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就職氷河期世代の私が、転職を失敗し続けて気づいた事

Last updated at Posted at 2024-12-09

お前は何がしたいんですか?

以前の記事と同じ書き出しになってしまいましたが、転職活動して気づいた「これをやっていれば.../やってよかった」をシェアしよう by 転職ドラフト用の記事で、他の人の記事を見ると、どこの転職サイトを使い、こういう流れで転職を実現したといった、結構実践的な内容が多いので、初めの一歩から道を踏み外し、絶えず裏道を歩んで来た者として、もう少し働くことについて、本質的な内容のものを書いてみようかなと思いました。

で、以前の記事で 「映画監督になれるやつっていうのは、映画監督になりたいやつじゃなくて、映画を撮りたいやつ」 というたけしの言葉を引用しましたように、人生の色々なものに揉まれて、その日その日を懸命に生きているうちに、一番シンプルで重要なことを忘れていってしまうと思うんですよね。
映画監督っていう肩書きが欲しかったのか、映画が作りたかったのか。
プログラマーっていう職に就きたかったのか、プログラムを書きたかったのか。

つまり、オレって何がしたかったんやろ っていう事です。
転職をするっていうことは、現状に満足出来ていない、やりたいことをやれていない っていうことですよね?
無慈悲な転職活動、就職活動をし、何十社からも塩を撒かれてお祈りされ、絶望の淵に追いやられていくうちに、働けるならどこでもええ という投げやりな状態に陥っていき、そんな感じだからやはり虚無感を絶えず抱え、転職を繰り返すというループに陥っていくわけです。
自分が何をしたいのか、自分でわかっていない状態。自分が何をやっているのか、自分でわかっていない状態。 大半の大人は、そういう状況に陥ってるように思います。
小さな子供を見ていると、そんなことって愚問なんですよ。彼らは、つまり僕たちはかつて皆、何をしたいかなんてちゃんと分かっていて、絵を描きたくなったらその辺に描き散らかし、食べたかったら食べ、眠くなったら寝る。それが満たされなければ泣くといったとてもシンプルな状態で生きていました。自問する前に、完全に自分を知っていた。
それが、外の大量の価値観に晒されていくうちに、自分の事がわからなくなってくる。
SNSの濁流を見ても分かるように、他人のクールな感じの、キラキラした感じの日常が大量に流れてきて、そうじゃなければ自分は幸せじゃない、人生の落伍者だという風に感じてしまい、自分の幸せを他人に決めてもらわないと自分では分からない、他人の物差しで自分を測る。 といった、おかしな感じになっている。
そんな他人の物差しを抱えたままで転職しても、やっぱりうまくいかないよねっていうことで、まずは自分は何をしたいのか、どこに向かいたいのか、自分の物差しはどうなのかっていう所からスタートするのが転職活層の一番最初だと思うわけですよ。

で、たけしの言葉に戻るわけですが、色々な映画監督のインタビューなんかを読んでも、大抵自主制作時代っていうのがあって、自分で借金したり、親類縁者から金を借りたりしてまで、自分の撮りたい映像を撮っていたりする。
もう、自分の頭の中のアイデアを映像にしたくてたまらないのである。こういった状態の人に、あなたは何がしたいんですかって聞いたり、職業なんかを聞いても無駄であろう。外から見れば破綻者に見えても、本人的にはかなり充実していて幸せなんじゃないかなと思うんです。

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ロストジェネレーションの悲劇

当たり前とされる9時5時の生活、働く時間が8時間、通勤とか準備入れると10時間。
ベッドに入って、寝付く時間もあわせて寝る時間が8時間とすると、24時間 -18時間で、自分の時間は6時間。たった25%。人生の大半の時間は、誰かの為に働く時間と寝て意識の飛んだ時間である。
阿保みたいではないだろうか?
人生の終盤に差し掛かった時に、自分の時間はほとんど無かったことに気づく。
こんな一生が当たり前だと思っているのは、一重に今の社会人の多くが上の世代に刷り込まれて来た、日本の昭和的ロードマップのおかげである。

