRON を作っても売れないとわかっているからです。売れないのは消費者が買わないからです。消費者が買わないのはアプリケーションがないからです。ソフトウェア会社がアプリケーションを作らないのは BTRON 用に開発しても売れないとわかっているからです。BTRON を買ったとして、他のパソコンと互換性がないワープロソフトと図形エディタと表計算ソフトが使える程度なら、誰もが豊富なアプリケーションが使える Windows パソコンを買うでしょう。
TRON OS の特徴は他のメーカーが作った、別の TRON OS と互換性があることですが、他のメーカーは TRON OS を作ってないのでこの特徴は活かせません。むしろ Windows や macOS とデータを含めて互換性がないというのが現状です。パーソナルメディアの超漢字はオープンソースではないので外部の人間は手を出せません。BTRON 復活のためにはこういった問題を解決する必要がありますが、それは OS の仕様を作ることではないので、坂村氏の仕事ではないというのはそのとおりです。誰かが BTRON OS の現在の仕様のほとんどを捨てて、一からオープンソースで作り直さない限り、BTRON OS は復活できないでしょう。そうやって全く違うものとなった BTRON OS は、はたして BTRON OS と呼べるのか謎ですね。
1990年代のトロン応用プロジェクト
1990 年前後頃より TRON プロジェクトは停滞したかのように思えますが、その理由の一つは坂村氏の興味が応用プロジェクトへと移ったからのようです。応用プロジェクトとはアプリケーション開発のことではなく、TRON コンピュータを使った生活環境の実現、つまり「トロン電脳住宅」「トロン電脳ビル」「トロン電脳都市」「トロン電脳自動車網」のことです。実際に住宅メーカーと共同で実験住宅を行ったりしています。贅沢なことですが、日本のバブル景気が1986年頃から1991年頃といえば納得もできるでしょう。
記事にあるように窓を自動的に開閉して自然の風を取り入れるとか、こういった試みは面白いと思いますが、実はこれ、別にトロンである必要はないんですよね。実際に TRON と名前がついているものの、少なくとも当初は既存のコンピュータを使っていたようです。このようなものは現在はだいたい実現できていてお金や手間をかけるかどうか程度だと思います。
本当はこういうことをしてないで BTRON の仕様をパソコン用として実用的なものとなるように、足りない API を完備するべきだったと思います。実は BTRON はマルチメディアに弱いんですよ。強いなんて言われることもあるようですが、内蔵のサウンド機能を扱う API は搭載されておらず(MIDI を想定してようで MIDI の代替として使える独自の μBTRONバスがあった)、動画を扱う仕様は拡張仕様(BTRON1仕様AVマネージャ仕様書)でした。これでは BTRON = Business TRON としてビジネス用には使えてもゲーム機の代わりには使えないわけです。ゲームならファミコンを買えという考えだったのかも知れませんが、当時のパソコンを買うような若い成人男性はファミコンでは遊べないアダルトゲームが欲しいわけですよ。需要がわかっていませんよね。
Windows は当初より MS-DOS アプリの互換性を改良し続けている一方で、Windows でもマルチメディア対応やゲームが作れるように機能を拡張を行い続けました。マルチメディア機能を強化する Windows 3.0 with Multimedia Extensions 1.0 (MME) を 1990 年に開発し、動画を再生する Machintosh の QuickTime(1991年発表)機能に対抗して、1992 年に Video for Windows を開発しました。また、Windows でも実用的な速度でゲームが動くように 1994年に WinG を Windows 3.1 向けに開発しました。Windows 95 では現在まで続いている DirectX が登場しました。これはビデオチップのハードウェアアクセラレーションを活かすための仕組みでもありますが、ハードウェアアクセラレーションへの対応は「コンピュータメーカーが作る BTRON」ではコンピュータメーカーが組み込む領域で、OS の仕様として定義されるものではないと考えられます。着実に OS の基本機能を強化し続けた Windows に対して、TRON は応用プロジェクトに乗り出し、BTRON は扱える漢字を増やす程度のことしか力を入れませんでした。BTRON は 1990 年代に完成しましたが、その 1990 年代に大きな差がついてしまいました。
TRON はオープンソースではなかった
TRON が「オープン」と言っているのをオープンソースのことだと勘違いしないでください。TRON(正確には ITRON)がオープンソースになったのは2004年からで米国から20年遅れです。米国では1984年に GNU プロジェクトを発足させたリチャードストールマンによってオープンソース(正確には「自由ソフトウェア」)の考えが誕生し、ソフトウェアのソースコードが公開されました。もっと言えば、それ以前から UNIX のソースコードは事実上のオープンソースでした。「オープンソース」という言葉でさえ1998年に誕生しました。TRON の言う「オープン」とはオープンアーキテクチャのことであり仕様しかオープンになりませんでした。
BTRON OS の「開発」が停滞する中で Windows は快進撃を続けるわけですが、1991 年に Linux がオープンソースで開発されました。オープンソースとは(仕様だけではなく)実際に動作するソフトウェアのソースコードを公開するということです。Windows はもちろんのこと、それまでの TRON プロジェクトにはオープンソースの考え方がありませんでした。そもそも TRON プロジェクトはメーカーのためのプロジェクトであり、メーカーが自分たちの OS を持てるようにするためのものです。仕様はオープンでもメーカーが持つ OS は事実上クローズドなので、Linux のように個人が開発に参加できるようなものではありませんでした。(当時の)坂村氏にフリーできるのは仕様までというのは坂村氏自身が認めていることです。
上記で坂村氏は「一人で製品まで作るのは不可能である」と言っていますが、リチャード・ストールマンだって一人で作るのは不可能なわけで、GNU プロジェクトは多くの人によってアプリケーションが開発されています。そもそも一人で作ろうとすること自体が、考え方がズレていると言わざるを得ません。上記で坂村氏がストールマンを「非常に尊敬しており、心情的にそういうふうにするべきだと思っているが」と書いてあるため誤解されないように補足しておくと、坂村氏の考え方はストールマンと完全に同じというわけではありません。以下では坂村氏は「適応業務ソフト(アプリケーションのことで良いと思います)に関しては個々の企業が権利を保有し、利益を上げる自由を認めるべきではないか」と主張しています。

日経産業新聞 2003年5月19日 「ソフト特許は開発阻害」 フリーソフト「教祖」に聞く
アプリケーションに関しては私も不自由な形で提供したいならすればいいと思うのですが(それが嫌なら使わないだけなので)、問題は例えばプリンタなどです。リチャード・ストールマンがGNUプロジェクト開始の経緯は、問題があるプリンタのドライバのソースコードが公開されておらず、直すことができなかったことです。
この問題は組み込み用の TRON (ITRON) でも発生します。現在のプリンタなどには ITRON が使われていると言われていますが、もしプリンタで動作しているプログラムにバグがあったとして、それをユーザーは自分の手で直すことができません。大抵の場合ソースコードが秘匿されているからです。したがって TRON はオープンを主張していますが、実際には完全な自由が与えられていないことを意味します。またソースコードを秘匿できるということはメーカーが不正なコードを埋め込んでいてもわからないと言うことです。これは TRON だけの問題ではありませんが、中国製は危険、日本製なら安全と言っている人に警告しておくと、OS に TRON を使っていたとしても、製品が中国製なら同じことですよ。メーカーがソースコードを秘匿している限り TRON でも危険なのは変わりありません。使っている OS が何かではなく、製品を販売しているメーカーを信じるかどうかです。
GPL ライセンスを採用した Linux はソースコードが公開されており、その結果、多くの個人を含むプログラマの協力を得ることができました。Linux は着実に進化を続け、2000年頃には BTRON に追いつき代表的な Unix系 OS の一つとなりました。その頃の BTRON OS は多くの漢字が使えるぐらいしかアピールポイントがなくなっており、そのアピールポイントも Unicode の普及で、他のコンピュータと互換性のない珍しい文字が扱えるぐらいしか今は残っていません。
TRON プロジェクト含む元々組み込み用 OS の仕様を開発するプロジェクトだったことを思い出しましょう。ITRON OS は日本で広く使われ続けていましたが、それはメーカーが ITRON OS を作っていたという意味です。そして Linux の成功を真似したのでしょう。2004 年からは TRON プロジェクトは T-Kernel と呼ばれるカーネルのソースコードを配布するオープンソースプロジェクトへと変化します。T-Kernel のライセンスは坂村氏の考えを反映したものとなっており、GNU プロジェクトの GPL ライセンスとは異なり、メーカーがソースコードを秘匿することが可能となっています(「T-Licenseの考え方」より引用。注意: 最新版の T-License に対しての説明ではありません。)
ここでようやく TRON プロジェクトが生き残る道が見つかったわけですが、それも長くはないかも知れません。日本のメーカーは ITRON を使って(作って)いましたが、実は海外ではあまり知られていません。今では ITRON や T-Kernel 以外の組み込み用 OS はいくつもあります。トロンフォーラムは日本で行われた「たった100人程度のアンケート結果」から、世界シェア60%で世界一などと主張していますが、そうやって現実を見ないでいると、気づけば FreeRTOS や Linux ベースの RTOS が世界シェア一位となり世界で大々的に報道され「あれ? TRON が世界一じゃなかったの?」と慌てふためくことになるでしょう。μT-Kernel 2.0 ベースの仕様は IEEE 2050-2018 として世界標準規格になりましたが、これはゴールではなくスタートです。IEEE 2050-2018 を採用するメーカーが T-Kernel 以外にあるのでしょうか? なくても T-Kernel が普及すればそれでも良いのですが、ともかく組み込みの世界で国産 OS トロンが普及するかはこれからです。
現時点での T-Kernel の最新のライセンスの内容は T-License 2.2(2011年5月17日公開、2020年4月1日改定)を参照してください。T-Kernel の仕様は IEEE 2050-2018 で国際標準規格となっていますが、IEEE 2050-2018 に準拠した T-Kernel の実装は坂村氏およびトロンフォーラムが権利(著作権)を持っており、無償で使用できますが使用するのにライセンス契約が必要なようです。
TRON の仕様書は実質的に有料だった
現在では TRON の仕様書は無料でダウンロードできますが、当時は TRON の仕様書の入手は有料でした。仕様書とは本ですが、しっかりと値段がついています。
これは仕様書として完成されたもので、「安くなった」ものです。「BTRON1 SPECIFICATION SOFTWARE SPESIFICATIONS」など個人で買うには高いですが、元々 TRON はメーカー(企業)のものなので、企業にとっては大した金額ではありません。
1990年に仕様書として完成する前は、仕様書を入手するのに会費を支払って TRON 協会(またはその前団体の TRON 協議会)の会員になる必要がありました。

