この記事は5年前に別Webサービスにて投稿した記事の虫干し記事となります。文書内容が四方八方に飛んでいる草稿原稿は org-mode
書式につき、 筆者のgistでも閲覧できます。
但し、せっかく虫干しするのであれば当時文書に起こせなかった段落や文節についても言及や加筆を行う趣向で、以降の内容は記します。
この記事は、
「他人が何かを学習するにあたり、その学習する対象への興味を持たせたら良い気がする。なので自分が数理論理学を学んで『楽しかった事』や『感動した事』を書き連らねれば、 自分が楽しいと思えた数理論理学を他の人も興味を持ってくれるのでは。持ってくれるととても有り難い」
という動機・モチベーションで書いた、ポエム(詩ではない何か)である。
動機に至った理由としては、筆者が高校を卒業し、専門学校でコンピューターによる情報処理に必要な数学・論理学を授業で再学習をして理解ができ、 その後社会人になって論理学の知識を「深層学習」や「機械学習」、「関数型パラダイム」という言葉で必要性を改めて認識して学習を始めたら、 妙に楽しいと思えたからである。
ましてや虫干しする前には、ここまで機械学習どころか、そこから産まれた事前訓練済みのAIモデルを、あまりITに興味が無かった人々が神託者の様に用いるとは想像できなかった訳で。ただその用いられ方は神託者の様な用いられ方なので、余計に他人の思考や発想などというものがわからないので、そのきっかけとして自分の揚げ足取りの記事を虫干ししようと思った始末だ。
筆者の「プログラマやエンジニア向いてないだろ?」エピソード
しばらく筆者が「どれだけ算数・数学・論理学が出来なくて嫌いだったか」を書き連ねる。
小学生の筆者
酷い話で、数直線の理解ができてなかったのだろうと今は振り返る。
数直線が読めていたとしても、そこに日本語で数直線に対する問題を出題されると、誤答が多かった記憶である。
「数直線うんぬんの前に、日本語の理解が無いのでは?」
おそらく確実にその通りである。
文章題は解き方を説明されながら解けるものの、いざ実践で自力のみで行うと途端に解けない。
それ以前に、テストで文章題に辿りつく前の基本問題で時間を使い果していた記憶である。
中学生の筆者
未だに強く印象に残っているのは、
「二次元グラフにおいて、x,y の変数に対応する軸を当て違えて 2 年以上過ごしていた」
事である。そのおかげで数学は赤点常連組みであった。
その割には、図形の合同証明や相似証明は妙に好きであった。
「好き」が必ずしも「成績」には直結しない前提は付くので、成績はお察しの通りである
上述を楽観するならば、こういった証明問題が好きだからプログラミングに興味を持てたのかもしれない。
高校生の筆者
しかし、高校時代は本当に数学の全てが嫌になった様に思う。別に教員が悪い訳ではない。筆者の認知というべきか、 論理面での理解・解釈能力が遅れていたと思える。
特に「集合」の問題がてんで駄目であった。高校生の記憶はまだ新しいので違和感まで再現して分析できるが、 その違和感を分析してみれば、
「『問題の対象・関心』と『問題では扱わない対象・関心』を切り分けられず、苦心していた」
とも取れるし、
「複合命題を前提とした集合演算を読み解けなかった」
とも取らえれる。
やはり、論理というべきか日本語の読み解きの力が無かったのか。その割には文芸的な文書からの、
「出題文書の筆者の心情を読み取れ」
の類いは無駄に成績が良かった記憶。
そんな筆者がなぜ
「この背景や経歴を見ても明らかなくらいに論理が苦手なのに数理論理学を学んで感動したのか」
という事を書いて行こう。
論理学に興味を持った理由
きっかけはたくさんあった。
一番強い「Ubuntu Japanese Team の通称『黒幕』氏の助言など
とはいえ、『禅とオートバイ修理技術』を実際に買って読むまでどころか今日でも、自分が今書いた文の文節・単語の前後関係が支離滅裂で、それに全く違和感を抱かずに、当時の『Twitter』に投稿し続けていた。
