1. はじめに
物理を勉強していると、あるところで突然、
\frac{1}{x \pm i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
\mp i\pi \delta(x)
という式に出会うことがある。量子力学の散乱論、線形応答理論、グリーン関数、Kramers-Kronig 関係、プラズマ物理、場の量子論など、多くの場所で現れる非常に重要な公式である。この式は Sokhotski--Plemelj の公式、あるいは文脈によっては Plemelj formula と呼ばれる。
しかし、初めて見るとかなり不思議である。左辺は普通の関数のように見える。ところが右辺には、主値積分を意味する記号
\mathcal{P}
と、Dirac のデルタ関数
\delta(x)
が突然現れる。さらに、分母にある
\pm i0
という記号も、いかにも物理屋が雑に書いたように見える。
この記事の目的は、この公式を暗記することではない。むしろ、
\frac{1}{x \pm i0}
とは何を意味しているのか、なぜ主値積分が出てくるのか、なぜデルタ関数が出てくるのか、そしてなぜこの公式が物理でこれほど重要なのかを、複素関数論をほとんど忘れていても追えるように説明することである。
結論から言うと、Sokhotski--Plemelj の公式は、実軸上にある極を「上から避けるか、下から避けるか」によって、積分の値に
\mp i\pi
だけの差が生じる、という事実を分布の言葉で表したものである。この小さな虚部は、単なる数学的な技巧ではない。物理では、因果性、境界条件、エネルギー保存、共鳴、吸収、応答関数の実部と虚部の関係を指定する役割を持つ。
補足:Sokhotski–Plemelj 公式の読み方と歴史
Sokhotski–Plemelj 公式は、日本語では通常
ソホツキー・プレメルの公式
と読む。この名前は、次の2人の数学者に由来している:
- Yulian Vasilievich Sokhotski
- Josip Plemelj
歴史的には、この公式は一度に完成されたものではなく、約30年の時間差を経て現在の形に整理された。
まず、ソホツキーは1870年代(1873年頃) に、複素関数論の研究の中で、実軸上の特異点を含む積分(現在でいう主値積分)を扱う過程で、この関係の本質に到達していた。ただし、この段階ではまだ現在のように明確な公式として整備された形ではなかった。
その後、プレメルが1908年頃、積分方程式や境界値問題の研究の中でこの関係を厳密に定式化し、現在知られている
「主値積分 + δ関数」
という形に整理した。
このため、この公式は
ソホツキー=プレメル公式
と連名で呼ばれている。
物理的には、この結果は後にフーリエ解析や応答関数の理論と結びつき、因果律を反映した関係式(Kramers–Kronig 関係)へと発展していく。したがって、この公式は単なる計算テクニックではなく、
「特異点を持つ量を、物理的に意味のある形で扱う方法」
を与える基本原理の一つと位置付けることができる。
2. まず何が問題なのか:1/x は原点で積分できない
出発点は、とても単純な関数
\frac{1}{x}
である。この関数は、原点以外では何の問題もない。しかし、原点で発散する。そのため、例えば
\int_{-1}^{1} \frac{dx}{x}
という積分は、普通の意味では定義できない。
実際に、原点を避けて左右から積分すると、
\int_{-1}^{-\epsilon} \frac{dx}{x}
+
\int_{\epsilon}^{1} \frac{dx}{x}
である。第一項は
\int_{-1}^{-\epsilon} \frac{dx}{x}
=
\left[\log |x|\right]_{-1}^{-\epsilon}
=
\log \epsilon
であり、第二項は
\int_{\epsilon}^{1} \frac{dx}{x}
=
\left[\log x\right]_{\epsilon}^{1}
=
-\log \epsilon
である。したがって、この二つを同時に足すと
\log \epsilon - \log \epsilon = 0
となる。
一見すると、積分値は 0 と言ってよさそうである。しかし、これは左右を対称に切り取ったからうまく相殺しただけである。例えば、左側を
[-1,-\epsilon]
で切り、右側を
[2\epsilon,1]
で切ると、相殺の仕方が変わってしまう。つまり、
\int_{-1}^{1} \frac{dx}{x}
という積分は、普通の意味では値が決まらない。
そこで導入されるのが Cauchy の主値積分である。
3. 主値積分とは何か
Cauchy の主値積分は、発散する点のまわりを左右対称に取り除いて、その極限を取る操作である。原点に特異点がある場合、
\mathcal{P}\int_{-1}^{1} \frac{f(x)}{x}\,dx
とは、
\mathcal{P}\int_{-1}^{1} \frac{f(x)}{x}\,dx
=
\lim_{\epsilon \to 0^+}
\left[
\int_{-1}^{-\epsilon} \frac{f(x)}{x}\,dx
+
\int_{\epsilon}^{1} \frac{f(x)}{x}\,dx
\right]
と定義される。
ここで重要なのは、これは「発散を無視している」のではない、ということである。原点の左右で発散する部分を、対称に取り除いたときに残る有限部分を定義しているのである。
例えば、もし
f(x)=1
なら、
\mathcal{P}\int_{-1}^{1} \frac{dx}{x}
=
0
