はじめに
この記事はスタンバイ Advent Calendar 2025の9日目の記事です。
こんにちは、スタンバイでプロダクトオーナー(PO)やプロダクト企画をしている荒巻です。
特にこの1年、生成AIの文脈で「コンテキスト」という言葉をよく耳にしました。
「コンテキストウィンドウが〇〇〇万トークンに拡大!」とか「RAGで社内ドキュメントという外部コンテキストを注入して〜」とか。AIがいかに大量の情報を一度に飲み込めるか、そのスペック競争に一喜一憂した一年でした。
実際に生成AIの話題が活発になってくるに伴い、「コンテキスト」という言葉が登場する頻度も増えてきてるように思います。


( Googleトレンドより過去5年間を検索 )
ただ、AIのコンテキストはどんどん広がって、何万文字ものドキュメントを一瞬で飲み込めるようになったけど、翻って、僕ら人間の「コンテキスト」はどうなんだろう? と。
リモートワークが当たり前になって、MeetやSlackで仕事をする中で、僕らのコンテキスト(文脈)は広がったのか、それとも何か大事なものが欠落してしまったのか。
この1年ぼんやりと考えていた「人間にとってのコンテキストとは何か」という問いと、これからの働き方について、少し長めの散文を書いてみようと思います。
第1章:「コンテキスト」を分解してみる
AIにとってのコンテキストは、デジタルな「トークン(テキストデータ)」の集合体です。
でも、僕ら人間が「あ、今コンテキストが共有できてるな」と感じる瞬間、そこでやり取りされているのはテキストだけじゃないですよね。
もっとこう、言語化できない情報の塊です。
改めて、「人間のコンテキスト」を構成する要素って何だろう? と因数分解してみました。
1. 時間 (Time)
単なる「17時」という時刻データではありません。「深刻なバグが見つかった直後の、ヒリついた夕方」なのか、「大きなリリースが無事終わった後の、弛緩した金曜の午後」なのか。流れる時間の濃密度や色が共有されているか。
2. 五感 (Five Senses)
オフィスの空調の音、誰かが淹れたコーヒーの匂い、隣の席の人が貧乏ゆすりをしている微かな振動。これらはノイズですが、強烈な「今、ここ」の共有材料です。
3. 情報 (Information)
これは言語化されたデータ。Slackのテキストやドキュメントなど、AIも扱える領域です。
ここまではよく言われますが、さらに踏み込むと、以下の要素が決定的に重要だと気づきます。
4. 空間・物理的制約 (Space / Physics)
同じ重力、同じ気温の下にいるか。「あれ」と指差しをしただけで伝わる物理的な位置関係があるか。
5. 関係性と歴史 (Relationship / History)
「あうんの呼吸」のような、過去の蓄積による共通認識。チームの歴史を知っているからこそ通じる表現や、言葉の裏の意味。
6. 身体性・非言語情報 (Non-verbal)
視線(誰が誰を見ているか)、姿勢(前のめりか、背もたれに寄りかかっているか)、呼吸の浅さ、微細な表情の変化。
7. 意図と熱量 (Intent / Heat)
言葉の裏にある「本気度」や「迷い」。論理的にはGOだけど、声色が震えているから不安なんだな、というような空気感。
こうして書き出してみると、僕たちが普段「空気」として無意識に処理している情報の、あまりの解像度の高さに驚かされます。
AIが処理する「トークン」は、この中のほんの一部(主に3番の「情報」)に過ぎず、全ての情報がデータ化されてるわけではありません。残りの大部分は、デジタル化された瞬間に抜け落ちてしまう「ノイズ」です。
では、僕たちが普段使っているツールや環境は、このリッチで複雑なコンテキストをどこまで透過し、どこを遮断しているのでしょうか。
次の章で、その「差分」を整理してみます。
第2章:環境による「同期情報の差分」
僕らは今、いろんなツールを使って仕事をしていますが、それぞれの環境で、上記のコンテキスト要素がどのように「フィルタリング(欠落)」されているかを整理してみます。
