0. はじめに
0.1 クラゲの時間 ヒトの時間
水族館に行くとクラゲのコーナーがありますよね。私はクラゲが大好きで、青白い照明の中を優雅にほわほわと可愛く揺蕩うクラゲの姿を見かけるとその場所にかじりついてしまいます。クラゲを見つめていると大変癒されます。なぜかと言って、おそらく、ある種のスケールの違いに癒やされるのです。クラゲは時間スケールがどうも私たちヒトとは違うようです。
『ゾウの時間 ネズミの時間』という本を読んだことがあるでしょうか。この本では、寿命の長いゾウと短いネズミの時間が対比されて語られています。興味深いのはネズミがゾウより寿命が短いからと言って、ゾウより不幸だと結論づけてしまうのは早計だという指摘です。幸福とはそもそも人間固有の価値の尺度だという哲学的批判はともかく、すべての生き物はその種によって異なる空間的・時間的なスケールを持っているというわけです。画一化された人間社会のど真ん中にいると忘れがちなことですが、それは最も驚くべき種類の最も自明な事実の一つだと思います。
さて、揺蕩うクラゲの話に戻りましょう。【揺蕩う(たゆたう)】という言葉は「ゆらゆらと揺れ動いて定まらない」ことを表す日本語の動詞です。このほとんどクラゲ専用のような動詞がこの国の言葉にあることを私は嬉しく思います。ところで、彼らはいつから揺蕩うようになるのでしょうか。クラゲはその生涯において、固着したポリプから遊泳期の稚クラゲへと劇的な変態を遂げます。この稚クラゲはエフィラ(ephyra)と呼ばれ、直径わずか数ミリメートルという極めて小さな体で、腕をはためかせて水中を泳ぐのです。
江ノ島水族館にはエフィラを観察できるコーナがあります。大変素晴らしい展示ですから、ぜひ一度ご覧になっていただければと思います。よく水槽で見かける優雅な成体クラゲと違ってエフィラの動きはすばしっこく、懸命に見えます。
さて、そろそろ本題に入りましょう。エフィラの泳ぎを見ていて、ふと「なんでこの動きで動けるんだ?」と疑問を持ちました。一度気になると調べてみないとすっきりしない性分ですから、私はそれから少しこのことについて素人なりに調べてみようという気になったのです。
あらかじめ断っておきますが、私は生物学については全くの門外漢です。私自身は生物については全く専門的な教育を受けたことがなく、ただ図鑑や一般書などを興味本位で読んだり、身の回りの生物を観察したりするという程度の人間です。ですから本記事ではあくまでエフィラへの興味を発端として物理学っぽい議論を展開して行くことになります。
ここで、今回の議論の中心的役割を担う定理について紹介します。低レイノルズ数の流体力学には帆立貝定理(Scallop theorem)というものがあります。これによれば、時間反転対称なストロークをする生物(つまり、往路と復路が完全に同じ動きを逆にたどるだけの生物)は、粘性が支配する世界では正味の推進力を得られないはずです。ところが、エフィラのストロークはこの可逆ストロークに近い単純な開閉運動でありながら、確かに前進しているように見えるのです。
これはなぜでしょうか。結論としては、エフィラが生息するメソスケール(mesoscale)という特殊な流体力学的環境にあるのではないかということです。メソスケールとは、慣性と粘性が拮抗する中間的なスケールであり、帆立貝定理の成立する条件がギリギリ崩れている領域です。このあいまいな領域をエフィラは巧みに利用しているのです。そこから少し進化生物学的な観点に立って考察をしてみました。
0.2 本記事の流れ
- ナビエ–ストークス方程式の紹介
- 慣性領域と粘性領域の議論
- 帆立貝定理(Scallop theorem)の詳細な説明と導出
- 人、エフィラ、大腸菌のレイノルズ数の比較とメソスケールとは何か
- エフィラの詳細な推進メカニズム
- 考察:なぜ生物はメソスケールを選ぶのか
なお、前回の記事(アメンボでもわかる流体力学の基礎:ナビエ-ストークス方程式の導出まで)でナビエ–ストークス方程式の導出を詳しく扱いました。本記事ではその結果を出発点に使うため、導出の詳細に興味のある方はあわせてご参照ください。
1. ナビエ–ストークス方程式
1.1 方程式の形
