イントロダクション
Merry Christmas あるいは Happy Holidays! アドカレ3日目に量子班紹介記事を投稿していたNorthbyです。日本ではクリスマスは12/24、25の2日間に跨ったものという認識が一般的ですが、文化圏次第で1月もクリスマスたり得ます。そう、我々は 広義クリスマス の真っ只中にいるのです (記事公開日視点)。タイトル1に呆れることなく本記事を閲覧してくださった皆さんに、まずは感謝を申し上げます。
今回は、量子班紹介記事内で「別の機会」に譲った量子論の一大トピック ベルの不等式について解説します。タイミングのよいことに2024年12月28日にNHKスペシャル『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』が放送されたので、聞き覚えのある方も多いでしょう。量子論の核心・本質を突いたベルの不等式は物理学史上屈指の発見と呼ぶに相応しく、物理学の基礎的・根本的な部分に関して深い教訓を与えてくれるものです。ベルの不等式にまつわる議論や検証実験を理解する (ないし理解を試みて悩む経験をする) 前と後では、物理学の景色が様変わりして目に映るはず…… この前後編の記事を通じて読者の皆さんに「景色の一変」を、あるいはせめてその契機をもたらせたらと思います。
読者のレベルとしては量子力学の初級的事柄を既に学んだ程度を想定するものの、数学面での難しさはあまりない (難しい部分には立ち入らない) ので、量子論の基本概念さえ理解できていれば、演習書を解き進める計算スキルは不足していても構いません。
本来はクリスマスイブに全編を投稿するつもりだったのですが、遅筆により、また想定を超える分量になったことにより、2つの記事に分けた上でまずは前編のみを公開することに決めました。後編の公開は1、2か月後になる見込みです。
先立って全体構成を説明しておきたいと思います。私の考えではベルの不等式は大きく2段階の問いに関係しており、前編ではそれらを量子論に代わる古典論はあり得るか、理論が満たすべき条件と題して導入します。ベルの不等式が直接的に答えているのは前者の問いですが、ベルの不等式に至る過程や議論の発展先を踏まえれば後者の問いとの繋がりが見えてくるはずです。
後編ではいよいよ本題へと入ります。オリジナルのベルの不等式を紹介するとともに、最も有名な改良版であるCHSH不等式に触れ、議論を深める概念として選択独立性と出力独立性の説明を経て、最後に検証実験の進展とそれらがもたらした学びをまとめるという流れになっています (予定)。
本記事を書くにあたっては[A][B][C][D][E]を中心的に参照し、それらを踏まえて私が至った理解をまとめています。しかしベルの不等式とは味わい深いもので、執筆の最中に幾度となく見解を改めることになりました。正確さを欠く表現や、悪ければ誤謬も含まれていることでしょう。お気づきの点がありましたらぜひご指摘ください。
物理学史に触れながら解説をしますが、構成の都合で必ずしも歴史の流れに沿った順序で話をするわけではありませんし、また (科学史の専門家でない) 物理屋が語る歴史はしばしば眉唾ですから、ご注意ください。
量子論に代わる古典論はあり得るか
量子論の主張
量子論の枠組みは古典論のそれ2とは随分と異なって感じられるものです。各人の感覚次第なところをむやみに断言すべきではないかもしれませんが、日常的経験から得られる素朴な直感との親和性に差があることには多くの人に賛成してもらえるかと信じます。それこそアインシュタインが量子論に批判的な立場を取り、量子論の擁護者ボーアと長きに亘る論争を繰り広げた[E]ことは有名であって、20世紀前半に物理学界が経験した古典論から量子論への鞍替えを、万人がすんなり受け入れたわけではありませんでした。
古典論との差を特徴づける量子論の主張をいくつか挙げてみましょう。
- 特定の物理量の組は、両者同時に測定値が定まるということがない。
- 一般に、同じ状態を用意しても何かしらの物理量の値は測定のたびにバラつく。
- 状態と物理量を指定すれば、測定値の確率分布が予言できる。
- (測定値が定まっているケースを除き) 確率的に得た測定値に応じて状態が変化する。
このように量子論の枠組みでは確率的振る舞いが中心的な役割を果たしていますが、「確率的振る舞い」自体は古典論でも登場するものだったことを思い出してください。状態の指定が曖昧な場合に、複数の状態が確率的に混ざった状態 (混合状態) を考えるのは古典論でも量子論でも変わりません。このことから、次のような可能性を問いたくなります:
うまく混合状態を用いることで、古典論の枠組み内で量子論に相当する理論を成り立たせられるだろうか?
