はじめに
IKEA で買ったゴッホ《星月夜》のレプリカに、アクリルの白・青・黒を重ねて、明度5段階の絵に描き替えています。その制作の進み具合を、自作のツール SynapseGit で工程ごとに記録してみました。
1日目の 2026-10-09 は、計画と工程1〜4の5件を記録しました。AI(Claude Code)が明度の見本と工程ごとの「地図」を提案し、私がそれを見比べて5件とも「採用」と判断しています。
SynapseGit を作り始めたきっかけは、画家・真田将太朗さんの研究を紹介した動画でした。AI の提案を画家がどう採用したかを、制作判断として記録する研究です。
この記事では、SynapseGit を作ることになった経緯、仕組み、この絵画での使い方、ほかの使いどころを順に紹介します。
開発の経緯
SynapseGit は、1本の動画をきっかけに、AI と人の共創を丸ごと記録するという大きな構想から始まりました。そこから約3か月で、「AI の提案と人の判断を分けて手元に残す道具」に絞り込み、v1.0 になりました。
きっかけ: 画家・真田将太朗さんの研究を紹介した動画
きっかけは、YouTube チャンネル「アートゥーン!」の動画 【甲陽→藝大→東大】画家・真田将太朗の卒論に迫る です。動画の公開は 2026-07-10、SynapseGit の企画書と最初のコミットは翌日の 2026-07-11 です。
動画では、画家で研究者の真田将太朗さんが、東京藝術大学の学部と東京大学大学院での研究を解説しています。要点は次のとおりです(時刻は動画内の位置)。
| 段階 | 内容 | 時刻 |
|---|---|---|
| 背景 | AI を芸術の「敵」ではなく、新しい時代のカメラや鏡のように、表現の可能性を広げる技術として捉える | 3:40〜5:34 |
| 学部(東京藝術大学)「人工知能を応用した絵画制作を通した創造性の再定義」 | 自作を学習させた AI が、制作途中の余白に提案を投影する。AI とのラリーで、画家が提案を採用・修正していく判断を見える形にした | 11:30〜15:20 |
| 大学院(東京大学)「AIとの協働による絵画制作と創造プロセス」 | AI が完成図ではなく、制作の過程をアニメーションで示す。AI の提案のどこを、なぜ採用したかという「制作判断のデータ化」を行った | 21:40〜24:35 |
| 結論 | AI は完成品を出すマシンではなく、制作判断を刺激し、次のステップを更新していく「参照装置」として使える | 28:29〜28:54 |
| 成果 | 幅約3.2mの作品を制作し、大学に収蔵された | 33:00〜33:35 |
SynapseGit は、この研究にある「AI の提案のどこを、なぜ採用したかを残す」という考え方を、特定の制作システムに依らず、手元で記録できる形にしようとしたものです。
| 動画で紹介された研究 | SynapseGit |
|---|---|
| AI が制作途中の画面に提案する | AI output(AI の提案)を、Current(今の状態)と並べて記録する |
| 画家が提案を採用・修正していく判断を見える形にする | 採用・不採用・保留と理由を、Human Decision として残す |
| 制作判断のデータ化 | 判断を、検証できる履歴として手元に残す |
| AI は完成品を出すマシンではなく「参照装置」 | AI は候補を置くまで。判断は人が行う |
違いもあります。SynapseGit は、提案を作る AI や投影の仕組みを持たず、記録だけを担います。提案を手直しして使った場合の記録も、v1 にはまだありません。今回の《星月夜》では、AI(Claude Code)が工程ごとの地図を提案し、私が採用を判断しました。動画の研究に近い形の制作を、SynapseGit で記録したことになります。
動画のコメント欄(2026-10-12 時点で高評価の多い上位20件を読んだ範囲)では、研究のために専用の AI を作った点への驚きと、作品が東京大学に常設されることへの反応に、特に多くの高評価が集まっていました。生成 AI を学生論文の段階で「創造性を刺激する道具」と定義した点を評価する声や、写真の登場が絵画を変えた歴史と重ねる声もありました。
出発点: 共創の過程が見えなくなる
2026-07-11 に書いた企画書の名前は「Project Chrono-Synapse」です。生成 AI で制作物が「一瞬で出力されるもの」になり、誰がどの案を出し、どう変わったのかが見えなくなる。その過程を記録するバージョン管理として SynapseGit を構想しました。
