はじめに
投球における「ばらつき」は,タイミングなどの確率統計的な文脈で語られることが多い.しかしながら,それはボールと身体間の力学が強く拘束することから,運動学的な協調だけでは解決することができず1,必然的に投球のばらつきは身体とボール間の力学と関係する.
神経科学ではspeed-accuracy trade-offと呼ばれ,身体運動において速度と正確性は反比例的な関係があると考えられている.投球に限らず身体運動では,速度が増加すれば正確性が低くなりやすい物理的構造が本質的に内在する(実際に計算で確認はしていないが,最後に計算の道筋を示したので,ご興味のある方は試してみると良い).しかし,一流のプレーヤーは学習によって,むしろこれらを両立する技術を獲得する.つまり力学拘束を利用した正確性を獲得し,速度と正確性が反比例しないよう,むしろそれらを両立させる技術や動作を習得していると考えられる2.恐らく,これは一流プレーヤーに限らず,ヒトのスキル(技術や動作)学習の本質のひとつだろう.
ここでは,そのトレードオフ関係を物理的に解決する方法を考察するための準備を行うため,リリース時のタイミングの違いによって,誤差がどの程度発生するか,実際の実験データにもとつく思考実験にて,トレードオフが発生する物理的構造を検証する.
速度と正確性のトレードオフに限らず,またスポーツに限らずほとんどの身体運動では,速度・力などの力学量を増大させることと,正確性,安定性,経済性(効率)などの間にはトレードオフの物理的構造が本来ある.それだけではないが,スキル(技能,動作)を習得するプロセス(学習)とは,トレードオフが発生しやすい物理構造を打破し,新たな力学構造を身体で(背後で)習得することにほかならない4.どちらかだけを抽出して関係性を論じることでスキルを語っても,それは身体のスキルではないだろう5.
タイミングの誤差によるばらつき
平均的なボールの運動軌道を仮定し,タイミングのズレを与えることでどの程度ばらつきが発生するか,その誤差の目安を考える.
まず,一定のボールの運動軌道を規定するため,リリース前にボールがどのような運動を行っているかその力学を復習する.
過去の記事も参考にしてほしい.
図1:回転制御フェーズ(真上から見た図.動力学的回転開始DSR〜
運動学的回転開始KSR〜リリース).
最大外旋位〜リリースまでの,ボールの軌道と角速度ベクトル
たとえば約140km/h(約39m/s)のストレートの投球時,リリース(BR)の前,ボールは約20msほど前に,ボールにバックスピン方向のトルクが作用しはじめ,さらに約10ms後に母指からボールが自然に離脱し(母指離脱と呼ぶことにする),バックスピンが始まる.
ここでは,このトルクが作用し始める時間を動力学的回転開始(DSR:dynamic start of rotaion,図1の青色破線)と,実際に母指離脱とバックスピンが始まる時間を運動学的回転開始(KSR:kinematic start of rotation,オレンジ色破線)と呼ぶ.
DSRでバックスピンのトルクが作用し始めるが(図2トルク$\boldsymbol{n}$参照),実際にバックスピンが開始するKSRのまでのラグが発生する.この理由は,最大外旋位からKSRまでは,腕や手とボールが一体化することで,ボールにはトップスピン方向に回転しており(図1の角速度ベクトルの軸方向,図2角速度$\boldsymbol{\omega}$の$y$成分を参照),まずその勢いを打ち消す必要がある.そこで,DSRからKSR間(青色)は,腕とボールの一体化による「トップスピン方向の回転の勢いを打ち消すフェーズ」といえる.
なお,ピンチング(母指と示指間でボールを挟み込む)によって,ボールの並進運動は比較的自由に方向の制御が可能となるが,KSR以降は母指がボールから離れ,ボールが指先で転がり始めることからボールの方向の制御は困難となり,リリースまでのボールの制御は受動的なフェーズとなる.
図2:約140km/hのストレートの投球のボールの速度,ボールに作用する力,
ボールの角速度,ボールに作用するトルクの各ベクトルの成分とノルム.
図1のデータとは対応していないので注意されたい.
データ処理の問題でリリース時の力が0でないことにも注意されたい.
図2には,約140km/hのストレートの投球時の,ボールの速度ベクトル,角速度ベクトル,ボールに作用する力ベクトル,トルクベクトルの各成分とノルムを,動力学的回転開始(DSR)からリリース(BR)までの回転制御フェーズにおける変化を示した.このわずか18msの間に,球速は40km/h,回転数は2000rpmも増加することに留意されたい.
一定の半径を仮定したボールの円運動
図3:図2のデータに対応する,ボールの曲率半径.