隠れた変数
上記の問いを、もう少しはっきりさせてみます。
- 古典論の枠組み内
- 古典論の枠組みの十分条件を何かしら満たすこと。このとき枠組みの必要条件を満たすことが保証されるから、対偶として「枠組みの何かしらの必要条件を満たさないものは古典論の枠組みに収まっていない」が成り立つことに注意する。
- 量子論に相当する理論
- 量子論の主張のうち実験事実と対照可能な部分すべてについて、同じ結果を与える理論のこと。特に必要条件として、量子論に相当する理論の適用範囲は量子論のそれ以上の広さを持つ。量子力学に複数の形式があるように、実験事実と対照不可能な部分 (いわば理論のシナリオ) が異なっていても理論が等価たり得ることに注意する。
古典論の枠組みで許される一般の可能性を相手取って量子論に相当する理論を探すのはどうにも難しそうです。妥協して、量子論の枠組みを書き換えて見込みのありそうな雛型を作り、そこから構成し得る理論の可能性のみを相手取ることにします。具体的には次のような雛型です。
- 何かしらの物理量の値が測定のたびにバラつくのは、常に混合状態を見ているためである。
- 量子論が混合状態でないと見做す状態 (量子論にとっての純粋状態$|\psi\rangle$) は実際には混合状態であり、未だ実験で見出されたことのない変数 (ないし変数群) $\lambda$の存在のせいで、状態が指定しきれていない。
- 真の純粋状態 ($\lambda$まで指定した状態) では、全ての物理量の値が定まっている。
ここで登場した$\lambda$は隠れた変数と呼ばれます4。
どのような条件が古典論の十分条件であるかを述べていないので、この雛型が古典論の枠組み内に収まっているかは不明です。特に、隠れた変数の振る舞い方を指定していませんから、例えばそこにおよそ古典論とは見做せないような条件を課せば、古典論でも量子論でもない理論さえ作れます5。隠れた変数の導入を出発点に編み出される理論をまとめて隠れた変数理論と呼びますが、ここでやったことは要するに、問いを次のように設定しなおしたのです:
隠れた変数理論で、古典論の枠組み内に収まり、かつ量子論に相当するものは得られるだろうか?
理論が満たすべき条件
物理学に備わる思想
ここまで何度か「必要条件」という語が登場しました。そもそも物理学の理論は必要条件ありきで作り上げられるものです。なにせ実験事実は一つひとつが理論に課される必要条件なのですから。数多の実験を踏まえて、整理されていながら実験事実すべてを満たすような原理 (公理系) が編み出され、原理から実験事実と整合するような予言へと至る筋道をまとめ上げた体系が理論となります。そして「様々な適用範囲をもつ理論たちを比較したときに見出される共通の条件」を表す公理系が理論群の枠組みとなるのです。
当然 理論は常に暫定的で、必要条件に立ち戻っては体系を磨き上げていく (新たな実験でテストして理論の改善指針を得たり、枠組みを検討して理論にフィードバックしたりする) わけですが、この流れには大きく3か所の人間の勝手が入り込むポイントがあるでしょう。
- 実験事実の解釈 (誤解や見落とし、理論負荷性などが関わる)
- 枠組みに採用する内容
- 必要条件から理論を組むときの帰納
ここでは「枠組みに採用する内容」に着目します。論理性だけから言えば、既存の必要条件と矛盾さえしなければ何を枠組みに採用しても問題はないものの、実際には人の信条が制限をかけるものです。オッカムの剃刀のような信条があればこそスピリチュアルな概念の導入は拒否され、「自然は論理で捉えられる」と信じればこそ科学は意味を持ちます。さすがに今挙げた2例は極端かとは思いますが、ともかく「かくあるべし」というお気持ち (ただし論理で扱えるように整理されたお気持ち) が必要条件として物理学の体系に備わっていることを押さえておきましょう。
因果性
物理学の基本的な枠組みに含まれている必要条件に因果性というものがあります。素朴な (曖昧さの残る) 言い方をすれば「影響の伝わる速さには上限がある」という条件であり6、アインシュタインの理論で重要な役割を演じる概念です。因果性に込められた信条はおそらく次のようなものでしょう。
- 影響が際限のない速さで伝わってもよいとすると、宇宙全体を把握しなければ因果を捉えられない (また否定できない) ような影響が存在することになる。
- 宇宙全体を把握することは非現実的なので、手に追えない因果が実験事実に関わり得る。
- そのような懸念を抱えながら、実験事実を適切に解釈して必要条件を引き出せるとは信じがたい。
- 結局 物理学の営み全体が酷く頼りないものとなり、物理学 (ひいては科学) の意味を揺るがしてしまう。
仮に矛盾を生まない条件だったとしても、体系全体から意味を奪うような概念を許しては空虚に陥るしかなく、それを回避するために因果性を信じているというわけです。