眠れる巨象日立が動いた : "新生・日立"のアクションプログラム 151ページ
(当時の)TRON 協会の年会費は次のとおりです。

TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版 104ページ
BTRON用アプリケーションが少ない理由
BTRON でアプリケーションが少ないのは、他の OS と互換性が全くと言っていいほどないからです。他の OS との互換性で言えば、Windows もないと言えますが、パソコン用 OS としては最大手なので対応せざるを得ません。その他のパソコン用 OS である macOS や Linux などは Unix との互換性(共通で使える POSIX API を持っている)があります。さらにクロスプラットフォームのライブラリもあるため、Windows + Unix 系 OS でのアプリケーション開発は比較的容易です。それに対して BTRON は互換性が全くありません。API が違うため多くのアプリケーションは作り直しを迫られます。世界で使われていない、そして日本でも使われていない BTRON 用にアプリケーション開発を開発しようとする人はいませんし、開発しやすい環境を整える人もいません。API が全く違うため移植するのが困難です。
OS の根本的な仕様に対して互換性がないため、BTRON は他の OS とのデータ互換性がない という問題もあります。Windows も Unix 系 OS も、文字コードに Unicode を使うため同じ文字を扱えますが、BTRON では TRON コードを使います。TRON コードはさまざまな国の文字コードを扱える仕組みで、その一部として Unicode も扱えますが、Unicode 2.0 相当なので全ての文字を扱えません。文字コードを扱えたとしてもフォントがないため表示できません。BTRON では標準的なファイル形式として TAD 形式(Windows の RTF 形式相当)を使用しますが、他のファイル形式と互換性がありません。Windows や Unix 系 OS の一般的なアプリケーション開発方法と BTRON の標準的なアプリケーション開発方法が全く違うため、アプリケーションの移植は困難を極めます。
BTRON のシェアを上げるには多くアプリケーションが移植されなければならず、アプリケーションが少ないため BTRON のシェアは増えません。つまり手詰まり状態です。この 20 年間アプリケーションが増えなかった現実を踏まえると、儲からず大変なだけの BTRON 開発に本気で取り組もうという人が現れない限り、この状況は永遠に改善されません。
「国産」表示による 産地偽装 問題
牛は外国生まれでも日本で肥育された期間が一番長ければ「国産牛」を名乗ることができます。食品は中国産の材料使っても日本で製造していれば国産を名乗ることができます。工業製品は中国の部品を使っていても日本で組み立てればメイドインジャパンです。では「国産OSトロン」は何をもって国産と呼ぶのでしょうか?

画像の元ネタ https://rightcode.co.jp/blogs/9106
TRON の仕様は日本だけではなく世界に広く無償で公開されています。日本だけではなく世界のためのプロジェクトです。陰謀論者は TRON の技術が外国に奪われるとか変なことを言っているようですが、奪うも何も TRON の技術は最初から外国に公開されています。そして坂村氏は TRON OS の仕様しか作っておらず、TROS OS は世界中の誰かが作るもので、そして誰でも自由に TRON OS を作れます。

情報処理学会講演論文集 第28回全国大会(昭和59年 前期) I 1984 273ページ
世界の誰でも公開された仕様を使って TRON OS を作れるということは、例えば米国の Microsoft が TRON OS を作ることだってできるということです。もし Microsoft が TRON 仕様に準拠した OS を作り、その OS が世界を席巻し、ビルゲイツが大儲けしたとして、その場合も「国産OSトロン」なのでしょうか? これは日本人(坂村氏)が OS を作ったと勘違いしている人には、たどり着けない問いです。実際に Microsoft は TRON と手を結び 2003 年に T-Kernel を採用した Windows CE を作ったわけですが(参考 MSがTRONにWindows CEを移植,TRON開発者の取り込み狙う)。ところでこの話って最終的にどうなったんですかね?
TRON はコンピュータメーカーが自分たちの OS を作るという発想のものです。それぞれのメーカーが、それぞれ自分たちの OS を作っていながらも、他のメーカーの OS と互換性があり、同じアプリケーションが別のメーカーのパソコンで動き、あるメーカーのコンピュータで作った文書ファイルが、他のメーカーのコンピュータでも読み書きできるというものです。そのためにコンピュータや OS やファイル形式の仕様を共通にしたわけですが、そのような世界ではコンピュータメーカーとは独立した会社も OS を作れるようになってしまいます。実はそれが Microsoft なのです。コンピュータの仕様が共通となった PC 互換機の世界では、コンピュータメーカーとは独立した会社である Microsoft の MS-DOS が、さまざまなメーカーのパソコンで動くようになり普及しました。
TRON プロジェクトは、各メーカーが OS を作るということになっていましたが、実際には Microsoft と同じようにコンピュータメーカーとは独立した会社が作ることになっていたでしょう。コンピュータの仕様が統一されているのであれば、どのメーカーのコンピュータでも動く OS が作れるはずだからです。そうした場合、片手間に OS を作るコンピュータメーカーよりも OS 開発に特化したソフトウェア会社の OS が勝利する可能性が高いと考えられます。その結果、TRON プロジェクトの世界でも特定の一企業が OS を非公開にして独占することになっていたでしょうし、当時その可能性が一番高いのが松下電器でした。特定の会社の OS で独占されるという世界は坂村氏が望んでいない世界です。だから坂村氏は世界中に仕様を無償で公開すると最初に決めて、どのメーカーでも OS を作れるようにしたわけですが、ビジネスの世界では各メーカーの製品が公平に売れることはなく、どちらにしろ勝ち負けが決まります。しかもその場合は OS を開発するソフトウェア開発は日本とは限らないわけですから、仕様は国産でも原産国が米国の OS が作られることもあります。実際に原産国が米国の μITRON 互換の eCos という OS があるわけですが、はたしてこれは「国産OSトロン」なのでしょうか?
TRONはシェア60%で世界一は疑わしい
TRON のシェアが60%もあり、世界一のシェアという主張は疑わしいです。なぜなら現在の組み込みの世界で、原産国がどの国のトロン OS が一番使われているのか、データが存在しないからです。T-Kernel シリーズなら純国産 OS と言って良いと思いますが。
TRON のシェアが60%というのはトロンフォーラムによる主張ですが、これは日本国内でわずか100人程度のアンケート結果から導き出された推測です。この主張を真に受けて世界中で使われているんだって考える人はいませんよね?

