はじめに
AWS、GCPといったクラウドベンダーの認定資格は、今やエンジニアの定番フェーズになりつつあります。そんな中、量子コンピュータ界隈では、Qiskit SDK v2.Xのリリースに伴い、2025年の10月初旬にIBMのQiskit開発者認定資格にアップデートが入りました。
IBMの紹介ブログによると、
2021年に最初のQiskit開発者認定が開始されて以来、71か国の1,300人以上のQiskitterが、試験に合格して量子計算科学者として認定されました。
とあり、IBM Qiskit 認定量子エンジニア(v0.2X)は 世界で 1,300 人強であると言えます。
AWS 認定者は 105 万人以上、GCP 認定者も 53.5 万人以上いる一方で、IBM Qiskit 認定量子エンジニア(v0.2X)は 世界で 1,300 人強、つまり、量子エンジニア 1 人に対して、クラウドエンジニアが 400〜800 人 存在する計算になります。
この数値から見ても分かる通り、クラウドコンピュータに関連する技術が大きく進歩し、普及しました。一方、現在(記事執筆時点)の量子コンピュータはクラウド越しで利用できますが、クラウドに比べて普及しているとは、言い難い状況であると言えます。
しかし、量子技術が進歩する過程で、量子コンピュータはクラウドシステムに組み込まれ、
1つのアプリケーションとして動く日が来るかもしれません。
そこで、量子コンピュータをクラウドシステムを構成する「道具」として使うにあたって、
どういった問題が潜んでいるのかや、どういった問題と付き合わなければならないのかに関して、興味を持ちました。
この記事では、
- どうしてここまで“桁違い”の格差が生まれてしまうのか
- どこに根本原因があるのか
を推察し、この格差が「量子コンピュータをクラウドシステムに統合するにあたっての技術的な課題」とどう結びつくのかを整理してみました。
認定者数を公式データからざっくり倍率で見る
AWS、GCP、Qiskitの認定資格取得者数を各ベンダの公開情報をもとに並べてみます。
| 技術領域 | 公式発表の人数 | 出典 |
|---|---|---|
| AWS 認定(ユニーク保持者) | 1,050,000+ 人 | AWS Certification |
| Google Cloud 認定(高度技術系) | 535,000+ 人 | Google Cloud Skills |
| IBM Qiskit Developer(v0.2X) | 1,300+ 人 | IBM Qiskit Developer Blog |
Azureについては、公式データが見つけることができませんでした。ただ、主要クラウドベンダのシェアは大きい順にAWS、Azure、GCPなので、それに伴って認定資格取得者数がいると推定すれば、AWS認定とGCP認定の間ぐらいでだいたい700,000+人ぐらいは居るのでは、と見積することができそうです。
いずれにせよ、クラウド領域のエンジニアは少なくとも 数十万〜100 万人以上 なのに対し、 量子領域のエンジニアは 千人規模という規模感で3 桁以上の差があり、量子開発者はクラウド技術者の数百分の一〜千分の一しかいない ということになります。この“圧倒的格差”が、量子分野の現状を最もわかりやすく示しているのではないでしょうか。量子技術が今後普及し、クラウドと同じように認定資格取得者数が増えていくことを仮定に、これらの数値を出発点に差がつく要因を考えてみました。
なぜここまで差がつく?格差の3大要因を考えてみる
「量子」と聞くと、「量子は難しい」や「新しい技術だから」といったことを聞きますが、この一言で差がつく要因の説明が片付いてしまいます。今回は、もうちょっと具体的に考えみます。量子分野とクラウド分野には多くの違いがありますが、その違いを細かく列挙すると複雑すぎて発散し、全体像が見えなくなってしまいます。そこで、今回はIT導入研究で広く使われる TOE(Technology–Organization–Environment)フレームワークの考え方にならって、格差を生む根本原因を 次の3つのカテゴリに集約して考えてみました。
- T. 技術成熟度の差(Technology)
- O. 参入難易度の差(Organization / People)
- E. 実行環境・インフラの差(Environment)
要因1:技術成熟度の差(Technology)
クラウド技術は 2000 年代後半〜2010 年代にかけて爆発的に発展しました。15 年以上の商用運用・ベストプラクティス蓄積があり、CNCF Landscapeからもわかる通り、ツール・SDK・API・監視基盤も豊富です。以下のように安定した技術基盤が整っています。
- OS / VM / コンテナ / ネットワークの成熟
- CI/CD の標準化
- 監視基盤・ロギングの整備
- Infrastructure as Code
- ベストプラクティス・書籍・講座の大量供給
- 失敗しづらい設計パターンの普及