A. 1人で作業(PC・ドキュメント)
- 得られるもの: 自己の思考、論理的なデータ。
- 欠落するもの: 他者からのフィードバック、偶発性、熱量。
- 特徴: 「没入・深化」。コンテキストは脳内とPCで完結します。
B. Discord / Slackハドル(音声・常時接続)
- 得られるもの: 声のトーン、存在感(Presence)、画面共有。
- 欠落するもの: 表情、身振り、視線、相手の物理的状況。
- 特徴: 「気配の共有」。「今話しかけていいか」が空気でわかる。視覚情報がない分、実は脳の負荷が低く、創造的になれる場所。
C. Meet / Zoom(顔+声)
- 得られるもの: 表情(2D)、声、資料。
- 欠落するもの: 視線の一致、空間の奥行き、全身の動作。
- 特徴: 「情報の交換」。カメラ目線だと相手の目は見れないし、誰が誰を見ているかという「メタ情報」が抜け落ちる。だから、どうしても「用件」中心になりがち。
D. オフィス(対面・空間共有)
- 得られるもの: 五感全て、空間の共有、偶発的なノイズ。
- 欠落するもの: デジタルログの手軽さ(検索性)。
- 特徴: 「体験の共有」。「場の空気」が変わる瞬間や、信頼醸成に最強の帯域。
こうして見ると、僕らはリモートワークで「効率」を手に入れた代わりに、「視線」「空間」「熱量」といった高帯域なコンテキストを、ネットワークの向こう側に切り捨ててきたことがわかります。
第3章:僕らの「生息地」を4象限で地図化する
さて、ここからが本題です。
脳科学や認知科学の分野で、 「人間の思考や創造性は、その時身を置いている『場所』や『状態』によってモードが変わる」 と言われています。
なので、アイデアが生まれる「拡散的思考」と、それを形にする「収束的思考」は、適した環境が全く異なります。
これを踏まえて、今の僕らの働き方を「コンテキストの解像度」と「脳のモード」で4象限に分類してみました。
縦軸は脳の働きです。上は「発散(アイデア出し)」で、ぼんやりしている時に活性化する デフォルト・モード・ネットワーク(DMN) が優位な状態。下は「収束(実行・解決)」で、集中して課題をこなす セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(CEN) が優位な状態です。
1. 「没入・生産」の左下象限(Low Context × 収束)
自宅のデスクで仕様書を書いたり、バックログを整理したりする時間。
ここは 「超・低コンテキスト」かつ「集中」 の世界です。
誰にも邪魔されず、論理(CEN)をフル回転させて形にするには良い場所です。複雑な情報をまとめる時なんかにここに潜ります。
2. 「カオス・種まき」の左上象限(Low Context × 発散)
DiscordのボイスチャンネルやSlackハドルなど、声だけで緩く繋がる「余白」のある空間。
カメラはオフ。声だけ。あるいはマイクもミュートで、誰かが作業している「入室音」だけが聞こえる状態。
視覚情報がない分、リラックスしてDMNが働きやすい。ふと思い立った時に「ねえ、今の仕様、なんか微妙じゃない?」と独り言のように投げかけられる(話しかけづらいときもありますが笑)。この「ゆるさ」が、プロダクト改善のきっかけになったりします。
3. 「調整・決断」の右下象限(High Context × 収束)
MeetやZoomでの何かを決める会議や定例会議。
顔も見えてる、声も聞こえる。一見リッチそうですが、決定的に欠けているのが 「視線の一致」と「空間の共有」 です。
誰が誰を見ているかわからないから、「場の空気」が読みづらい。だから会話が「情報の交換(トランザクション)」になりがちです。決定するにはいいけど、ここから「熱狂」は生まれにくい。
4. 「共創・ジャム」の右上象限(High Context × 発散)
久しぶりに出社したオフィス。あるいは飲み会。
情報の洪水に溺れそうになります。遠くで営業が電話で謝っている声(市場のリアルな悲鳴!)、エンジニアがホワイトボードの前で議論している熱気。