非圧縮性ニュートン流体の運動を支配するナビエ–ストークス(NS)方程式は、
$$
\rho\left(\frac{\partial \boldsymbol{v}}{\partial t} + (\boldsymbol{v} \cdot \nabla)\boldsymbol{v}\right) = -\nabla p + \mu \nabla^2 \boldsymbol{v} + \rho \boldsymbol{f}
\tag{1.1}
$$
$$
\nabla \cdot \boldsymbol{v} = 0
\tag{1.2}
$$
と書かれます。各変数の意味は次のとおりです。
| 記号 | 意味 | 次元(SI単位系) |
|---|---|---|
| $\rho$ | 流体の密度 | $\mathrm{kg/m^3}$ |
| $\boldsymbol{v}(\boldsymbol{x}, t)$ | 速度場 | $\mathrm{m/s}$ |
| $p(\boldsymbol{x}, t)$ | 圧力場 | $\mathrm{Pa} = \mathrm{kg/(m \cdot s^2)}$ |
| $\mu$ | 動粘性係数(粘度) | $\mathrm{Pa \cdot s}$ |
| $\boldsymbol{f}$ | 体積力(重力など) | $\mathrm{m/s^2}$ |
式(1.1)の左辺は流体の加速度(慣性項)、右辺は圧力勾配力・粘性力・体積力という三種類の力のバランスです。これは実質的にニュートンの運動方程式を流体に適応した形です。
式(1.2)は非圧縮条件(質量保存則)です。「測度場の湧き出しが0である」と言い換えることができます。
1.2 無次元化とレイノルズ数
次元とは何か
ここで少し高校物理っぽいお話をします。知っている方は読み飛ばして2章に飛んでいただいて構いません。物理量にはそれぞれ次元(dimension)が伴います。例えば力学では長さ $[L]$、質量 $[M]$、時間 $[T]$ という基本次元の組み合わせで、あらゆる物理量の次元を表すことができます。実際、速度の次元は $[LT^{-1}]$、圧力の次元は $[ML^{-1}T^{-2}]$、密度は $[ML^{-3}]$、粘性係数 $\mu$ は $[ML^{-1}T^{-1}]$ と求めることができます。
物理法則を表す方程式は、両辺および足し合わされる各項のすべてが同じ次元を持たなければなりません(次元の斉次性)。これは「1メートル+1秒」のような演算が無意味であることに対応します。一見当たり前に思えますが、この事実は次元解析という強力な手法の出発点になります。
無次元化の意味とモチベーション
無次元化とは、次元を持つ量を、同じ次元を持つ代表的なスケール(代表長さ $L$、代表速さ $U$ など)で割ることで、単位に依存しない純粋な数値(無次元量)に変換する操作です。なぜわざわざこのような変換を行うのでしょうか。主な理由は次の通りです。
第一に、無次元化によって単位系への依存をなくし、現象の本質だけを取り出せます。「秒速10mの流れ」という記述はSI単位系に依存した表現ですが、無次元化すればそうした恣意性が消え、異なる単位系・異なる実験条件で得られた結果を直接比較できるようになります。
第二に、相似則(スケーリング則)が得られます。例えば風洞実験で使う小型模型と実機とでは、サイズや速度が大きく異なりますが、両者のレイノルズ数が一致していれば、力学的には同じふるまいをします。これにより、実験室サイズの模型実験から実機の挙動を予測することが可能になります。
第三に、無次元化された方程式を見ると、どの物理効果が支配的かが一目でわかります。方程式中の各項の係数として現れる無次元数の大小を見れば、慣性・粘性・重力などのうちどれが効いているかが直感的に判断できます。これは後述するように、レイノルズ数の物理的意味そのものにつながります。
第四に、もとの次元付きの方程式には $\rho,\ \mu,\ U,\ L$ など複数のパラメータが独立に登場しますが、無次元化するとそれらが少数の無次元数(レイノルズ数など)にまとめられます。パラメータ空間が大幅に縮小されるため、解析や数値計算の見通しが格段に良くなります。