参考 2025 年 6 月 3 日 報道関係者各位 トロンフォーラム
組込みシステムに組み込んだ OS の API でTRON 系 OS が約 60%のシェアを達成し 26 回連続の利用実績トップ
来場者数32,427人に対して回答者が107人、0.33%しか回答していないというのも気になるポイントです。EdgeTech+ は組み込み関係のイベントと言って良いと思いますが、回答者がこれだけ少ないということは全員に対してのアンケートではなく、TRON のブースに来た人へのアンケートなのでしょう。全員がアンケートに回答することはありえませんが、それでも少なすぎるように思えます。昔からの馴染みのいくつかの会社が、数名の社員を引き連れて訪れ、付き合いで回答しているだけの可能性も十分ありえるレベルです。
教育用パソコン問題
さて、ここから本題の教育用パソコン問題について、詳しく見ていくことにします。すでに説明していますが、おさらいとして TRON プロジェクトの開始からもう一度見ていきます。TRON プロジェクトは OS の仕様を開発するプロジェクトで、コンピューターは各メーカーが開発します。パソコン用の BTRON OS の開発を行ったのが松下電器です。BTRON OS の開発は 1984年(昭和59年)の夏ごろに松下電器の中央研究所で開始されました。
余談ですが 「日本航空123便墜落事故でトロン開発者17人が亡くなった」というのはデマです。先の記事からわかるように BTRON の開発は松下電器の中央研究所で行われましたが、新聞などで発表された123便の搭乗者には中央研究所に所属する人は一人もいません。このデマは123便に搭乗していた松下グループ(ビデオ事業部、オーディオ事業部、電化調理事業部など)関係者17人をトロン開発者に結びつけたものです。
仕様書に基づいて OS を開発すると言っても、この時点で BTRON の完全な仕様があったわけではありません。BTRON の仕様の開発と並行して BTRON パソコンが開発されました。元々 BTRON は 1985 年中には開発が予定されていたようです。下記では μBTRON となっていますが本来の BTRON は 32ビットの専用のトロンチップを使うものです。いずれにしろ1985年中には BTRON または μBTRON は発売されませんでした。予定通り登場していれば、歴史も変わっていたかも知れません。
松下電器は1987年3月20日に BTRON の試作機を開発しました。記事にあるようにこれは16ビット CPU を使うので正確には μBTRON です。
日本経済新聞 1987年3月21日
試作機ですし、松下電器はこの時点でまだ32ビット CPU のトロンチップを開発していないので Intel の 16 ビット CPU を使うのも無理ありません。松下電気もトロンチップの開発に乗り出すという話がありましたが、おそらく完成していないはずです。
教育用パソコンの問題は、松下電器が BTRON パソコンの試作に成功した頃に勃発しました。
政府主導で BTRON 搭載の教育用パソコン開発が行われた
TRON プロジェクト自体は国のプロジェクトではありませんが、教育用パソコンへの BTRON 導入は実質的に国のプロジェクトです。教育用パソコンへの BTRON 導入の話が出たとき、BTRON パソコンはまだ完成していません。つまり、各パソコンメーカーは国からの補助金を使って BTRON 搭載の教育用パソコンの開発をしていたことになります。
教育用パソコン試作機の開発までの話
1987年に「教育用パソコン」を開発するという話が持ち上がりました。これは当時の通産省と文部省の共管である「コンピュータ教育開発センター (CEC)」 が始めた計画です。そもそも「教育用パソコン」ってなに?という話なですが、これは PC 互換機でもない、MSX でもない、NEC の PC-98 シリーズでもない、富士通の FMR シリーズでもない、教育現場にふさわしい独自仕様のパソコンのことです。最終的に決まった仕様には、教育用にふさわしく(?)キーボードに「÷」キーや「✕」キーを持たせることや、フロッピーディスクにはペラペラの5インチではなく、乱暴に扱っても壊れにくい3.5インチを採用することなどが含まれていました。
「パソコンでは×の代わりに*、÷の代わりに/を使います」と教えればいいだけなのに、小学生を馬鹿にしてるんですかね? 教育用専用に違うことを教えるほうが混乱します。そういうことを教えるのもパソコン教育の一環でしょうに。
教育用パソコンの開発の第一歩が「教育用パソコンの仕様をみんな(各パソコンメーカー)で考えよう!」でした。当初、決めるべき教育用パソコンの仕様には OS のインタフェース、つまりシステムコールや API と呼ばれているものまで含まれていました。なんでパソコンの仕様を決めるだけなのに OS の仕様まで決めようとしているんだ? と思うかもしれませんが、教育用パソコンを作る目的の一つはどのメーカーが作ったパソコンでも同じ学習用ソフトウェアを使えるようにするためだからです。当時のパソコンは各メーカーごとに仕様が異なっていたため、NEC のパソコンを使っている場合は NEC 用のソフトウェアを、富士通のパソコンを使っている場合は富士通用のソフトウェアを買う必要がありました。当時はすでに MS-DOS が主流でしたが、MS-DOS ではこの問題は解決できません。なぜなら MS-DOS は主にディスクアクセスと文字出力程度の機能しか持っておらず、例えばグラフィックスに関する部分はアプリケーションからハードウェアを直接操作していたからです。各メーカーでグラフィックチップが異なるためプログラムも異なっていました。そのためハードウェアに依存しない API が必要だったわけです。
教育用パソコンはソースコードレベルではなく機械語プログラムレベルでの互換性を実現しようとしていたことに注意してください。だから CPU には Intel の 80286 の命令セットが指定されました。MS-DOS を却下した理由の一つは、Microsoft が権利を持っている OS で自由に修正できないためです。しかしハードウェアの違いの問題は、OS そのものに手を入れなくても各メーカーのパソコンごとにグラフィックスを扱うライブラリを作ってハードウェアの違いを吸収するだけで解決できます。その方式は(私の理解が間違っていなければ)当時「アウター OS」と呼ばれていたもので、現在ではドライバやミドルウェアに相当します。実はアウター OS 方式での問題解決は最初に提案されました。しかし通産省が「国産 OS」を作りたいと考えていたためか却下されます。この話については後ほど再度説明します。
教育用パソコンの開発で実現しようとしていたことは、ソフトウェアやプリンタなどの周辺機器を購入すれば、それがどのメーカーの教育用パソコンでも使えるようにパソコンの仕様を統一することです。しかしそのために新しい独自仕様を作ってしまえば、それまでに購入したものや広く販売されているもの(PC-98 用など)のソフトウェアやハードウェアの資産が活かせない(継承性がない)という別の問題が発生してしまいます。そうなると教育用パソコンは教育用にしか使えないということになってしまいます。この話についても後ほど再度詳しく説明します。
コンピュータ教育開発センター (CEC)ってなに?
教育用パソコンの開発の計画をたてたのが、コンピュータ教育開発センター (CEC、セック)です。通産省と文部省の共管とよく説明されていますが、各企業からお金を集めていたのは通産省で、出資額の多さから(当初は)通産省が主導権を握っていたようです。設立は1986年7月11日です。
最初は MS-DOS 優勢だった
1986年7月9日に CEC が設立されてから一年程度は MS-DOS ベースの教育用パソコンにする計画が優勢でした。これは、主に NEC、富士通、日立による計画で、MS-DOS 上に各メーカーのパソコンの違いを吸収するミドルウェアを搭載するアウター OS 方式でした。

松下電器の果し状 小林紀興 著 光文社 1989年4月出版 14ページ
この方式はベースは MS-DOS なので、すでに導入しているパソコンでも(十分な能力を持っていれば)そのまま使え、すでに導入しているソフトウェアもそのまま使えるというメリットがあります。その一方でマルチタスク対応やウインドウシステムという点では BTRON よりも劣ります。
マルチタスクやウインドウシステムに慣れている現代の私達にとっては、それがないのはありえないと思うかもしれませんが、パソコンを起動したら特定のアプリ専用としてウインドウを最大化して使っているようなものです。インターネットはまだありませんし情報を調べながら文書を作成するということもありません。やりたいことは一つのアプリケーションで完結できるように作られていたので、実はそれほど不便ではありません。さらに言うなら授業の一コマで複数のアプリケーションの使い方を学ぶということもあまりないはずです。表計算ソフトの使い方を学ぶ授業では表計算ソフトだけ、BASIC プログラムを学ぶ授業では BASIC だけを起動すれば十分です。
MS-DOS が優勢だったのは1987年6月~7月頃までのようで、日経コンピュータでは7月末に BTRON が急浮上した理由が書かれています。
ここでは通産省が自由に改造できる OS が必要であると考えたからと書かれていますが、そんなことをすると互換性がなくなり後で困るのは目に見えているわけなんですけどね。ライセンス料の値上げなどについても、BTRON OS でも勝者となった OS メーカーがソースコードを秘匿し拡張機能がなければ実用的でないようにできてしまうわけで、TRON プロジェクトの方法で通産省の求めているものが実現できたのかは疑問が残ります。それよりも GPL ライセンスの Linux であれば、誰も OS を独占できないようにライセンスで縛られているので問題は解決します。
通産省による BTRON 採用の行政指導
統一された仕様の教育用パソコンを作ると言っても議論しているだけでは何も進まないので、まず作ってみようということになります。その作業を始める直前、通産省から BTRON を採用するようにと行政指導とも言える異例の通達が出されました。通達が出されたのは1987年6月27日の会合の直後(その日なのか後日なのかは不明)、そのことは朝日新聞が報じています。
「行政指導」とは言い過ぎではないかと思うかも知れませんが、この表現は次の書籍や週刊誌での表現を真似したものです。私が今考えた表現ではありません。