ニュートンの万有引力は因果性を満たしていません (満たすような理論構造を備えていません) が、ニュートン自身もそのような描像を不条理に思っていたのだとか[A]。しかし不条理は解決されないまま年月が流れ、因果性に従う理論へと物理学がはっきりシフトし始めたのはアインシュタインの時代になってのことでした。特殊相対性理論にて「影響の伝わる速さの最大は光速である」という因果性が打ち出されたのです。最大の速さの指定を含むので、これを相対論的因果性と読ぶことにしましょう。
EPR論文
アインシュタインにとって量子論は納得のいかない理論だったようですが、因果性の観点では射影公理 (波束の収縮) に問題を見出していました。「確率的に得た測定値に応じて状態が変化する」という主張には影響の空間的制限が備わっておらず、因果性を破るような状況が許容されていると考えたのです。アインシュタインが用いた「不気味な遠隔作用」という表現には、因果性と相容れない影響に対する抵抗感があらわれています。
この問題に関連してアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンは1935年に共著論文[F]、いわゆるEPR論文を出しました。注意すべきこととしてEPR論文は量子論の誤りを主張してはいません。量子論が仮に正しいとしても、著者らが定義する「完全な理論」たり得ないのだということを主張しています。この主張の全てを丁寧に追うことは、ベルの不等式の話にとってはノイズになりそうなので、必要な部分を整理して紹介するにとどめようと思います[C][D]。
- 1次元空間を運動する2つの粒子を考える。粒子を1, 2とラベル付けした上で位置と運動量を$\hat{x}_1,$$\hat{x}_2,$$\hat{p}_1,$$\hat{p}_2$とする7と、交換関係は以下の通りである。
[\hat{x}_i,\hat{p}_j]=i\hbar\delta_{ij}\ ,\ [\hat{x}_1,\hat{x}_2]=0\ ,\ [\hat{p}_1,\hat{p}_2]=0
- 1つ目の交換関係から$[\hat{x}_1-\hat{x}_2,\hat{p}_1+\hat{p}_2]=0$ゆえ、$\hat{x}_1-\hat{x}_2$と$\hat{p}_1+\hat{p}_2$の同時固有状態がとれるから、$$\hat{x}_1-\hat{x}_2=x\ ,\ \hat{p}_1+\hat{p}_2=p$$の同時固有状態を考えることにする。このとき$[\hat{x}_1,\hat{p}_1+\hat{p}_2]\neq0$などから$\hat{x}_1,$$\hat{x}_2,$$\hat{p}_1,$$\hat{p}_2$はどれも全く不確定である。
- 粒子1について$\hat{x}_1,\hat{p}_1$のどちらかを射影測定する ($\hat{x}_1$を測定した場合を書く)。測定値$x_1$を得ると、「粒子1が$\hat{x}_1$の固有値$x_1$に属する固有状態で、かつ粒子2が$\hat{x}_2$の固有値$x_1-x$に属する固有状態であるような状態」に射影される。つまり$x_2=x_1-x$だということも確定する。
- EPR論文は「粒子1の物理量の測定は粒子2の系を一切乱すことがない」という考えのもと、上述の議論 (と実質的に同じ議論) で「$\hat{x}_1$あるいは$\hat{p}_1$の測定で$x_2$も$p_2$も (一度の実験では片方だけだが、ともかく) 粒子2の系を一切乱すことなく確実に予言できる」ことを指摘し、ここから実在性を語る。そして$\hat{x}_2,\hat{p}_2$の非可換性と突き合わせることで、量子論が筆者らの定義する「完全な理論」たり得ないことを結論づける。詳細は割愛。
この論文の功績は「部分系の測定が別の部分系の状態を (たとえ離れていても瞬時に) 変えるような、合成系の特殊な状態」を挙げてみせたことにありました。尤も、論文自体は別の部分系の物理量について「確実に予言できる」と主張するのみで、その系を「一切乱すことがない」と考えて議論されていますが。この「合成系の特殊な状態」はその後にシュレディンガー8が用いた言い回しを借りてエンタングル状態と呼ばれるようになります。EPR論文を端緒としてエンタングルメント、量子もつれの概念が認識され始めたのです。
さて、EPR論文の議論は因果性とどのように関わっているでしょうか。「一切乱すことがない」という考え方の背景を検討してみましょう。そこには次のような (曖昧さの残る) 必要条件があります:
離れた系の測定結果は独立である。ただし一方の測定の (光速以下で伝わる) 影響が他方に及び得るケースでは、結果に依存関係があっても構わない。
