はじめに
カイ2乗フィットは「物理の正しさ」を保証してくれないことを、簡単な説明と上級者向けの説明の2つの言い方で施説明してみたいと思います。解析上級者の方は、
から読み進めてください。
X線スペクトル解析のxspecについては下記を参照ください。
簡単な説明
X線スペクトルの解析(XSPEC など)で、よく聞かれる質問があります。
カイ2乗が小さくて、モデルがデータをよく再現できていれば、それで「正しいモデル」と言えるんですか?
結論から言うと、
「カイ2乗が小さい」=「物理的に正しいモデル」ではない
です。
ここでは、
- カイ2乗フィットが何をしていて、
- それがどこまで教えてくれて、
- 何を教えてくれないのか
を、X線スペクトル解析を例に整理してみます。
カイ2乗分布が数学的に“定義される必然性”
カイ2乗分布の定義が曖昧な方は先に下記を一読ください。
カイ2乗分布とは?なぜカイ2乗分布が“定義された”のか
結論(最も本質的な理由)
カイ2乗分布は、
独立な標準正規乱数の2乗和の分布がどうなるか?
という、統計学の中心的かつ普遍的な問いの“答え”として自然に現れる。
それだけです。人間が「便利だから決めた」のではなく、正規分布と独立性という前提を置いただけで、数学が勝手に生み出す分布です。
なぜ“標準正規の2乗和”が重要なのか?
1. 誤差の物理モデル(ガウス分布)から自動的に生じる
実験誤差・統計誤差のモデルとして 正規分布(Gauss 分布) が最も基本的。
したがって、観測値 $x_i$ の誤差を「真値との差が正規分布に従う」と仮定すると、
z_i = \frac{x_i - \mu}{\sigma}
は 標準正規になる。
この誤差がどれだけ大きいかという総量を測るには
z_1^2 + z_2^2 + \cdots + z_k^2
という 二乗和 を考えるしかない。
2. 二乗和の分布が必要 → それがカイ2乗分布として決まる
では、この二乗和の確率分布は何か?
数学的に計算すると、
z_1^2 + \cdots + z_k^2
の分布は必ず
\chi^2_k
という形になる。“こう定義しよう”と決めたのではなく、計算したらそれになる、という必然。
3. 尤度の形が自然にカイ2乗を呼び込む
誤差を正規分布と仮定したときの尤度は
L \propto \exp\left(-\frac12\sum_i z_i^2\right)
となり、指数の中身がそのまま
\chi^2 = \sum_i z_i^2
になる。
つまり:
- 最尤推定をしたい
- 実験誤差を正規と仮定
という2つの要請だけで、どうしても「カイ2乗」が現れる構造になっている。
4. “検定統計量としての自然性”
正規分布の仮定のもとで「モデルとデータのずれ」を測ると、
誤差(残差)の二乗和が
\chi^2_k
に従うことが数学的に保証される。
だから、
- goodness-of-fit
- confidence interval(Δχ²)
- likelihood ratio test との接続
などがすべて 自動的にカイ2乗分布になる。
(注意) C統計は特定の状況では適切な選択肢ですが、あらゆる解析に自動的に適用できるものではありません。データ特性と統計的仮定を踏まえ、「必要な場面で使う」という姿勢が望まれます。例えば、
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2019PASJ...71...75Y/abstract だと、"Given an energy resolution of ∼5 eV and a line with about 100 photons, the line width becomes ∼10% lower in the χ2 method than in Poisson statistics." と示されてますが、そのような場合に該当するかどうか判断して使うと良いです。
1. カイ2乗フィットは何をしているのか
観測データを $d_i$、その誤差を $\sigma_i$、モデル(パラメータ $\theta$ を持つ)を $m_i(\theta)$ とすると、カイ2乗は
\chi^2(\theta) = \sum_i \frac{(d_i - m_i(\theta))^2}{\sigma_i^2}
と定義されます。
カイ2乗フィットがやっていることは、ざっくり言うと:
-
前提
- 各データ点の誤差がガウス分布
- $\sigma_i$(誤差バー)が正しい
と仮定する。
-
目的
- 「いま採用したモデルの“枠の中で”、データに最もよく合うパラメータ $\theta$」を探す。
-
検定(p 値など)
- 「このモデル+最良パラメータが本当に正しいと仮定したときに、観測された $\chi^2$ はどれくらい“ありそうか”?」を評価する。
ここでのポイントは、
カイ2乗検定は 「このモデルが正しいと仮定したときに、データはおかしくないか?」を見ているだけであって、「このモデルの物理が正しいか?」までは教えてくれない
ということです。
2. 「良いフィット」と「良いモデル」は別物
2.1 良いフィットは「必要条件」
科学的に意味のあるモデルであれば、データと明らかに矛盾していては困ります。
- $\chi^2$ が非常に大きい
- 残差(data − model)に大きな系統的うねりがある
