はじめに:なぜ私たちは「熱狂」を義務付けられているのか?
こんにちは。kinocoboyという凡庸なシニアフロントエンドエンジニアだ。
派手な経歴も、OSSへの多大な貢献もない。
そんな筆者には、長年抱えている違和感がある。
それは 「エンジニアは技術が好きであるべきだ」 という、業界全体に漂う暗黙のプレッシャーだ。
「休日も最新技術を追うのが楽しい」、「仕事終わりに趣味でTypeScriptの型パズルを解いている」、「技術が好きじゃなかったら、この業界は長く続かない」。
こうしたキラキラした言説を聞くたび、私はひっそりとため息をついてきた。なぜなら、正直に言って、今の私はそこまで技術が好きではないからだ。
週末は家族と過ごしたい。仕事終わりにやるのは、ゲームか読書。
新しいフレームワークのキャッチアップは「楽しい」というより「必須の義務」として淡々とこなす。
そして、この「好きじゃない」という感覚を隠さなければならないと感じるたびに、「自分は本当にプロ失格なのではないか?」 と、インポスター症候群が顔を出してくる。
しかし、長年この仕事を続ける中で、私は一つの結論に達した。
私なりの結論
「技術が好き」じゃなくても、「プロ」と名乗っていい。
むしろ、「好き」という熱狂から距離を置くことこそ、エンジニアが長く、健やかに生き残るための生存戦略になり得る。
この考えがどのような内訳で形成されているのかをいかに示す。
プロフェッショナルを定義するもの
「好き」ではなく「価値」そもそも、「プロフェッショナル」の定義とは何か?
それは、「対価を受け取り、求められた価値を安定して提供できること」 だと思う。
一流のシェフは、毎日「料理が好きでたまらない」わけではないだろう。パイロットは、毎日「飛行機を操縦することに興奮している」わけでもないと思う。
それでも彼らは、高い品質で料理を提供し、安全に人を運んでゆく。
エンジニアは、「技術を好きになる」ことでお金をもらっているわけではない。
エンジニアが提供する価値とはなにか?
大体の場合は以下のいづれかだと考えている。
問題解決力
複雑な要件を、期日までに安定して実現すること。
再現性
誰が担当しても、同じ品質の成果物が作れる土台を提供すること。
予測可能性
このシステムがどれくらいの負荷に耐えられるか、どれくらいの期間で開発できるかを予測し、責任を負うこと。
これらは、熱狂や愛情とは別の次元のスキルであり、むしろ、冷静さ、客観性、ドライな判断力が求められれる。「技術は好きじゃないけど、与えられたタスクは完璧にこなす」これは、プロとして最高の賛辞ではないだろうか。
端的に、 ** 約束を守れるやつが一番えらい** のだ。
私が新たに見つけた「持続可能な熱源」
では、「技術が好き」という熱源を失ったシニアは、何で仕事へのモチベーションを保てば良いのか?
私が辿り着いた、長く続く持続可能な熱源は、技術の外側にあった。
モチベーションの対比構造
| 不安定な熱源 | 持続可能な熱源 |
|---|---|
| 技術そのものへの好奇心 | 技術を使った問題解決への達成感 |
| 自分のコードがバズること | 自分のコードが組織の土台を支えている実感 |
| 最新フレームワーク・ライブラリへのあこがれ | これなら誰でも運用できる設計への満足感 |
フロントエンドエンジニアとして、筆者は技術の美しさよりも、「お客様が迷わず使えるUI」 ができた瞬間に喜びを感じるようになった。
またコードが完璧であることよりも、 「若手がスムーズにオンボーディングできた」 ことに価値を感じることが増えた。
この「貢献」や「感謝」といった外部からのフィードバックは、技術への「好き」よりも遥かに安定したモチベーションになっている。
結論:「凡庸なプロ」として胸を張ろう
私は天才ではない。常に最新の技術動向に興奮し続けることはできないかもしれない。
深夜に一人、コードを書く喜びを知らないかもしれない。
しかし、私は 「プロ」。与えられたリソースの中で、愚直に、着実に、そして何よりも持続可能な形で価値を提供し続けることを約束する。
もしあなたが「技術への熱意が薄れてきた…」と悩むシニアエンジニアなら、どうか安心してほしい。それはプロとしての成熟の証かもしれない。
「技術が好き」じゃなくても、仕事はきっちりやる。このドライで現実的な姿勢こそが、私のような凡庸なシニアエンジニアが、この激流の業界を長く生き抜くための、静かで強力な軸足だと信じていたい。