マイクロソフトOS/2戦略の全貌 青野忠夫 著 エーアイ出版 1988年8月出版 207ページ

松下電器の果し状 小林紀興 著 光文社 1989年4月出版 15ページ
通産省の言うように、NEC(日本電気)の案である、MS-DOS をベースとする方法では、すでに MS-DOS パソコンで大きなシェアをもっている NEC に対して、他のメーカーが不利で意見がまとまらなかった可能性はあります。しかし MS-DOS を使用するという案は、実際のパソコンを使う学校現場の教師からすれば BTRON に比べて現実的なものです。教育用パソコンに BTRON が選ばれたのは通産省の横やりとメーカーの都合であり、ユーザーが選んだわけでもユーザーのことを考えてのことでもありません。そもそも BTRON がいいか悪いかではなく、新しい仕様のパソコンを試用せずに選ぼうとする人がどれだけいるのかという話です。BTRON という素晴らしい OS が教育用パソコンに選ばれたというのは、2003 年に放送された NHK のプロジェクトX が作り出した架空の物語で、当時を知らない人がそれを信じ込んでいるだけです。
日本語の対応に関しては通産省の言い分は完全に過去のものです。TRON が日本語処理を前提にしているという話は坂村氏の主張の受け売りでしょうが、坂村氏の主張は TRON プロジェクトを開始する前に行われた 1982年から1983年の調査に基づくものです。MS-DOS の日本語対応(シフトJIS対応)は1983年の2.0(正確には1983年8月の1.25から)に行われ、そしてよく知られているように MS-DOS や Windows で使われ、当時は Macintosh や Unix などでも広く使われました。当然 1987 年時点では MS-DOS の日本語対応は十分にできているわけです。中国語などの英語以外の外国語への対応は、(当時は)MS-DOS よりも BTRON のほうが将来性があったと言えますが、日本の教育用パソコンではそんなものは不要です。
ここで思い出してほしいのは、この時点では BTRON パソコンや BTRON の仕様は完成しておらず、日本国民のほとんどが BTRON を使ったこともないということです。当然 BTRON 用のソフトウェアはないので教育用パソコンが完成してから急いで教育用ソフトウェアの開発です。一方で MS-DOS は 5 年程度は使われており多くのアプリケーションがあります。おそらく現在 BTRON が良かったと言っている人に良かった点を聞いても答えられないはずです。だって買った人は少ないわけですから。だから、NEC が言うように完成していない BTRON の仕様を教育用パソコンに採用するというのは理由がわからないわけです。たった一つ思い当たるのは、通産省が教育現場を実験場にして「日の丸 OS」を作ろうとしていたということだけです。坂村氏の意見では BTRON こそが教育用パソコンにふさわしいということなのでしょうが、そんなもの一技術者の想像に過ぎません。教育用パソコンにふさわしいかどうかは坂村氏の判断で決まることではありません。完成したものを実際に使う人達が使って、それで判断すべきことで、まず BTRON パソコンを完成させなさいという話なわけです。
ちなみに文部省の方は、NEC の案というか、教育担当として実際の教育現場のことを考えている立場から、教師が求めているものとして MS-DOS の採用に賛成していたようです。教育現場を利用して日の丸OSを作ることが目的だった通産省との違いです。子供たちの教育のことを考えていたのはどちらかなんて言うまでもないですよね。
通産省と文部省の主導権争い
さまざまな記事を総合すると、教育用パソコン問題には通産省と文部省の主導権争いが関わっていることが見えてきます。例えば次のようなものです。

実業の日本 1989.8.15【ちらつく通産、文部省の主導権争い】教育用パソコンからトロンが消える!? 58ページ
個人的な感想では、通産省は余計なことをしたがる。文部省は一応は冷静で現実主義に思えます。
日本では「出る杭 (NEC) は打たれる」
日本には出る杭は打たれるという悪い文化がありますが、通産省が NEC に対してやったのがまさにそれです。せっかく PC 互換機に負けずに日本で頑張って大きなシェアを獲得したというのに、その頑張りを無にしようとしたわけです。NEC の反発で BTRON 統一が失敗に終わったとき、通産省のある幹部はこのように言っています。
後発メーカーがシェア7割の NEC に追いつくのが至難の業だからと、NEC を引きずり落とすことを「公平な競争機会を与えること」だと考えているわけです。過去のソフト資産が通用しない新しい OS で競わせたら、それこそ過去のソフトの資産が通用する OS が勝つに決まっているでしょう。全く理解できません。
過去の資産がある OS に勝つにはどうするか、それを考えることが闘うことであり、闘うことから創造性は生まれます。競争しなくても勝てるような舞台を作ろうとするから、日本から創造性と競争力がなくなるわけです。
NEC vs 弱者連合11社
通産省の横やりもあり、教育用パソコンを作る舞台は、当時圧倒的なパソコンシェアを持っていた強者 NEC と、それ以外の弱者連合との戦いになりました。弱者連合という言い方は失礼かもしれませんが、当時そのような言い方が複数の本や雑誌で使われており力関係を示すのに便利なためここでもそれを採用します。弱者連合と言っても各メーカーは BTRON だけに固執していたわけではありません。ほとんど(すべて?)のメーカーは MS-DOS 搭載パソコンを発売しており、海外向けには PC 互換機も発売していました。弱者連合は、将来のパソコン用 OS として BTRON を推していたわけではなく、あくまで教育用パソコンを前提として BTRON で仕様統一するのもありではないかと考えていたに過ぎません。教育用パソコンの試作機を作っている最中の松下電器でさえ、Microsoft の OS/2 がメイン OSで、BTRON OS はサブ OS 扱いでした。日本ですらこの程度の扱いの OS を米国が怖がるはずがないんですよ。
教育用パソコンの仕様"案"を決める議論は、通産省が BTRON を採用するようにと各メーカーに通達を出した後の1987年8月から1987年10月にわたって行われました。その時の攻防は「マイクロソフトの真実」で描かれています。ここからも通産省の考えが透けて見えることでしょう。

