はじめに
これは、Advent Calendar Visual Basic 2025の25日目の記事となります。
今年は、Windows 95 が発売されてから 30周年となります。発売当日には秋葉原などの主要な電気街で長蛇の列ができ、社会現象となるほどの「お祭り騒ぎ」になりました。
ここ数年、最終日に歴史的なことを書いています。
- ティム・パターソンとVisual Basic
- Visual Basicはこうして生まれた。
- Excelはこうして生まれた。
- Microsoft Accessはこうして生まれた。
- VBScriptはこうして生まれた。
Windows 95 の父
「Windows 95 の父」と呼ばれる人物は主に2人います。Windows 95のプロジェクトリーダーのブラッド・シルバーバーグ (Brad Silverberg)氏とユーザーインターフェースに関する主任設計者の中島聡(なかじま さとし)氏です。
今回は、日本人である中島聡氏(以降 中島)に焦点をあてて書いていきます。
学生時代
中島氏はプログラムを書き始めたのが高校生(17歳)の時、1976年にNECから「TK-80」が発売されプログラムの面白さに目覚めます。その後にアセンブラ言語でゲームをつくり、「月刊ASCII」に記事を掲載してもらいました。大学生になるとアスキー出版でアルバイト、1983年に古川享氏がマイクロソフトが開発したばかりのマウスを持ってきて、「誰かマウスを使ったプログラムを作ってくれないか」と言ったのである。その瞬間に頭の中で、「マウスと描画ルーチンがあれば、PC上でCADが動く!」というアイデアが生まれ、その4ヵ月後に世界に先駆けてCADソフトウェアの「CANDY」を開発、マンションが3つ買えるぐらいのロイヤリティを稼いでいましたが、ソフトウエアはあくまで趣味として仕事にしようとは思っていなかった。
ソフトウェア開発を仕事に
米マイクロソフトが MS-DOS の成功により1985年の秋から株式の公開を真剣に検討、事業体制整理の一環として日本市場への取り組みを見直しはじめた。ビル・ゲイツ氏と西和彦氏との信頼関係からアスキーと提携していたが、米マイクロソフトの意向に100パーセント沿いうる子会社を日本にも作るべきだとする社内の意見から、1986年3月いっぱいの契約切れを機に米マイクロソフトはアスキーとの独占代理店契約の解消に踏み切った。1986年2月17日、マイクロソフトの日本法人(MSKK)を設立した。
中島氏は大学院を卒業し NTTの研究所に入社。ソフトウェア開発が思いっきりできると期待していたが、仕様書づくりばかりで実際のプログラミングは下請けに投げることにも失望していた。ただプログラミングは趣味として割り切り、仕事は主にハードウエアの設計をしていた。
1986年にマイクロソフトの日本法人が設立されると、学生プログラマーとしてアスキーに出入りしていた頃の仲間である古川享氏が代表取締役社長に就任すると聞き、「なぜ僕を誘ってくれないんですか?」と直訴します。この時に初めて「ソフトウェアを仕事にしてもいいんじゃないか」と気が付きます。すぐに辞表を書き、周囲の猛反対をくらいながらも NTTの研究所 から MSKK に1年足らずで転職します。
Windows や OS/2 の日本語化に携わった後、1989年の29歳の時に日本法人よりも本当は米国本社で新しいことにチャレンジしたかったので、英語もうまく話せないのにビル・ゲイツ氏に猛アピールして
日本人で初めて米国マイクロソフト本社に転籍します。
なんちゃって次世代OSが社内で大ヒット
本社では次世代OSの開発グループとして OS/2 の後継 OS/3 プロジェクトが始まっていた。
そのチームでは、中島氏は10人のソフトウェアアーキテクトのうちの1人でした。毎日、ほとんどの時間を「アーキテクチャ会議」への出席や仕様書の作成に費やしていました。
当時まだ英語があまりできず、議論に加われなかった。
(ボスがイタリア人、あとはインド人、カナダ人、アメリカ人のグループの中、1対1ならなんとかあまり喋れないこと理解して待ってもくれるし言い直してもくれるが 3人以上になると途端に話についていけなくて、頭の中で英作文してると話題はもう次のところに移っていて、なかなか発言もできない - 新R25チャンネル)