この条件はしばしば分離可能性と呼ばれます。因果性に込められた信条を思い出せば、「測定結果の非独立な振る舞いは宇宙全体の把握なしに捉えらえるものであってほしい」というお気持ちも自然に感じられないでしょうか。ある意味では因果性に連なる必要条件だと言ってよいでしょう。
ところで「独立」なる表現で意味されているのは「測定値の確率分布が、離れた系での測定の有無に、測定する物理量が何であれ依存し得ない」という条件でしょうか、それとも「測定があった場合、測定値にも依存し得ない」という (より強い) 条件でしょうか。この差は非常に本質的で、量子論は前者としか両立しません9。ではEPR論文は前者のつもりで議論をしているのかというと、そもそもこれら2条件の差の重要性さえ認識していないのだと思われ、後者の条件を排除しきれていない曖昧な議論をしているように読み取れます10。基礎的な議論において必要条件の慎重な検討が欠かせないこと、EPR論文からはそんな教訓が得られるでしょう。
局所性
話をエンタングルメントに戻します。「部分系の測定が別の部分系の状態を (たとえ離れていても瞬時に) 変える」という振る舞いは、隠れた変数理論だと「隠れた変数があるせいで混合状態になっている合成系について、部分系の測定は (確率的に実現する状態たちの中で) 実際にどの状態が実現していたかを明らかにし、別の部分系も当然その実現していた合成系の状態に対応する状態となっている (ことを知らせるという意味で別の部分系の状態を変える)」というシナリオで説明付けられます。混合状態に不慣れな方のために補足すれば、混合状態であることに由来する確率的振る舞いは状態の指定が曖昧である、すなわち情報不足な立場から捉えているために、実現されている状態が何なのか確率的にしか捉えられないがゆえの振る舞いです11から、離れた部分系でどんな測定が行われようとも、その情報を得ない限りは目の前の部分系は変わりませんし、最終的に得られる測定結果は測定前に情報を得ていようと いなかろうと、離れた部分系での測定結果と対応します12。結局は、隠れた変数の振る舞いで実現される合成系の (アンサンブルで捉えれば確率的な) 状態が各試行でどうなっていたかを確認しているだけなのです。
いま問題にしているのは隠れた変数理論の中でも、古典論の枠組み内に収まっているものでした。先の分離可能性に関する検討を踏まえて、古典論であるために満たすべき必要条件を1つ設定しておきます:
離れた系の測定結果は (隠れた変数まで定まった) 純粋状態について、「測定値の確率分布が、離れた系での測定の有無 (測定する物理量が何であれ) にも、そして測定があった場合に測定値にも依存し得ない」という意味で独立である。ただし一方の測定の (光速以下で伝わる) 影響が他方に及び得るケースでは、結果に依存関係があっても構わないし、測定装置において測定する物理量の決定が事前に行われるなら、その決定の影響が双方に及び得るケースではどの物理量を測定対象とするかに依存があって構わない。
これを局所性と呼びます13。独立の意味をはっきりさせたことを受けて、測定する物理量の選択のタイミングも考慮しました。既存の古典論では局所性は満たされるでしょう14から、少なくともこの必要条件を満たすような隠れた変数理論を探らなければなりません。
フォン・ノイマンの定理とベルの指摘
歴史上で (局所性などはさておき) 量子論に代わる隠れた変数理論を提案した人物としてはアインシュタイン、ド・ブロイ、ボームの3人が有名です。このうちアインシュタインとド・ブロイは量子論が打ち出されて間もない頃に理論を提案したのですが、アインシュタインは自身のモデルの誤りに気付いたために、ド・ブロイはパウリからの強い批判のために理論を取り下げることとなりました。2人の提案から25年ほど経って、ボームが複雑で技巧的な隠れた変数理論を提案します。「波に導かれる粒子」という、図らずもド・ブロイの理論を引き継ぐようなアイデアで組み立てられたボームの理論は、ド・ブロイ同様やはり厳しい批判に晒されました[E]。
逆に隠れた変数理論を否定する論理を提案した人物としては、フォン・ノイマンが挙げられるでしょう。アインシュタインとド・ブロイの理論から5年ほど経った頃、量子数理物理学の記念碑的著作『量子力学の数学的基礎』[H]を上梓したフォン・ノイマンは、その中で次の定理を証明し、量子論に相当する隠れた変数理論が存在しないことを「証明」してみせました[D][E]。
フォン・ノイマンの不可能性定理 (あるいはno-go定理) |