企画書には、脳波や視線の記録、偉人の思考を再現する「Chrono-Engine」まで入っていました。偉人の例にはゴッホの名前も挙げています。
同じ日に範囲を絞る
同じ日に書いた「Core 構想 v0.1」で、作るものを絞りました。絵画、建築、修復のように時間をかけて進む制作について、計画・作業・観測・解釈を分けて記録する、という定義です。その中心に置いた原則が次の一文です。
原証拠は固定する。解釈は更新可能にする。物理的な変化と、画像に見えた差を混同しない。
偉人の思考の再現、創造性や貢献度の自動判定、自動の利益分配は、はっきり対象外にしました。残したのは、後から確かめられることだけです。
完成ファイルだけでは分からないこと
開発を進めるうちに、問いはこの3つになりました。
- どれが元の参照で、手を加える前はどんな状態だったか
- どの出力が AI によるもので、AI に何を頼んだか
- 人はそれを採用したのか、しなかったのか、保留したのか。その理由は何か
答えを「AI が何を提案し、あなたが何を決めたかを、手元に記録する」という一文にまとめ、v1.0 の看板にしています。
3か月の歩み
2026-07-11 から 2026-10-10 までのコミットは 147 件です。開発そのものも AI エージェントと進めています。
| 日付 | 版 | 出来事 |
|---|---|---|
| 2026-07-10 | — | きっかけになった、真田将太朗さんの研究を紹介する動画が公開される |
| 2026-07-11 | — | 企画書と Core 構想 v0.1。対象と対象外を決める |
| 2026-07-15 | v0.1.0、v0.2.0 | 手元の PC だけで動くブラウザ画面と、制作者が判断する流れ |
| 2026-07-18 | v0.3.0 | 公開用の書き出し(publication bundle) |
| 2026-09-09 | v0.8.0 | 画像の見比べ画面、判断理由の表示、非公開の制作メモ |
| 2026-09-26 | v0.9.0 | スクリプトの出力を Inbox から取り込む。画像の重ね合わせ表示 |
| 2026-09-27 | v0.10.0 | 日本語の画面 |
| 2026-10-02 | v1.0.0 | 記録形式を v1.x の間固定。AI エージェント向けガイドと inbox put
|
| 2026-10-09 | — | 《星月夜》の制作を記録し、事例として公開 |
| 2026-10-10 | v1.1.0、v1.2.0 | 事例で見つかった点を直す。コマンドを synapse 1本にまとめる |
思考の再現は対象外にしましたが、最初の実制作の事例は、企画書で名前を挙げたゴッホの《星月夜》になりました。
SynapseGit とは
SynapseGit は、元の状態・今の状態・AI の案・人の判断の4つを、自分の PC に検証できる履歴として残すツールです。コマンドの操作は AI エージェントに任せられますが、判断は人が行います。
1件の記録に残す4つ
| 枠 | 入れるもの | 後から確かめられること |
|---|---|---|
| Original(元の状態) | 基準にした画像 | どの状態を基準にしたか |
| Current(今の状態) | 提案の直前に観測した画像 | 提案の前に何を見たか |
| AI output(AI の提案) | AI で作った案 | 次に何が提案されたか |
| Human Decision(人の判断) | 採用・不採用・保留と、その理由 | 人がどう決めたか |
最後に作られたファイルを、自動で採用したことにはしません。採用しなかった案も履歴に残ります。
設計で守っていること
- AI は判断しない。 エージェントは候補を Inbox(取り込み待ちの置き場)に置くだけです。この時点では判断は記録されず、選ぶのは画像を見比べた人です
- 手元に残す。 記録は自分の PC の中にあります。ブラウザ画面は 127.0.0.1 だけで動き、外へは公開されません
- 公開は別の書き出しで。 公開用の bundle には、画像そのもの、判断の理由、生成メモ、内部 ID を入れません。画像は SHA-256 で照合できる形です
- 証明できることを言い過ぎない。 確かめられるのは、記録したファイルのバイトが同じかどうかです。作者、著作権、物理的な変化は証明しません
エージェントが担うのは候補を Inbox に置くところまでです。採用・不採用・保留は制作者が選び、公開用の書き出しは公開するときだけ別に作ります。
最小の使い方
自分で判断を決めてコマンドだけで記録すると、次の3行です。ブラウザで見るときは synapse serve を起動します。AI エージェントに準備を任せる場合は、エージェントが inbox put で候補を置き、判断は人がブラウザで選びます。