図3にはボールの曲率半径がリリース前にどのように変化するかを示した.母指と示指による把持が終わり,スピンが開始する運動学的回転開始(KSR)までの曲率半径はあまり大きく変化しない.しかしKSR以降,ボールは指を転がるだけで急激に曲率半径は増加し無限大(つまり直線運動)に変化する.図3より運動学的回転開始(KSR)の曲率半径が約1mなので,そのとき半径1mの回転運動を行っていると考えて良い.曲率中心や曲率半径については,記事「Numerical Recipes in Biomechanics #4 ~空間の曲率中心と力学~」を参照されたい.
各瞬間ボールは曲率中心まわりに回転運動を行っていると考えることができ,ボールの接線方向の速度を$v$,回転半径を$r$,ボールの曲率中心まわりの回転運動の角速度を$\Omega$とすると
$$
\begin{aligned}
v &= r \Omega
\\
\Omega &= \frac{v}{r}
\end{aligned}
$$
が成り立つ.
また,運動学的回転開始(KSR)での球速は約35m/s(124km/h)なので,母指離脱のタイミングが,1msだけ時間がずれると,
$$
\Omega = \frac{35 ~\text{[m/s]}} {1 ~\text{[m]}} = 35 ~\text{[rad/s]}
$$
となるので,曲率中心まわりの半径1mの回転運動と考えると,その角速度は$\Omega = 35$ (rad/s)= $35 \times 180 / \pi \approx 2005$ (dps)となる.したがって,KSR時には,1ms (= 0.001s)の間に2deg(=0.035rad)ほど振り子の角度が変化する.
母指離脱(ボールが自然と親指から離れること.親指をボールから能動的に離すわけではないことに注意されたい)の時点での半径を仮定する理由は,それが起こる運動学的回転開始(KSR)以降は,ボールがただ指を転がるだけでなので,ほぼボールの制御が困難となるタイミングだからだ.その後急激に曲率半径も増加し,ボールは直線運動へと変化し,このときに最終的にボールの飛翔方向が定まると考えるのが自然である.
ホームプレート上での角度誤差
図4:リリース時の2度の角度誤差はホームプレート上で65cmに拡大.
KSR時,つまり母指から離れるタイミングがたった1000分の1秒異なるだけで,角度2degの誤差が発生する.ここでは,リリース時の速度ベクトルにおいても角度2degの誤差が発生すると仮定する.また,もし半径が同じで,回転速度が増大すればだが,その角度誤差は増大するのでspeed-accuracy trade-offの関係を満たすことが推測される.
すると,このピッチャーのマウンドにおけるリリース時の速度ベクトルの角度が,ホームプレート上でどの程度の距離となるか考える.ただし実際には,ボールがホームベース上に到達するまで,重力と流体力の影響を受けて飛翔するが,ここでは,マウンドから見た速度ベクトルの延長方向が,リリース時の速度ベクトルが角度2度の違いでホームベース上で,どの程度の距離の誤差に拡大するか考える(図4下).
プレートからホームまでの距離(18.44m)を考慮すると(図4),弧長$l$と角度$\theta$の関係
$$
l = R \theta
$$
($R:$半径=プレート・ホーム間距離)より換算すると,KSR時,つまり母指から離れるタイミングがたった1000分の1秒異なるだけで,ホームプレートの上下左右の面内で約
$$l = 18.44 \text{[m]}\times 0.035\text{[rad]} = 0.65 \text{[m]} = 65 \text{[cm]}$$
の誤差を発生する.
図5:同じ場所を狙った,約20試技のストレートの投球における
リリース時の速度ベクトル(左の線)の上下角のばらつき.
破線は,ボールの軌道.左右の一メモリは20cm,上下は2.5cm.
角度のちらばり(標準偏差は0.82 deg)
図5は,同じ場所を狙ったストレートの約140km/hの約20球の投球の軌道とリリース時の各速度ベクトル,各KSRとDSRの位置を,投球の真横から見た図である.図5のように制球の良い投手の実際のリリース時のボールの速度ベクトルの角度の標準偏差は0.82度(=0.014rad).同様にホームプレート上の誤差に換算すると,約26cmの誤差である.このことから,良い制球において,母指離脱などのタイミングをずらすだけで,方向の制御を行うのは困難そうだ.反対に,リリースの時間のタイミングのズレに換算すると,0.41msとなる.ヒトがタイミングの調整だけでこのような芸当ができるとは考えにくいだろう.
また,そもそも軌道も最大5cm程度のばらつきがあり,KSRの位置も5cm程度のばらつきがあるなかで,リリース時のボールの速度ベクトルは,タイミングの調整だけでは困難と考えられ,ボールの方向の制御が困難なKSR以降よりも前の準備が重要と考えられる6
なお,タイミングの誤差としてガウス分布を仮定すると(図4参照),この横から見た図の上下方向の誤差分布や,回転速度(角速度)を変化させることで,spped-accuracy trade-offの関係も計算することができるだろう.