である。これは、奇関数の積分として自然な値である。
一方、一般の滑らかな関数
f(x)
に対しては、原点近くで
f(x)=f(0)+x f'(0)+\cdots
と展開できる。すると、
\frac{f(x)}{x}
=
\frac{f(0)}{x}
+
f'(0)
+
\cdots
となる。第一項
\frac{f(0)}{x}
は左右対称に相殺される。第二項以降は普通に積分できる。したがって、主値積分は「特異な奇関数部分を対称に処理し、残りを通常の積分として読む」方法だと理解できる。
4. では 1/(x+iε) は何をしているのか
次に、少しだけ複素数を入れる。正の小さな数
\epsilon > 0
を使って、
\frac{1}{x+i\epsilon}
を考える。これは、実数
x
に対する関数として見れば、もはや原点で発散しない。なぜなら、
x+i\epsilon
は、実軸から少しだけ虚軸方向にずれているからである。
この関数を実部と虚部に分けてみる。分母を実数化するために、
\frac{1}{x+i\epsilon}
=
\frac{x-i\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
と書ける。したがって、
\operatorname{Re}\frac{1}{x+i\epsilon}
=
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
であり、
\operatorname{Im}\frac{1}{x+i\epsilon}
=
-\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
である。
この二つの形をよく見ると、まったく異なる役割を持っていることがわかる。実部
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
は奇関数であり、
x\neq 0
では
\epsilon \to 0
の極限で
\frac{1}{x}
に近づく。しかし原点付近では発散的な振る舞いを持つため、普通の関数としては扱いにくい。その自然な極限が、主値
\mathcal{P}\frac{1}{x}
である。
一方、虚部
-\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
は偶関数で、原点の近くに鋭く集中している。しかも面積を計算すると、
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}\,dx
=
\pi
である。実際、
x=\epsilon t
と置くと、
dx=\epsilon dt
であり、
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}\,dx
=
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{\epsilon}{\epsilon^2 t^2+\epsilon^2}
\epsilon dt
=
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{dt}{t^2+1}
=
\pi
となる。
つまり、
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
は、
\epsilon \to 0^+
で原点にどんどん集中しながら、全体の面積を
\pi
に保つ関数である。これは Dirac のデルタ関数の典型的な近似であり、
\lim_{\epsilon\to 0^+}
\frac{1}{\pi}
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
=
\delta(x)
と書ける。
したがって、
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
\to
\pi \delta(x)
である。
この結果を先ほどの実部・虚部の分解に戻すと、
\frac{1}{x+i\epsilon}
=
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
-
i\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
なので、
\epsilon\to 0^+
で
\frac{1}{x+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
-
i\pi \delta(x)
が得られる。
同様に、
\frac{1}{x-i\epsilon}
=
\frac{x+i\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
=
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
+
i\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
だから、
\frac{1}{x-i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
+
i\pi \delta(x)
である。
まとめると、
\boxed{
\frac{1}{x\pm i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
\mp i\pi \delta(x)
}
となる。これが Sokhotski--Plemelj の公式の最も基本的な形である。
