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科学とマーケティングのあり方:日本のハイレゾ文化を扇動したのは茂木健一郎!?

Last updated at Posted at 2025-07-06

少しだけセンセーショナルなタイトルをつけてみました。
以下は、脳科学とオーディオ規格という側面で、現代日本の技術史を振り返る読み物です。

はじめに

科学とマーケティング/製品の関係は、ときに非常に難しい舵取りを迫られます。

かつて、放射線が身体に良いという論文も存在し、1900年代初頭には放射線を多量に含む栄養ドリンクが流行し、健康被害をもたらしたこともありました。また、放射線を含む塗料による健康被害を訴えた従業員に対して、科学的に間違った論文、企業の都合の良い科学的な根拠を理由に賠償を拒否した、という非人道的なラジウム・ガールみたいな悲しい歴史もあったりします。

科学の正さは発表そのものではなく、再現性や明確な科学理論によって担保されるべきで、可能な限り正しく消費者に提示されるべき、というのが一般論です。
製品コンセプトの科学的な根拠は、消費者にもその正しさが可能な限り担保されているのが望ましいと思います。

しかし、こうした科学的に不確かな論文が、マーケティングや企業戦略に利用されるケースは現代でも少なくありません。

本記事では、この「科学と再現性、そしてマーケティング」という文脈の中で、今なお賛否が分かれるテーマ「ハイレゾオーディオ」を取り上げ、日本におけるその普及の歴史を紐解いていきます。

そもそもハイレゾとは?

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「ハイレゾ(Hi-Res Audio)」とは、一言でいえば 「CDを超える情報量を持つ音源」 のことです。音の情報量は主に以下の2つの指標で示されます。

  • サンプリング周波数 (Hz):音の波を1秒間に何回サンプリング(記録)するか。CDは44.1kHz(44,100回/秒)ですが、ハイレゾでは96kHz192kHzといった高い値になります。
  • 量子化ビット数 (bit):音の大小(ダイナミックレンジ)をどれだけ細かく表現できるか。CDは16bit(約6.5万段階)ですが、ハイレゾでは24bit(約1677万段階)以上を求められます。

しかし、これらのスペックにはオーディオファンの間で長年議論があります。

人間の可聴域は一般的に20kHz程度までとされており、CDの44.1kHzでも理論上22.05kHzまで記録可能です。さらに、16bitのダイナミックレンジ(約96dB)も、通常のリスニング環境では十分とする意見が根強くあります。

ではなぜ、「聞こえない音」「ノイズに埋もれるほどの細かさ」を持つハイレゾが、日本であれほど普及し、ロゴまで作られるに至ったのでしょうか?

ハイパーソニック・エフェクトとは?

その背景にあるのが、「ハイパーソニック・エフェクト」という仮説です。

これは音楽評論家であり研究者の故・大橋力氏らが1990年代から提唱したもので、
「人間が音として知覚できない20kHz以上の超高周波が脳の深部を活性化させ、心身に良い影響を与える」 という主張です。

可聴域上限を超える超高周波を含むと、脳波のα波が増強され、ポジティブな感情評定が高まることが示された。この現象は、超高周波が空気伝導聴覚系を介して、最終的に脳幹や視床を含む脳深部構造の神経活動を活性化することによって生じる可能性がある。
(出典: Oohashi, T. et al. (2000). Inaudible high-frequency sounds affect brain activity: hypersonic effect. Journal of Neurophysiology, 83(6), 3548-3558.)

この論文は権威ある学術誌に掲載されましたが、その再現性については科学界で議論が続いています。他の独立した研究グループによる追試は十分に成功しておらず、科学的に確立されたコンセンサスは得られていないのが現状です。AES(Audio Engineering Society)やNHK技研などの追試では、多くが有意差を再現できなかったと報告されています。

※詳しくは英語版Wikipediaをご参照ください。

ハイレゾはなぜ生まれたのか?

この科学的に未確定な「ハイパーソニック・エフェクト」が、日本のオーディオ市場、特にソニーの戦略と密接に結びついていきます。

ハイレゾ前夜:ソニーのクオリア(2003年)

物語は2013年の「ハイレゾブーム」よりも前、2003年にソニーが立ち上げた最高級ブランド「QUALIA(クオリア)」に遡ります。

当時の出井伸之CEOの主導で、QUALIAは「感動の創出」「五感に訴える本質的価値」を掲げ、単なる高性能を超えた商品群を目指しました。この「QUALIA」という名称は、哲学や脳科学で使われる「感覚の持つ質感」を意味する用語です。

茂木健一郎氏と大橋力氏の論文

QUALIAプロジェクトの思想的中核を担ったのが、当時ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーの茂木健一郎氏です。彼は自身の専門である「クオリア」や脳科学の知見をこのブランドに提供し、大橋力氏の論文を積極的に引用し、「聞こえない音が脳に与える影響」 を製品の付加価値として訴求することを提唱しました。

その結果、SACDプレーヤー「Q007-SCD」やヘッドホン「Q010-MDR1」(および技術継承機「MDR-SA5000」)などが100kHz120kHzまでの超高域再生を可能として売り出されました。
実際に、当時のソニーストアでは、販売員のお姉さんまでも、その非可聴域が与える心地よさを強調していた記憶があります。