それを見かねた上司がプロトタイプをつくるように指示してくれました。ちなみに英語で会話が自然にできるまで10年近くかかりました。
会議で議論するよりも実物をつくってしまうと説得力が増します。
プロトタイプとして作成した「なんちゃって次世代OS」が、社内で大ヒットしました。ディベロッパー・カンファレンスでいきなり発表させられ、張りぼてから本物を作るプロジェクトが始まりました。それが91年に次世代OSの「カイロ」(Windows NTの後継)プロジェクトに発展し、最終的にチームは92〜93年にはも400名体制に膨れて上がっていきます。しかし人数が増えるとプロジェクトは会議ばかりで、なかなか進展しない。
それが嫌で仕方なく、Windows 3.1の開発チームに行かせてもらうように希望したのです。
Cairo/Chicago シェルの初期の形を描いた UI モックアップ

https://betawiki.net/wiki/Microsoft_Cairo
シカゴチームの文化
この開発チームとは、もともと、16 ビット オペレーティング システム(Windows 3.1) と 32 ビット オペレーティング システム (NT + Cairo) の間のギャップを埋めるための非戦略的な製品チームでした。Windows Shellの責任者であるクリスから、プログラムマネージャー、ファイルマネージャー、コントロールパネル、プリンターマネージャーをWindowsエクスプローラーという単一のアプリケーションに統合する作業を開始するよう依頼しました。
クリスはソースコードの場所を見せて、ただ「パーティーをしよう」と言っただけでした。
シカゴグループには「アーキテクチャ会議」どころか「アーキテクチャレビュー」すらありません。仕様書の依頼もありませんでした。「何を」やるべきかは分かっていましたが、「どのように」やるかは完全に個々のエンジニアに任されていました。
水を得た魚のように毎日何百行ものコードを書き始めました。1日14時間労働が当たり前になりましたが、とても楽しかったので、何の問題もありませんでした。
この文化はリーダーであるブラッド・シルバーバーグによって築かれたものだと知りました。
ビル・ゲイツ氏に直訴
このようにマイクロソフト内には2つの派閥が存在していたのす。
- カイロに本拠地を置くチーム
有名大学で博士号を取得した人たちが多く集まるTHE“理論派”集団 - シカゴに本拠地を置くチーム
プログラミング大好き!といった人達が集まった職人集団
移籍後に中島氏がカイロチームで育んできたアイデアをWindows 3.1に盛り込む話となり、結果的にそれが後のWindows 95になりました。しかし、カイロチームにしてみると、「アイデア(中島氏が考えたもの)が別の部署に盗まれた」と感じたようで、社内闘争となり取締役会議に呼ばれました。
そこにいたのはビル・ゲイツ氏だけではありません。マイクロソフト社トップ5のうち4人が出揃っていました。
カイロチームが持ち出したのは400ページ以上の大量の資料(その内容はシカゴ側のプログラムがどれだけダメかということを事細かく主張したもの)、一方のシカゴチームのプレゼンターである中島氏はCD-ROMに入ったβ版のみ、他の資料はゼロ。
ビル・ゲイツ氏に5分間のデモを披露し、「とにかく早く出させてほしい。このままでは次期Windowsはいつまで経っても世に出ない」と直訴します。
ビル・ゲイツ氏は、ポール・マリッツ氏とともに部屋を出ていき3分ほどで戻ってきました。そして一言「カイロプロジェクトはキャンセルとする」とカイロの開発中止を即決したのです。
カイロのその後
カイロの開発は1996年まで続けられましたが、その後プロジェクトは中止されました。
カイロに残されたコンポーネントは、後に中止されたWinFSやActive Directoryといった、将来のWindowsプロジェクトに影響を与えました。
Windows 95 の機能
- 新UI(スタートボタン・タスクバー・右クリック・ドラッグ&ドロップ)の導入
- 32bit API(Win32)を本格導入
- Plug and Play・TCP/IP標準搭載
- 長いファイル名の対応(VFAT)
- 仮想メモリと保護モードの導入