自分が関わっていないチームの「ノイズ」が飛び込んでくる。でも、この 「周辺情報(ノイズ)」こそが、組織のOS だったんだなと気づかされます。「あ、今会社全体がこういうモードなんだ」というのが、理屈じゃなく肌でわかる。
このように分類してみるとここ数年の間で、時間を費やしている場所と状態が、これまでとは大きく変わってきていることを実感します。
第4章:なぜリモートワークは「脳」にくるのか〜システム1とシステム2〜
なぜ僕らは、テキストだけのコミュニケーションや、一日中のオンライン会議にこんなにも疲れるのでしょうか。
その答えは、「ファスト&スロー」で有名なダニエル・カーネマンが提唱した 「システム1(速い思考)」 と 「システム2(遅い思考)」 で説明できるのではないでしょうか。
- システム1(直感): 無意識、高速、省エネ。「あ、あの人怒ってるな」と顔色で察する力。
- システム2(論理): 意識的、低速、高コスト。複雑な計算や読解をする力。
本来、人間同士のコミュニケーションは、大量の非言語情報(第1章で挙げた五感や身体性)を 「システム1」 で高速処理することで成り立っていました。
「なんとなく大丈夫そう」「なんとなくヤバそう」。これで済んでいたんです。
ところが、リモート(特にテキストチャット)になると、この「察する」ための情報が欠落します。
「了解です。」というテキストが来た時、システム1は作動しません。代わりに、わざわざ システム2(論理脳)を緊急起動 して、「この『了解です』の真意は何か? 文脈を分析せよ!」と、推論を回さなきゃいけない。
本来「なんとなく(システム1)」で済むはずの処理に、いちいちフルパワーの論理エンジン(システム2)を使わされている。
これがリモート疲れの正体です。この「脳の使い方の不自然さ」に自覚的であることはすごく重要だと感じています。
第5章:人間最後の砦は「違和感」にあり
ここでAIの話に戻ります。
AIは「システム2(論理・計算)」の超人です。情報の整理、要約、コード生成、論理的推論において、もう人間は勝てません。
じゃあ、プロダクトづくりにおいて人間に何が残るのか。
僕はそれが、 「システム1による『違和感』の検知」 だと思っています。
例えば、AIが出してきた完璧なロジックの事業計画や、データに基づいたUIデザイン案を見た時。
データは正しい。論理も通っている。でも、 「なんか気持ち悪いな」「なんかワクワクしないな」 と感じること、ありませんか?
この「なんか」の正体こそが、僕らが長い時間をかけて蓄積してきた身体的経験、倫理観、美意識、そして現場の空気感から来る 超・高速なパターン認識(システム1) からの警告です。
「論理的には正しい(正解)」だけど、「文脈的には間違っている(不正解)」。
この判定を下せるのは、身体性という強烈なコンテキストを持っている人間なのではと思います。
第6章:歴史・社会からの俯瞰図〜モラベックのパラドックス〜
視点をぐっと引いて、歴史や社会学の観点から今の状況を見てみます。そうすると、今起きているのは壮大な 「価値の転換点」 なのではと思います。
1. 歴史:「マニュアル」から「村」への回帰
人類の歴史は「コンテキストを減らす」歴史でした。
見知らぬ人同士が働くために 「マニュアル・契約書(低コンテキスト)」 を発明し、情報を削ぎ落とし、言語(論理)だけを抽出することで、近代社会は発展しました。
-
プレ・モダン(共同体・村): 超・高コンテキスト社会。「あうんの呼吸」「しきたり」「村の掟」。全員が同じ背景を共有しているが故に、言葉がなくても通じる世界。システム1が支配的。
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モダン(近代・工場・都市): 背景の違う見知らぬ人同士が、都市や工場で一緒に働く必要が出てきた。そこで発明されたのが、「標準語」「契約書」「マニュアル」です。情報を削ぎ落とし、誰にでも通じる言語(論理・システム2)だけを抽出した。 これが生産性を爆発的に向上させました。