さて、これを書いてる私は、所謂就職氷河期ど真ん中世代であり、ロストジェネレーション、失われた世代だ。
義務教育を終え、社会に放り出され、今、今日までの道のりは非常に厳しかった。
親の世代はバブル期を生き、良い学校出て良い会社に入れば、勤め先は一生安泰。夏はバイクでツーリング、冬はスキー、結婚して子供を作り、家を持つ。そういう世代である。
そういう人生の設計図をガキの頃から見せられてきた訳で、結果バブルは崩壊、企業は採用を絞りに絞り、氷河レベルで働き口が凍結し、血で血を洗う受験戦争を戦い抜けて来た受験戦士どもはあえなく戦死し、時代は氷河期に突入、政府は凍てついた企業を救うために派遣という闇の門を開放し、メディアは派遣の品格などと言った、派遣は素晴らしいというプロパガンダを拡散。またフリーターという言葉が出来たのもこの頃で、アルバイトを掛け持ちし、夢の為に頑張る若者は眩しいよねっていうポジティブなイメージを、所詮は根無草の落ち武者達に貼り付けた訳だ。
斯くいう自分も、そういうムードに流されて社会の入り口で道を外れてしまった一人である。

ここまで書くと、若い世代から、大袈裟っしょ、己の就職の失敗を世間とかのせいにしてるっしょ という様な声が出るのは、理解出来ますよ。でも、最初のボタンをかけ違うと、最後まで噛み合わないんすよ。
覚えているのは、並の企業で数十倍、人気の企業だと2-300人に一人とかの採用倍率で、それだけ買い手市場なので、ふーん、そうなの、嫌なら辞めてもええんやで というムードが企業内に醸成されており、就職戦線を勝ち上がってきたエリートでさえ、あの就職戦線にまた戻ると考えただけで吐き気をもよおすといった状況で、転職というオプションは不可能に近く、結果、企業がブラック化していった というのが、自分の見てきた印象である。
昭和期は、激務に耐え、その先には約束された出世、大幅な給料アップ、マイホームに高級車、愛人との海外旅行といった甘いにんじんが鼻先にあった上でのブラックだったのが、平成期はもはや人参などぶら下がっておらず、鼻先は虚無な闇。完全にネガティブなブラックだったわけですよ。

最初の段階で、俺は立派なフリーターになって、夢を追うと駆け出し、5年フリーターで食い繋ぐ。で、その時点で夢は破れ、そろそろ就職となっても、ますます無い。で、とりあえず派遣でってなってまた5年が過ぎ、30過ぎて無職同然の履歴書を持ち運び、かといって手に職も無い。
私、前職ではバイトリーダーをしてましてって言って、今だに新卒重視の日本企業の何処が雇ってくれるのか。
これがロストジェネレーター達の悲劇である。こういう闇の空白期間が10年ほど出来てしまったわけである。

斯くゆう自分も、学生時代に阪神大震災、オウム事件、ノストラダムスなどのオカルトブームが流行るといった90年台の世紀末感を体験し、安心安全と教えられてきた銀行や金融機関の破綻などをニュースなどで見ながら、自分が教えられて来た事は実はただの幻想なんじゃないかという疑いを、無意識化で増長させていた上での就職難で、その時に会社なんてアテにならないよねとはっきり自覚したわけでした。

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就社か自営か

そうなると自分で始めるというオプション一択になるわけです。で、親の意向で通っていた大学を中退し、AppleとAdobeが作り上げてその頃盛り上がっていたDTPというコンセプトに衝撃を受け、その当時には大きな潮流となりつつあったウェブのデザイナーとして、フリーランサーとなり、1個目のボタンを掛け違えた訳です。
日本の新卒重視の就職システムを考えると、一個めのボタンは致命傷になりかねない。ここで間違うと、それ以降の履歴がどんどん暗くなっていく。
その後データよりモノを作りたいという衝動から、ウェブからファッションのデザイナーとなり、311の震災を受けての自粛ムードの中立ちいかなくなり、ここではじめて就職活動をするのですが、先程書いたロスジェネの悲劇にぶち当たるのです。

