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未経験文系卒女性駆け出しエンジニアの(およそ)20年史

記事タイトルは未経験も文系も女性も特に意味はないよという意味でつけました。ただの新人時代から今までのメモです。もう少し詳細はこちらに : https://zenn.dev/e99h2121/books/my-20years-history

志望動機

2003年4月新卒入社。テレビ、新聞、出版社を一通り受けたミーハーな文系大学生だった私はITベンチャーを就職活動中に志した。

今から勉強して何かしら手に職をつけられるならそれはお得だな位の気持ちだ。自分がわりとカラッポだったなという反省も少しあった。

会社の選択理由は、「そこにいた人が面白そうに仕事をしているように見えたから」。一通り勉強したら、そのうち元々やりたかった何かを作って世に出す仕事(当時はそれがクリエイティブだと思っていたのだからおめでたい)に切り替えていけばいいやと思った。

元々会社に帰属意識は無かった。

入社、配属

研修で何故かLANケーブルを自作させられた。コスト意識の高い会社だ。
一通り研修を受けて、配属。研修と言っても大したことは教えてくれない。やばい、わからん、がモチベーション。このモチベーションだけでどうにか自分で勉強したのだから今更だが少しは褒めてやりたい。当時5人位しかいない新規プロダクトに配属された。

開発と言いながら企画、設計、コーディング、導入もやりたい奴がやるような役割分担だったので、新卒の私も同じように取り組んだ。先輩は当然新人扱いしてくるものの、新人ながらに企画がかけるっていうのは贅沢だったと思う。

同時にプロトタイプというやつも作った。紙芝居というのかハリボテというのか、画面遷移のUI、UXを見せて議論する。コーディングのことは全くだったが、こうやってユーザーが実際使うというのを考えるのは私でも、この業界への入り方としてはラッキーだった。

配属されたその頃、開発部(と大雑把に書いておく)では週に一度、各チームリーダーと社長が会議していた。それを私はどうにか見学したいと思っていた。

思い付いたのは「議事録取りますよ!」「学生時代速記のバイトやってました!」。当時そのタイミングでは社長秘書がその役割だったのだが、下っ端の私めが的ノリで紛れ込ませてほしいとゴネた。

その時そのタイミングでしか出来ない大胆さって必要だと思う。そういう態度で気に入られることを目指し、私は秘書氏とも少女マンガネタで語らう仲になり実際マンガを借りてみたり、顔を覚えてもらうことの工夫をした。懐かしい。

2年目

私が入社した頃、会社の事務所は田町にあった。お気軽な大衆酒場に困ることはなく、昼ごはんにも、飾らない雰囲気も大好きだったのだが、入社2年目を迎える前に移転する。

新しい場所は赤坂・六本木エリア。大分オシャレ濃度が高まった。渋谷から六本木という動線にIT関係がひしめく流れ。その一画にある意味弊社も加わった気がした。あくまで製品、中身で勝負できさえすれば場所だとかイメージなんていかようにもなるだろう、と思いたいが、このあたりが営業サイドと開発部との違い、と、乱暴に括ればそういう話な気がする。

ともかく、これはまったく偶然に、他力によって、私は世間一般的「憧れエリア」で働くシステム開発屋の一員となる。

新しいオフィスに移り慣れた頃、春には2年目を迎えた。新卒採用2年目になった会社。私にとっては初の後輩、新人バブル期の崩壊でもある。

世間並みの人員数を採用していた弊社。1年差がモノを言うのなんて小学生ではあるまい。ボーッとしていたらやる気に満ちた者達が周りに見え隠れし始めた。私は立場失墜だ。

新人と非新人の違い。素直な者は社からも愛される。書かせてもらえていた企画や、プロトタイプという仕事も半分は奪われる。

つまんねえ。

ネガティブ感情だ。本来ならここで自分は2年目として、一層お手本になるように邁進すれば良いだけかとも思うのだが、一足飛びで未経験から楽しいところだけ切り取って仕事もどきの味を知り始めたニセ新人は、経験も無い、ソフトウェア知識もまだまだというどうしようもない奴となる。

ボイコット

反抗期到来。ここが私のクライマックスとも言える。自主的配置転換、ボイコットである。

このあたりの話は「失敗を許容する」なんて言われても失敗したくないです - 失敗共有手法の目次 - Qiita

先述のとおり私が所属していたのは新規プロダクト、まだ製品の影かたちのない、顧客もいない部署だった。私の発想は、既に稼働していて、顧客も沢山いて、黙々熱心に開発者が開発に勤しんでいる部署、それこそがこの会社の最先端だし、私はそちらに貢献したい。こんな営業まがいの、口車だけで企画だなんだという絵空事しか描けない場所なんぞしらーん。

