この記事は株式会社ドットログによる
コンストラク体操日記 Advent Calendar 2025 の 25日目 の記事です。
はじめに
UX(User Experience/ユーザー体験)とは、ユーザーがプロダクトやサービスに触れる前から、使っている最中、使い終わった後までを含めた「体験の総体」を指す概念と言われています。
ボタンの色や配置といった見た目の美しさ(UI)だけではなく、操作の分かりやすさ、迷わなさ、安心感、達成感、そして「また使いたいと思えるか」といったところまで含めてUXである。
つまりUXとは、ユーザーの思考や行動をどれだけ止めずに済むかを設計する行為。
ユーザーに「考えさせない」「立ち止まらせない」設計が、結果として良い体験を生む。
この考え方を端的に表した概念のひとつが、アフォーダンスという概念です。
※アフォーダンスについて
もともとは、アメリカの知覚心理学者である James J. Gibson が提唱した概念で、その後 Donald Norman が『The Design of Everyday Things(邦題:誰のためのデザイン?)』の中でデザインの文脈に広く知られるようになりました。
難しく聞こえますが、意味はシンプルです。
モノの形や配置そのものが、「こう使ってください」と語りかけてくること
たとえば、取っ手が付いていれば「引く」、平らな板があれば「押す」。
説明書を読まなくても、体が先に動く。それがアフォーダンスです。
ただし、アフォーダンスは、UXの全てではない。
UXの本質は、「どう使うかが分かる」こと自体ではなく、使う過程で、人の思考や迷い、不安をどれだけ減らせるか。
そして何より、プロダクトに対してワクワクを感じられ、使い終わった後に「また使いたい」と思えるかどうかまで含めて設計することにあると考えます。
UXの話をすると、ソフトウェアやWebサービスの話だと思われがちですが、実は日本は、画面の中ではなく、現実世界で人がモノを使い続ける体験において、この「思考を止めない設計」を積み上げてきた国だと、私は思う。
自動車や、家電、日用品、工具、自動ドア、百均のアイデア商品、そして街の仕組みまで、日本では本当にストレスフリーな体験が提供されている。
私はよく海外に行きますが、行くたびに日本のこの「小さなUXの積み重ね」に感動します。
では、なぜ日本は、物理世界では圧倒的なUXを実現し、自動車や家電で世界で圧倒できたにもかかわらず、ソフトウェアでは同じことができていないのだろうか、、、
この記事では、この違和感について、完全に私の主観で考察してみたい。
思想としてのものづくり
日本車が世界で評価されてきた理由は、エンジン性能や耐久性はもちろんだが、それだけではないと思う。
マツダ車は踏み間違い事故に対して、電子制御による補助だけに頼るのではなく、そもそも踏み間違いが起きにくいペダル配置やドライビングポジション設計がされている。
また、世界に誇るトヨタのランクルは、今でもあえて複雑な電子制御に頼らず、シンプルな構造にすることで、過酷な環境でも壊れず、壊れたとしても現地ですぐに治すことができるという素晴らしいUXが設計されている。
筆者の趣味の車の話ばかりしてしまっていますが、私が車が好きな理由は、ただ乗り物として魅力的である以外にも、こういった思想がすきなんです、、、
車以外でも、工具の世界でもマキタという工具メーカーは1つのバッテリーで、インパクト、丸ノコ、掃除機、扇風機まで動かせる互換システムを構築した。
そのうえで、使いやすい重量バランスやスイッチの位置まで、とことん考えられて設計されている。
他にも、家電製品や、おにぎりのフィルム、ポテチの袋の開けやすさ、言い出すときりがない。
これらに共通しているのは、プロダクトが使われる"未来の状況"を本気で想像しているという点ではないだろうか。
日本は、UXを機能や装飾としてではなく、思想として積み上げてきた国だと思う。
日本人という「うるさいユーザー」
では、なぜ日本ではこのようにユーザー体験が磨かれてきたのだろうか。
日本人は、世界でも有数に体験にうるさい民族です。
ほんの少しの遅延やズレ、理由は完全に言語化できないが、「なんか違う」といった違和感を繊細に感じる文化がある。
日本でiPhoneユーザーが多いのも、ブランドやマーケ的な要因以外に、こういったこだわりの強さや繊細さが表れているような気がする。
この感覚は、ものづくりやプロダクト設計以外にも、接客やサービス業の現場にも色濃く表れている。
要は、これは共感力と想像力、感性が豊かである証拠だと言える。
この想像力は、ものづくりだけでなく、日本のエンタメや漫画などにも表れているのではなかろうか。
