はじめに
前回の 発明編 では、
- 自然が「軌道全体」を選んでいるように見えたこと
- 関数そのものを変数として扱う必要が生じたこと
- オイラーとラグランジュが、「答えを出すこと」を見出したこと
を見てきました。結果として、オイラー=ラグランジュ方程式は物理的に正しい道筋で導かれました。
しかし同時に、次のような疑問も浮かびました。
なぜこの操作だけで正しい運動方程式が得られるのか?
この疑問こそが、汎関数微分の曖昧さを理解する入口です。
洗練編では、その曖昧さを正面から見つめ、数学がどのように整理・補完しようとしてきたかを学びます。
1. そもそも曖昧だったのはどこなのか?
発明編で使った定義を、もう一度書きます。
\delta S
= \left.\frac{d}{d\varepsilon}\right|_{\varepsilon=0}
S[q + \varepsilon \eta]
この式は直感的で計算にも使いやすいのですが、実は多くのことを黙っています。
曖昧さ①:どんな関数を扱っているのか?
前提となる関数空間が明記されていません。
- $q(t)$ はどの程度滑らか?
- 境界条件はあるのか?
- $q$ はどのノルムで近いと考えるべきか?
これらは、数学的に微分を定義するためには 欠かせない条件です。
発明当時の数学には、このような「関数空間」の概念自体が存在していませんでした。
曖昧さ②:点での値は意味を持つのか?
場の理論へ拡張すると、次のような記法が出てきます。
\frac{\delta S}{\delta \phi(x)}
これは「場 $\phi(x)$ での汎関数微分」としてしばしば使われますが、
数学的に言えば 危険な操作です。
なぜなら、多くの関数空間では
点での値を評価する操作は連続ではない
からです。この問題は、後に 分布(超関数) という枠組みで扱われるようになりましたが、
発明当時にはそのような武器はありませんでした。
曖昧さ③:なぜこれで十分なのか?
発明編では、次のような計算でオイラー=ラグランジュ方程式を得ました。
\delta S
= \int
\left(
\frac{\partial L}{\partial q}
-
\frac{d}{dt}\frac{\partial L}{\partial \dot q}
\right)\eta(t)\,dt
この積分が任意の $\eta(t)$ に対して 0 になるから、「被積分関数自体が 0 である」と結論付けたのですが、これは
任意の $\eta$ で積分が 0 ならば、被積分関数が 0 である
という補題を前提としています。
数学的にはこれは「基本補題」と呼ばれる結果で、これを成立させるためには、関数空間の正則性や境界条件が必要です。発明編ではこれも黙されていました。
2. 数学はどこから関与したのか?
19世紀後半から、数学者たちは「変分法の基礎を整理する」というテーマに取り組みました。ここに登場するのが ワイエルシュトラス をはじめとする一連の研究です。
ワイエルシュトラスの貢献
ワイエルシュトラスは次のような視点で変分法を捉え直しました。
- 関数全体の振る舞いを対象とする
- 「極値」を取る関数の存在や性質を議論する
- 微分方程式だけでは扱えない細かな構造を理解する
彼の仕事は、単にオイラー=ラグランジュ方程式を導くだけではなく、その背景となる理論的基盤を整えるものでした。これにより、単純な計算手続きを越えた「存在・最適性」の問題が議論できるようになりました。
3. 関数空間という新しい発想
この時代の最大の発明の一つが、
関数は、無限次元空間の点である
という認識です。
有限次元の解析では、
- 微分
- 勾配
- 接ベクトル
といった概念が成立しますが、これらを無限次元の関数空間に拡張するには、どの空間に属するか(どのノルムを使うか) を明確にする必要があります。
この考え方は現代の
- ガトー(Gateaux)微分
- フレシェ(Fréchet)微分
- 汎関数解析
へとつながっています。
たとえば フレシェ微分は、「ノルム付き線型空間(Banach 空間)」 上の微分を定義します。この枠組みでは、変分計算は単なる操作ではなく「線型作用素としての微分」として取り扱うことができます。
4. 常に成り立つわけではない構造
しかし、数学による「修理」がすべてを解決したわけではありません。いくつかの重要な例外があります。
(1) 点評価は非連続になる場合が多い
たとえば L² 空間では、関数の値を一点で見る操作はノルムに関して連続ではありません。
そのため、点での表現
\frac{\delta S}{\delta \phi(x)}
は関数ではなく分布(超関数) として理解する必要があります。
これは数学者たちによって体系化され、分布論(Schwartz の超関数) の枠組みで扱われるようになりました。
(2) 汎関数積分は一般には定義できない
物理で以下のように書くことがあります。
\int \mathcal{D}\phi\, e^{iS[\phi]/\hbar}
これは「経路積分」と呼ばれますが、
数学的には
- 無限次元の Lebesgue 測度は存在しない
- $\mathcal{D}\phi$ の意味が曖昧
といった理由で、一般には厳密な意味を持ちません。特定のガウス場などでは意味を与えられますが、一般的な相互作用場では未解決の問題です。
5. 極値判定・存在証明・補題の役割
19世紀後半以降、数学者たちは単に「極値を求める」だけでなく、
- 極値解が存在するのか?
- 極値解がどのような性質を持つのか?
- 偏微分方程式系としての解の構造はどうか?
といった問題に注目しました。
その過程で
- 基本補題(fundamental lemma)
- 2次変分による判定条件
- 弱解/強解の区別
など、現在の解析学の重要概念が導入されました。
これらは、単純なオイラー=ラグランジュ方程式の導出を越えて、汎関数微分を数学的に扱うための土台になっています。
6. それでも残る物理特有の問題
数学的手法がいくら進んでも、物理の前提には無限自由度や局所相互作用、点的な理想化が含まれます。
これらは数学的には境界的な状況であり、次のような難問を生み出します。
- 積分が発散する(UV 発散)
- 点での場の値が不安定
- 量子揺らぎが非摂動的に振る舞う
これらは「数学的に未完成だから起きる問題」というわけではなく、
物理が要求する構造そのものが数学的に難題を含んでいる
という標語的表現が適切です。
7. 洗練編のまとめ
ここまでの整理を一言で言うと、次のように言えます。
汎関数微分に含まれていた曖昧さは欠陥ではなく、「物理と数学が交差する場所」に立つ思想だった。
数学は「曖昧さ」を消し去るのではなく、「どこまで正当化できるか」を明確にしました。しかし同時に、汎関数微分が意味するところは未だ数学の外側に位置する部分も含んでいます。これは決して失敗ではありません。むしろ、
曖昧さは、新しい理論への入口
なのでしょう。
次回予告
- なぜ汎関数微分は今も現役なのか
- δ関数・グリーン関数・プロパゲータとの統一的な見方
- 数学と物理の限界が再び交差する場所
- これから何が問われているのか
を簡単に紹介します。
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(本記事は「はじめての汎関数微分」シリーズの一部です。)