synapse init "$HOME/SynapseGit/demo"
synapse creator-run "$HOME/SynapseGit/demo" session-1 \
original.png current.png candidate.png \
--subject "制作中の作品" --creator "あなたの名前" \
--decision defer --rationale "この候補は後で見直す。"
synapse creator-report "$HOME/SynapseGit/demo" session-1
事例: 《星月夜》の上塗りを工程ごとに記録する
1日目(2026-10-09、17:20〜18:46 の約1時間半)で、計画と工程1〜4の5件を記録し、すべて採用しました。
| 塗る前(Original) | 工程1 白の後 | 工程2・3と空の一部の黒の後 |
|---|---|---|
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写真は位置情報を除いた公開用のコピーです。
AI が出した提案
AI(Claude Code)が、レプリカの画像から明度5段階の見本と、工程ごとの地図を作りました。地図の赤い輪郭が、その工程で塗る場所です。白から順に暗い色へ、5工程で塗り重ねる計画です。
| 計画: 明度5段階の見本 | 工程2の地図(赤い輪郭が塗る場所) |
|---|---|
![]() |
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3枚の割り当て
| 枠 | この事例で入れたもの |
|---|---|
| Original | 塗る前のレプリカの写真(全件共通) |
| Current | その工程を始める前の写真 |
| AI output | その工程の地図。計画の1件は明度5段階の見本 |
| Human Decision | 制作者が見比べて選んだ採用・不採用・保留 |
ルールは2つです。制作者が塗った絵の写真は、AI output の枠に入れません。塗り終えた写真は、次の工程の Current になります。
エージェントが工程2の候補を置いたコマンドは次のとおりです。この時点では判断は記録されません。
O=photos/registered/20261009_step1_before.jpg
synapse inbox put .synapsegit/inbox step2-lightblue \
"$O" photos/registered/20261009_step1_after.jpg output/steps_blue/step2_lightblue.png \
--subject "星月夜の上塗り(白・青・黒の明度5段階)" --creator "howlrs" \
--generation-note-file .synapsegit/notes/step2-lightblue.json --format json
記録した5件
| 件 | Current | 判断 | 公開用の判断メモ |
|---|---|---|---|
計画 plan-blue-5values
|
塗る前 | 採用 | この見本を計画として採用し、白から順に塗り始めた |
工程1 白 step1-white
|
塗る前 | 採用 | 月の光の輪、星、右の明るい帯に加え、渦の明るい筋なども白で塗った |
工程2 明るい青 step2-lightblue
|
工程1の後 | 採用 | 白に青を少し混ぜた色で、空の広い範囲を塗った |
工程3 中間の青 step3-midblue
|
工程1の後(代用) | 採用 | 白青を濃いめにして塗ったが、見本の「3 中間の青」より明るめになった |
工程4 青 step4-blue
|
工程2・3の後 | 採用(塗る前の判断) | この地図で工程4を塗ることにした |
判断は、制作者の私が3枚を見比べたうえで会話の中で「採用」と伝え、エージェントが creator-run で記録しました。エージェントが代わりに選んだ判断はありません。
表の「公開用の判断メモ」は、非公開の判断理由とは別に、公開用の説明文として書いたものです。
記録して分かったこと
- 写真のない隙間も、隠さずに書ける。 工程2と3は続けて塗り、その間の写真がありません。工程3の Current は工程2の前と同じ写真で代用し、生成メモと公開用の説明にそう書きました