5. この式は「関数の等式」ではなく「分布の等式」である
ここで非常に重要な注意がある。
\frac{1}{x+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
-
i\pi \delta(x)
という式は、普通の関数として各点で等しい、という意味ではない。そもそも
x=0
で左辺は通常の関数として定義されていないし、右辺にはデルタ関数が含まれている。
この式の正しい意味は、任意の十分なめらかな試験関数
f(x)
に対して、
\lim_{\epsilon\to 0^+}
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{f(x)}{x+i\epsilon}\,dx
=
\mathcal{P}\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{f(x)}{x}\,dx
-
i\pi f(0)
が成り立つ、ということである。
右辺の第二項
-i\pi f(0)
は、
-i\pi \int_{-\infty}^{\infty} f(x)\delta(x)\,dx
と同じである。つまり、デルタ関数は「極の位置にある値を抜き出す」役割を持つ。
この意味で、
\frac{1}{x+i0}
は、
\mathcal{P}\frac{1}{x}
という実部的な寄与と、
-i\pi\delta(x)
という極上の寄与を同時に含む分布なのである。
6. 複素平面では何が起きているのか
ここまでの説明は、実変数の関数として
\frac{1}{x+i\epsilon}
を分解するだけで導いた。これは最も直感的で、複素関数論を忘れていても追いやすい導出である。
ただし、Sokhotski--Plemelj の公式の本当の幾何学的意味は、複素平面で見るとさらに明確になる。
複素数
z=x+iy
を考える。関数
\frac{1}{z}
は、
z=0
に極を持つ。実軸上の積分で
\frac{1}{x}
が問題になるのは、積分路である実軸の上に極が乗っているからである。
そこで物理では、極をほんの少しだけ実軸からずらして、
\frac{1}{x+i\epsilon}
や
\frac{1}{x-i\epsilon}
を考える。これは、極の位置が
x+i\epsilon=0
すなわち
x=-i\epsilon
にある、ということである。つまり
\frac{1}{x+i\epsilon}
の極は実軸の少し下にある。
一方、
\frac{1}{x-i\epsilon}
の極は
x=i\epsilon
にあるので、実軸の少し上にある。
したがって、
+i0
や
-i0
という記号は、単に小さい虚数を足したというだけではなく、極を実軸のどちら側に避けるかを指定している。
この「どちら側に避けるか」が、積分値の虚部を決める。
7. 小半円の積分から ±iπ が出る
複素積分の観点で、なぜ
\pi
が出るのかを見ておく。
実軸上にある極
x=0
を避けるため、原点の近くで小さな半円を描くことを考える。例えば、上半平面側に半径
\epsilon
の小半円で避けるとする。この半円は
z=\epsilon e^{i\theta}
と書ける。上半円を左から右へ進む場合には、
\theta=\pi
から
\theta=0
へ動く。したがって、
dz=i\epsilon e^{i\theta}d\theta
であり、
\int_{\text{upper small semicircle}} \frac{dz}{z}
=
\int_{\pi}^{0}
\frac{i\epsilon e^{i\theta}}{\epsilon e^{i\theta}}
d\theta
=
\int_{\pi}^{0} i\,d\theta
=
-i\pi
となる。
一方、下半平面側に避ける場合は、半円の向きが逆になる。下半円を左から右へ進むとき、
z=\epsilon e^{i\theta}
として、
\theta=-\pi
から
\theta=0
へ動く。したがって、
\int_{\text{lower small semicircle}} \frac{dz}{z}
=
\int_{-\pi}^{0} i\,d\theta
=
i\pi
である。
つまり、極を上に避けるか下に避けるかで、
-i\pi
または
+i\pi
が出る。この半円積分の寄与が、Sokhotski--Plemelj の公式に現れる
\mp i\pi\delta(x)
の複素解析的な起源である。
実軸上の極を避けたとき、極そのものから来る寄与は「半分の留数」になる。全円で囲めば
2\pi i
が出るが、半円で避けるので
\pi i
が出る。この「半分の留数」という感覚は、Sokhotski--Plemelj の公式を直感的に理解するうえで非常に重要である。
8. 一般の極 x-a に対する公式
物理で実際に出てくるのは、原点の極だけではない。例えば
\frac{1}{x-a\pm i0}
のような形がよく出てくる。
これは単に変数を
u=x-a
と置けば、先ほどの公式に帰着される。したがって、
\boxed{
\frac{1}{x-a\pm i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x-a}
\mp i\pi \delta(x-a)
}
である。
この形は、エネルギー分母でよく現れる。例えば量子力学や場の量子論では、
\frac{1}{E-E_n+i0}
のような項が現れる。この公式を使うと、
\frac{1}{E-E_n+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{E-E_n}
-
i\pi\delta(E-E_n)