この中で「右クリック」と「ドラッグ&ドロップ」の機能は、中島氏が中心となってWindows 95チームで提案・実装を主導した要素となります。
1.「右クリック」導入の背景
背景:操作の「次の一手」がわからない問題
Windows 3.1までは、操作のほとんどがメニューとダイアログ頼みでした。
「今、どのコマンドが使えるのか」、「このアイコンをどう扱えばいいのか」が分かりづらく、初心者は“どこを触ればいいのか分からない”という状態に陥りがちでした。
中島氏はこの問題を「ユーザーの探索行動が止まってしまう」と分析しました。
解決策:「右クリック=今できることの一覧」
右クリックメニュー(コンテキストメニュー)は、"選択した対象(コンテキスト)に応じた操作を一覧で表示する"という考え方で設計されました。つまり、ユーザーが「操作の次の候補」を自分の手で見つけられるUI。
この思想は後にMac、Linux、スマートフォン(長押しメニュー)などにも広がります。
2.「ドラッグ&ドロップ」導入の背景
背景:ファイル操作が煩雑すぎた
当時のWindowsでは、ファイルをコピーするには「Ctrl+C」→「Ctrl+V」、移動には「切り取り」→「貼り付け」という手順が必要で、初心者には非常に直感的でないものでした。
一方、Mac OSではすでに「アイコンを掴んで動かす」インタラクションが存在しており、中島氏はその直感的な体験をWindowsにも実装すべきと考えました。
中島氏は「人間が現実世界で"モノを動かす"感覚を、コンピュータの中でも再現したかった」と語っています。
解決策:「動作を見て理解できる操作」
ドラッグ&ドロップによって、ファイルをフォルダに"入れる"、ショートカットを"作る"といった行為が視覚的に理解できるようになりました。
さらに中島氏は、操作の一貫性にもこだわりました。ファイルもアイコンも、マウス操作で一貫して扱えるようにする。つまり「対象」と「動作」が常にペアになるようにする。
これは後に「オブジェクト指向UI」と呼ばれる概念につながります。
補足
当時のMacのドラッグ&ドロップとWindows 95のドラッグ&ドロップの違い
| 観点 | Macintosh(1984〜System 7) | Windows 95 |
|---|---|---|
| 基本思想 | デスクトップ=物理机の比喩(直感重視) | システム全体の統合操作(文脈重視) |
| 実装範囲 | Finder内限定の動作 OS全体・アプリ間に拡張 | |
| 技術基盤 | Mac Toolbox / Finderの内部イベント | OLE(Object Linking and Embedding)による統一イベントモデル |
| 操作対象 | ファイルやフォルダ中心 | ファイル、ショートカット、アプリ間データまで |
| 目的 | 視覚的な「移動・削除・コピー」 | オブジェクト間の「意味のあるやり取り」 |
3.「スタートメニュー」導入の背景
Windows 3.1までの問題点として、どこから何を始めればいいか分かりにくいという問題がありました。
初心者にとっては、「電源入れた → 何すればいいの?」、「Excelどこ?」、「終了方法が分からない」という状態だった。
中島氏さんの設計思想では「まずここを押せばいい」と分かるUIを作るのが目的でした。つまり「迷ったらここボタン」です。
スタートメニューには最初から「プログラム」、「最近使った文書」、「設定」、「検索」、「終了」などが全部入っていました。これは、人間が本能的に場所を覚えるのが得意なため「あれはスタートにある」と覚えさせれば、迷わなくなるからです。
マイクロソフト内部では「Go」、「Begin」、「Launch」下記なども名前の候補でしたが、「英語圏で最も直感的」、「機械操作と相性がいい」、「子どもでも分かる」として最終的に「Start」になりました。
中島氏はよく「ユーザーに考えさせるUIは失敗」と語っています。
- 探させない
- 悩ませない
- 覚えさせない
これがスタートの思想です。
Windows 8で一度消えましたが、Windows 10で復活したのが答えです。
タスクバーとのセット設計
スタートは単体ではなく、タスクバーとセットで設計されました。