- 提案と実物のずれが残る。 工程3のメモには「見本より明るめになった」と残っています。同じ日の添削でも、見本では空の約56%が3〜4の暗さなのに、実物は白〜明るい青に寄っていました。直し方は工程4の計画に回しています
- 採用は「その案を選んだ」記録です。 地図どおりに塗ったことや、絵が変わったことまでは証明しません。ずれは写真とメモで読み取ります
- 公開と非公開を分けられる。 公開リポジトリには、位置情報を除いた写真、AI の提案、進捗メモ、公開用の書き出しを載せました。記録本体、判断の理由、生成メモ、受け取ったままの写真は手元に残しています
この制作から生まれた改善
実際に使うと、ツールの引っかかりが見つかります。翌日の v1.1.0 には、この制作で出た点への対応が入りました。
| この制作で起きたこと | v1.1.0 での対応 |
|---|---|
| スマホの写真に位置情報が入っていて、手作業で EXIF を除いたコピーを作った | 取り込む前に JPEG・PNG の位置情報を警告する(ファイルは変えない) |
会話で伝えた判断を記録するのに、3枚を指定し直して creator-run を実行した |
synapse inbox decide で、Inbox に置いた候補のまま判断を記録できる |
| 理由を省いた工程4に、既定の英文が入った | 省いた理由は空のまま残す |
| 公開用の書き出しは英語で、作品名と制作者名も入らないため、説明文を手で書いた |
--locale ja の書き出しと、作品名・制作者名の候補表示 |
| 公開用の判断メモを足して、書き出しを作り直した |
--replace で、検証済みの書き出しを安全に置き換える |
ほかの使いどころ
向いているのは、時間をかけて進み、節目ごとに AI の案を人が選ぶ制作です。後から自分や引き継ぐ人に「なぜそうしたか」を説明する必要があるときに効きます。
| 場面 | Original / Current / AI output | 人が決めること | 今の位置づけ |
|---|---|---|---|
| 絵画の上塗り | 塗る前 / その工程の前 / 工程の地図 | その地図で塗るか | この記事の実制作 |
| 壁画の保全 | 元の壁画 / 傷みが見える今 / 控えめな処置案 | 処置案を採るか | 15分のチュートリアル(合成画像) |
| AI 画像の改善 | 最初の生成 / 直前の版 / 改善した候補 | どの候補を使うか | 手元の AI エージェントの手順に組み込み済み |
| 建築 | 設計 / 直前の現況 / 変更案 | 採用・是正・保留とその理由 | 想定している場面 |
| 施工・修復 | 処置前 / 現況 / 処置案 | 戻せない処置の前の判断 | 想定している場面 |
| デザイン | 参考資料 / 今の案 / AI の案 | 採否と却下の理由 | 想定している場面 |
AI 画像の改善では、最初の1枚で足りるときは記録しません。直しが必要になったときだけ、元の画像と候補を残し、人が選んだときだけ判断を記録します。
「想定している場面」でも、v1 で記録できるのは3つのファイルと判断です。画像の差分の自動検出や、BIM・CAD との連携はありません。既存の制作ソフトを置き換えるものではなく、その外側で判断をつなぐ道具です。
まとめと今後
SynapseGit を絵画に使ってみて、「AI が何を提案し、自分が何を決めたか」を工程ごとに振り返れるようになりました。あわせて、ツールの直すべき点も見つかりました。
制作の続き
絵は工程4(チューブの青)から再開します。空を暗い側へ戻し、地上の白を落とす予定です。その後、工程5(黒)、仕上げ、完成をそれぞれ1件ずつ記録します。三日月の黄色を残すかどうかは、まだ決めていません。
SynapseGit の続き
v1.0 の後に予定している機能には、この事例とそのまま重なるものが2つあります。
- 工程のつながりの記録。 今は、「工程1の後の写真が工程2の Current になった」というつながりを記録に持てません。前の記録とのつながりを残せるようにします
- 複数の候補を並べて比べる画面。 同じ状態から作った複数の案を、記録を変えずに並べて見比べられるようにします
この事例の限界
この事例は開発者本人による制作です。独立した利用者の評価や、導入の成果ではありません。SynapseGit が確かめるのは記録したファイルのバイトが同じかどうかで、絵が変わったことや作者までは証明しません。
SynapseGit は Source-Available License で公開しています。商用・本番での利用には、別途書面での許可が必要です。まずは15分の壁画チュートリアルから試せます。