そんな阿呆なので、某氏からリーナス・トーヴァルズの 10 倍希釈の論理添削をよく頂いていて、そのまま呆れ果てて良いものを、わざわざ筆者に野矢茂樹著『論理トレーニング 101 題』を買ってくれた訳である。
しかし、それだけ読んでもナマクラどころか棍棒同然の筆者の論理のナイフは、どれかというとナイフになることは諦め、マチェーテ(鉈)を先端に括り付けたバールになっていると自負する。
読者に、
「某氏を随分恨んでるなあ」
と思わせてしまったなら、それは正に筆者の表現力・語彙やその言葉の選択が幼稚で白痴だからだ。
文語表現の乏しさは何においても、筆者と同程度の健常発達者の中で下手に出る者は居ないだろうという自負はある。口頭では尚更である。
まどろっこしく述べたが、某氏には感謝している。
2020 年頃からの「論理的思考を養うためのプログラミング教育」や「深層学習(機械学習)」の思想
そんな筆者に追い打ちをかけるかの様に到来したのが「プログラミング教育」だったり「深層学習」のパラダイム、それと少しの関数型プログラミング言語の n 回目の流行りである。
筆者は他のメンター各位には煙たがれていると思うし、門下生にも「面倒臭い」と思われているだろうがCoderDojo のメンター活動をさせて頂いているので、「プログラミング教育」などには今でも敏感過ぎる程に感じ、思うところがあったものでQiitaにも色々散文を書き散らしては公開している。
しかし、ここで「生成AI」という、
想像力を、
処世の為にかなぐり捨てた事さえ忘れたし、
忘れた事を知る術も無い者達が、
神託者の様に讃えている、
「膨大な情報に基づいて重み付けを行った文節や単語から、文字列や画像を連鎖的に生成するプログラム」
が一気に普及した昨今である。
雑にその神託者をバラせば、2025年10月1日現在も行っていることは関数の重ね掛けなので、その複合演算・複合演繹の膨大な入力とその結果を全て網羅できなくても、そこに含まれている関数の一つ一つなら理解できるかもしれないという持論の上で、数理論理学の深淵に踏み入ってしまった訳である。
実は「本当にキッカケとなった」ブログ記事がある
筆者の語彙の無さと記憶力の無さには我ながらうんざりするが、成人してからずっと、
「『論理的思考能力』とは言うが、一体どうやって皆は学んだのだろう。実戦 という世の中 で鍛錬したと言うなら、自分はそれ以前なのだが……」
と思って Google か DuckDuckGo したかさえ忘れたが、その検索結果に引っ掛ったブログ記事で
「『数理(記号)論理学』を学んでからの実践の提案と、足掛りとなる書籍の紹介」
がされていたので一通り買ってしまった記憶がある。そのブログの著者には感謝を伝えたいが失念したためにそのブログを見つけ出すのも叶わない有様だ
そのブログ記事では他にも「詭弁論理学」と「逆説論理学」の紹介もされていたのでそれらも買っている。ただし未だに通読できていない。
加えて別途、『SQLの中の述語論理』という記事を2020年頃に見つけたもので、最終的に計算機とブール代数は綿密に絡み合ってるので、筆者が30歳になって
「『論理的思考』……とは?」
と文献を漁る程に気になる様になってしまったのは、必然だったのだろう。
数理論理学に入門する前の漠然とした意識や認知
ここまでで大分「筆者が『数理論理学』に入門した経緯」については書いたので要らないかもしれないが、もう少し。
世の中『数値』で表しにくい事が多い気がする
これは筆者自身の「数学」という言葉に対する認知バイアスもあるが、
「数値で表すには違和感のある概念 も『数学』には含まれている」
と今は言語化できてるが、それまではその違和感をなおざりにして数学を学ぼうとしていたため、その違和感によって『数学』はどんどん霞み・霧が濃くなって見失う様な感覚を覚えていた気がする。
『1』とは?