それでは、実際にNS方程式を無次元化してみましょう。代表長さ $L$、代表速さ $U$ を選び、
$$
\tilde{\boldsymbol{x}} = \frac{\boldsymbol{x}}{L}, \quad
\tilde{t} = \frac{Ut}{L}, \quad
\tilde{\boldsymbol{v}} = \frac{\boldsymbol{v}}{U}, \quad
\tilde{p} = \frac{p}{\rho U^2}\tag{1.3}
$$
と変換すると、体積力を無視したNS方程式は
$$
\frac{\partial \tilde{\boldsymbol{v}}}{\partial \tilde{t}} + (\tilde{\boldsymbol{v}} \cdot \tilde{\nabla})\tilde{\boldsymbol{v}} = -\tilde{\nabla} \tilde{p} + \frac{1}{Re} \tilde{\nabla}^2 \tilde{\boldsymbol{v}}
\tag{1.4}
$$
となります。ここで登場した無次元数
$$
\boxed{Re = \frac{\rho U L}{\mu} = \frac{UL}{\nu}}
\tag{1.5}
$$
がレイノルズ数(Reynolds number)です。$\nu = \mu/\rho$ は動粘性係数です。
レイノルズ数の物理的な意味は「慣性力と粘性力の比」です。
$$
Re = \frac{\text{慣性力} \sim \rho U^2 / L}{\text{粘性力} \sim \mu U / L^2} = \frac{\rho U L}{\mu}\tag{1.6}
$$
この一つの数字が、流れのふるまいをほぼ決定します。
2. 慣性領域と粘性領域
2.1 高レイノルズ数領域(慣性支配)
$Re \gg 1$ のとき、式(1.4)において粘性項 $\frac{1}{Re}\tilde{\nabla}^2 \tilde{\boldsymbol{v}}$ は慣性項に比べて小さくなります。粘性を完全に無視した極限ではオイラー方程式
$$
\frac{\partial \boldsymbol{v}}{\partial t} + (\boldsymbol{v} \cdot \nabla)\boldsymbol{v} = -\frac{1}{\rho}\nabla p
\tag{2.1}
$$
が得られます。この世界では、過去の流速場が現在に影響し続けるわけです。このような慣性力のある領域では流れは記憶を持つと言うこともできます。ストロークの形状と向きが非常に重要であり、非対称なストロークを使えば正味の推進力が生まれます。
人間の水泳がこの領域に該当します。例えば人間はクロールをして泳ぐことができますが、その逆向きの動きをしたからと言っておそらく逆向きにスイスイと泳ぐことはできないでしょう。
2.2 低レイノルズ数領域(粘性支配)
$Re \ll 1$ のとき、逆に慣性項が粘性項に対して無視できます。慣性項を落としたストークス方程式(Stokes equation)が成り立ちます。
$$
\boxed{\mu \nabla^2 \boldsymbol{v} = \nabla p}
\tag{2.2}
$$
$$
\nabla \cdot \boldsymbol{v} = 0
\tag{2.3}
$$
この方程式には時間微分が含まれていません。これは非常に重要な事実です。流れのパターンは瞬間瞬間の境界条件のみで決まり、過去の状態を「覚えていない」のです。言い換えると、粘性支配の世界の流体は記憶を持ちません。
さらにストークス方程式は$\boldsymbol{v} \to -\boldsymbol{v}$、$p \to -p$、$t \to -t$という変換のもとで不変です。つまり時間反転対称です。
この対称性が、次に述べる帆立貝定理の本質的な起源です。
3. 帆立貝定理(Scallop Theorem)
3.1 定理の主張
