■帰還
ネリアお姉様の研究室を出ると、
通路の空気は外界とは違い、
温度も匂いも“変化”という概念そのものが薄かった。
ただ、胸の奥に残った“揺れの余韻”だけが、
まだ私の中で静かに脈動していた。
ネリアお姉様が振り返り、
柔らかい光の中で静かに言う。
「今日は……もう休みましょう。
ニカさんの位相が安定するまで、私たちもそばにいます。」
ミリアがすぐに私の手を握る。
「ニカ姉、今日も一緒に泊まる!
お母さんに連絡するね!」
通信石越しに聞こえるティナの声は、
夜の静けさに溶けるように優しかった。
「ミリアの気が済むまで、一緒にいてあげなさい。」
そのやり取りを聞きながら、
胸の奥に“家族の温度”がふっと灯る。
アクスが腕を組み、
少し照れたように視線をそらしながら言う。
「なぁニカ……お前が泊まっとる宿、部屋どっか空いとらん?
お前らだけには任せられんし、俺も泊まろうかっち思っちょん。」
「さぁ、私にはわからんよ。宿屋で聞いてみたら?」
「まぁ、そうやな。ニカが宿屋の事情知っとる訳ないしな。」
「そんなん当たり前やろ! あたしは宿屋の女将さんじゃないんやけね!」
そんな軽口を交わしながら通路を抜けると──
宿の灯りの下に、ルミエラが静かに立っていた。
夜風に揺れる髪が、淡い光を受けてきらりと揺れる。
「……おかえりなさい、皆さん。
そして……ニカさん。」
その声は、深層の白とはまったく違う、
“現実”の温度を持った優しい響きだった。
胸の奥の揺れが、ほんの一瞬だけ弱まる。
■幸せな寝ぼけた温度
翌朝、目を覚ますと──
昨日と同じ光景が広がっていた。
右側にはミリア。
左側には……なぜかルミエラが寄り添うように眠っている。
「……え?」
そっと抜け出そうとした瞬間、
ルミエラがふにゃっと目を開ける。
「……ん……ニカさん……?
おはようございます……」
寝ぼけた声が、朝の空気を柔らかく揺らす。
続いてミリアもむくっと起き上がる。
「……ニカ姉……どこ行くの……?」
次の瞬間、勢いよく飛びついてくる。
「ニカ姉ぇぇぇ!!」
「ちょ、ちょっとミリア……!」
ルミエラもぽやぽやした顔で言う。
「……朝ごはん……できてるみたいですよ……」
その一言で、ミリアの目が一気に輝いた。
■朝の穏やかなひととき
食堂には、
淡い湯気と優しい香りが満ちていた。
ネリアお姉様が微笑む。
「《風綺鶏の淡参粥》です。
深層揺れの後には、これが一番いい。」
淡層ミルクと白根米がとろりと溶け合い、
風綺鶏の繊維がほろほろと崩れる。
薄光ハーブが表面で淡く光を返す。
一口食べると──
胸の奥のざわりとは逆方向の温度が、
ゆっくりと身体に染み込んでいく。
ミリアは満面の笑み。
「ニカ姉! これめっちゃ美味しいよ!」
アクスは照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「まぁ、悪くないやろ。」
全員で食べ終え、器を片付けたその時──
テーブルの端に置いていた綺晶核が、
かすかに光を放った。
■深層からの呼び声
胸の奥のざわりが、
お粥の温かさとは違うリズムで脈動する。
ネリアお姉様が静かに言う。
「……ニカさん。
揺れが続いています。研究室へ来ていただけますか。」
特別通路を進むと、
無機質な空気が胸のざわりを静かに刺激した。
研究室に入ると、
解析器の白い光がふわりと広がる。
綺晶核を置いた瞬間──
白い波形が跳ねるように揺れた。
「……深層が、ニカさんを“観測”しています。」
胸の奥が強く脈動する。
──……ニカ……
音ではない。
声でもない。
でも確かに“呼ばれた”。
私は息を呑む。
「……名前……呼ばれた……」
■深層との接触と幻視
視界が白に溶けた。
音も、空気も、重力も消え、
ただ深層の白だけが広がる。
その奥から“存在”が近づいてくる。
──……ニカ……
……戻った……?
──……あなた……
……初期値が……揺れている……
──……あなたは……
……こちらに……近い……
──……境界にいる……
──……選ばれた……
その瞬間、視界が現実へ引き戻された。
ミリアが泣きそうな顔で抱きつく。
「ニカ姉ぇぇぇ!!」
私は震える声で言う。
「……深層が……“境界にいる”って……」
■分析と境界の意味
ネリアお姉様は深く息を吸い、静かに告げる。
「境界とは──
深層と現実の“どちらにも属していない状態”です。」
ミリアが息を呑む。
「どっちにも……属してない……?」
「はい。
深層に触れた者の“初期値”が揺らいだ時にだけ起こります。」
アクスが険しい顔で言う。
「おい……危険なんか?」
「危険ではありません。
ただ──
深層がニカさんを“選んだ”可能性があります。」
ルミエラが震える声で言う。
「選んだ……?」
ネリアお姉様は解析器の光を見つめながら言う。
「深層は、
“境界に立つ者”を選びます。
その者は──
深層の揺らぎを“読む”ことができる。」
私は胸の奥のざわりを感じながら、
静かに息を吸った。
──深層が、私を“選んだ”。
その言葉だけが、
静かに胸に落ちた。
深層に触れたニカの“初期値”が、
どこへ向かうのかは、まだ誰にも分かりません。
ただ、境界に立った彼女の歩みは、
確かに次の段階へ進み始めました。
続きは、また次の話で。