導入
電池、半導体、樹脂、接着剤、塗料…私たちの生活は「材料」に支えられています。
しかし、新しい材料をゼロから見つけることは簡単ではありません。組成、微細構造、プロセス条件など、組み合わせは膨大で、従来は研究者の経験と地道な試行錯誤に大きく依存してきました。
そこで登場したのが マテリアルズインフォマティクス(Materials Informatics, MI) です。
ざっくり言うと、
材料に関するデータと機械学習を組み合わせて、
新材料の発見や材料開発の効率化をねらうアプローチ
です。
本記事では、「聞いたことはあるけれど、実際に何をしているのかよく分からない」という方に向けて、マテリアルズインフォマティクスの基本的な考え方と、現在の活用状況・課題をコンパクトにまとめます。
TL;DR
- マテリアルズインフォマティクスは、材料の構造・組成・プロセス条件と物性の関係をデータから学ぶ取り組み。
- 過去の実験データやシミュレーション結果を使って、「構造・条件 → 性能」を予測するモデルを作り、新材料探索や配合・条件出しに活かす。
- 研究・産業ともに導入が進みつつあり、特に電池材料、高分子、合金、触媒などで活用例が増えている。
- 一方で、データ不足・バラつき・測定条件の違いなどが大きな課題であり、「モデル精度」だけでなく、データ基盤や運用フロー作りが重要。
- しばらくは「AI が材料設計をすべて置き換える」ではなく、研究者・エンジニアの意思決定を支える“共同作業者”としての位置づけが現実的。
マテリアルズインフォマティクスとは?
目的:勘と経験をデータで補う
材料開発では、次のような問いに日々向き合っています。
- 「この用途に最適な材料は何か?」
- 「この配合・条件を変えたら、性能はどう変わるか?」
- 「新しい組成を試すなら、どこから手を付けるべきか?」
これらをすべて実験だけで確かめるのは時間もコストもかかります。
マテリアルズインフォマティクスは、過去の実験結果やシミュレーション、公開データベースなどからデータベースと予測モデルを作り、
- 事前にコンピュータ上で性能を見積もる
- 有望な候補だけを実験する
- 実験結果をフィードバックしてモデルを改善する
といったサイクルを回すことで、開発を効率化することを目指します。
対象となる情報
扱うデータの例を挙げると、次のようなものがあります。
- 組成情報:元素種、モル比、添加剤の種類や量
- 構造情報:結晶構造、配向、粒径分布、層構造 など
- プロセス条件:温度、圧力、時間、混練条件、冷却条件 など
- 物性・評価値:強度、靭性、導電率、熱伝導率、寿命、コスト など
これらを整理して「材料 1 件あたりのレコード」として扱い、機械学習に入力できる形にしていきます。
典型的なワークフロー
マテリアルズインフォマティクスのプロジェクトは、大まかには次のような流れをとります。
1. データ収集と整理
- 社内の実験データ・評価結果・試作履歴を集める
- シミュレーション(例:量子化学計算、有限要素解析)で得られた物性値を取り込む
- 公開データベース(結晶構造・物性データなど)があれば組み合わせる
- 測定条件や試料準備方法といったメタデータをセットで整理する
ここでのポイントは、「データの中身が分かるように整理されているか」です。
どの条件で測った、どのロットか、といった情報が欠けていると、後からモデルが作りづらくなります。
2. 特徴量設計と前処理
- 組成比や原子番号などの組成由来の特徴量を計算する
- 結晶構造や微細構造から、幾何的・統計的な特徴量を抜き出す
- 単位の統一、外れ値の扱い、スケーリングなどの前処理を行う
材料分野では、「どんな特徴量を作るか」にドメイン知識が強く効きます。
例えば、ポリマーならガラス転移温度に効きやすい指標、電池材料ならイオン拡散に関係する指標など、専門家の知見と相談しながら進めることが多いです。
3. モデル構築と評価
- 教師あり学習(回帰・分類)で「構造・条件 → 物性」のモデルを構築する
- クロスバリデーションやホールドアウトなどで汎化性能を評価する
- 特定の用途では、外挿の挙動(未経験条件での予測)も確認する
ここでは、「どのアルゴリズムを使うか」よりも、
- 十分なデータ数があるか
- データ分割や評価指標の設計が妥当か
- 実務で使う条件レンジの中で安定しているか
といった点が効いてきます。
4. 実験計画とフィードバック
- モデルをもとに、「次に試すべき配合・条件候補」を複数提案する
- 実験や試作で検証し、その結果を再びデータベースへ追加する
- 必要に応じてモデルを更新し、サイクルを繰り返す
