■静寂の残滓
世界はまだ、呼吸を潜めていた。
音はどこにもなく、光だけが薄く霧のように漂っている。
足元の膜のような淡い光は、かすかに揺れては消え、
上を見ると、深い湖の底から見上げる水面のように、
静かに、静かにゆらゆらと波打っていた。
さっきまで確かにそこにあった“揺らぎ”の気配が、
まだ空気のどこかに残っている。
触れられそうで触れられなかった光の粒。
私を見ていたような、
でも、どこか、遠くから呼ばれたような。
あの奇妙な懐かしさだけが胸の奥に残っていた。
恐怖ではなかった。
むしろ、
“思い出せない何か”を思い出しかけた時のような、
静かなざわめきが心の奥で揺れていた。
深層はまだ、
私を手放していない。
違う。私が深層にいることを拒んでいない。
■再び現れる“形になろうとする意思”
ふと、空気が震えた。
だが、それは音ではない。
光の揺らぎでもない。
ただ、世界そのものがわずかにとくんと脈打った。
その瞬間、
視界の端に“揺らぎ”が再び現れた。
今度は、前よりもはっきりしている。
輪郭がある。
形がある。
けれど、それは人の形でも、
獣の形でも、
何かの影でもなかった。
光の粒が集まり、
ほどけ、
また集まり、
まるで“形になろうとする意思”だけが
そこに存在しているようだった。
胸の奥が、
また静かに震えた。
懐かしい。
どうしてか分からない。
だけど、涙が出そうになるほど懐かしい。
胸の中から込み上げてくる思いは、止まらない。
その揺らぎは、
わたしの方へゆっくりと近づいてきた。
触れられそうで、
触れられない距離。
その距離感が、
なぜかとても優しかった。
■言葉ではない“意図”
その時だった。
私と向き合った揺らぎの奥から、
“声のようなもの”が届いた。
声と言っても、
耳に、直接聞こえるものではない。
それは、胸の奥に直接触れてくるような、
感情の波のようなもの。
──あなたは落ちていない。
意味だけが、
静かに流れ込んでくる。
──戻る場所はひとつではない。
その感情の波に呼応して、世界がわずかに揺れた。
まるで、深層そのものが反応しているようだった。
そして、
揺らぎの奥に“別の影”が見えた。
光の手。
祈るような姿勢。
呼ぶ声。
守る意志。
それはこの深層の深淵に来る前に会った、
“主様”という概念の断片だった。
それは、名前ではない。
概念の断片は、人の姿でもない。
ただ、
“存在の気配”だけが静かに伝わってくる。
胸が熱くなる。
知らないはずなのに、
知っている気がする。
揺らぎは、
わたしの胸元にそっと触れた。
触れた“気がした”。
その瞬間、
深層の空気が大きく波打った。
■“染み渡る経験”
頭上から柔らかな光が差してくる。
深層には存在しないはずの光が、
どこからともなく流れ込んでくる。
揺らぎがわずかに後ろへ下がり、
その光の方へ視線を向けたように見えた。
──呼べば届く。
最後に伝わってきたのは、
その揺らぎの名前ではなく、
それを表す言葉でもなく、
ただひとつの“意志”だった。
光が強くなり、
一面の真っ黒な世界が、徐々に白く染まっていく。
揺らぎは、
光の中で静かにほどけていった。
まるで、
** この深層が
私のどこかに静かに沈んでいくように。 **
触れた感覚だけが、
胸の奥にそっと残る。
深層は閉じていく。
けれど、
ここで見たもの、
私が触れた記憶、
感じて、揺らいだものは、
確かに“経験”として私の中に残った。
私は光に包まれ、
深層の底からゆっくりと浮かび上がっていく。
そして──
世界は緩やかに、穏やかに反転する……
深層は閉じました。
でも、そこで得た経験と記憶は、確かに残っています。
この深層で触れた痕跡が、これからの物語でどんな意味を持つのか──
ゆっくり紡いでいくつもりです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。