気がつけば30を超えており、履歴書に履歴を書くと何も売りになるような経歴が無く、求人を見ても取り急ぎ出来そうな仕事はバイトか派遣。とりあえず工場内軽作業などの派遣に申し込んでみるも、事務所で話を聞くと、実態は日雇いであって、その日に仕事のある現場に連れて行かれ、作業をするといったまさに西成的styleでさらに絶望し、そういった仕事をしつつ幾つか面接を受けるうちに、小さな靴メーカーのウェブオペレーターとして、期間限定で就職が決まったのでした。
勿論正社員でもなく、派遣でもない、期間工みたいな契約内容でした。またそこがワンマンかつブラックで、毎日辞めたいと思いながらなんとか1年働き通し、契約を全うしたのですが、この時、自分の時間をただただ浪費し、その見返りとして給料をもらうという事の辛さを骨身に沁みて体験しました。
そして、時間を切り売りする辛さから逃れたい一心と、デザイナー時代から描いていた海外に出たいという焦燥感と、奇妙な縁から日本を出たのでした。

海外で働いて気づいた人生と仕事のワークバランス

長い話になるので割愛しますが、ある投資家の誘いで当初1週間の予定で香港、セブと訪問したのですが、気がつけばその時から今年で13年日本を離れています。人生は本当にハプニングです。
最初に働いた会社がグローバル企業で、セブで映画や映像のプロダクション、コンテンツ制作をしており、まさに日本の企業とは全く違った働き方を目の当たりにします。
基本的にはプロジェクトベースで、その為に世界中からプロデューサー、タレント、撮影クルーや音声スタッフなどが集結し、プロジェクトが終われば解散して皆帰っていくという感じで、撮影期間中は多くの人で賑やかで、セブのビーチの前のスタジオは色々な国から集まった人達で活気づき、スタジオ内のビーチバーではクルーやタレント達が遅くまでビール片手に、プロジェクトについて色々な議論を繰り広げ、毎晩お祭りのような雰囲気で、プロジェクトが終わるとシンとしてしまうという非常に密度の高い時間でした。
スタジオ自体は紆余曲折あり、コロナを期に閉鎖されてしまいましたが、あの頃に出会った友人たちは、あの時のあの時間が本当に恋しい、あの場所には魔法がかかっていたと、今だに話題に出ます。

セブに渡ってすぐ、パラワン島にある、その投資家所有の閉鎖されたリゾートの再オープンを任されるのですが、約束された資金が全く来ず、最終的には自分でマネージメント会社を立ち上げ、ほぼ自分の資金を使ってリノベーションし、営業を再開させることになります。たった200万円でのスタートでした。
リゾート自体は島の漁村、電気はジェネレーター、水は山からという超僻地で、勿論働く従業員はその地元の人達。
島から出たことのない村民も多く、息子や娘の誕生日だと言って休む。息子や娘や親が病気だからと休む。雨が降っているからと休む。来ないと思ったら、二日酔いだと言い訳する。
そういった惨状で、日本のマネージメントは優れていると思っていたので当初は色々とルールを作ったり、エクセルでシートを作っていたのですが、ルールなどは、大多数がそれを守らないとそれはもはや意味を失うわけで、早々にそういったマネージメントのやり方は暗礁に乗り上げました。
もう完全に日本の仕事観や、働く意味といったものは通用しないのだと実感したわけです。彼らからすれば家族や家庭の方が仕事なんかよりも何倍も重要で、嫌なら来ないといった態度が当たり前で、仕事が無いならないで構わないという無敵の人なわけで、会社側に主導権はないわけです。
日本で、仕事でストレスを抱えている人たちは、是非こっちに来て数ヶ月住んでみたらいいんじゃないかとその頃はよく考えていました。