スタートの役割として「新しく始める」、タスクバーの役割として「今やっている作業」、つまり「過去・現在・未来を1本に統合」しているUIとしたのです。
開発過程
3年間に及ぶ開発過程
A History of Windows 95 Development - YouTube
より詳細な開発過程は次サイトのList of known buildsに各ビルドごとのリンクがあります。
Chicago Build 58s(1993年8月)
これは1993年8月9日の非常に初期の開発版です。
当時のWindows 95は「Chicago」というコードネームで呼ばれていました。

https://betawiki.net/wiki/Windows_95_build_58s
特徴
- スタートメニューが3つのボタンに分かれている
- タスクバーとスタートが未統合
- ウィンドウの閉じるボタンが未完成
- Windows 3.1風のUIが残っている
- プログラムはほぼ3.1時代のまま
この時点では、まだ現在のWindowsに近い形ではありませんでした。
Chicago Build 81(1994年1月)
次は1994年1月のBuild 81です。

https://betawiki.net/wiki/Windows_95_build_81
変化点
- 「Start」ボタンが1つに統合
- スタートメニューが誕生
- ウィンドウ右上に×ボタン追加
- タスクバーがより完成形に近づく
ただし、ファイル名はまだ「8.3形式」(短縮名)でした。
例:Accessories → ACCESS~1
これは、長いファイル名がまだ完全対応していなかったためです。
Chicago Build 189(1994年9月)
1994年9月のBuild 189は「Beta 1」です。
ここから正式に「Windows 95」という名前が使われます。

https://betawiki.net/wiki/Windows_95_build_189
特徴
- 見た目がほぼWindows 95らしくなる
- グラフィカルなスタートメニュー
- ネットワーク近傍の追加
- ごみ箱「Recycle Bin」が一時的に「Wastebasket」に変更
内部ではまだ「Windows 4.0」「Chicago」という表記も残っていました。
ごみ箱「Recycle Bin」の名前ついて
Macの「Trash」と差別化するため、またファイルが「再利用(復元)可能」であることを強調するためにこの名前が選ばれたと言われています。
Chicago Build 468(1995年5月)
最後は1995年5月のBuild 468(Beta 3)です。
ほぼ最終版に近い状態です。

https://betawiki.net/wiki/Windows_95_build_468
大きな変化
- Windows 95 起動音が追加
- UIが完全に完成形
- システム画面が最終版と同等
この段階では、ほとんど製品版と見分けがつかないレベルになっています。
起動音について
このビルドで、あの有名な「Windows 95 起動音」が初めて搭載されました。
これはWindows 95専用に作曲されたものです。
最後に
Windows 95 をテーマに書いてみましたが、Chat GPTのおかげて色々質問して、それなりの回答くれるので逆にまとめるのが大変になってしまいました。
なんか、気になったら追記とかしておきます。
今年もAdvent Calendar Visual Basic 2025が無事に終わりました。参加して頂いた方々、記事を読んでいた方々、ありがとうございます。
年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1960年 | 中島聡氏が北海道で生誕、3ヶ月後から東京都で育つ |
| 1975年4月 | ビル・ゲイツ氏(20歳)がマイクロソフト社を設立 |
| 1976年 | NECが8月3日に日本初のワンボード・マイコン「TK-80」を発売 |
| 1977年 | 中島聡氏が高校生になり「TK-80」を購入しプログラミングを始める、またアスキー出版において記事執筆やソフトウェアの開発に携わる |
| 1977年5月 | 西和彦氏(21歳)がアスキー出版(後のアスキー)社を設立 |