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以下の4つの仮定のもとで、あらゆる物理量が確定する (すなわち測定値の分散がゼロとなる) ような状態は存在し得ない。 1. 物理量$A$の (量子論で扱う際に用いる) 演算子が$\hat{A}$ならば、物理量$f(A)$の演算子は$f(\hat{A})$である。 2. 物理量$A,B,\dots$の演算子がそれぞれ$\hat{A},\hat{B},\dots$ならば、物理量$A+B+\cdots$の演算子は$\hat{A}+\hat{B}+\cdots$である。 3. 物理量$A$が常に$A\geq0$ならば、期待値$\langle A\rangle$も常に$\langle A\rangle\geq0$を満たす。 4. 任意の物理量$A,B,\dots$と任意の実数$a,b,\dots$に対し、期待値についての次の関係式が成り立つ。$$\langle aA+bB+\cdots\rangle=a\langle A\rangle+b\langle B\rangle+\cdots$$ |
あらゆる物理量が確定するような状態がなければ、隠れた変数理論の雛型の言う「真の純粋状態」を考えることは許されず、量子論に相当する隠れた変数理論はあり得ないという論理になるわけですが、鉤括弧つきで「証明」と書いたように、この一連の論理には不備がありました。しかし量子論としては全く自然な4つの仮定に始まるこの論理は非常に尤もらしく、約30年もの間 誰からも欠陥を指摘されぬままとなっていたのです。
それではこの記事の主役、ベルに登場してもらいましょう。ボーム理論を知ったベルはそれが不可能性定理で否定されているはずの隠れた変数理論の具体例になっていると考え、フォン・ノイマンの論理のどこに問題があるのか考察しました。1964年に投稿された論文15[I]でのベルの指摘を整理すると次の通りです (あくまでも整理であり、要約ではありません)[J]。
- フォン・ノイマンの定理の仮定はどれも量子論にとっては正当だが、量子力学が扱う状態からなる集合は隠れた変数理論からすると「特定の混合状態からなる集合」に過ぎないので、隠れた変数理論の一般の状態に対して仮定することの正当性には検討の余地がある。
- 実際4つ目の仮定には問題があり、量子論でのこれの成立が隠れた変数理論に対して意味するのは、量子力学が扱う状態 ($\lambda$が様々に異なる状態たちの確率混合) について隠れた変数$\lambda$を周辺化したときに期待値が線型関係を持つことでしかなく、それこそ$\lambda$の定まった「あらゆる物理量が確定するような状態」で期待値 (この場合は確定している値そのもの) が線型関係を持つべき理由はない。
- 例えば単純なケースとして$\lambda$が離散値だとし、物理量$A(|\psi\rangle,\lambda)$,$B(|\psi\rangle,\lambda)$,$C(|\psi\rangle,\lambda)$を考えることにすると、重みづけ$p_{|\psi\rangle}(\lambda)$を用いて$$\langle A\rangle_{|\psi\rangle}=\sum_\lambda p_{|\psi\rangle}(\lambda)A(|\psi\rangle,\lambda)$$などと表せるが、ここで仮に$\langle C\rangle_{|\psi\rangle}=a\langle A\rangle_{|\psi\rangle}+b\langle B\rangle_{|\psi\rangle}$すなわち$$\sum_\lambda p_{|\psi\rangle}(\lambda)C(|\psi\rangle,\lambda)=a\sum_\lambda p_{|\psi\rangle}(\lambda)A(|\psi\rangle,\lambda)+b\sum_\lambda p_{|\psi\rangle}(\lambda)B(|\psi\rangle,\lambda)$$だとしても$$\forall\lambda\quad C(|\psi\rangle,\lambda)=aA(|\psi\rangle,\lambda)+bB(|\psi\rangle,\lambda)$$である保証は全くない。
論文では本当はもっと内容の豊富な議論が展開されている16のですが、恥ずかしながら私の理解が十分には及んでいないので、これでご容赦ください。結局、ベルが明らかにしたフォン・ノイマンの議論の問題は、正当性の保証もなしに強い条件のもとで論じており、隠れた変数理論の限定的な (有意義か怪しい) ケースしか否定していないということでした。「量子論に相当する」の意味は、隠れた変数理論の広い適用範囲のうち量子論と比較可能な部分で実験と対照可能な主張が一致していることですから、量子論で成り立つ性質をむやみに広い範囲で要求する (必要条件に設定する) 意味はないのです。またしても必要条件の慎重な検討の重要性が示唆されています。
前編の結び