しかし、AIの登場で 「マニュアル化できる仕事(システム2)」はコモディティ化 しました。
僕らが「難しい」と思っていた論理や計算(システム2)は、実は計算機にとっては「簡単」でした。
逆に、僕らが「簡単だ」と思っていた、空気を読んだり、五感で状況を把握したりする身体的な営み(システム1)こそが、実は計算機にとって再現困難な「高度な処理」だったのです。
2. 社会学:「再魔術化」
社会学者のマックス・ウェーバーは、近代化を 「脱魔術化(Disenchantment)」 と呼びました。世界から「謎」を排除し、すべてを計算可能にすること。
僕らプロダクト開発の現場も、曖昧さを排除し、すべてをチケット化・数値化しようとしてきました。
しかし、効率化が極まった今、人々は 「計算できないもの(魔術性)」 に飢えてるんじゃないでしょうか。
効率的なオンライン会議よりも、「あの熱狂的なフェス空間にいた」という体験。論理的に正しい機能よりも、「なぜかこのチームが作ると愛される」という非合理な物語。
これからは、 「再魔術化(Re-enchantment)」 、つまりデータ化できない「揺らぎ」を取り戻すプロセスが重要なのではと思います。
第7章:未来の「エッセンシャルな仕事」と、現場の復権
モラベックのパラドックスを考えると、AI時代における「エッセンシャルな仕事」の輪郭が見えてくるように思います。
それは、これまで僕らが「デジタル化できない」「非効率だ」と割り切ってきた領域にこそ、存在します。
いわゆるエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々(看護師、建設現場の監督、小売店の店員)の仕事を考えてみてください。
彼らは常に「マニュアル(システム2)」と「現場のリアル(システム1)」の狭間で、自らの 身体性をセンサーにして 判断を下しています。
マニュアルとリアルのギャップを、瞬時に埋めているのは彼らの「コンテキストを読む力」です。AIにとって最も難しいこの処理を、彼らは当たり前にしてるのです。
翻って、僕らプロダクト開発や企画といった仕事の未来はどうなるか。
それは、 「プロセッサ(処理装置)」から「センサー(感知装置)」への進化(回帰) だと思います。
与えられた情報を高速処理してアウトプットする役目は、AIに譲っていく。
代わりに重要になるのは、
「今、チームの空気がどう淀んでいるか」
「論理的には正しいデータだが、現場の肌感覚として感じる違和感は何か」
「Discordの雑談の端っこに落ちている、次のイノベーションの種はどれか」
これらを、自らの五感と身体性(システム1)をアンテナにして感じ取る(センサー)能力です。
「コンテキストを読む」というのは、単に空気を読むことではありません。言語化できない微細な変化をキャッチして、それをプロダクトの「意味」へと昇華させることだと思います。
最後に:2026年に向けて、生息地を「編集」する
来年は、生成AIのコンテキスト長もさらに伸びるでしょう。AIは何百万文字もの「過去のデータ」を完璧に記憶するようになります。
でも、「今、この瞬間」の熱量や、画面の外にあるヒリヒリした切迫感 を感じられるのは、まだ生身の身体を持った僕ら人間だけです。
だからこそ、僕らは冒頭の図の4つの象限を、もっと意識的に使い分ける必要があります。
- AIに任せられる論理的な作業は任せつつ、一人で没入して「深い思考」に潜る時間(左下)。
- Discordやハドルという声だけの空間で、目的のない雑談から「アイデアの種」を拾う時間(左上)。
- ここぞという決断の時は、Meetで顔を突き合わせて合意形成する(右下)。
- オフィスに出かけて、情報の洪水に溺れ、身体的な信頼関係を更新する(右上)。
「効率化」の名の元に切り捨ててきたノイズの中にこそ、価値のあるものが転がっている気がします。
そんな、とりとめもない妄想を、年末のこの機会に考えてみました。
来年も、良いコンテキストの中で、良い仕事をしたいなと思います。