マイクロソフトの真実 宍戸周夫, 中村悦二 著 にっかん書房 1994.2
NEC はシェアとしては最大手ですが、メーカーの数で言えば1社 vs 11社の戦いです。
教育用パソコンの開発に参加したのは NEC と 弱者連合11社、あわせて12社です。NHKで放送されたプロジェクトXでは「大手11社は 皆 トロンを希望」(セリフそのまま)と、まるで全ての大手メーカーがトロンを希望したかのような印象操作を行っています。最大手1社 NEC が反対したことは番組内で一切説明されていません。最大手は大手をはるかに超える存在だから、大手には含まれないということなのでしょうね😛
多数決の論理によって NEC は追い詰められていきます。最初に NEC が提案していたのが MS-DOS をベースとして BTRON 対応機能を追加する「アウターOS」方式です。しかしこれに関しては CECおよび他のメーカーからの反対で断念します。次に提案したのが「マルチOS」方式です。マルチOS方式は調べてみると複数のOSをあたかも一つのOSとして使えるようにするもののようなのですが、当時はハードディスクは一般的ではなく、フロッピーディスクで使用するOSを切り替えればよいだけのはずなので、NEC のいうマルチOSがそこまでのものを意味していたのか少し疑問があります。1988年3月19日の朝日新聞(夕刊)では「スイッチの切り替えで使えるパソコン」とあるので切り替えて再起動して使うのだと思いますが。まあ、いずれにしろ MS-DOS と BTRON OS の両方が動くパソコンを提案したということです。この案に関しては BTRON OS が使えるパソコンが MS-DOS にも対応しているというだけなので、CEC も理解を示したようです。この議論の最終局面である1987年10月の日本経済新聞では、短い間隔でこの件が記事になっています。
・1987年10月1日 教育用パソコン 標準規格に「TRON」 松下などの案採用 教育開発センター 規格外試作も認める
・1987年10月2日 日電の主導権後退 教育用パソコンTRON有力に 固かった11社の結束 有望市場、互換性に問題も
・1987年10月6日 教育強パソコン TRON規格で決着へ 日電が歩み寄る 標準試作機開発に同意
・1987年10月7日 教育用パソコン 日電、マルチOS提案 既存ソフト生かし柔軟性
マルチOS案は、一見すると NEC が負けて BTRON 陣営に加わったと考える人がいるかも知れませんが、そうではありません。もし仮に NEC だけが MS-DOS と BTRON の両方の OS に対応するパソコンを作ったとするならば、値段に大きな差がない限り、誰もが両方を使える NEC のパソコンを買うでしょう。教育用パソコン市場で勝つには他のメーカーも BTRON OS だけではなく MS-DOS への対応を考慮しなくてはならなくなったということです。マルチOS案の提示は他のメーカーに対する宣戦布告でもあるわけです。
各メーカーの思惑の中、CEC は教育用パソコンの仕様案「CEC コンセプトモデル'87」を 1987年10月13日に完成させ、各メーカーは教育用パソコンの試作機の開発を始めることになります。提出期限は1988年2月末、わずか4ヶ月半しかありません。ただし NEC はその期限ではマルチOSの開発は時間がかかると、5月に提出すると予め伝えています。
NEC「TRONに反対はしないが選択肢の一つにすぎない」
標準化は重要ですが、場合によっては技術革新を妨げることがあります。この点に関してのファクシミリを例にした NEC の意見は正論です。
Unix にも POSIX という 1988 年から現在まで続いている標準規格があるのですが、POSIX が優れているのは(原則として)自分たちで新しい標準規格を作る(発明する)のではなく、それまでで多くの Unix で認められた仕様を後から標準規格にするという方針である所です。また各メーカーの独自の拡張を妨げることがないように慎重に標準仕様が決められていることです。これにより macOS は POSIX という標準規格を満たしながら最先端技術の実現を可能にしています。これは TRON がなにもないところから坂村氏の考えたものを標準規格にするというやり方とは正反対と言えます。坂村氏の考えが正しいものであれば構いませんが、正しいかどうかなんて実際にやってみなければわからないことです。実際 TRON の仕様は完全に時代遅れとなっており、超漢字などは一から作り直さない限り現在のコンピュータの世界にはついてこれないでしょう。ただ運が良かったのは、超漢字などほとんど誰も使ってないため、互換性を壊しても困る人はほとんどいないことです。
試作機は松下電器の実験機ベース
本来の BTRON パソコンは各パソコンメーカーがパソコンを作り、OS も自分たちで作るというのが、TRON プロジェクトでの想定です。しかし既存のパソコンの改良で実現可能だと思われるパソコン本体はともかく、全く新しい BTRON OS をわずか4ヶ月半で作るのは現実的ではありません。そのため BTRON OS は松下電器が供給し、その BTRON OS が動くようにパソコンも松下電器のパソコンがベースとなっています。将来的には独自で開発していたかも知れませんが、試作機としてのひとまずの対応です。ただ、そんなんで試作機の目的を果たせるのか謎ですけどね。だってそれぞれのメーカーが独自で作らなければ、各社がそれぞれで試作機を作る意味がないでしょう?
ASCIIの1988年5月号には「CECが教育用コンピュータの試作機を公開 日電を除く11社が9台のBTRONベースマシンを試作」とあります。9台の試作機が開発されたという話は他の記事でも見かけるのですが、なぜ11社なのに9台しかないんだろう? というのは誰もが思う疑問だと思います。これはそれぞれの会社がそれぞれで試作機を作ったのではなく、複数のメーカーで共同開発しているからです。試作機の内訳は次のとおりです。
文章ではよく分かりづらいのでこれを表にするとこうなります。横に並んだ✓がパソコンを共同開発したメーカーです。例えば「パソコン A」は 8 社による共同開発です。
| 松 下 電 器 |
沖 電 気 |
東 芝 |
三 菱 電 気 |
シ ャ | プ |
ソ ニ | |
三 洋 電 気 |
日 本 ユ ニ バ ッ ク |
日 本 I B M |
日 立 |
富 士 通 |
ベースパソコン | 台数 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| A | ✓ | ✓ | ✓ | ✓ | ✓ | ✓ | ✓ | ✓ | 松下製実験機 | 1 | |||
| B | ✓ | ✓ | 松下製実験機 | 1 | |||||||||
| C | ✓ | 松下製実験機 | 1 | ||||||||||
| D | ✓ | 松下製実験機 | 1 | ||||||||||
| E | ✓ | 松下製実験機 | 1 | ||||||||||
| F | ✓ | 松下製実験機 | 1 | ||||||||||
| G | ✓ | 松下製実験機 | 1 | ||||||||||
| H | ✓ | FMR-50S | 2 |
シャープ、ソニー、三洋電気、ユニバック、日本IBMの5社は単独で開発したものはありません。単独で開発した所は松下電器を除くと、沖電気、東芝、三菱電機、日立、富士通の5社ですが、富士通以外は松下製の試作機がベースとなっています。富士通は独自パソコンで頑張っているように思えますが、元々松下電器と富士通は提携しており、松下製の実験機は富士通のパソコンの互換機です。つまり、ほとんど松下製の実験機のコピーなわけですが、同じようなものを何台も作る意味はあったのでしょうか? 試作機を作る目的は何で、それは松下製の実験機のコピーで調べることができるのかという話です。各メーカーの教育用パソコンで性能や互換性に問題がないか検証するならそれぞれで作らないと意味がないはずです。同じようなものを作るぐらいなら先に松下電器が1987年3月に開発した実験機を、学校の教師に試してもらって本当に BTRON で良いのか意見を集めるべきではなかったのではないかと思います。
NEC の BTRON 開発への抵抗
NEC は 1988年5月までに MS-DOS と BTRON OS のマルチOSを提出すると伝えていました。しかし実際に5月に提出されたのは MS-DOS と UNIX のマルチOSでした。それでは NEC の言い訳を見てみましょう。
日本電気は「トロンの仕様は細部まで決まっておらず、トロン仕様を取り込もうにもできなかった。トロンOSが固まれば今年末にも、あらためてMS-DOSとトロンの両方が使えるパソコンを提出する」としている。
これは提出に遅れた言い訳と考えることもできますし、NEC の抵抗と考えることもできます。しかしこの段階では BTRON の仕様ができていないのも事実です。他のメーカーは、松下電器が開発した BTRON OS を使っているだけなので、細部が決まっていなくても実装されているように動くでしょうが、別の実装を作っているのであれば仕様書が完全なものでなければ互換性を実現できないのは言うまでもありません。仕様書があれば互換性があるものが作れると考えるのは幻想です。現実には仕様書の不備や実装のバグや細かいタイミングの違いなどによってうまく動かないことがあるものです。その問題は長い時間をかけてゆっくりと解決するしかありません。
ちなみに NEC が開発した教育用パソコンの試作機は、1984年秋に発売された UNIX (Xenix) と MS-DOS の両方が動く PC-UX をベースとしたパソコンです。Unix はハードディスクにインストールしておき、フロッピーディスクから起動したら MS-DOS (や N88 Disk BASIC など)が起動するという形が想定されていたようですが、HDD をパーティションで区切って複数の OS を使い分けるという使い方もできたでしょう。
NEC は1988年内には MS-DOS と BTRON のマルチ OS パソコンを開発する予定であるという記事をいくつか見かけました。そして BTRON と MS-DOS のマルチ OS 方式の試作機を納入したと書いてある記事もいくつかあるのですが、いつどのようなものを納入したのか詳細を書いているのを見つけられていません。途中までは NEC 自身で BTRON を開発していたようですが BTRON とのマルチ OS の開発に苦戦しており、年末までに間に合わせるために実装方法を変えたのではないかと推測されます(次項参照)。それでも最終的に納入したのかはよくわかりません。
各メーカーのBTRON OSは松下電器からのOEM提供(有料)
教育用パソコンに導入される BTRON OS は松下電器からの OEM 提供で配布されました。
OEM 提供というぐらいですから BTRON OS は有料です。オープンソース文化の発達してない当時には、ソフトウェアを無償で提供するなんて考えられませんから当然です。
トロンを無償で配布するというのは、仕様が無償で使える(坂村氏に使用料を払う必要がない)という意味を OS の値段だと勘違いしたものです。
教育用パソコンとBTRONパソコンの仕様の違い
教育用パソコンは CEC が教育現場にふさわしいと考えたパソコンですが、BTRON パソコンは坂村氏が考える理想のパソコンです。その仕様は全く同じではありません。教育用パソコンの仕様の一部として、BTRON パソコンの仕様の一部が使われたという形です。採用されなかったものの中で一番大きなものは、独特のキー配列と形状を持つトロンキーボードでしょう。BTRON の普及を進めたいと思っていても、あのキーボードだけは受け入れられないと多くの人が考えていたのでしょうね。この事実は学校で BTRON パソコンを使って学んだ子供たちであってもトロンキーボードだけは普及する見込みがなくなったことを意味します。
教育用パソコンは名目上は BTRON ではないと CEC も言っています。しかし、BTRON 特有の仕様があります。例えばファイル管理方式は BTRON 互換で、BTRON の特徴的な「実身/仮身モデル」やデータ管理方式「TAD」をそのまま採用しています。また文字コードも JIS 6226(現在の JIS X 0208)が使われます。
教育用パソコンの試作仕様(CEC コンセプトモデル '87)を書いてあるところはいくつもありますが、ひとまず ASCII の 1988年1月号に掲載されているやつを引用します。記事にあるように「共同提案仕様」となっている部分が主に BTRON の仕様となっています。
それにしても、教育用パソコンは BTRON の本来のトロンチップではなく 80286 の命令セットを使うわけですが、これで本当に BTRON パソコンの普及につながったのか謎ですよね。これだとどうせ MS-DOS や Windows を動かすようになって終わりでしょう? 余談ですが、この仕様にはサウンド機能が含まれていません。授業中に音を鳴らすな、音は不要だというのは、だいたいその通りなんですが、音楽の授業などで鳴らしたい場面はあるでしょう。PCM 音源はまだ一般的ではないので動物の鳴き声みたいなのは難しいですが、1980年代の中頃から後半にかけてはサウンド機能は全てではなくとも一般的となっており、仕様に含まれていない理由がよくわかりません。
教育用パソコンの試作機の評価と結末
各メーカー間での思惑もあり、一筋なわけでは行きませんでしたが、ひとまずは試作機が完成しました。これで教育用パソコンに BTRON 採用することがきまったわけではなく、ここから実際に教育現場の教師などを交えた評価の開始です。この評価結果によっては BTRON 導入を断念することもあり得るわけで、知っての通り断念することになります。ここまでは「CEC コンセプトモデル '87」を作る作業、ここからは「CEC 仕様 '90」を作る作業です。
本来、教育用パソコンの評価は 1987年3月から開始する予定でした。この予定は1993年度には各学校に教育用パソコンを導入するというゴールから、パソコン室の準備、教師の学習、教科書の作成、パソコンの生産などの手順から逆算されて建てられた予定で遅れるわけにはいかないものです。しかし NEC の試作機の完成が5月になるなどの理由で評価は8月以降から開始することになりました。この時点で半年近くスケジュールが遅れていることになります。
教育現場は現行機との継承性を重視した
当然と言えば当然なのですが、学校教育現場から見れば新しい OS なんてどうでもよく、重要なのは既存のパソコンやソフトウェアは使えなくなってしまうのかです。試作機が完成して学校現場に導入した途端、この問題が大きく浮上しました。