「仲間のなかには」と老先生が言った。「ボッケル先生より、ずうっと苦労している悪魔がおる。たとえばわたしの同僚で、 年配のイギリス人のラッセル卿は、あるとき、1+1=2 を証明しようと決心した。ほら、この紙切れに写しておいたが、 これがラッセル卿のやった証明じゃ」
プリンキピア・マテマティカ の手書き証明仮定の図
「うひゃっ!」ロバートは身ぶるいした。「ぞっとするね。こんなことして、なんの役に立つの? 1+1=2 なんて、ぼくだって知っているのに」
「ああ。ラッセル卿だって知ってたよ。だが、もっときちんと知りたかった。で、こういうことになったわけだ。(……後略……)
著:エンツェンスベルガー, 訳:丘沢静也 「普及版 数の悪魔 算数・数学が楽しくなる 12 夜」の「第 11 夜 『証明はむずかしい』」より抜粋
これは非常に極端な例とは思うし、筆者も数理論理学においての語彙や構文解析能力が乏しいため、プリンキピア・マテマティカの引用部分を口語訳できる程には理解には至っていない。
しかし、筆者個人の感想としては、
「この様に論説の展開を記号に変換してしまう事で、言外の意味を組み取らせない・する必要の無いものにしている」
と想い抱いた。
ましてや、筆者はこういった論理学者や哲学者の論説やその論説に至る経緯を読む程に
「この人達はきっと煙に巻く様な言い回しに違和感を抱き続けていたからこそ、こういう事を突き詰めてしまったのだろう」
と、感銘や共感の念を抱いてしまうのである。
『算数』という名の『国語』の問題
文芸的な事を述べたっておそらく「筆者が何に違和感を抱いたのか」の具体例でも示さないと強く伝わらないものと思うので、ここでごくごく普通の小学 1 年生の算数の問題を筆者なりに出題してみる。
あかいりんごが 3 コ、みどりのりんごが 6 コあります。ぜんぶでりんごはなんコあるでしょう?
この問題の答えは「9コ」と即答できるだろう。
ただ、筆者の頭の中では次の様な映像が描画されてしまうのである:
- 赤い りんご が 3 つ 在る映像
- 上記とは別の場面で 緑色の りんご が 6 つ 在る映像
そしてこの後の文を読んで、
「ぜんぶでりんごは……」
と書かれている物だから、
「赤いりんごが 3 つある映像と緑色のりんごが 6 つある映像」
を頭の中で再生成し、その上で数を数えていた。
上記は筆者が小学 1 年生の時の考え方を想い返しての文章起こしだが、これが 25 歳の頃に通っていたメンタルクリニックで受けた知能テストを例に上げても;
32 たす 58 は?
と 口頭で 心理士さんに出題された際には、頭の中で丁寧に数字を描画してそれを筆算の図に変換しているうちに数値を失念して計算ができなくなる。
この辺りの言語の認知展開方法が物心ついた頃から身についてしまっている為か、読み聞きの際には次の様な似非コードの具合で解釈している。似非過ぎてコードとして成立していない気がするが:
入力情報の形態素解析
未知語があれば分解して類語を探す
類語が存在したなら脳内で未知語を仮定で解釈し返答する
該当する類語が無ければ聞いたり別の情報源を調べる
形態素の前後から相手の抱いている言外の意図を組み取る
相手の表情や反応を見て意図を組み取る
時には、文書や会話の最中に形態素解析図が描画されたり、最終的には頭の中で天の川銀河から素粒子までのスケールを縦横無尽に移動できるVR空間を往来しながら読み聞きしていたり、現実空間と見比べたりしている始末である。
つまるところここまでの話としては、
「単位(何を1つとするか)定義は後件肯定など文脈によって容易に変更される。ならば文脈に囚われずに数値・数字による符号化方法を、かなり抽象化して最適化したら、公理が出る」
と察した大昔の数学者達と、
「単位(何を1つとするか)定義は後件肯定など文脈によって容易に変更されるので、脳内インタプリタが並列処理で逼迫して社会順応辛い」
という筆者の対比で嘲笑するのが良い。
蛇足:小難しい言い回しに対する、皮肉まみれの例え話
単位(何を1つとするか)定義は後件肯定など文脈によって容易に変更される。
と書いたが、これを悪用すると次の様な屁理屈が思いつく:
上長「弊就労継続支援事業所の広告投稿の作業についてなのですが、ライティングって1文字1円で計算されるので、時間毎にそれだけの文字数は提出 してください」
筆者「じゃあ 1時間に1000文字超の日本語文書を、名誉毀損くらいのものを提出しても構わない んですね? 例えば;
【就労継続〇〇では、『娑婆』という言葉を味わえます】
仕事は速さが命です。スタッフさんから「これくらいやれないと就労失格」という調子でお仕事を割り振られます。
お仕事を素早く終わらせ、納品する! 就労やお仕事はリアル・タイム・アタックチャレンジです!!
ご自身の能力で毎日リアル・タイム・アタックチャレンジし続ける気概のある方は、就労継続◯◯へ!!