この「モデルに導かれた実験のサイクル」が、従来の経験と勘のサイクルと比べて、どれだけ効率的か・どれだけ新しい材料にたどり着けるかが、MI の価値を決めます。
現在の活用状況
研究分野での位置づけ
大学や研究機関では、
- 材料データベースを構築して機械学習に公開する研究
- 結晶構造や分子構造の表現(記述子・グラフ表現・ディープラーニング)の研究
- ベイズ最適化や自律実験系を使った材料探索の研究
などが活発です。
材料科学、計算科学、情報科学の境界領域として、共同研究プロジェクトも増えています。
材料系の研究室にデータサイエンスを専門とするメンバーが入ったり、その逆も起き始めています。
産業界での位置づけ
企業では、次のような文脈で導入されることが多いです。
- 電池・半導体・電子材料など、開発競争が激しい分野での探索効率化
- 高分子・樹脂・塗料・接着剤などの配合最適化や設計空間の可視化
- 材料開発と製造プロセスをまたいだトータル最適化の一環
一方で、どの企業もいきなり全面導入とはいかず、
- まずは特定テーマで PoC(概念実証)をする
- 成果が出た領域から少しずつ適用範囲を広げる
- データ基盤や組織体制を整えていく
といった段階的な進め方が一般的です。
メリットと限界
メリット
- 実験前にある程度の「当たり」を付けられるため、試行回数や開発期間の削減が期待できる
- 複数の性能指標(例:強度と耐熱性とコスト)を同時に考慮したトレードオフの可視化ができる
- 人手では直感しづらいパターン(非線形な依存関係など)をモデルが見つけてくれる可能性がある
- 過去の実験ログが「資産」として活きるため、組織としての学習効率が上がる
限界・注意点
- 元となるデータが少ない、条件が偏っている場合、モデルに過度な期待はできない
- 測定条件や装置が変わると、そのままではモデルが使えないことも多い
- 最終的な判断には、依然として材料やプロセスの専門家の知見が不可欠
「魔法の黒箱」というよりは、
うまくハマると非常に強力な“アシスタント”だが、
前提条件や限界を理解して使う必要があるツール
というのが現実的な捉え方です。
マテリアルズインフォマティクスの今後
今後数年を見据えると、マテリアルズインフォマティクスは次のような方向に進んでいくと考えられます。
- 材料や化学構造を扱うための深層学習モデルや基盤モデルの活用が進む
- 実験設備の自動化と組み合わせた、自律的な条件探索システムが増える
- 材料開発と製造プロセスのデータを一体で扱い、「設計から量産まで」をつなぐ最適化が重視される
- データ共有・標準化の動きが進み、業界をまたいだ共通データ基盤・ツールが整ってくる
ただし技術的な進歩だけではなく、
- データの取り方・残し方を変えていく
- 組織としての意思決定プロセスを見直す
- 材料の専門家とデータの専門家が協働しやすい環境を作る
といった「人と組織」の側面も同じくらい重要です。
これから関わりたい人へのヒント
マテリアルズインフォマティクスに興味がある方に向けて、スタートの切り方を簡単にまとめると次の通りです。
- 材料系バックグラウンドの方
- 手元の実験データを Excel で可視化するところから始め、
簡単な回帰・分類の考え方や、前処理の重要性を掴むと入りやすいです。
- 手元の実験データを Excel で可視化するところから始め、
- データサイエンス・ソフトウェア系の方
- 材料の基本用語(組成、相図、結晶構造など)や、代表的な物性指標をざっと学び、
公開データセットで遊んでみると、イメージが湧きやすくなります。
- 材料の基本用語(組成、相図、結晶構造など)や、代表的な物性指標をざっと学び、
- どちらの立場でも
- 「データをどう集めるか・どう残すか」といった設計に関心を持ち、
現場の制約や実験コストを理解することが、良いコラボレーションの第一歩になります。
- 「データをどう集めるか・どう残すか」といった設計に関心を持ち、
まとめ
- マテリアルズインフォマティクスは、材料の構造・組成・プロセス条件と物性の関係を、データと機械学習で明らかにしようとする取り組み。
- 研究と産業の両方で着実に活用が進んでおり、特に探索の初期段階や配合・条件出しの効率化に大きなインパクトを持ちつつある。
- 同時に、データの質・量、測定条件の違い、モデルの限界など、向き合うべき課題も多い。
- しばらくの間は、「人間と AI が協力して材料開発を進める」ための基盤作りが中心テーマになっていくと考えられる。
本記事が、マテリアルズインフォマティクスに興味を持った方にとって、全体像を掴む手がかりになれば幸いです。