読売新聞 1989年6月25日 23面 標準仕様の開発難航 既存の10万台 継承性問題が浮上
上記の記事では「トロンについて検討したが、技術的に簡単ではないというのが、我々の結論だった」と書いてあり理由までは書いてありませんが、やはり未完成の BTRON パソコンでは実用面に問題があるようです。また、手厳しい意見として BTRON(記事ではμBTRON)の本質は「電子文房具」であり、教育用パソコンには I/O インタフェーススロットが装備されていないため、教育内容がソフトウェアのみに限られハードウェアを学ぶには適さないことが指摘されています。これでは中学校用の「パソコン入門」程度の内容には耐えられても、特に工業高校などでコンピュータ技術を学ぶことには使えないでしょう。
次の新聞記事でも、教育現場から「すでに十万台も導入済みのパソコンとの継承性を最優先すべきだ」という声が強まったことが書かれています。

日経産業新聞 1989年6月13日 1ページ 教育用パソコン BTRON後退 出発からの挫折の芽 OS開発松下任せ 指導力に? 坂村氏
BTRON OS はバグだらけ?
BTRON OS のもう一つの問題は、バグだらけだったという話があることです。これが CEC の内部評価が遅れた理由の一つのようです。

日経産業新聞 1988年3月24日 1面 出遅れ日電に王者の余裕 "ユーザー資産"武器にTRONに待った

日経産業新聞 1989年6月13日 1面 教育用パソコン BTRON後退 出発からの挫折の芽 OS開発松下任せ 指導力に? 坂村氏
日本のソフトウェア開発の技術力が他国に比べて大きく劣るとは思いませんが、ソフトウェア開発に関して「日本の技術力は世界一」などという話は聞いたことがありません。どちらかといえばソフトウェア開発に弱いという話のほうがよく聞きます。したがってバグも普通にあるでしょう。
各社の教育用パソコンに対する考え方
各社(12社中8社のみ)が TRON 導入に関してどのように考えていたかを「TRON導入とCAIシステムの最新動向調査 : 88年版 出版社:シード・プランニング 1988年11月7日」から引用します。
簡潔にまとめるとこのようになります。
| メーカー | 方針 |
|---|---|
| 松下電器 | BTRON をベースとして MS-DOS をカバー |
| 東芝 | CEC コンセプトに基づき作るがMS-DOSを取り込む。当面はMS-DOS中心 |
| 沖電気 | 文部省、通産省の出方次第 |
| シャープ | 松下電器から OEM 提供を受けるが、他機種との互換性が必要 |
| 日本電気 | これまで学校が作成したソフトが使えないものは導入できない |
| 富士通 | OS は MS-DOS が中心。BTRON が教育用に広まらなければ伸びはない |
| 日本IBM | BTRON に参入する考えはあるが 92 年までにハードが揃っていること |
| 日立 | CEC マシンが動き出してから考える |
これを見てどう思いますか? 私は「BTRON に賭けようなんてメーカーは一つもなかった」と思いました。各メーカーは通産省が BTRON 推奨と言い出し、NEC の案に乗るのもどうかと思ったので、消去法で BTRON 仕様を提案しただけで、松下電器を含め BTRON の採用には不安があったとしか思えません。メーカーとしてはごく普通の判断です。これらのメーカーの希望を満たすには、OS を指定しないことしか選択肢はありません。OS を指定しなければ、MS-DOS を採用したいところは採用でき、他の機種やこれまでのソフトとの互換性を保つこともでき、BTRON を採用したいなら BTRON を採用できます。「日の丸OS」を普及させたかった通産省以外にとっては完璧な解決策です。
AXベースの教育用パソコンの開発
三菱電機、沖電気、三洋電機、シャープの4社は共同で AX ベースの MS-DOS と BTRON の両方が動作する教育用パソコンを開発します。
AX というのは PC 互換機をベースにハードウェアを使って日本語表示を可能にした標準規格で、1986年に ASCII と Microsoft によって提唱されました。AX 規格はそれほど普及せず、最終的にソフトウェアで日本語表示を可能にする DOS/V と Windows 3.1 の登場で消滅してしまうわけですが、当時は世界基準のパソコンをベースにした NEC の PC-98 シリーズの対抗馬でした。
これら4社が AX ベースの教育用パソコンを開発した理由は明らかでしょう。教育用パソコンの試作機は、松下電器のパソコンをベースとしていたため、これら4社が一般向けに販売しているパソコンとの互換性がありません。NEC が一般向けに発売している PC-98 シリーズと互換性がある教育用パソコンを作って継承性を実現するのであれば、対抗して一般向けに発売している AX 規格のパソコンと互換性がある教育パソコンを作る必要があります。
この時点で、もはや教育用パソコンは BTRON OS が移植されただけの市販のパソコンとほぼ同じです。メーカーは Windows が動作可能な PC 互換機を作れば良く、それとは互換性のない BTRON パソコンを作る意味はなくなってしまいました。
富士通が発売するBTRONではない教育用パソコン
教育用パソコンの試作機を開発している最中、富士通はBTRONではない、MS-DOSベースの教育用パソコンを発売しています。
CEC の教育用パソコンへの参加方針は変更していないとのことですが、BTRON 一本で行こうなどとは考えていないことがわかります。
松下もMS-DOSとBTRONの両方が動く教育用パソコンを開発
松下電器・・・ではなく松下通信工業ですが、教育用パソコンとして発売した BTRON パソコン「PanaCAL ET」も、結局は MS-DOS を使えるものとなりました。
結局のところ MS-DOS に対応しないというのはありえなかったということです。ちなみに松下通信工業から発売されたのは、元々松下通信工業が教育関係の設備などの販売を行っていたからです。松下電器の情報システム研究所での開発が一応終わったため(BTRON 開発部隊は最低限の人を残して解散?)、松下通信工業が販売するために後を引き付いだ形でしょう。
松下電器はBTRONを教育用としてしか見ていなかった
BTRON OS 開発の現場チームは別だと思いますが、少なくとも教育用パソコンの話がでたあたりの松下電器の上層部は、BTRON を教育用としてしか見ていませんでした。松下電器の考えと坂村氏の考えは一致しているわけでありません。またしてもバソコン用 BTRON の発売を断念した三木氏へのインタビューです。


田原総一朗のパソコンウォーズ : 90年代のパソコンをプロデュースする男たち 1988年12月 105ページ
当時、松下電器の情報・通信事業担当の村瀬通三専務も、インタビューで同様のことを言っています。1988年11月時点では、まだ情報システム研究所の段階で、これからどうするのか決まっていないこともわかります。
BTRON がよっぽど成功していれば話は別だったと思いますが、松下電器としては教育用パソコンを発売して終わりだったのでしょう。ビジネス的に Windows と競合していませんでした。米国の圧力が怖かったとかではなく、ここでいうように教育用パソコンとワープロ専用機に BTRON を搭載して発売しました。そして終わりというわけです。
CEC が教育用パソコンの OS を指定しなかった理由
CEC が教育用パソコンを BTRON に指定するのを断念した理由は、CEC しか知りません。CEC は理由について OS の変化が大きい現状では、OS の仕様を定めないほうが良いと判断したと語っています。

NEW教育とマイコン 1990年11月号 CEC仕様まとまる!教育用コンピュータに求められるものは何か
また、教育現場にはすでにパソコンが導入されており、継承性を無視できなかったことも明確に言っています。

内外教育 1990年7月13日 2ページ 教育用パソコンの標準仕様提示 財団法人コンピュータ教育開発センターが調査報告書
もちろん外野の意見として米国の横やりがあったからだろうという推測もあるのですが、CEC は米国からの横やりがあったから BTRON 指定を断念したのではないと明確に言っています。