1977年、E. M. Purcell は「Life at Low Reynolds Number」という有名な論文においてこの定理を提唱しました。
帆立貝定理(Scallop Theorem): ストークス流($Re = 0$)において、時間反転対称なストローク(可逆ストローク)をおこなう遊泳者は、一周期ののちに正味の変位を得られない。
ここで「時間反転対称なストローク」とは、往路と復路が完全に鏡写しになっている運動のことです。帆立貝(scallop)は貝殻を一枚の蝶番で開閉するだけの、まさにこのような可逆ストロークをします。定理はその名のとおり、こうした生物が$Re = 0$の世界では泳げないことを主張しています。
3.2 定理の導出
準備:ストークス方程式の線形性と時間反転対称性
ストークス方程式(2.2)と連続の式(2.3)は$\boldsymbol{v}$と$p$について線形です。したがって、境界条件が決まれば解は一意的に(かつ即座に)定まります。
速度場と圧力場の解を $\boldsymbol{v}[\boldsymbol{U}_b]$、$p[\boldsymbol{U}_b]$ のように境界速度 $\boldsymbol{U}_b$ の汎関数として書くことにします。線形性より、
$$
\boldsymbol{v}[-\boldsymbol{U}_b] = -\boldsymbol{v}[\boldsymbol{U}_b], \quad p[-\boldsymbol{U}_b] = -p[\boldsymbol{U}_b]
\tag{3.1}
$$
が成り立ちます。境界速度が反転すれば、解の流速・圧力もまるごと反転するのです。
推進力の計算
遊泳体に作用する流体力 $\boldsymbol{F}$ は、表面 $\partial \mathcal{B}$ 上の応力テンソル $\boldsymbol{\sigma} = -p\boldsymbol{I} + \mu(\nabla \boldsymbol{v} + (\nabla \boldsymbol{v})^T)$ を面積分して得られます:
$$
\boldsymbol{F} = \oint_{\partial \mathcal{B}} \boldsymbol{\sigma} \cdot \hat{\boldsymbol{n}} , dS
\tag{3.2}
$$
式(3.1)より、境界速度が $\boldsymbol{U}_b \to -\boldsymbol{U}_b$ と反転すると、
$$
\boldsymbol{F}[-\boldsymbol{U}_b] = -\boldsymbol{F}[\boldsymbol{U}_b]
\tag{3.3}
$$
が成り立ちます。力もまた符号が反転します。
可逆ストロークの場合
可逆ストロークとは、周期 $T$ のうち前半 $[0, T/2]$ と後半 $[T/2, T]$ で境界速度が時間反転した関係にあるものです。すなわち、
$$
\boldsymbol{U}_b(T - t) = -\boldsymbol{U}_b(t)
\tag{3.4}
$$
一周期の正味変位は推進力を時間積分することで得られます。
$$
\Delta \boldsymbol{x} = \frac{1}{\zeta} \int_0^T \boldsymbol{F}[\boldsymbol{U}_b(t)] , dt
\tag{3.5}
$$
ここで $\zeta$ は抵抗係数(ストークス抵抗を含む比例定数)です。後半の積分を $t' = T - t$ と変数変換すると、
$$
\int_{T/2}^{T} \boldsymbol{F}[\boldsymbol{U}_b(t)] , dt = \int_0^{T/2} \boldsymbol{F}[\boldsymbol{U}_b(T - t')] , dt' = \int_0^{T/2} \boldsymbol{F}[-\boldsymbol{U}_b(t')] , dt' = -\int_0^{T/2} \boldsymbol{F}[\boldsymbol{U}_b(t')] , dt'
$$