また、リゾートのゲストの8割はヨーロッパからで、こんな僻地に好き好んでくる輩なので、普通のツーリストとはタイプが違います。
ラブ&ピースなヒッピー気質の人種が多く、結構長期で滞在し、ダラダラと過ごしています。
印象に残っているのが、毎年3ヶ月くらい滞在していたカナダ人の兄弟で、兄の方はパラワンで彼女を見つけ、毎年一緒に過ごし、弟の方は大の酒好きで、毎日夕方の4時頃から飲み始め、翌朝の3時4時まで飲んでいました。
だいたい半年間カナダで肉体労働をし、お金を貯めてパラワンに来て、3−4ヶ月ダラダラ過ごし、また帰国してお金を貯めるという生活をしているようで、欧米のバックパッカーの多くはこういった生活ルーティーンをしているようでした。
日本でこういう生活をしていると、ヤクザ者か変人扱いされるのではないでしょうか。
10年間リゾートをやっていましたが、ここで出会った日本人は10人以下。大半の日本人は数日間のバケーションの為に、前々から周到に計画を立て、ローカルの文化なんて排除された、城壁で囲まれたクリーンな5つ星のリゾートに何十万円か払って何日だけ泊まり、海外満喫と言って帰っていくというスタイルで、どちらが正しいのか分からなくなってきます。
ここでも、やはり働く意味や、自分の人生の過ごし方といった事を考えざるを得ない期間でした。

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再オープンさせたリゾートにて

コロナ禍で全てを失い、40過ぎてからの転職活動

さて、日本を出てから10年あまり、世界がコロナ禍で麻痺状態になり、自分のやっていたリゾートも真っ先に閉鎖に追いやられました。
海外でのロックダウンで、貯金なども底をつき、売れるものはマットレスまで売り払い、これからの見通しも立たない中、何か職を見つけないと死ぬという状態に追い詰められました。
この頃、オンラインで外国人に日本語を教える、友人のネットショップを手伝うなどしながら、プログラミングの勉強を始めました。
リゾートオーナーの投資家のボスが元々アメリカのITバブルで億万長者になったITエンジニアで、彼から勧められたのと、一番最初にウェブのデザイナーをやっていた事もあり、その時に挫折したバックエンドも、再度勉強しなおしてみたいとずっと心に残っていたからです、
で、node.jsから始め、HTMl/CSSのやり直し、HTMLやシステムの理解、ReactやFlutterなんかのフレームワークを毎晩勉強し、色々とミニアプリを自作したりしながら、せっかくだからこれで次の仕事を探したいと思うようになっていきました。
そして、15年ぶりくらいに履歴書を書き、40半ばを過ぎて転職活動を始めるわけですが、全くのレッドオーシャンで、特に日系企業では年齢ですでに切られてしまうという現実にぶち当たったわけです。
その辺りの事は英語が話せてプログラムも書けるようになったのでより就職が難しくなった件についてに書いたので、読んでいただけると幸いでございます。
で、そこで改めて考えたのは、プログラミング自体が楽しいのか、それとも、プログラミングは仕事の為に勉強してたんだろうかという事で、どちらかと言えば、このプログラミングという魔法の道具で、自分で何か作ってみたいよねという自分の中の子供の心の囁きを尊重し、IT職には特にこだわらずに転職活動をした結果、無事に今の日系企業のフィリピンオフィスのマネージャーという職に落ち着いたのでした。
という、Qiitaというプラットフォームには相応しくないオチとなってしまいました。
IT企業に転職話やないんかーい!!! と、椅子から転げ落ちているデベロッパーの方々もいるやもしれませんが、何卒ポエムとして読んでいただければ幸いかと存じます。

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