となる。
ここで、
\mathcal{P}\frac{1}{E-E_n}
は共鳴から外れた、分散的な寄与を表す。一方、
\delta(E-E_n)
は
E=E_n
というエネルギー保存条件を表す。つまり、Sokhotski--Plemelj の公式は、エネルギー分母を「オフシェルの主値部分」と「オンシェルのデルタ関数部分」に分解していると見ることができる。
9. 物理での意味:実部は分散、虚部は吸収
物理でこの公式が重要になる理由は、応答関数の実部と虚部を分ける自然な道具だからである。
例えば、外力
F(t)
を加えたときに、物理量
X(t)
が線形に応答するとする。周波数空間では、
X(\omega)=\chi(\omega)F(\omega)
と書ける。この
\chi(\omega)
を応答関数、あるいは感受率と呼ぶ。
多くの場合、応答関数は
\chi(\omega)
\sim
\frac{1}{\omega-\omega_0+i0}
のような構造を持つ。これは、系が固有周波数
\omega_0
を持ち、その近くで強く応答することを表している。
Sokhotski--Plemelj の公式を使うと、
\frac{1}{\omega-\omega_0+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{\omega-\omega_0}
-
i\pi\delta(\omega-\omega_0)
となる。
ここで主値部分
\mathcal{P}\frac{1}{\omega-\omega_0}
は、共鳴周波数の前後で符号を変える分散的な応答を表す。これは、屈折率や位相遅れ、エネルギー準位のずれのような、反応的・可逆的な成分に対応することが多い。
一方、デルタ関数部分
-i\pi\delta(\omega-\omega_0)
は、ちょうど共鳴条件を満たすところでだけ寄与する。これは、エネルギーが実際に系へ移る吸収、遷移、散乱確率のような不可逆的な成分に対応する。
もちろん、現実の物理系では完全なデルタ関数ではなく、有限の寿命や減衰によって幅を持つ。例えば
\frac{1}{\omega-\omega_0+i\gamma}
を考えると、虚部は
-\frac{\gamma}{(\omega-\omega_0)^2+\gamma^2}
となる。これはローレンツ型の吸収線である。そして
\gamma\to 0^+
の極限で、
-\frac{\gamma}{(\omega-\omega_0)^2+\gamma^2}
\to
-\pi\delta(\omega-\omega_0)
となる。したがって、デルタ関数は「幅がゼロになった理想的な共鳴吸収線」と理解できる。
10. 因果性との関係:なぜ i0 が必要なのか
物理で
+i0
や
-i0
が重要なのは、それが境界条件を指定しているからである。
応答関数を時間領域で考えると、物理的な応答は通常、原因より前には起きない。すなわち、外力を加える前に系が応答してはいけない。この条件を 因果性 という。
因果的な応答関数
G_R(t)
は、
G_R(t)=0 \quad (t<0)
を満たす。このような関数をフーリエ変換すると、周波数平面での解析性に条件が生じる。具体的には、どちらの半平面で解析的になるかが決まり、それに応じて極をどちら側にずらすべきかが決まる。
例えば、ある約束のフーリエ変換
G(t)
=
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{d\omega}{2\pi}
G(\omega)e^{-i\omega t}
を使うと、遅延グリーン関数では典型的に
\frac{1}{\omega-\omega_0+i0}
のような処方が現れる。この
+i0
は、極をわずかに下半平面へずらすことを意味する。すると、
t<0
で積分路を閉じたときに極を囲まないようになり、
G_R(t<0)=0
という因果性が実現される。
したがって、
i0
は単なる「発散回避のための小さな数」ではない。それは、どの物理的解を選ぶか、どの境界条件を選ぶかを指定する記号である。
11. Kramers--Kronig 関係とのつながり
Sokhotski--Plemelj の公式は、Kramers--Kronig 関係の基礎にもなっている。
因果的な応答関数
\chi(\omega)
は、複素
\omega
平面の上半平面で解析的になる。この解析性を用いると、実軸上の値は Cauchy の積分公式から表される。ざっくり言えば、
\chi(\omega)
を実軸上の値で再構成しようとすると、
\frac{1}{\omega'-\omega-i0}
のような核が現れる。
ここで Sokhotski--Plemelj の公式を使うと、
\frac{1}{\omega'-\omega-i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{\omega'-\omega}
+
i\pi\delta(\omega'-\omega)
となる。この主値部分とデルタ関数部分を実部・虚部に分けることで、応答関数の実部と虚部が互いに Hilbert 変換で結ばれる。
典型的には、
\operatorname{Re}\chi(\omega)
=
\frac{1}{\pi}
\mathcal{P}
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{\operatorname{Im}\chi(\omega')}{\omega'-\omega}
\,d\omega'
および
\operatorname{Im}\chi(\omega)
=
-\frac{1}{\pi}