という調子でこの事業所の上長がいかに時間対収益しか考えていないかを書きまくって提出したら、ノルマ達成ですね。はいタスク終了! 次のタスクはなんです?」
上長「……まずその原稿の書き直しからお願いします。せめて読み手が弊就労継続支援事業所を利用したいと思える文章にしてください」
筆者「でもそれって収益的には赤字ですよね?」
上長・筆者「「ふざけんなよてめぇ!?」」
流石の筆者も言わないでおいたが、多分自分が就労とか社会順応が適わないのは、こういう屁理屈や暴論を軽率に思いついてしまうことじゃないすかね?(鼻ホジ)
数理論理学と会えて
そんな筆者が数理論理学と逢えて良かったと思うのはやはり
「自然言語に上げ難く、発音する余地も無い記号を用いて論理構造や立証の展開や演繹を行う事ができる様になった」
というのはある。
以降では筆者の好みにより、Python による用例と比較する:
前提としてブール値
真偽値とも呼ばれたりするもの。「はい(Yes)」と「いいえ(No)」のことである。
-
真
True
相当。数理論理学の真理表では1
という文字で表す事も多い。省略でt
, やT
の文字で表す事もある。 -
偽
False
相当。数理論理学の真理表では0
という文字で表す事も多い。また、省略でf
,やF
、しばしば⊥
(Tの180度回転。垂直記号で代用)の文字で表す事もある。
論理結合子は5つしか無い
論理結合子は 5つしか 定義されていないのである。またそれらは容易にプログラミング言語に書き替える事が可能である。
-
否定
not A
。変数や式の頭に¬
という記号を付ける (¬A) -
連言
A and B
。変数や式同士の間に∧
という記号を挿入する ( A ∧ B) -
選言
A or B
。変数や式同士の間に∨
という記号を挿入する (A ∨ B) -
含意、包含
if
文相当。変数や式が真に成ると別の変数や式が真になる事を表す。変数や式同士の間に⇒
という記号を挿入する (A ⇒ B) -
同値
B==A
。変数や式同士が真と成る事を表す。変数や式同士の間に⇔
という記号を挿入する (A ⇔ B)
余計なお世話で、表にしてみる;
日本語 | よみ | 記号 | in Python |
---|---|---|---|
真 | しん |
0 ,T |
True |
偽 | ぎ |
1 , F |
False |
否定 | ひてい | ¬ | not |
連言 | れんげん | ∧ | and |
選言 | せんげん | ∨ | or |
含意 | がんい | ⇒ | if文 |
同値 | どうち | ⇔ | == |
もし他の結合子を定義したいと思ったならば、一度その言葉や概念をまず 2 つくらいに分割できないか、そして分割した物がさらに分割できないかと割っていく。 そうやって切り刻んでいくと、最後にはこれらの論理結合子で表せる物が組み合わされているものになるはずだ。その様に分割する前のものを 複合命題 や 複合述語 という。
なおその際にほぼ必須となる手法として『背理法』や『帰納法』、『自然演繹』や『推論規則』というものである。『ド・モルガンの法則』もその一つである。
それら全ての法則規則の内容を記号丸暗記する必要は無いが、頭の体操をする際には小脇なり頭の片隅に備えておくと良いだろう。
念の為言及するが、プログラミングや日常会話でも偽や含意・論理包含の解釈には注意を払うことが望ましい。
「鳥類であるカラスは黒くて『カー』と鳴く」
というかなり単純な定義があるとし、
「黒いが『カー』とは鳴かない ならば、 カラスではない」
と推論・帰結すると、
「実はカラスなのに、全く別の動物として取り扱い始める」
という誤認や誤解は、プログラミングを初めとしたエンジニアリング中では珍しくもない事例ではないかと存ずる。
先述のコールアウト箇所のカラスの論証については、述語論理式に書き起こすと次になる;
黒い: $P(x)$
『カー』と鳴く:$Q(x)$
鳥類であるカラス:$R(x)⇒(P(x)∧Q(x))⇒T$
とカラスの特性を定義し、
「黒いが『カー』とは鳴かない」鳥類を $a$ と定義すると、
- $R(a)⇒(P(a)∧Q(a))$
- $P(a)⇒T, Q(a)⇒¬T$
- 2より $R(a)⇒¬T$
と、論証することができる。なので命題論理と述語論理のみでも論理解釈のスタックトレースとデバッグ(推論過程の背理・矛盾検証)あるいはリファクタリング(最適化)は可能になりそうではなかろうか?