私は荷物を束ねて老舗、旗艦プロダクトのチームに異動することにした。することにした、と言っているが誰か、取り分け上司や先輩に断った訳ではなく自分で物理的に席を移動することにしたのだ。

移動先に同期はいたが、まあ、基本的にアウェーだ。この老舗プロダクトにも当然本年度入社の新人はいる。やる気に満ちた将来有望な彼らだ。でもそれを以てしてもこれまでの場所でうずくまっているより、前向きな挑戦な気がした。私は開発がしたいのだ。

移動先の各位は最初こそ「何コイツ」という反応だったが、そのうち諦めたのか私にもささやかに仕事を割り振ってくれた。マスタメンテナンスと呼ばれるマスタデータを保守するだけの、まあ出し入れするだけの画面である。それでも私はいつ誰に読まれるか、ましてや使われるかわからない機能の企画を書き続けるよりよほど魅力的に思った。

そして今度こそは自分がいちばん下っ端であり誰にも言い訳は通用しないということも、心の中に強くとどめることにした。第二の新人時代の始まりである。

お仕事

新天地で私は初めて製品評価、出荷を経験する。評価というのは「する」のではなく、される方。私の書いたプログラムとそのUIに至るまでを点検されるということだ。

ただのマスタデータ保守画面、と先の節に書いたが、それだけの操作にユーザーがどれだけ手間をかけるか、ミスをおかすか。評価者が先輩社員だったこともあり観点に容赦は無い。ソートが効かないだのIMEがおかしいだの散々だ。

何度やり直しを食らったかは忘れるくらい、駄目出しという駄目出しを受けた。受けただけならまだ良いが、自己正当化を中途半端に主張しては浅い知識を一層あらわにし返り討ちとなるのが当時。

でも不思議と、これで辞めたいとは思わなかったのです。どこかその先輩の指摘にも納得、共感していたし、製品そのものとその社会的影響を、学生時代には感じ得ないレベルで実感でき始めていたからかもしれない。

この製品は一体どれだけの顧客に使われているのだろう。保守画面をどうにか形にして以降、私はいくつかのサブシステムと言われる一般ユーザー向け画面も作り、直す作業に携わらせてもらった。

顧客訪問をした上でイチから企画し設計、コーディング、出荷したものもあるし、顧客支援チームから要望を受けて同じく出荷まで至ったものもある。いずれにしてもようやく、新人時代を脱出し始めた。

大仕事

思い出深いプロジェクトがある。データベース載せ換えだ。イチブランドのデータベース上でしか稼働させられていなかった製品を、別種のデータベース上でも使えるようにする。これを特にスペシャリストというわけでもない私にやらせようというのだからなかなかな会社であるし、だから開発力にも疑問を呈される。まあどこにもスペシャリストなんてものは弊社には居ないので、私でいいやということだったのでしょう。

私のお仕事は主に、各サブシステム部隊からデータベースが原因と思われる障害事象を集めること。そしてその解決である。自分で調べるケースもあれば、問題の再現条件を見つけてコンタクトセンターに問い合わせることもある。まあ、その障害を解決することをゴールとして何でもやる係である。元々知識のある人によってはそんな便利屋稼業面白くない方も当然いるだろう。が、私はその、「社内で誰も手を出していない領域の唯一になる」という使命感が嫌いではなくこの役割を楽しくやっていた。

結果。このプロジェクトの大元となるいわゆる大企業な顧客の事務所に、私は通うことになった。

世の中のネガティブイメージに従うと常駐、ということに聞こえるかもしれないのだが、基本的に弊社はある特定のイチ顧客だけから要望を受けるのではなく、どの顧客からも要望を受け製品のそのものを改善していく。なのでまあたまたま私はこのデータベースマイグレーションプロジェクトの発端となった客先に、縁があった、それだけのことだ。

我々の製品の使い手は、システム部というわけではない。むしろ一般従業員、バックオフィス担当員、言ってしまえばオバチャンだったりオッチャンだったりオネーチャンだったりする。それだけに私もそういった方々と我々の製品画面を覗きながら対話する必要があった。でも何が感動的だったか。

それはシンプルに、「私の作ったものを、いま、目の前でこの人が使っている」という、消費されている現場そのものを目のあたりにした感動そのものだった。

感動

昔からこういう願望、夢みたいなものがあって、自分が書いたり描いたり作ったりしたものをお客様と言われる人に届けて使ってほしい、喜んでほしい、と思っていた。思えばだからこそ大学生だった私はそれがクリエイティブだと思っていたようなところがあって、就職活動をしたけれど、なんだ、意外とただただ頑張っていたらこういうことなんだな、というささやかに夢が叶った瞬間のようにも思えた。