おわりに
この章では,同じ軌道の投球を行った際に,スピンが開始する母指離脱のタイミング(KSR)のズレで,ホームプレート上でどの程度の誤差が発生するかを実際の投球データを参考に検証した.
具体的には140km/hのストレートの投球で,KSR時の球速が約124km/h(=35m/s)曲率半径が約1mであることから,わずか1msだけ時間がずれるだけで,KSR時に約2degの誤差を発生する.その角度誤差がリリース時にも同様に発生すると考えると,その角度を延長するだけだが,それはホームプレート上で約65cmの誤差となるという試算結果を得た.
また,実際に計算していないが,タイミングのズレがガウス分布(正規分布)していると仮定し,ボールの曲率中心まわりの角速度が増加すれば,リリース時の速度ベクトルの角度のばらつきも増えることは容易に想像でき,タイミングのずれなどによるspeed-accuracy trade-offが,物理的に起こりやすいことも明らかだ.
しかし,図5に示すように,実際に投げる軌道がそもそも,上下左右前後,方向もばらついており,実際の場面でのコントロールよく投げるための物理的条件はタイミング以上にともて厳しい.それでも,実際の投球時のリリースの角度のばらつきは,制球の良い投球では2degよりも小さい.そのぐらい小さくなければ,試合では通用しないだろう.
KSRのタイミングも実際には,母指の開閉で定まるわけでもなく,物理的に自然とボールが離脱していく.また,KSRはスピントルクが発生する動力学的回転開始(DSR)の時点で定まっていると考えられる.そして,ボールが指を転がっていくフェーズでは,その間にボールの方向の制御を行うことは困難である.
これらの事実を考えると,回転制御フェーズを迎える動力学的回転開始(DSR)の前に,たとえば適切な力の作用点になるように準備をしておくことなどが重要と予想される.
投手は,投げ始めてから発生する様々なばらつきを調整しながら,投球することが要求されるが,単にタイミングや運動学的な協調によって,ボールの制御を行うことは困難だろうということは予想できる.フィードフォワード的な準備と,投球中の力学的な適応(フィードバック的)なしによい投球は成り立たないだろう.
今回は投球を横方向から観察した投球における軌道やリリース時の初速度ベクトルなどの分布のばらつきについて検証したが,今後,投球方向に対して垂直な面(投手や捕手目線の平面)におけるばらつきなど,様々な視点でばらつきについて検討する予定である.
参考文献
1) J. Hore and S. Watts: Timing Finger Opening in Overarm Throwing Based on a Spatial Representation of Hand Path. J Neurophysiol 93: 3189 –3199, 2005
2) J. Hore and S. Watts: Skilled throwers use physics to time ball release to the nearest millisecond. J Neurophysiol 106: 2024 –2033, 2011.
文献2)では,自身の文献1)で検証したタイミングによる制御の可能性の結果を否定し,力学の関与を検証しているが,具体的なメカニズムについては述べていない.
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筆者はベルンシュタイン問題のような自由度の問題を解決することで運動のパターンを定めるようなことをヒトは行っていないと考える.力学問題を解決することで,見かけ上自由度の問題は解決されているだけだろう. ↩
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NTTの柏野氏がよくとりあげるように,桑田氏は,今でもコントロールよく投げられるが,他のプロ野球の選手などと比較すると,人一倍リリースポイントのばらつきがあることに驚いたと述べている3.この事実を柏野氏は,桑田さんには「土地勘」(「成功の道すじはひとつ」ではなく、なんとなくこっちの方向に山があって、あそこ曲がれば駅があってというような地図の感覚を持っていると、調子が狂って道を外れた時も違うルートから元に戻ることができる)があり,「レールにボールを置くだけ」で投球していると説明しているが,これら柔軟に環境に適応する桑田さんの投球感を具現化する力学構造を明らかにすることも重要だろう. ↩
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「体はゆく できるを科学する〈テクノロジー x 身体〉文藝春秋,伊藤亜紗著」 ↩
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ヘーゲル哲学における弁証法では,このような矛盾する課題を解決することをアウフヘーベン(Aufheben,止揚)と呼ぶ. ↩
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スキルが力学構造に由来するなら,それは極めて数理的・物理的に記述し,統計に頼らず論理的に検証できるメリットがある. ↩
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球速は異なるが,桑田氏のばらつきは,図5に示す実験結果よりも,ばらついていたようだ.【実践】桑田真澄さんに聞く、勝てる脳と身体のきたえ方 連載第2回 コントロールの真髄に迫る(脳・からだ・こころ -NTT SBS Archive-) ↩