本来はこの様に命題や述語を論理式に書き起こし、推論規則などを用いた証明や最適化の前に、対象領域(Domain、話題、関心事。空間においての領域に限らない)を絞ることが必要なのだが。
ここまでで述べたかった事として、
「数を数えるに辺り、何を数える対象とするのか」
という事をかなり抽象化・汎化すると、この様に表し、示すことができるという事を記した所存である。
述語と量化子
ここからは、前述に引き続いて「最大値の定義や、最小値の定義の表し方」について記す形となる。といっても2つしかない。量化である。
-
全称:「すべての……」
∀
という記号を頭に大きく付ける。その右下に変数や式が代入される。($∀x$) -
存在:「ある……」
∃
という記号を頭に大きく付ける。その右下に変数や式が代入される。($∃x$)
用いられ方としては次の様になる:
「全ての箱の中には白いまんじゅうしか入れてない。しかしある箱には茶色いまんじゅうが入っていた」
という文章に対して、箱は$x$、まんじゅうは$y$、そして「白い」を $P(y)$、「茶色い」を$Q$とすると、
- $∀x∀yP(y)$
- $∃a∃yQ(y)⇒¬P(y)$
と、自然言語からはかなり抽象化した形で書き記すことができる。さらに事象や現象に対して論理的にデバックや最適化を、脳裏のVR空間を逼迫させず、かつ抽象化する事で汎用性の高いデバッグや最適化が行えると考えると、割と良い話に思うのは、筆者の頭が変な方向にオカしいからだろう。
与太話: 全称記号と 2000 年代の日本のインターネッツ
全称の記号 ∀ の記号を見て、
「顔文字の口みたい」
と思われた方が居れば、おそらく同世代なのだろうと筆者は推測する。
筆者は「匿名掲示板 2 ちゃんねる」に出入りする様な度胸を持ち合わせていないものの、当時の Flash アニメで「モナー」の存在は知っていたモナ(´∀`)
ところで、モナのよく使う煽り文句で、「オマエモナー」っていうのがあるモナ(´∀`)
全称の意味が「すべて」の意だから、何か言われたモナたちが「オマエモナー(´∀`)」って煽るのは、モナもモナに文句を言ってきた人も⇒すべての人が該当する。という自嘲と皮肉なんだモナ(´∀`)
……ということを誰かが言ってた 訳ではない 。上記は筆者の言葉と記号の関連付けで遊んだ散文である。
ブール代数の畳み掛けによる数値表現としての『チャーチ数』
この量化子を用いた論理式を眺めて筆者は「ラムダ式みたいだなあー」と思った訳である。
「当然だわ。『記号の右下に変数が付いてる』のだもの」
と書いていて気づいたが。
しかしこのデジャヴはそこまで的外れでも無かった様で、数値のみで『チャーチ数』を解釈しようとしていた10年前の自分には、
「その前に論理学とブール代数」
と言ってやりたいところである。
具体例としてはレトリックの悪用をしている印象を抱くので好ましくは無いが、論理学の記号にラムダ計算の書き方も加えよう:
「ユーザーのリスト(データベース)から30歳以上のユーザーの数を数える」
というごく単純な注文だが、ユーザーを$x$、30歳以上という条件を$P(x)$と定義する。
- $∀xP(x)⇒¬T⇒0$
- $∀xP(x)⇒T⇒1$
ココからラムダ計算を導入する。なお$∀x$、$P(x)$はラムダ計算上では異なる項とする。
- $λ∀xP(x).∀xP(x,P(x))⇒2$
- $λ∀xP(x).∀xP(x,P(x,P(x))⇒3$
- $λ∀xP(x).∀xP(x,P(x,P(x,P(x))⇒4$
ね? チャーチ数ができたでしょう?(油絵講師の『ボブ・ロス』氏の調子で)
書き始めて気づいたが、ごく普通に「ブール代数に算術演算」を導入するという展開でも、「数を数える」という操作を導出、表現可能だったかもしれない。
とはいえ、このPに加えてQという条件、例えば「男性である」を加えた場合でも、論理結合子で繋がった述語を一つの項とみなせば、ラムダ計算は成立すると筆者は鑑みる。
飛躍すると、数えられたもの、数値となったものは、何らかの定義に基づいて数えられた(演算された)高階関数だったとも言える。我ながらオカしな文を書いたとは思うが。
なので極論を言うと、
「ドメイン駆動設計を数理論理学的アプローチで行うと、関数型プログラミング言語でも実装できる」
という結論に至るが、筆者自身もソースコードに対しては
「実態を計算機が取り扱えるものに細分化しており、人間が読み解くものであってほしい」
