#「車輪の再発明」
新たな付加価値が何もないものを作成するのにコストをかけることから、皮肉的なニュアンスで用いられる。再発明を行ってしまう理由としては、「既存のものの存在を知らない」「既存のものの意味を誤解している」といったことが挙げられる。主にIT業界、とくにSEやプログラマの間で良く用いられる。
「車輪の再発明」 はやってはいけないこと。
こんな風潮がありませんか?
もちろんやらない方が良いケースは沢山あるのだと思います。
けれども今 「あたりまえじゃないの?」 と思われた方、下のブログを読んで少しだけ考えて見ませんか?
自分はずっと、自前でものづくりをしてきて(何もないのでそうせざるを得ないことがほとんどだった)得られたものがとても大きかった なと感じています。現代のITを巡る開発現場では、既に多くの優れたフレームワークやライブラリを導入して効率アップをすることが前提に進んでいます。それらのほんの一部であっても自前で自作に挑戦するなどということは、なかなか許されることではありません。もちろん自作しないでも原理原則を学ぶこともできれば概要を理解することもできるでしょう。それを否定するわけではまったくありませんが、自作することによってより多くの知見や理解やひらめきが得られることもまた事実です。
このような考えのブログ・記事をググってみたところ、多くはないもののそれぞれ知見に溢れたものが何点か見つかりました。ここではそれらのブログ・記事を紹介してみたいと思います。
もっと車輪の再発明をしよう
もっと車輪の再発明をしよう【ビスケットのあれこれ】
下記に冒頭を引用
以前,若い人と話をしていたら何かを躊躇するような発言があって,聞いてみたら「それは車輪の再発明になっちゃう」ということを言っていた.どうやら,最近の若い人たちの間では車輪の再発明を極端に怖がるような流れになっているようだ.
車輪の再発明はなぜいけないのか.Wikipediaによるとライブラリがあるのにそれを使わないと互換性が無くなるから,といったことが書いてあったがこれは,車輪の再発明なんかではない.そもそも車輪というすごい発明に対してライブラリなんていう誰でも思いつくものと比較するのは車輪に対して失礼だ.ライブラリを活用しないでオリジナルのライブラリを作っちゃうとソフトウェアのメンテナンスが大変だという現象は,そういう名前を付けて止めるようにすべきだ.車輪などといったすごい発明を借りるべきではない.
車輪の再発明の効用
車輪の再発明の効用【プログラマが知るべき97のこと】
下記に一部を引用
車輪の再発明をしようとした結果、失敗をすることもあるでしょう。しかし、それは一度で車輪の再実装がうまくいくよりも貴重な体験になるはずです。自分の予でゼロからコードを書き、あれこれと試行錯誤をすることを通して学ぶのは、ただ技術者を読んで学ぶこととは大きく違います。試行錯誤をしている間は、悔しがったり喜んだり、感情が大きく動くことになるからです。
「車輪の再発明」を単純に否定することで失なっているもの
「車輪の再発明」を単純に否定することで失なっているもの
下記に一部を引用
ソフトウェアの世界では、基本的には「車輪の再発明」は否定されている。しかしながら、本当にそうなのだろうか?と思うことが、最近、いや、ここやってきてずっと思っていることがある。そして、この匿名の記事を読んで、またなんとなく思うことをがんばってかいてみる。
車輪を再発明しよう
車輪を再発明しよう
下記に一部を引用
「車輪の再発明」は、基本的に否定的なニュアンスをもっていて、「車輪を再発明すべきでない」という意味を含んでいる。しかし私の経験では、「車輪を再発明したほうがいい」場合もけっこうある。
車輪の再発明をすることで僕たちは理解を深めることができる
車輪の再発明をすることで僕たちは理解を深めることができる
下記に一部を引用
まぁ簡単に言えば、既にあるものを使わずに「同じ機能」のものをもう一度作りなおす、いわば「無駄」の代名詞のようなものだ。
ただこれには一点、有意義な点があって、それは「再発明することで深い理解を得られる」ということにある。