商業的に後戻りできずに「ハイレゾ」へ

結果としてQUALIAプロジェクトは商業的には成功とはいえませんでしたが、一度「聞こえない音には価値がある」とした思想は、ソニーの中に根強く残りました。

そして10年後、音楽市場が物理メディアからデータへと移行し、新たな付加価値が求められる時代が到来します。このとき、かつてのQUALIAで培われた「聞こえない音の価値」や「脳科学的権威付け」が、より大衆向けにリパッケージされたのが 「ハイレゾ」 です。

2013年には再び茂木健一郎氏がソニーのプロモーションに登場し、ハイレゾブームの火付け役となりました。
参考:SONY公式記事

本当に「Hi-Res」マークは高音質の証か?

JAS(日本オーディオ協会)の定義では、以下に示されているとおりです:

しかし現実には、「Hi-Resマーク=高音質」という等式に対して疑問が残ります。

多くの機器は、単に96kHz以上のサンプリング周波数と24bit量子化に対応したDAC(デジタル・アナログ・コンバータ)チップを搭載しているに過ぎません。その先のアナログ回路や出力品質までは保証していないのです。

DACやアンプの廉価機では16bit(-96dB)以上の小さな音はアナログ段では再現することは出来ず、ハイエンド機ですらも20bit(-120dB)を超える音はノイズや様々な歪成分に埋もれてしまうのが実情です。

逆に、サンプリング周波数の側面では、一般的なトランジスタアンプではHi-Res基準の40kHz以上の波形を再生可能なため、特別な技術が使われずともHi-Res対応になってしまいます。ヘッドホンやスピーカーも同様で、特に小口径のイヤホンであれば40kHz出力は構造的に容易です。

つまり、「Hi-Res」だからといって高音質とは限らないのです。
むしろ、歪みが多い・音が薄い・解像度が低く感じるといった事例も現実に存在します。

ハイレゾに見る科学とマーケティングのあり方

QUALIAのヘッドホンは短命だった

実際にQUALIA時代の製品の末路を振り返ると、このような事例に一部当てはまります。
120kHz再生を謳ったヘッドホン「Q010-MDR1」や、同じナノコンポジット振動板を使った「MDR-SA5000」は短命に終わりました。
今や伝説とされる1989年から10年以上販売されたハイエンドヘッドホンのMDR-R10や、2025年現在において10年近く販売されているハイエンドのMDR-Z1Rとは対象的です。

QUALIAのヘッドホンは、その解像度の高さは評価されましたが、一部ユーザーから「音が冷たい」「低音が弱い」「共振で音が歪む」などの声が上がっており、超高域再生のみを追求した結果、それ以外の箇所でバランスを崩してしまったと考えられています。

科学的根拠が正しく消費者に伝わっているか?

もし、本当にハイパーソニック・エフェクトが重要で、それが本当に心地よいのなら、もっとQUALIAのヘッドホン達は受け入れられたはずです。
それ故に、こに一つの問いが浮かびます。

科学的再現性が確立されていない仮説を根拠に、企業がマーケティングに突き進んでしまったのではないか?

ひとつの仮説に基づいて製品コンセプトを構築すると、より本質的な価値を見失う危険もあります。そして「科学的価値」を語ってしまうと、企業や団体は後戻りが難しくなり、UX上は本質的でない些末な物に囚われてしまいます。

ハイレゾは、科学的根拠の不確かさが見過ごされ、マーケティングの物語が先行した結果、規格だけが独り歩きした典型例に見えます。

サンプリングレートや量子化ビット数を気にする前に、本質的に音楽を高音質で聴くために必要な要素はナンボでもあります。

まとめ

今のハイレゾは、時のソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーだった茂木健一郎氏と、時のソニーの経営者達により、科学的な実証を不十分なままに、マーケティングやストーリーメイキング重視で種が撒かれました。
その流れのまま「音楽をより高音質に聴く」という本質的な価値の定義が不十分なまま規格として制定されてしまった、そんな歴史ではないでしょうか。

科学的な正しさと商業的な成功が必ずしも一致しない現代において、私たちは作り手としても消費者としても、目の前にある「科学的な謳い文句」に対して、常に批判的な視点を持つ必要がある、そんな一例に思えました。

この記事が、科学とマーケティングの健全な関係について考える一助となれば幸いです。

尚、本稿はソニー、茂木健一郎さん、Hi-Resのあり方について必ずしも間違っていると断言するものではありません。そして、何より、私はソニーのヘッドホン(MDR-Z1R)やソニーのテレビ用スピーカーを愛用している、重度のソニーユーザーであることもここに明記しておきます。

補足:ハイレゾの何が嬉しいか?

音楽を楽しむだけならハイレゾは必ずしも大事な要素ではないです。しかし、音楽を制作するのにあたっては一定価値があるのは事実です。
例えばオーディオフィルタをかけた際に、演算誤差が聴感上安全域の外に追いやられるため、マスタリング段階では実用性があります。
可能な限り綺麗に編集が出来る、というのがその最大のメリットになる、という認識です。

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