たしかな目 : 国民生活センターの暮らしと商品テストの情報誌 (61) 1991年3-4月号 86ページ
もちろん私も米国からの横やりの影響がまったくなかったとは思いませんが、これが CEC の公式発表であり、それ以外はたとえ坂村氏がなんと言っていたとしても推測でしかないということです。
教育用パソコンへの BTRON 採用は中止されていない。
中止されたのは教育用パソコンを BTRON 限定にすることであって、BTRON 採用は中止されたわけではありません。このことは CEC が発表しています。
日経新聞などでは BTRON 採用断念という間違った見出しの記事が発表されましたが、上記の記事は、それに対しての反論となります。
事実、松下電器の BTRON 搭載の教育用パソコンは発売されまし、その他のいくつかのメーカーは AX ベースの BTRON 搭載の教育用パソコンを開発しました。
教育用パソコン問題の終盤での米国からの横やり
ここまでの話を見ても分かる通り、教育用パソコンに BTRON 仕様を採用するということは問題だらけで、CEC が OS を指定しないことを選んだ理由もわかると思います。たとえ BTRON 仕様を採用したとしても、単なるパソコンの使い方の一つに過ぎず、BTRON が普及することはなかったでしょう。せいぜい未来のパソコンのデモ扱いです。その未来も子供たちが学校を卒業するころには Windows で実現されていました。それまでの間に BTRON 用にアプリケーションを揃えられるかと言ったら、どう考えても無理です。そういう望みのない状態だったわけですが、その教育用パソコン問題にとどめを刺したとみなされているのが米国からの横やり(スーパー301条問題)です。
米国は TRON プロジェクトに圧力をかけたのではない
米国が圧力をかけたのは教育用パソコン市場であって TRON プロジェクトではありません。実際に米国がなんと言ったのかは以下の記事を参照してください。
簡単にまとめると、教育用パソコンと NTT の次世代デジタル通信ネットワーク (ISDNのこと)の2つに対して市場が閉ざされていると言ってきたのです。
第一に、日本の文部省 (MOE) は、日本の中等教育機関向けに 220 万台のパーソナルコンピュータを調達する計画を立てている。そのうちおよそ 70 万台が、1989 年に発表される予定の最初の調達において購入されることになっている。通産省 (MITI) と文部省の共同管轄のもと、特別グループ (CEC) がこの利益の大きい調達に対する技術仕様を作成したと見られている。この仕様は、新たに開発されたオペレーティングシステムソフトウェア (TRON) に有利となっている。
第二に、1989年1月、NTT は次世代デジタル通信ネットワークのアップグレードにおいて TRON アーキテクチャを必要とすることを発表した。NTT は 1988年11月に高速パケット多重化システムの共同開発を求める要請を出し、その中でシステム管理には TRON が使用されると述べている。
TRON プロジェクトそのものに圧力がかけられたわけではないことは、ほかでもない、トロン協会が公式に言っていることです。下記の6月「USTR 代表から協会抗議文への返書入手」に書いてあるように「米国政府はトロン協会の活動に対して反対するものではない。」としっかり書いてあります。
この事実はTRON 関係者も理解しています。
もちろん坂村氏も理解しており、1989年の夏時点で「TRON 自体にけちをつけようとしているのではない」と言っています(TRON が技術的に優れているかは別ですが)。

Voice ビジネス特集 夏季増刊号 1989 「スーパー三〇一条顚末記」 坂村健 129ページ
NHK の プロジェクトX では米国は TRON プロジェクトをやめるように日本に圧力をかけたかのように演出されていましたが、米国が圧力をかけたのは教育用パソコン問題です。プロジェクトX では教育用パソコン問題のほとんどをカットして偽の歴史に置き換えているため、米国が圧力をかけた理由に関して正しい説明ができていません。そのため坂村氏の「TRON プロジェクトは悪くない」ことだけにフォーカスがあたりました。確かに TRON プロジェクトは悪くないのですが、それは米国が主張した教育用パソコンを TRON 限定にしようとしたことへの反論に放っていません。
スーパー301条の半年前のUSTRからのクレーム
TRON はスーパー301条の制裁対象になったわけではなく、制裁対象の候補に指定されただけで最終的に制裁対象にはなりませんでした。制裁対象になったのは候補になった34品目中3品目で、TRON は騒ぎすぎたのです。制裁対象の候補になるというのは(スーパー301条とは関係なく)USTR が毎年出している外国貿易障壁報告書に取り上げられるということです。TRON も1989年の外国貿易障壁報告書で取り上げられたわけですが、その半年前の1988年9月にに USTR から日本政府に対してクレームが来ているようです。
どうやら坂村氏はこの話を知らなかったようで、このことを 1989 のゴールデンウィーク(外国貿易障壁報告書の発表は4月28日)中に長野県の山小屋(軽井沢?)で聞いたようです。衛星放送というのはNHKのBSチャンネルのことのはずです。当時ほかに衛星放送はありませんし、NHKのBSチャンネルは、本放送はまだですが試験放送が行われていました。

坂村健 武田計測先端知財団 2005/8/31
http://www.takeda-foundation.jp/reports/pdf/ant0201.pdf
今でもはっきりと覚えていると言う割に、直後の話では「旅先の宿」と言っています。

Voice ビジネス特集 夏季増刊号 1989 「スーパー三〇一条顚末記」 坂村健 129ページ
試験放送を旅の宿が提供しているとは思えず、パラボラアンテナを設置しているようなのですが、軽井沢のどこかの宿に泊まって、山の中でもテレビが見れるのか実験でもしたのでしょうか? まあ、それはあまり重要ではなく初めて聞いたのが1989年の4月末、それよりの前の1988年9月の話は聞いていなかったということなのでしょう。
そもそも米国は坂村氏の TRON プロジェクトに対して圧力をかけたのではなく、通産省と文部省の共管である CEC に対してなので、坂村氏が知らなくても無理はありません。CEC は TRON の仕様書の一部を利用するために、権利者である坂村氏に対して覚書を書いただけだからです。
CEC は「教育用パソコンは BTRON パソコンとは違う。仕様の一部を利用しただけ、教育用パソコンは強制ではない」と明言していますが、おそらくこのクレームの後からだと思われます。坂村氏もスーパー301条の件で、教育用パソコンは BTRON と同じものではないから、米国の批判は的はずれであるというようなことを言っていますが、これは米国がクレームを出した後に変更された方針でしょう。教育用パソコンの仕様をどうするかの話に関して坂村氏は直接の関係者ではないため、内部の事情は知らないはずです。
米国はトロン技術なんか恐れていなかった
米国は日本のトロン技術を恐れて中止させたというのもデタラメです。米国が恐れたのは日本の教育用パソコン市場に参入できないことです。ここでもプロジェクトXでは悪質な印象操作を行っています。まずテレビで放送された番組では 19:25 からは次のような内容で、リン・ウィリアムズ氏へのインタビューを紹介しています。
トロンをリストアップした通商代表部のリン・ウィリアムズ
アメリカのソフトがトロンのために、日本の教育パソコン市場から排除されると思った。
(リン・ウィリアムズさん)「日本の教育用コンピュータは大きなビジネスチャンスでした。注目せざるを得ない大問題だったのです。」
基本ソフトはアメリカに巨大な富をもたらす
世界第二の市場 日本
教育用パソコンがトロンに決まれば、大人になってもトロンを使う。アメリカにとって、譲れない一線だった。
ウィリアムズ氏は「日本の教育用コンピュータ」がビジネスチャンスと言ってるのに「基本ソフトは米国に巨大な富をもたらす」と、基本ソフトがビジネスチャンスであるかのようにすり替えているのが悪質なポイントですね。プロジェクトXは書籍版もあり、そこにはより詳しく書かれているのですが、該当する部分は P27 のように次のように書いてあります。太字は私によるもので、テレビ放送ではカットされた部分です。
問題は教育用パソコン
トロンをリストアップしたアメリカ通商代表部次席代表のリン・ウィリアムズも、"MS-DOS" などのアメリカのソフトがトロンのために、日本の教育パソコン市場から排除されると懸念していた。ウィリアムズは述懐する。
「日本の教育用コンピュータは大きなビジネスチャンスであり、注目せざるを得ない大問題だったのです。トロンを問題とした理由は、日本政府がそれを日本の教育システムの標準として使用するよう提言したことによります。トロンは、アメリカ企業が基本ソフトにすでに多大な研究開発を行ったあとに、突然現れたのです。日本政府が登場し、『君たちも新たに開発されたトロンを採用しなさい、そちらのこれまでの研究開発はどうでもよい』と言ったも同然です。『あとから日本についてくるのはいい』というわけです。これは公明正大な競争とはいえません。われわれは、もしかすると日本政府が日本企業と一体になって、外国のソフトウェア企業、とりわけアメリカのソフトウェア企業を競争のチャンスさえ与えないままに排除しようとしているのかもしれない、という強い懸念を抱いたのです」
教育用パソコンがトロンに決まれば、日本の子どもたちはみな大人になってもトロンを使うだろう。そうなれば、世界第二の巨大市場を失うことになる。 アメリカにとって、譲れない一線だった。
アメリカが言っていることはもっともで、フェアな競争をしようということです。なぜ米国で認められた OS ではなく、良いものなのかわかっていない BTRON の研究開発なんかに参加しなければならないのでしょうか? 悪質なプロジェクトXは、このウィリアムズ氏の発言を丸々カットし、「基本ソフトはアメリカに巨大な富をもたらす」と適当な言葉で誤魔化したわけです。いったいなんのためにインタビューしたのでしょうね。
もちろん、日本の教育のことなんだから日本に決めさせろというのも考え方としてはありです。しかし未完成で教育に向いているかどうかわからない BTRON を導入するのは、一体誰のためなんでしょうか? それは教育のためではなく、教育現場を使って BTRON OS が実用的なものか、実用的なものに育てられるか実験する行為です。たとえ坂村氏が BTRON は教育用に向いていると言ったからと言って、検証されていなのでは説得力はありません。別に米国は BTRON を禁止したわけではないのだから、まず BTRON パソコンを販売して、それが日本人に認められば自然に教育現場に導入されるわけですから、それでいいではないですか? 結局のところ坂村氏も含めて「BTRON は日本国民に選ばれるわけがない、普及するわけがない」と心の奥底で思っていたから、教育用パソコンとして政府が強制的に導入しなければならないと考えていたのでしょう。BTRON は教育用パソコンに導入するしか普及する芽がないというわけです。
たとえ教育用パソコンを無理やり BTRON にして日本でトロンが普及したとしても、米国では普及することはないでしょう。米国はすでに IBM のパソコンと MS-DOS・Windows が席巻しているので、米国に TRON が入り込む余地はありません。米国が日本の市場に入るのが難しかったのは、日本語対応が参入障壁となっていたため技術的に解決するまで時間がかかってしまったからです。米国では日本語表示が不要なため、そこに日本語や他の言語がうまく扱えるといってもメリットはありません。TRON でしか実現できないことはなく「特徴的な点(実身/仮身モデルなど)」はあっても「優れた点」はないわけです。むしろパフォーマンスを理由になんでも OS に組み込んでしまった TRON は柔軟性が低くなってしまい、現在それが負債となってしまっています。
すでに説明している通り、教育用パソコンを BTRON 限定にしなかったのは、教育現場の教師から継承性が重要であると言われたからです。USTR からの圧力も理由の一つでしょうが、それは TRON 開発をやめろという圧力ではありません。日本の教育用パソコンは BTRON 限定にすることをやめ、フェアな競争が行われた結果 MS-DOS が勝ちました。
日本のメーカーは米国の圧力を恐れてBTRONパソコンから撤退したのではない
日本のメーカーは、米国からの圧力を恐れて BTRON パソコンから撤退したのではありません。BTRON パソコンを出そうと思えば出せませたが、教育用パソコンの仕様が BTRON 仕様限定でなくなったので、発売に踏み切れなくなっただけです。