\mathcal{P}
\int_{-\infty}^{\infty}
\frac{\operatorname{Re}\chi(\omega')}{\omega'-\omega}
\,d\omega'
のような関係が得られる。
これは、「実部と虚部が独立ではない」という事実を表している。物理的には、吸収を表す虚部がわかれば、分散を表す実部も決まる、ということである。逆に、分散の周波数依存性がわかれば、吸収の情報も制約される。
この深い関係の根本にあるのが、複素平面での解析性であり、実軸上の極をどう避けるかを記述する Sokhotski--Plemelj の公式である。
12. 散乱論での意味:エネルギー保存がデルタ関数として出る
量子力学の散乱論でも、この公式は非常に重要である。例えば、時間依存摂動論で長時間極限を考えると、
\int_0^T e^{i(E_f-E_i)t/\hbar}\,dt
のような積分が現れる。長い時間観測すると、エネルギー差
E_f-E_i
がゼロに近い遷移だけが強く残る。これは最終的に
\delta(E_f-E_i)
の形で表される。
一方、エネルギー分母を持つグリーン関数では、
\frac{1}{E-H_0+i0}
のような形が現れる。固有状態
H_0|n\rangle=E_n|n\rangle
で展開すると、
\frac{1}{E-H_0+i0}
=
\sum_n
\frac{|n\rangle\langle n|}{E-E_n+i0}
となる。ここで Sokhotski--Plemelj の公式を使うと、
\frac{1}{E-E_n+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{E-E_n}
-
i\pi\delta(E-E_n)
である。
したがって、
\frac{1}{E-H_0+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{E-H_0}
-
i\pi\delta(E-H_0)
という形に分解される。
この式は、散乱振幅の実部と虚部、仮想過程と実過程、オフシェル寄与とオンシェル寄与を分ける基本式である。主値部分は、中間状態がエネルギー保存条件を厳密には満たさない仮想的な寄与を表す。一方、デルタ関数部分は、実際にエネルギー保存を満たす状態への遷移を表す。
この意味で、Sokhotski--Plemelj の公式は、複素解析の公式であると同時に、「仮想過程」と「実過程」を分ける物理的な公式でもある。
13. 符号を間違えないための確認
この公式で最も間違えやすいのは符号である。符号を覚えるには、実部・虚部に分けるのが一番安全である。
まず、
\frac{1}{x+i\epsilon}
=
\frac{x-i\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
=
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
-
i\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
である。したがって、虚部は負である。極限では、
\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
\to
\pi\delta(x)
なので、
\frac{1}{x+i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
-
i\pi\delta(x)
である。
同様に、
\frac{1}{x-i\epsilon}
=
\frac{x+i\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
=
\frac{x}{x^2+\epsilon^2}
+
i\frac{\epsilon}{x^2+\epsilon^2}
だから、
\frac{1}{x-i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
+
i\pi\delta(x)
である。
つまり、
+i0
なら
-i\pi\delta(x)
が出る。
-i0
なら
+i\pi\delta(x)
が出る。
この対応だけは、毎回実部・虚部に分けて確認すると間違えにくい。
14. まとめ
Sokhotski--Plemelj の公式は、
\boxed{
\frac{1}{x\pm i0}
=
\mathcal{P}\frac{1}{x}
\mp i\pi\delta(x)
}
という短い式で書かれる。しかし、この式の中には、複素解析、主値積分、デルタ関数、因果性、共鳴、吸収、散乱、Kramers--Kronig 関係など、物理にとって非常に重要な概念が凝縮されている。
この公式の肝は、実軸上の極をどちら側から避けるかである。極を避ける操作は、主値積分としての実部的な寄与と、極そのものから来るデルタ関数的な虚部を生む。数学的には、これは分布としての等式であり、任意の試験関数に対して積分したときに意味を持つ。物理的には、これは応答関数の分散部分と吸収部分、仮想過程と実過程、境界条件と因果性を分ける公式である。
特に重要なのは、
i0
を単なる微小量だと思わないことである。それは「どちらの側から極を避けるか」を指定する記号であり、物理では「どの境界条件を選ぶか」を指定する記号である。したがって、Sokhotski--Plemelj の公式は、複素関数論のテクニックであると同時に、物理で正しい解を選ぶための言語でもある。
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