はじめに
これを書いているのはプラクティス集めが趣味で、「アジャイルプラクティス一覧」なんてものを書いている者です。そんな人間がなぜプラクティスに対して警鐘を鳴らす記事を書いているかというと、かつての自分のようなプラクティス厨を生み出さないようにするためで、自戒を込めて書いております。
1つ1つのプラクティス自体は素晴らしいアイデアの結晶なので、正しい用法で、正しい目的のために活用していただき、プラクティスが作り出す落とし穴にハマらないようにご注意下さい。
この記事で伝えたいこと
プラクティスの注意点
・プラクティスはどの現場でも必ず効果があるとは限らない
・プラクティスは手段だけど、とても自己目的化しやすい
・アジャイル開発で本当に大切なことはプラクティスではない
上記について、すでに知ってるよ、という方は、本稿は単純にポエムとして楽しんでいただければ幸いです。
プラクティスの効果が出ない時
詳しくは別の記事にまとめていますが、そもそもプラクティスは学術的に効果があることが証明されている「方法論」ではありません。ある特定の条件下では効果がある「かもしれない」やり方です。また「プラクティスの目的を理解せずに、他で上手くいったやり方をただ真似しても効果が出ない」とよく言われますが、これは現場の文脈(コンテキスト)に依存する要素があるからです。プラクティスの効果が出ない時は、やり方が良くないか、そもそも文脈が合ってないか、です。(メンバーが目的を理解していない、は論外として)
なのでプラクティスの効果が出なかった時でも「このプラクティスは使えない」ではなく「うちのチームには合わなかった」と表現するのがいいと考えます。
個人的な実感として、プラクティスのやり方を「知っている」と実際に「やったことがある」の差はかなり大きいように感じます。さらに言えば「やったことがある」と「使いこなせる」の間にも距離があります。やってみないと分からない要素が多いのであれば、最初から深く考えすぎずに、色々試してみるというアプローチは間違っていないように思います。ただし留意点として、プラクティスは「始める」よりも「止める」方が難しい気がします。
ワークショップ症候群
プラクティスは課題解決のための手段です。しかし魅力的なプラクティスを見つけると課題も無いのについやりたくなってしまいます。こういったプラクティスをやること自体が目的となってしまうことをワークショップ症候群と呼ぶらしいですが、僕にも思い当たる節があります。他にもチームで長らく続けているプラクティスが当初の目的を離れ、ただそれをやり続けることが習慣になってしまったり、とか。
プラクティスが自己目的化しやすいのは、実施することが単純に「楽しい」からではないかと思います。無味乾燥な作業もプラクティスで包んであげると楽しいワークに一変したりするので、その魔法が、逆に依存性につながってしまうというのは皮肉な話です。
それを防ぐ手立ては「まず課題⇒その解決手段としてのプラクティス」という順番を守る、この一言に尽きるかと。興味があるプラクティスは心の中にメモっておいて、いつか使う機会が巡ってくることを待ちましょう。
大切なことはプラクティスの外にある
アジャイル宣言にも「プロセスやツールよりも個人と対話を」と謳われています。
プラクティスが尊いのは、それを生み出した現場において、関係者で話し合い、創意工夫を重ねる中でたどりついたやり方である、という点です。そういったマインドや関係性を欠いた状態でプロセスだけをコピーしても効果が出ないのは当然といえます。本当に大切なのはプラクティスではなく、マインドセットです。プラクティスはその本当に大切なものを引き出すための手段の1つにすぎません。
課題に出会った時、反射的に「これを解決するプラクティスはどれかな?」と考えてしまう場合は注意が必要かもしれません。その前に一度「これは本当にプラクティスを使わないと解決できない問題なのか?」と自問してみた方がよいでしょう。単純に対話することで解決できる問題も多いはずです。
プラクティスは人目を引くので、初心者はプラクティスをすることがアジャイルだ、と勘違いしてしまうことがあります。そしてこの引力は初心者以外にも作用します。分かっていたはずなのに知らず知らずのうちにプラクティスが中心になってしまっていた、ということがあるかもしれません。そんな時は「Don't Do Agile! Be agile!」という格言を思い出して下さい。
こぼれ話(心の中のつぶやき)
この記事を書くことで自分の中で免罪符は得たので、これで心置きなくプラクティス収集の道に戻れます。(笑)
プラクティスはゴールではないにせよ、アジャイルへの近道であることは間違いないと思うので、これからも先人の知恵はありがたく活用させていただきます。感謝。