日経エレクトロニクス 1990.5.4 115ページ 特集トロンの光と影 教育市場独占の夢が断たれた BTRON パソコン
スーパー301条でTRONが有名になり参加企業は逆に急増した
BTRONパソコンではなく、TRONプロジェクトからの撤退の話です。プロジェクトXではプロジェクトに参加していた140を超える企業が、スーパー301条問題で80を超える企業が去っていったとあります。実際 TRON 協会の過去のウェブサイトを見れば(時期はわかりませんが)確かに70企業まで減っているので、これは間違いではないだろうと思っていたのですが・・・

Voice ビジネス特集 夏季増刊号 1989 「スーパー三〇一条顚末記」 坂村健 134ページ
坂村氏は、スーパー301条に取り上げられたことで TRON が有名になり、参加希望企業が急増したと書いています。
おやぁ? おやぁですよ。この後すぐに減った可能性もありますし、これだけではなんとも言えませんが、疑わしいものを見つけた以上、ここに記録を残さなければいけません。おそらく減り始めたのは1年後、松下電器が BTRON パソコンの開発を断念してからだと思いますけどね。
教育用パソコンは税金を投入した日本政府のプロジェクト
すでに説明している通り、教育用パソコンは通産省と文部省の共管である CEC によって計画され、税金も投入されている日本政府の国家プロジェクトです。TRON プロジェクトや松下電器による BTRON の開発は民間のプロジェクトですが、米国が指摘したのは教育用パソコンです。
ここでもプロジェクトXは印象操作を行っており、坂村氏に TRON プロジェクトは民間プロジェクトであり外国の企業でも参加できると言わせることで、米国が本当に指摘したことが教育用パソコン市場の閉鎖性であることを隠蔽しています。
誰がUSTRに苦情を申し立てたのか?
結論から言えば、誰がUSTRに苦情を申し立てたのかはわかりません。おそらく誰が言ったかは外部には公開していないはです。もちろん坂村氏が知るはずがありません。
昔から第一の可能性として挙がっていたのが Microsoft です。当時、パソコン用 OS の勝者ですから、疑われるのも無理はありません。坂村氏も何かとマイクロソフトをライバル視(敵視)していたようで、マイクロソフトだと思われるようなことを過去(1992年)に言っています。

bit 1992年10月号 6ページ 電脳文化論 第一話: 多国語処理と文字コード 坂村健
『過去の資産というアドバンテージを失うことを恐れた「外国某メーカ」の圧力で』と書かれています。この当時に、過去の資産がある「外国某メーカ」で思いつくのは、おそらく Microsoft でしょう。しかし坂村氏が知るはずがない情報ですから、これは確証のない誰かから聞いた噂話のはずです。実は Microsoft はこの件に関して関係ないと証言しています。これは Microsoft が TRON と手を結んだ 2003 年の話です。

AERA 2003年10月13日 宿敵トロンを使う危機感と損得勘定 マイクロソフトしたたかに変身
それにしても、Microsoft は脱ウィンドウズなんてしました? みんなが脱ウィンドウズと思っていたものは、Microsoft にとっては Windows 依存のビジネスから脱却することで、Windows を捨てることではなくて Windows を複数の収益の柱の一つという立場に変えることだったと思うんですよね。現状を見ればそうなっていると思います。
第二の噂は、ソフトバンクの孫正義です。「孫正義起業の若き獅子」では、日本の閉鎖性を憂いており、これからの時代、外国の技術も取り入れなければダメだと TRON 潰しをしたと書かれていますが、具体的に何をしたのか不明で、おそらく通産省の幹部を巻き込んで教育用パソコンから BTRON 仕様への統一を断念させたのではないかと思うのですが、当時のソフトバンクは米国に関連会社などももっていないはずで、ソフトバンクは USTR に参入書壁だと訴える立場にないと思われます。
「マイクロソフトの真実」には次のように書かれてあります。

マイクロソフトの真実 97-98ページ
Microsoft のビルゲイツの話はすでに書いたとして、ここには「教育用コンピュータ分野では実績のあるアップルのジョン・スカリー」の名前が上がっています。つまり Apple が USTR に苦情を申し立てた可能性もあります。
可能性で言えば、IBM の可能性は結構高いと考えています。日本 IBM は教育用パソコンの試作機の開発に参加しており、BTRON 陣営にも加わっていましたが、そもそも IBM は MS-DOS を踏査した PC 互換機を開発していたわけで、そもそもなぜ BTRON 陣営に加わっていたのか謎な存在です。確かに日本 IBM は BTRON パソコンを作ろうと考えていたのでしょうが、米 IBM もそうとは限りません。表では BTRON パソコンに賛成しながらも、内情に詳しいわけですから IBM PC を売れるように USTR に苦情を申し立てたかも知れません。
さいごに
国産OSトロン潰しの話をすると、スーパー301条問題ばかりがクローズアップされ、「通産省 vs 文部省、NEC vs 弱者連合」の教育用パソコン問題の話をしているところが、まったくと言っていいほどありません。なんなら NEC が猛反対したことが知られていないぐらいです。当時を知っている人なら新聞などで何度も目にしているはずなのですが、比較的最近に作られた記事では、米国の横やりで潰されたとかいうプロジェクトXの作られたストーリーを真に受けているものばかり、そこから派生した陰謀論ばかりです。みんな一体なにを見て記事や動画を作成してるんでしょうかね?
調べればはっきりわかります。スーパー301条よりも「通産省 vs 文部省、NEC vs 弱者連合」の教育用パソコン問題の方が大きく、通産省の BTRON 採用するという言葉に乗せられただけで、どのメーカーも BTRON パソコンをそれほど推していたわけではなく、BTRON を断念した一番の理由は学校教育現場から BTRON ではダメだと言われたからです。米国の圧力を恐れたなどというのは外部の推測であって、中心に近い情報ほどそんなもの気にしていなかったことがわかります。
もう、BTRON のことなんて忘れましょう。日本のパソコン用 OS を作るプロジェクトは、技術とビジネスの世界でビルゲイツに負けた、失敗に終わったプロジェクトです。組み込み専用の OS でパソコン用としては用途が違いすぎて適さないってことでいいじゃないですか。なぜそんなに Windows と比較したがるのでしょうか? 歴史を誤魔化しても日本には Windows を超える OS があったんだなんて記事や動画を量産しても、そこからは何も得られません。それよりも正しく歴史を伝え、失敗した理由を学ぶことのほうが重要です。
1990 年代の OS である BTRON はもう古すぎて時代についていけません。すべてを捨てて一からやり直すしか復活できる見込みはありません。BTRON の特徴である実身/仮身、TAD、トロンコードは、ネットワークでさまざまな種類のコンピュータがつながった現代では、他のコンピュータと互換性のない負の遺産となっています。元々 TRON プロジェクトは、ネットワークでつながるコンピュータがすべて TRON コンピュータであるという無謀な前提のものでした。最初から計画に問題があったのです。

























