ベルの不等式の話をするための導入が済んだところで前編は終了です。後編ではベルの不等式がいかに量子論の核心・本質を抉り出したか、そして検証実験を経てどのような理解 (世界描像) がもたらされたかを解説します。公開まで気長にお待ちいただけましたら幸いです。ベルの戦いはこれからだ!
参考文献
[A] ニコラ・ジザン 著, 木村元, 筒井泉 訳,『量子の不可解な偶然 —非局所性の本質と量子情報科学への応用—』(共立出版, 2022).
[B] 清水明,『新版 量子論の基礎 その本質のやさしい理解のために』(サイエンス社, 2004).
[C] 日本物理学会 編,『アインシュタインと21世紀の物理学』(日本評論社, 2005).
[D] 近藤慶一,『量子力学講義Ⅱ —原子から量子もつれまで—』(共立出版, 2023).
[E] アンドリュー・ウィテイカー 著, 和田純夫 訳『アインシュタインのパラドックス EPR問題とベルの不等式』(岩波書店, 2014).
[F] A. Einstein, B. Podolsky, and N.Rosen, Physical Review 47 (1935) 777.
[G] 沙川貴大, 上田正仁,『量子測定と量子制御』[第2版] (サイエンス社, 2022).
[H] J・v・ノイマン 著, 井上健, 広重徹, 恒藤敏彦 訳,『量子力学の数学的構造』[新装版] (みすず書房, 2021).
[I] J.S. Bell, Reviews of Modern Physics 38 (1966), 447-452.
[J] R. Peierls, "Surprises in Theoretical Physics" (Princeton University Press, 1979).
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Physics Lab. Advent Calendar 2023 の記事 "クリスマスなので温度グリーン関数の話をする" の精神を引き継ぎました。ちなみに、ベルのフルネームは John Stewart Bell です。 ↩
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本記事では古典論・量子論の枠組みの内容を余すことなく明確に述べること、すなわち必要十分条件を提示することはしません。代わりに必要条件をあれこれ提示します。ベルの不等式についての一連の議論は「必要条件に対する反省」と関係し、十分性はある意味で保留されています。 ↩
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<理解の進んでいる人向けの注> 純粋状態で全ての物理量の値が確定することを要求せずに、とにかく見落とされた変数の存在を想定して「$\lambda$を指定してなお確率的振る舞いが残る」とする非決定論のケースを後編で扱います。導入の段階では動機が分かりやすいように、隠れた変数で決定論化されるものとして説明しました。 ↩
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雛形から構成した理論が無矛盾かというのも重要な問題ではありますが、ここではさておきましょう。 ↩
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困ったことに因果性は人によって呼び方が様々で、また別の概念を因果性と呼ぶこともあります。本記事での「因果性」という語の使い方を宣言したのだと捉えてください。 ↩
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合成系らしく丁寧に書けば$\hat{x}_1\otimes\hat{I}_2,\ \hat{I}_1\otimes\hat{x}_2$などとなります。混乱はないかと思いますので、略記しました。 ↩
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有名なシュレディンガーの猫の思考実験は、EPR論文に影響を受けて考案されたものです。 ↩
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量子測定理論を学ぶと理解できるでしょう。教科書としては例えば[G]が挙げられます。 ↩