このような感性をもった我々が、ユーザー体験のレベルを上げてきて、プロダクトで世界の覇権を取っていたこともあるこの国が、なぜソフトウェアの世界ではUXがうまく機能せず、敗北しているのか。
なぜソフトウェアではUXが敗北したのか
なぜディスプレイの中では、ユーザーを突き放すような迷路を生み出してしまうのか。
そこには、ソフトウェア特有の構造に加え、日本独自の「ビジネスの商習慣」が関わっていると考察する。
1. 「足し算」でしか稼げない見積もりのジレンマ
受託開発やSIerの世界において、見積もりは「工数(人月)」で算出されます。
そのため、「機能を1つ追加すること」は工数として説明しやすいが、「ボタンを1つ削って体験を滑らかにすること」の価値は、見積書の上では見えにくいし、理解を得るのも難しい。
作り手側も、機能を増やすほど売上が上がり、安心感を得る。発注側も、目に見える「機能リスト」が増えることで、投資に対する納得感を得る。
これらが、本質的な引き算のUXを駆逐してしまい、「何もしない(思考を止めない)」という高度な設計が、タダ同然に扱われてしまう。
2. 「使う人」を無視した、決裁者と市場性
日本のソフトウェア市場は長くB2B(法人向け)が中心であり、資金を供給する投資家やVC(ベンチャーキャピタル)も、その安定した収益性を好む。
「買う人(経営層)」と「使う人(現場)」が別人であるため、ここでもUXは後回しにされます。
決裁者は、現場の「使い心地」よりも、カタログに並んだ「機能の数」や「リスク回避の文言」で導入を判断します。
結果として、プロダクトは「現場をワクワクさせる道具」ではなく、「管理側の不安を解消するための、ボタンだらけの監視装置」へと陳腐化していく。
3. 「仕様書」という名の免罪符
「仕様書通りに作ること」が目的化した瞬間、プロダクトの解像度は、仕様書のテキストの範囲内にシュリンクする。
目的地を自分でイメージすることをやめ、責任の所在を曖昧にし、誰かが引いたレールの上をなぞるだけになる。それを昨今は「自走できない」と呼んでいるのかもしれない。
日本がハードで発揮してきた、変態的なまでの「想像力」が、ソフトウェアで機能しない理由は、ソフトウェアという実体のない世界において、「仕様書」という安易な正解に、想像力を委ねてしまったからではないだろうか。
それでも日本には「希望」がある
しかし、私は今、すごくワクワクしています。
この「陳腐化した構造」を破壊する波が確実に日本でも起きている。
今、日本のスタートアップシーンでは、少数精鋭でアジャイルに開発を進め、日々ユーザーの体験をアップデートし続けているプロダクトも存在する。
かつて、本田宗一郎が語っていたように、設計図や完成品ではなく、現場で実際に触れたときの感触に向き合う姿勢そのものが、プロダクトづくりの原点なのだと思う。
具体的な例を挙げると、最近だと「Teracy」というバーチャルオフィスツールがある。
機能が豊富でいろんなことが出来るというわけではないが、「コミュニケーションの数を増やす」という本質的な目的において、必要な要素が丁寧に設計されている。
まさにユーザー体験という言葉に当てはまるデザインが施されているように感じた。
※案件とかではないヨ
想像力と創造力で、世界はもっとわくわくする
ここまで、UXについて構造的な話をしてきたが、私にとってこの考え方は、理論として理解したものというより、もっと手触りのある感覚として身についてきたものでもある。
私の父は現場の職人で、私自身も現場で何度か働いていました。
そんな父が言った言葉で、
「イメージできるものは作れるが、イメージできないものは作れない」
これはエンジニアリングの、そしてビジネスの根幹だと思う。
創造は、想像の結果でしかない。
要件がすべて固まった状態で、言われたものをそのまま作るだけの仕事も、世の中にはたくさんあります。
それ自体を否定するつもりはない。
でも、本当にやりたいのはそこではない。
クライアントの中にある、まだ言葉になっていない「ふわっとした願い」や、「こうなったらいいな」という感覚を、一緒に想像し、膨らませながら形にしていくこと。
それが、結果として「頼んでよかった」と喜んでもらえたら嬉しいし、その先でプロダクトを使うエンドユーザーの体験が少しでも良くなるなら、なお嬉しい。
まとめ:「UXは、手法ではない」
フレームワークを覚えたから、デザインシステムを導入したから、それでユーザー体験が良くなるわけではない。
UXとは、ユーザーの未来をどこまで本気で想像するかという姿勢そのものではないだろうか。
想像力と創造力で、世界はもっとわくわくする。
そんな姿勢で、これからもプロダクトづくりに向き合っていきたいと思っています。
最後に、このアドベントカレンダーのバトンを繋いでくれたメンバーに、心からの感謝を伝えたいと思います!