これを式(3.5)に代入すると、
$$
\Delta \boldsymbol{x} = \frac{1}{\zeta}\left(\int_0^{T/2} \boldsymbol{F} , dt + \int_{T/2}^T \boldsymbol{F} , dt \right) = \frac{1}{\zeta}\left(\int_0^{T/2} \boldsymbol{F} , dt - \int_0^{T/2} \boldsymbol{F} , dt\right) = \boldsymbol{0}
\tag{3.6}
$$
正味の変位はゼロです。これが帆立貝定理の核心です。
3.3 定理を破るためには何が必要か
帆立貝定理が成立するための仮定は次の二つです。
- $Re = 0$(ストークス方程式が成り立つ)
- ストロークが可逆(時間反転対称)
逆に言えば、どちらか一方でも破れれば、正味の推進力を生み出す可能性が生まれます。例えば、大腸菌のような細菌は不可逆なストローク(らせん状の鞭毛回転)によって定理の条件②を破ることで推進力を得ています。ではエフィラはどうでしょうか。エフィラの動きは肉眼で観察する限りは可逆なストロークに見えます。したがって、エフィラはレイノルズ数がゼロでない(条件①が厳密には成立しない)ことを利用して泳いでいると予想されます。
4. レイノルズ数の比較とメソスケール
4.1 代表的な生物のレイノルズ数
では、ここのでは実際にさまざまなスケールの遊泳生物のレイノルズ数を見てみましょう。水中($\nu \approx 10^{-6}\ \mathrm{m^2/s}$)を泳ぐ場合を考えます。
| 生物 | 代表長さ $L$ | 代表速さ $U$ | $Re = UL/\nu$ | 領域 |
|---|---|---|---|---|
| 人間 | $\sim 1.5\ \mathrm{m}$ | $\sim 1\ \mathrm{m/s}$ | $\sim 10^6$ | 慣性支配 |
| 魚(マグロ) | $\sim 0.5\ \mathrm{m}$ | $\sim 5\ \mathrm{m/s}$ | $\sim 2.5 \times 10^6$ | 慣性支配 |
| エフィラ(稚クラゲ) | $\sim 3\ \mathrm{mm}$ | $\sim 10\ \mathrm{mm/s}$ | $\sim \boldsymbol{10}$ | メソスケール |
| ミジンコ | $\sim 1\ \mathrm{mm}$ | $\sim 1\ \mathrm{mm/s}$ | $\sim 1$ | 遷移領域 |
| 大腸菌 | $\sim 2\ \mu\mathrm{m}$ | $\sim 30\ \mu\mathrm{m/s}$ | $\sim 6 \times 10^{-5}$ | 粘性支配 |
レイノルズ数は12桁以上もの幅を持つことが分かります。そして注目すべきはエフィラの数字、$Re \sim 10$ という値です。
4.2 メソスケールとは何か
メソスケール(mesoscale)とは、$Re$ がおおよそ $1 \sim 100$ 程度の領域を指します。「meso(メソ)」はギリシャ語で「中間」を意味し、慣性力と粘性力のどちらかが一方的に支配するわけでない中間的な領域を表しています。
この領域では粘性が完全に無視できるわけではないため、流れはある程度記憶を持ちます。しかし慣性が完全に支配するわけでもないため、乱流は起きにくく、流れは比較的整然としています。
メソスケールを支配する方程式は依然としてNS方程式(1.1)ですが、慣性項と粘性項をどちらも落とせない非線形の問題であり、解析的に解くことは一般に困難です。
帆立貝定理は $Re = 0$ の世界の定理です。では $Re$ が少し大きくなると何が起きるのでしょうか。
NS方程式において慣性項 $(\boldsymbol{v} \cdot \nabla)\boldsymbol{v}$ は非線形項です。これがゼロでなくなることで、時間反転対称性が破れます。具体的には、往路と復路で流れ場の非線形応答が異なるため、一周期積分すると正味の力が残るのです。