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<理解の進んでいる人向けの注> 隠れた変数理論の可能性を信じる立場からは次のような主張があり得るかもしれません。「量子論が正しいと仮定したのは、シナリオを含めて正しいと仮定したという意味ではなく、実験結果と対照可能な主張に限って正しいと仮定したという意味である。つまり同時固有状態というシナリオからまるごと受け入れているのではなく、量子論がそのシナリオから主張する測定の確率分布だけを受け入れているのだ。そして測定で状態が射影されるというのもシナリオであって、受け入れているのは粒子1の測定を通じて粒子2の情報を得られる (実際に粒子2を測定したらその通りの値を得る) という主張だけである。隠れた変数理論では状態の射影など起きずに、粒子2を直接測定しても得ることのできた (混合状態に対する測定の) 情報を粒子1を介して得たというシナリオになる。量子論が言うところの同時固有状態にあたる混合状態を用意して各試行に着目する場合、測定値を得て初めて確率分布 (と言ってもその物理量に関しては値が確定した分布だが) を知るのだから、測定値にも依存し得るかなんて問いはナンセンス。」 おそらくこの主張に対して建設的な議論を続けようとしたら、隠れた変数理論が不確定性関係の主張をどう説明づけるかを検討していくことになるでしょう。紛糾する予感に満ちた見通しの悪いこの議論へと突き進んでいく必要なしに、量子論にとってのエンタングル状態、隠れた変数理論にとっての (特別な) 混合状態について、統計的性質に訴えて単純だが決定的な差異を明らかにできることを提示した点でベルの業績は優れています。(以上、脚注の姿をした後編記事の長ったらしい予告でした!) ↩
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例えば電話越しに「サイコロを置いてください」とだけ指示すると、置かれたサイコロがどの目を出しているかという状態を、指示した側は確率的にしか捉えられません。ランダムに置くと仮定すれば6つの状態が1/6の確率で混合されていることになります。ここで、指示された側が「側面に1の目が見えています」と教えてくれると、2〜5のいずれかの目が出ている状態だと絞れますから4つの状態が1/4の確率で混合されていることになり、指示した側の立場では (側面についての情報をもらうという) 測定によって状態が更新されています。 ↩
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<理解の進んでいる人向けの注> 量子論でもエンタングル状態における「離れた部分系の状態が変わる」振る舞いは、測定装置と系が相関を持つことに注意すれば立場 (得た情報) 次第だと分かります。差を述べるとすれば、隠れた変数理論では測定装置と系の相関を考えるまでもなく理解が可能です。 ↩
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<理解の進んでいる人向けの注> 先に述べた通り、局所性の「(隠れた変数まで定まった)純粋状態」を「量子論にとっての純粋状態」に変更した条件は量子論と両立しませんが、それと同等の条件を隠れた変数理論に対して記述すれば「離れた系の測定結果は隠れた変数以外指定された状態について……」となります。これは確率分布について隠れた変数を周辺化した場合での成立を要請しているので、局所性とは質の異なる条件です。(一見、局所性から従う弱い条件に思えるかもしれませんが、条件付き確率に対して周辺化をする関係で、そのようにはなっていません。) ↩
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慎重な検討が必要ですが、視点を変えて、既存の古典論以上にむしろ局所性を第一とする立場をとるならば、当座の問いを「隠れた変数理論で、 局所性を満たし、かつ量子論に相当するものは得られるだろうか?」に変えてみたのだと思ってもよいでしょう。隠れた変数理論を「純粋状態で全ての物理量が定まり、どれも測定の有無などとは無関係に値を持つ」という意味で実在論と呼べば、局所実在論で量子論に相当するものを探っていると表現できます。 ↩
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不運が重なった結果、後から投稿されたベルの不等式に関する論文と雑誌掲載の順番が逆転したというエピソードがあり、それぞれの論文でベルが提示した定理のどちらを第1定理、第2定理と呼ぶかは合意が形成されていないようです[D][E]。私は掲載順ではなく投稿順で第1定理、第2定理と呼ぶ方が好きですが。 ↩
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まず非可換な物理量たちに4つ目の仮定を課すことの不当さ (意義のなさ) を指摘した上で、フォン・ノイマンの定理に類似したヤウクとパイロンによる議論の不当さも述べ、4つ目の仮定を可換な物理量たちに限った場合の修正版 不可能性定理を提示し、そこから改めて4つ目の仮定の正当性の問題を議論しています。 ↩