この「オバチャンのPCに私の作ったものがインストールされて動いている」ことの衝撃は凄まじかったのである。

この顧客へのプロジェクトは断続的に、数年かけて変化しながら続いた。データベースそのもののバージョンアップだったり、我々の製品のアップグレードだったり、その都度社内でも私の名前というのは思い出され、呼ばれるようになった。データベース素人としか言えなかった私だが、石の上で数年かけて場所を温めたわけだ。

そうこうしていると何が起こったか事件だ。社内で表彰を受ける候補の一人にノミネートされた。

堂々と喜べば良いのだがなんだか、何とも素直なリアクションはできなかった。でも全社会議で私の名前は大写しになったし何だか写真を撮られたし記念品を貰った。最終的に賞そのものは受け取らず済んだが、チヤホヤされた。

記念品は万年筆。実家の母にプレゼントした。今、実家のどこにあるかはわからない。

関連: 「20年弱開発をやっていて一番嬉しかった瞬間」 - Qiita

以来

データベースの人、という社内的肩書きを得た私は、製品保守チームの中でも基盤と呼ばれる分野にてお仕事をするようになった。

こう書くと何だか聞こえが良いが、画面が起動しませんだとか、この画面でエラーが出ますだとか、サーバーが重いです、落ちました、ともかくよく分からないけど動きません、全て私の仕事ということである。

電話が鳴ればとりあえず自分の仕事として全部とったし、自分の仕事でなさそうなものが回ってきても、これまたとりあえず分かるところまでは調べた。まあ決してそこまでやらなくて良いんだが、そこまでやっておくとパスされた方のチームもよほど安易には文句は言ってこない。だったら、という感覚。更にここで感謝の言葉がなければめげていたかもしれないが、幸い、このやり方を認めてくれる人が多かったので、自分も安心して振る舞えた。会社としてブラックかそうでないかというと微妙なところと思う。そしてここまでで入社7、8年だろうか。決して早いスピードでもないと思う。しかしそれなりの時を経たことでステップを進めた。私はチームリーダー的なものとなる。

大層なものではない。新人くん数名があてがわれるので、彼・彼女らとこれまでやってきたことをやるだけだ。

軌道に乗る

スタイルは変わらなかった。自分がこういうふうに仕事をしている、というのが分かれば、それを単に共感してもらえば良い。あるいは共感なんてなくても良いかもしれない。黙って何よりそこそこ、楽しんでもらえたらそれで良い。

最新バージョンの開発を担ったのもこの頃だ。企画からの設計、コーディングというやつだ。部署の大勢の前でデモンストレーションして見せるまでがゴール。それを、チームの皆とテーマを合わせて達成する。

時期はそろそろ2010年を超えた。

最近のIT界隈の話題に少しは近づいてくる。マイクロサービスアーキテクチャ、という言葉こそ全くだったが、各サービスの役割分担だったり、何故それが必要なのかというくらいは説明できるようになってきた。それはここまでで経験して、顧客に怒られてきた肌感覚というのが何より根拠であったし、知れば知るほど分からないことが増えた。全て弊社の中での経験からしか語れないことが弱味だが、2000年代前半から10年そこそこ、日本のいわゆるIT業界をどうにか生き延びた。

上海

日本の、と先に書いた理由がある。2013年6月、こんどは上海事業所に異動する。未経験、素人、なんで私が、と書きたいところだが、もはやここまででいくらか説明してきたとおり、何事も起こり得ると思ってもらえたら嬉しい。ミッションは、海外人材との開発プロジェクトを開始、加速すること。いわゆるブリッジと言われるやつ。英語?中国語?そんなの笑顔が共通語だというレベルだ。

あえて書いておくと、この時点で私も30は超えている。一応結婚もしている。単身赴任。何だか、ものすごく日本の会社らしくも聞こえるが、私も行ってみたい思いがあったので行った。その点で周りへの恨み節は皆無だ。ただ何故私が指名されたのかといえば「しななそうだから」というのが先輩の弁。冗談ではなく結構大事なことだと思う。夢の海外生活など、絵空事だけではすまないからだ。

たった3年と言いたいが濃かった。以降、私のお仕事、プライベートはバランスを変えながら形づくられていく。

海外

端的に上海で何をしていたのか、まとめるとこうなる。

が上海に居た3年弱は、それまでの東京での会社生活10年間と、同じかそれ以上の密度だった。何度か揚子江に飛び込みたくなった一方で、数えきれない多くの人と話せた。日本に居たらとても薄っぺらくしか伝わってこない中国の、単なる矛盾だけではなく美しさ、歴史の深さは、私が教科書やニュース、本で知ったようなものとはまさに比べ物にならない、想像以上の素晴らしさだった。

海外に行く目的の一つに視野を広げるということがあるのかもしれない。しかし同時に、何故か狭まる視野がある。上海は次第に居心地の良い場所になった。慣れは惰性。確かに私の履歴書は以前より魅力的には書けるだろう。でもそれで良いだろうか?