| 1978年10月 | マイクロソフトの極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立 |
| 1979年 | 中島聡氏が大学生になりアスキー出版でアルバイトを始める |
| 1980年7月 | IBMからマイクロソフトにOSの作成を依頼 |
| 1981年7月 | マイクロソフトは86-DOSをIBMにライセンス |
| 1982年3月 | マイクロソフトがPC DOS 1.1をリリース |
| 1982年5月 | IBM PC互換機向けに「MS-DOS」の名称でOEM提供を開始 |
| 1982年10月 | NECが本格的な16ビットパソコン「PC-9801」を発売 |
| 1983年5月 | マイクロソフトが初の「Microsoft Mouse」を発表 |
| 中島聡氏が世界初のCADソフトウェア「CANDY」を開発 値段4万円 | |
| 1983年11月 | マイクロソフト 「Microsoft Windows 1.0」を発表、発売は1985年11月 |
| 1985年4月 | 中島聡氏がNTT 電気通信研究所に入社 |
| 1985年9月 | マイクロソフト「Excel for Macintosh」を発売 |
| 1985年11月 | マイクロソフト「Microsoft Windows 1.0」を11月20日に発売 |
| 1986年2月 | マイクロソフトの日本法人(MSKK)を設立、中島聡氏がMSKKに転職 |
| 1986年3月 | マイクロソフト ナスダック市場に上場、アスキーと提携解消 |
| 1986年 | 中島聡氏(26歳)は、Windows 1.03の日本語化を担当 |
| 1986年8月 | マイクロソフト「Microsoft Windows 1.03」を8月24日に発売 |
| 1987年12月 | マイクロソフト「Microsoft Windows 2.0」を12月9日に発売 |
| 1987年 | 中島聡氏(27歳)は、Windows 2.03の日本語化を担当 |
| 1988年1月 | マイクロソフト「Microsoft Windows 2.03」を発売 |
| 1988年3月 | マイクロソフトが次世代OSの開発を計画 |
| 1988年8月 | デビッド・カトラーがDECを退職し、マイクロソフトに入社し、Windows NTプロジェクトのリーダーに任命 |
| 1989年 | 中島聡氏(29歳)はマイクロソフトに転籍 |
| 1990年 | ブラッド・シルバーバーグがボーランドからマイクロソフトに転職 |
| 1990年5月 | マイクロソフトは、「Windows 3.0」を5月22日に発売 |
| 1992年3月 | IBMは、「OS/2 2.0」を3月31日に発売 |
| 1992年4月 | マイクロソフトは、「Windows 3.1」を4月6日に発売 |
| 1992年7月 | カリフォルニア州サンフランシスコのモスコーニセンターで行われたPDC(Professional_Developers_Conference)で初めてシカゴに言及 |
| 1993年5月 | マイクロソフトは、「Windows 3.1」の日本語版を5月18日に発売 |
| 1993年7月 | マイクロソフトは、「Windows NT 3.1」を発売 |
| 1994年9月 | マイクロソフトは、「Windows NT 3.5」を発売 |
| 1995年5月 | マイクロソフトは、「Windows NT 3.51」を発売 |
| 1995年8月 | マイクロソフトは、「Windows 95」を24日に発売 |
| 1995年11月 | マイクロソフトは、「Windows 95」の日本語版を11月23日に発売 |
| 1995年12月 | ブラッド・シルバーバーグは、Windows 95の開発におけるリーダーシップが認められ、 PC Magazine誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出 |
| 1996年8月 | マイクロソフトは、「Windows NT 4.0」を発売 |
| 1999年10月 | ブラッド・シルバーバーグはマイクロソフトを退社 |
| 2000年 | 中島聡氏(40歳)がマイクロソフトを退社 |