「正しさ」に搾取されない「狡さ」を持ち始めた
かつての私は、エンジニアリングにおける「正しさ」の信者だった。
綺麗なアーキテクチャ、疎結合な設計、DRY原則、そして論理的な正論。 これらを武器に、カオスな仕様変更や、ふんわりとしたビジネス要件と戦うことこそが、エンジニアの仕事だと思っていた。
「正解」は常に一つであり、そこへ最短距離で至ることだけが価値だと信じて疑わなかったのだ。
けれど、最近その考えに少し変化が訪れている。
私は、「正しさ」に搾取されないための、ある種の「狡さ」を持ち始めた。
「正論」という名の落とし穴
「正しさ」は、時に人を追い詰める。 「技術的にはこうあるべきだ」という正論は、反論の余地がないがゆえに、チームの空気を硬直させ、思考を停止させることがある。
さらにタチが悪いのは、「その瞬間の正しさ」を追求するあまり、本来の目的である「価値の提供」から遠ざかってしまうパラドックスだ。 完璧な設計図を引くことにリソースを使い果たし、動くモノが出てこない。それでは意味がない。
私は気づいてしまった。 「正しさ」を振りかざして戦うことは、実はとてもコストが高い消耗戦なのだと。
最適解への「回り道」
そこで私が手に入れた武器が「狡さ」だ。
誤解を恐れずに言えば、これは 「意図的に妥協する」技術 であり、 「段階を踏む」戦略 だ。
最終的な「最適解」という山頂にたどり着くため、あえて今の段階では「不格好なコード」を書く。
若かりし頃のあの日の私なら、 「それはエンジニアとしてのプライドがないのか」 と憤慨したかもしれない。 だが、今の私にはわかる。 いきなり正解へジャンプアップしようとして滑落するよりも、ジグザグに、時に泥臭く足場を固めながら登るほうが、結果として早く、確実に高く到達できる。
一見すると遠回りに見えるそのプロセスこそが、複雑な現実世界における「最短ルート」なのだ。
「清濁併せ呑む」という生存戦略
この「狡さ」は、不誠実さではない。 むしろ、自分自身の精神と、プロダクトの未来を守るための高度な防衛術だ。
「正しさ」だけに固執すると、自分の理想と現実のギャップに苦しみ、やがて心が折れる。 かつて私が、コードを書くのが怖くなった時のように。
だから私は、少しだけ狡くなった。 清流にしか棲めない魚であることをやめ、濁った水の中でも呼吸ができる強さを選んだ。
そうやって「清濁併せ呑む」覚悟を決めた時、私は「正しさ」の呪縛から解放され、より自由に、よりしぶ強くエンジニアリングを楽しめるようになった気がする。
もしあなたが、正論の重圧で押しつぶされそうになっているなら。
少しだけ肩の力を抜いて、「狡さ」という名の戦略を試してみてはどうだろうか。
それはきっと、凡庸な私たちがこの世界で戦い続けるための、大切な武器になるはずだ。