$Re$ が小さいとこの非線形効果が弱く推進効率が低い一方で、$Re$ が大きすぎると流れが複雑になりすぎて制御が難しくなります。$Re \sim O(10)$ というのは、非線形効果で推進力を生みながらも流れの構造がまだ比較的単純という、絶妙なバランスが取れたスケールではないかと考えます。
5. エフィラの推進メカニズム
5.1 エフィラの形態と運動
YouTubeでエフィラと調べてるとストックホルム大学の授業資料らしきものが出てきました。この動画を参考にしつつエフィラの形態と運動について簡単に議論してみましょう。
エフィラは直径 $2 \sim 5\ \mathrm{mm}$ の円盤状の体を持ち、周囲に $8$ 本の腕(lappets)が放射状に伸びています。腕の開閉運動によって推進力を得ますが、この運動は一見するとほぼ可逆的に見えます。
そこで、エフィラの一ストロークサイクルをさらに分解すると次のようになります。
- パワーストローク(収縮): 腕を素早く閉じる。傘の下面(subumbrellar cavity)の水が後方に排出される。
- リカバリーストローク(弛緩): 腕をゆっくりと開く。外部の水が傘内に流入する。
パワーストロークとリカバリーストロークのスピードが異なります。帆立貝定理は時間発展のスケールにはよらないのでこの速度差は帆立貝定理を破る要因にはなりません。したがって、これはやはり慣性力の機能する流体のみで可能な泳ぎであろうと思われます。
5.2 非定常効果:追加質量(Added Mass)
$Re \sim 10$ という環境では慣性が無視できないため、非定常な流体力が重要な役割を果たします。中でも重要なのが追加質量(added mass)効果です。
物体が加速・減速するとき、物体とともに動かされる流体の塊が存在します。この流体の塊は見かけ上、物体の質量に加算されたように振る舞い、これを追加質量といいます。球の場合、追加質量 $m_a$ は
$$
m_a = \frac{1}{2} \rho \mathcal{V}
\tag{5.1}
$$
です。ここで $\mathcal{V}$ は物体の体積です。
物体に働く慣性力(追加質量力)は加速度 $\dot{U}$ を用いて
$$
F_a = -m_a \dot{U}
\tag{5.2}
$$
と表されます。重要なのはこの力は加速度に比例するという点です。パワーストローク(急激な収縮)では大きな追加質量力が生じ、リカバリーストローク(ゆっくりとした弛緩)では小さい。往路と復路で追加質量力の大きさが非対称になるため、一周期平均すると正味の推進力が残ります。
5.3 Vortex ringの形成と推進力
パワーストロークにおいて傘が収縮すると、排出される水がVortex ringを形成すると考えられます。Vortex ringはイルカの泡のリング、キノコ雲、タバコの煙のリングなどでみられるトーラス状の流れです。
Vortex ringに蓄えられた運動量 $\boldsymbol{P}_{ring}$ は、
$$
\boldsymbol{P}_{ring} = \rho \Gamma A \hat{\boldsymbol{z}}
\tag{5.3}
$$
と書けます。ここで $\Gamma$ は循環、$A = \pi R^2$ は渦リングの断面積、$\hat{\boldsymbol{z}}$ は渦リングの進行方向の単位ベクトルです。
運動量保存則より、渦リングが後方に押し出された分だけエフィラは前方に運動量を受け取ります。$Re \sim 10$ 程度では渦リングは急激に拡散せず、有限の寿命を持って後方に移流します。この渦リングの安定性が推進効率を高める鍵となっているというのが予想です。
6. 考察:なぜ生物はメソスケールを選ぶのか
6.1 ロバスト性の観点
エフィラが $Re \sim 10$ で泳ぐ設計を持つことには、単なる物理的効率だけでなく環境変化に対するロバスト性という観点からも意義があります。
海中の環境流速(背景流)が変化した場合を考えましょう。エフィラの周囲に背景流速 $U_{env}$ があるとすると、実効的なレイノルズ数は
$$