私は会社という「枠」は、所詮枠なので、別に好きでも嫌いでもない。が、会社で出会った「人」たちの八割は大好きだしその「チーム」というものが私の好きな場所だった。そのためには経験を、故郷である東京に持ち帰らないといけない。3年というのはもしかしたら短すぎたが、私はミッションを「完成」までさせないといけない。中国で学んだことが2つある。

  • 家族
  • 故郷

子どもは授かりものだと思う。それは単なる体力的年齢的な問題によって授かるというよりは、社会的な環境、それを受け入れる心とタイミングが自分の中にあるかどうかだと思う。

年寄りを敬い子供を尊ぶ国で、それを尊敬すると表面では言いながらしかし自分は家族を忘れてただ自分の満足のために上海で生活すること。大きな矛盾だった。明日もし自分が死ぬとしたら何をしていたいか?親の死に目にも会わない日本の価値観では「仕事」と答えるとカッコイイがそれはどこかで単なる自己満足と小さい見栄がそう言わせているだけかもしれない。

テニスのジョコビッチだかマレーだかが決勝戦のときに嫁さんが臨月で、もしその日に嫁さん産気づいたら俺は決勝だろうが棄権するぜと言った話を読んだ。そういうのも、カッコイイんじゃないかな?という、そういう今までには全く考えられなかった価値観を学べたのがこの3年間の一番の有難い結果だった。まあそういうわけで、あっけなく私の妊娠発覚にて、帰任することになった。2016年、東京での出産が決まる。

帰任

帰任とはいえ、仕事は辞めたくなく、ポジション探し。幸運にも社内で公募が始まる。通訳・翻訳のコーディネートである。こんなことを書いた。

現在の複数拠点開発には以下のような問題があると思っている。上海でも各チームがそれぞれに格闘しているが、それを組織として解決したい。

言語スキルの差により生じている問題。
フォーマルな場における各チームのドキュメント、情報格差。各会議体における議事録や対話の情報格差。

インフォーマルな場における自由に会話できない、雑談できないという格差。以下のような取組みを行いたい。

  • ドキュメントの翻訳
  • 会議における逐次訳
  • ボランティアワーク等含め社内のあらゆる人から組織的に通訳・翻訳の力を「借りたい時に借りられる」仕組み。
  • 言語学習のあらゆる面からのサポート。

言語スキルの差と思われがちだがそうではない点により生じている問題。論理思考、知識、理解、マネジメントの仕方の差。言語によらず基礎的なコミュニケーションスキルによって生じている問題。

  • 冗長に書かれたドキュメント。
  • 十分な準備のない会議。

こんな取組みを行いたい。

  • 文章講座、ロジカルシンキング、会議フォーマット等を海外事業所にも広めたい。
  • 海外事業所他各拠点で行われている取組を東京に吸い上げる仕組みを作りたい。

仕事の面だけ書くとこれまでのようなのだが、同時に第一子である娘を連れながら出勤する日々に変わる。全て限られた時間の中でミッションを遂行する。子どもは簡単に調子を崩す。自分だけではどうにもならないことがあることを初めて知った。

でも、自分の中での優先順位は決めていた。仕事と娘がバッティングしたら、優先するのは娘だ。それを認めてくれる会社であってほしいと私が思っていたからだ。

自分だけで全てやろうとしない。自分だけが全てのことを上手くできるわけでもない。チームで仕事をしよう。明らかに、私の「以前」とは異なったやり方で働く。

そんな私のキャリアのまとめ

というわけでこの文章は2018年10月末。産科病棟で書いた。

一連の振り返りを書いた理由は、この2回目の産育休後、果たして私は、会社で何をしよう、何のために会社に行こう、何ができるだろう、をもう一度考えたかったからだ。

この休暇の間、IT って、いま意外とブームなのかもしれないと思った。IT とかAI とか、しらんけど、チヤホヤされているし、未経験でもエンジニア、みたいな広告、記事が学生達を色々誘っているように見えた。

私が就職した2003年、氷河期より、日本のこの業界は明るいのだろうか。もちろん明るくしたいという気持ちを込めて、育休が明けたら、こんなことをやりたいという気持ちに整理を付けるために書いたもの。

1.5ヵ月の切迫早産入院 (働き急ぎ過ぎたと思う) を経て、出産を無事、正期産、ハロウィンの日に終えた。

そこから会社に復帰して相変わらずの会社に戻ってきて、その後の話は更に別の記事に譲りこの記事はここまで。盛り上がりどころもなくタイトルの通りだがなにがしか参考になればさいわいです。

アドカレ書いていたら夢が叶う話 - 未経験文系卒女性駆け出しエンジニアのその後 - Qiita に続く。

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