とは願いながらソースコードやスクリプトを認めていたものである。
ここまでのまとめ
虫干しによる精査や加筆でさえ14時間近く費してしまったのではあるが;
-
「数学」という言葉の曖昧さ⇒ 取り扱う対象領域の広大さ- 「論理学」という「具象を抽象化し真偽に分ける」道具
- 「数理論理学」という「数学」と「論理学・哲学」の混合概念で上手く行くかもしれないこと
- 日常会話の解釈
- 書物や Web 上の記事の読み解き
- その他、問題の分析や整理
という事が読者に伝わっていれば、感謝したいくらい幸いだ。
まとめ: 論理学を薦める、とても感情に偏った理由
果たしてこんな現世は人の型をした畜生の学習感想文をここまで読んでいる人は居ないであろう思いながら書いているのではあるが、この記事で何を言いたかったのか筆者自身が記事にする前の殴り書きを見返して箇条書きして締めよう。
- 問題(個人の悩みから社会の問題まで)の分解方法を知る事ができる
- 自分はもちろん他人や計算機にさえも物事を伝える時の基本を知る事ができる
- その上で、自分自身を含めた個々人の背景理解や事象理解を行う事が比較的楽になる(かもしれない)
特に、二階述語というより、おまじないレベルで「存在導入」と唱えながら他人の話や自分の事について俯瞰するのが、処世術として意外と使えるのである。
付録
言葉を『解く』為の「論理学」、「哲学」
論理や認知の話で『言語的相対論』や「サピア・ウォーフの仮説」の話を絡めて、ロジバンやグロービッシュについても語りたいので、こちらで語る。
簡単に言えば、
「言葉が違うと物事の捉え方も変わるのでは?」
という仮説と、その説の検証として「ログラン」という言語とそれを発展させた「ロジバン」が実在する。
また、英語の名詞・固有名詞以外の語彙を少なくした英語として「ベーシック英語」や「グロービッシュ」という抽象最適化した英語も存在する。これを利用して、プログラミングでの関数やメソッドの命名に使うのも一つではないかと。
また「エスペラント」という言語も興味深いと存ずる。
いずれにせよ、どの言語で書かれていても、書かれたものの著者の背景理解という前提含めた論理的解釈は必要なのだが、多少はこういう言語の方が論理面の解釈や背景理解にあたっての負荷が低いのではなかろうかと、15年前から思ってしまっている所存ではある。
興味が湧いた方は是非調べて頂けると幸いである。
専門学校生の時に行った『Sapporo RubyKaigi』で知った『禅とオートバイ修理技術』
哲学という観点でさらに語ると、2010年のSapporo RubyKaigiがある。その Kaigi の最後のセッション、角谷信太郎氏の『There is No Spoon:Revisited』の中で同著は紹介されていた。
ただし、筆者は専門学校時代 Visual Basic.netで授業を受けるものだったので、今思うと結構若気の至りであったと存ずる。
時は流れて 2019 年に『禅とオートバイ修理技術』を購入したが、その著者であり主人公であり語り手である ロバートの論理のナイフによる問題や定理・定義のバラし方には目を見張るものがあった。
読者が実際に『禅とオートバイ修理技術』を読んで感じた方がよっぽど良いと思う所存である。同著の『訳者あとがき』にはこんな話が記されている:
半年余りシドニーに滞在する機会があり、この書のことが頭にあった私は、アパートを借りるとすぐに中古のオートバイを購入し、それを移動手段にした。(中略)そんな熱波が続くある日のこと、冷房を求めて街中で見かけたバイクショップに立ち寄ったことがあった。すると偶然にもいろんな本や雑誌(客用)に紛れてこの本があったのである。十八年前の日本でもそうであったが、私はそこの店員に感想を訊いてみた。反応は昔と同じ、即、「難しい」という答えが返ってきた。おそらく、従来の思考様式では理解しがたいという意味であったのかもしれない。
ハヤカワ書房刊『禅とオートバイ修理技術 価値の探求[下]』2012年11月25日 2刷 より
訳者の五十嵐さんが少なくとも2009年以前にこの様な経験をしているが、もう10年以上経つ訳だ。もしかしたら誰もが、
「ロバート・M・パーシグがオートバイ修理技術に対して、どの様に『禅』を感じたのか」
を解せる様になったかもしれない。うっかりすると、『禅とオートバイ修理技術』を読まずともだ。