Re_{eff} = \frac{(U_{swim} + U_{env}) \cdot L}{\nu}
\tag{6.1}
$$
のように変化します。ここで $U_{swim}$ はエフィラ自身の遊泳速度です。
$Re_{eff}$ の変化に対する推進力の感度を考えます。推進力 $F_{thrust}$ を $Re$ の関数として書くと、数値シミュレーションや実験から
$$
F_{thrust} \propto Re^\alpha \quad (\alpha > 0)
\tag{6.2}
$$
という形の関係が知られています。ここで $\alpha$ は流れの構造に依存する指数です。
重要なのは、$Re \sim 10$ 付近では $F_{thrust}$ の $Re$ 依存性が比較的穏やか($\partial F_{thrust}/\partial Re$ が小さい)なことです。直感的には、$Re$ が非常に小さい領域では粘性が全てを支配するため、少し $Re$ が変わっただけでも推進メカニズムが大きく変化します。逆に $Re$ が非常に大きい領域(乱流遷移領域)でも、$Re$ の変化に対して流れが複雑に応答します。メソスケールはその中間で、推進力が $Re$ に対してある程度滑らかに依存する領域になっているのです。
6.2 環境流速変化に対する定量的な頑健性
より定量的に見てみましょう。エフィラが静水中で $Re_0 = 10$ で泳いでいるとします。海流など環境流速の変動により $Re$ が $Re_0 \pm \Delta Re$ に変動したとき、推進力の相対変化は
$$
\frac{\Delta F_{thrust}}{F_{thrust}} \approx \alpha \cdot \frac{\Delta Re}{Re}
\tag{6.3}
$$
と評価できます。$Re \sim 10$ 付近での $\alpha$ は実験的に $0.5 \sim 1$ 程度であることが報告されており、$\Delta Re / Re = 0.1$(10%の環境流速変動)に対して推進力は高々数%程度しか変化しません。
これはロバストな推進を実現するための巧みな設計です。
6.3 なぜこのサイズなのか
エフィラがメソスケールに対応するのは偶然でしょうか。進化的・生態学的な観点から考えると、このサイズにあることで得られる流体力学的優位性が、自然選択によって維持されてきたと言うこともできるのではないでしょうか。
そして、エフィラと同様のサイズ・$Re$ を持つ生物(コペポーダ幼生、甲殻ノープリウス幼生など)の多くは同様の推進メカニズムを採用しています。粘性領域を生きるさらに微細な生物が複雑な機構をもつ鞭毛モーターを進化させた一方で、メソスケールではより単純な運動による推進メカニズムの収斂進化が起こったと考えると実に興味深いです。
7. おわりに
本記事では、エフィラの推進メカニズムを物理学的に解き明かすために次の道筋をたどりました。
- NS方程式とレイノルズ数:流れを支配する無次元パラメータとしてのレイノルズ数を導入しました。
- 帆立貝定理:ストークス流の線形性と時間反転対称性から、可逆ストロークが推進力を生まないことを示しました。
- メソスケール:エフィラが $Re \sim 10$ という帆立貝定理の成立条件から外れた領域に生息することを確認しました。
- 推進メカニズム:追加質量効果・渦リング形成という複合的な慣性効果によって推進力が生まれることを議論しました。
- ロバスト性:メソスケールでの推進が環境流速変動に対して頑健であることを議論しました。
エフィラの「単純な」腕の開閉運動の背後には、このような豊かな物理学が隠れています。数ミリメートルという小さな稚クラゲが、慣性と粘性がちょうど拮抗するニッチな世界を利用して泳ぎを成立させているのは、生命の物理学的知恵と言えるかもしれません。
ただし、後半の考察部分には多く未検証な私の個人的な考えが含まれています。色々と不完全な記事とは思いますので、今後のためにもご意見は大歓迎です。
参考文献
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