クラウドシステムを設計する際は、蓄積しているベストプラクティスに従ったり、システム要件を満足する類似のアーキテクチャを探して、それを参考に設計するというアプローチも取ることができます。
一方、量子技術はまだ 黎明期〜実験期であり、2020 年代に入ってようやく商用化の入口に来たところです。例えば、以下のような未成熟なところがあります。
- 量子コンピュータ上の計算は、ノイズの影響を受ける
- 現在の量子コンピュータは誤りをを完全に訂正できない世代
- 実機精度が安定しない
- SDK の標準化が未完了
- ベンダーごとにAPIが異なる
- 開発ワークフローが確立していない
というように量子ハードウェアそのもののに起因する課題がもあり、技術としての成熟度や完成度がクラウドと比較して、圧倒的に違うという状況といえます。こういった技術成熟度の違いによって、量子技術は
- コストやリスクもまだ高い
- 標準化やベストプラクティスの不足
といったことが表れてきているのではないでしょうか。クラウドが「インフラとして完成した」領域であるのに対し、量子技術はまだ「研究〜初期商用」の段階に留まっていると考えられます。
要因2:参入難易度の差(Organization / People)
クラウド技術の習得には、下記のような知識が必要です。
- OS・ネットワーク・DB の基礎
- 簡単なシステム設計
- システム運用の最低限の経験
これに加え、認定資格試験を実務+知識で突破します。
しかし量子技術では、以下のように習得に要求される知識が異なります。
- 線形代数(行列・固有値・ユニタリ性)
- 複素数、ブラ・ケット記法
- 量子力学の基本(重ね合わせ・もつれ)
- 量子ゲートの数学
- 量子最適化
- 物理や数学を前提とした思考モデル
ここまでくると、“入門レベルに到達できる母数”が圧倒的に少なくなってきます。これに加えて、例えばSDK(Qiskit)の習得もあり「SDKへアクセスする手段であるPythonが書ける」だけでなく、
- 回路モデルの理解
- 実機 QPU の制約理解
- 「ノイズモデル」の理解
- 「トランスパイル」の仕組み
といったSDK内で使われる特有の概念や使い方への理解も必要になってきます。
量子コンピュータを扱うにあたって、クラウドとは 必要な知識の素地が違うことが、量子技術への参入ハードルを高くしている、といえるのではないでしょうか。
要因3:実行環境の差(Environment / Infrastructure)
クラウドでは誰でもすぐに仮想マシンを数分で起動して、計算リソースを利用することができます。
しかし量子コンピュータの計算リソースは、
- 量子プロセッサ(QPU)が物理的に希少
- 極低温に冷却する装置や制御装置が必要
- 実行にはクラウド越しの予約が必要
- QPUに投げた実ジョブは待ち行列に入る
- 実機はノイズの影響を受けるため、計算の再実行が複数回必要になることが多い
という特殊な性質があり、 “実行できる環境そのもの” が限られています。
例えば、IBM社の量子コンピューティングサービスであるIBM Quantumでは クラウド越しの量子実機アクセスのサービスを提供しています。IBM Quantummが提供する量子コンピュータは巨大な冷凍庫のようなもので、そのサービスの裏側では極低温に冷却するための装置(冷凍機)や超伝導回路など、現在のクラウドインフラとは違って特殊なものが動いています。量子の計算リソースは、まだクラウドに置けばいつでも、誰でも使えるものになっていないということです。
こういった実行環境の差によって、
- 待ち時間(ジョブ待ち)
- 実行コストの高さ(QPU利用料)
- ハードウェアによる最適化の違い
- ノイズの違いによる結果変動
といった、現象が生まれてきます。
この3要因は、そのまま「量子×クラウドの4つの壁」につながる
量子コンピュータをクラウドシステムに統合することを考えると、これら3つの要因から、統合にあたっての4つの課題が「壁」として見えてきます。
| 格差を生む3要因 | 量子×クラウドの4つの壁 |
|---|---|
| 技術成熟度の差 | ①ハイブリッド構成の複雑性 |
| 参入難易度の差 | ②プログラミングモデル / APIの分断 |
| 実行環境の差 | ③量子時代のセキュリティ問題 ④QPUスケジューリング |
まとめ
- 公式データに基づけば、量子エンジニアは 世界で 1,300 人強、AWS/GCP 認定者は 数十万〜100万人以上
- エンジニア人口の格差を生む要因を 技術・人材・環境 の3つ観点で整理
- そしてこの3要因は、そのまま量子×クラウドが直面する4つの壁 へつながる
量子技術の普及には課題があることをざっと書いてきましたが、まだまだ伸びしろがある技術領域ですね。
次回予告
次の記事では、クラウド上で量子コンピュータを扱う際にぶつかる以下の4つの技術的な壁について、紹介します。
①ハイブリッド構成の複雑性
②プログラミングモデル / API の分断
③量子時代のセキュリティ問題
④量子リソース(QPU)スケジューリング