→ 少なくとも「このモデルにはどこか問題がありそうだ」と言えます。
この意味で、
「良いモデル」であれば、「フィットが極端に悪くない」ことは必要条件
とは言えます。
2.2 しかし、良いフィットは「十分条件」ではない
問題は逆向きです。
「$\chi^2$ がそこそこ良い → だから物理的に正しいモデル」
とは言えません。理由は大きく 3 つあります。
(1) モデルが複雑すぎれば、いくらでも「合わせられる」
- 高次多項式や自由度の多いスプライン、
- 意味のないガウシアンを大量に足したモデル など
を使えば、ほとんどどんなスペクトルにも「見かけ上」よく合うことができます。
X線スペクトルで言えば、
- とりあえずガウシアンを 10 本入れれば、Fe K 近傍の凸凹はほぼ何でも吸収できる
みたいな状態です。
これは単なる 過学習 (overfitting) であって、
データの形は“なぞって”いるが、「物理」を説明しているとは限らない。
(2) 全く違う物理モデルが、ほぼ同じスペクトルを作る(縮退)
例:
- 熱的な高温薄いプラズマ vs 低温厚いプラズマ+吸収
- 単純な powerlaw+cutoff vs より物理的な Comptonization モデル
など、物理的に全く別の解釈が、同じ観測スペクトルを同程度に再現してしまうことがよくあります。
このときカイ2乗は、
「どちらもデータとは矛盾していない」
までは教えてくれますが、
「どちらが物理的に正しいか」
は決めてくれません。
そこは、
- 他波長の情報
- 時間変化
- 先行研究や背景にある理論
など、様々な情報と組み合わせて判断する必要があります。
(3) モデルやパラメータが「物理的にあり得ない」ことを、統計は何も知らない
例えば:
- 電子温度が $10^{12}$ K とか
- 金属量が $100 Z_\odot$ とか
- 負の密度、負の体積発光率 など
といった非物理的なパラメータを許したモデルが、カイ2乗的には「良いフィット」を与えることがあります。
しかしそれは、
「間違った問い(非物理的な仮定)に対して、統計的に真面目な検定をしている」
だけです。統計は「物理的にあり得ない」という事実を知りません。
3. 「物理的にめちゃくちゃでも、フィットが良ければOK?」問題
3.1 何のためにフィットしているのか?
実務では、目的によって答えが変わります。
(A) ただ形をなめらかにしたい/補間したいだけ
- バックグラウンドの補間
- プロットのための滑らかな曲線作成
- ある狭い範囲の線形補間
- 狭い輝線や吸収線の強度、中心値、幅だけ知りたい
など、純粋に数値的・工学的な用途なら、
- 多項式
- スプライン
- ガウシアンの寄せ集め
といった「物理的意味を持たない関数」で “形だけ合えばよい” こともあります。
この場合は、パラメータを物理解釈しないことが前提 → 「フィットさえよければ OK」という場面は確かに存在します。
(B) パラメータを物理量として解釈したい(物理的な目的)
- 温度、密度、金属量、カラム密度、速度、スピン…などを議論したい
という 普通の研究目的(=多くの天文論文)では、
- モデル自体が物理的に意味を持つこと
- パラメータが物理的に妥当な範囲にあること
- 他の観測・理論と整合していること
が揃って初めて、科学的に意味のある結論と言えます。
4. X線スペクトル解析での具体例(XSPEC をイメージ)
ここからは XSPEC 風の例で、「どこまで信じていいか」をイメージしやすくします。
4.1 ケースA:統計的にも物理的にも素直な「良いフィット」
モデル:
model constant*tbabs*(powerlaw + gaussian)
結果のイメージ:
-
reduced $\chi^2$ ≈ 1.05(dof ≈ 200)
-
tbabs: $N_{\rm H} = 5\times10^{21}\ {\rm cm^{-2}}$(銀河面で妥当) -
powerlaw: $\Gamma = 1.7 \pm 0.1$(BH low/hard でよく見る値) -
gaussian:- energy $E = 6.40 \pm 0.02$ keV
- width $\sigma \approx 80$ eV
-
残差はランダムに散らばり、系統的なうねりなし
→ この場合、
- 統計的にも OK
- パラメータも物理的に自然 (6.4~keVが中性のFeの蛍光輝線)
- 先行研究とも大きく矛盾しない
ので、「Γ≈1.7 のパワーローと、6.4 keV の比較的狭い Fe Kα が見えている」という物理解釈をしてよい候補になります。
4.2 ケースB:ガウシアン盛り盛りで過剰フィット
これに続いて、同じスペクトルに対し、残差をとにかく潰したくて、
model constant*tbabs*(powerlaw + gaussian + gaussian + gaussian)
のようにガウシアンを 3 本入れたとします。すると:
- reduced $\chi^2$ = 0.78(dof = 197)
- line energies: 6.38 keV, 6.55 keV, 6.73 keV
- 各線の幅 $\sigma$ は 20–30 eV 程度
一見すると、
「カイ2乗が良くなった → 3 本の線があるに違いない!」
と言いたくなりますが、ここでチェックすべきは:
- 本当にそのエネルギーに対応する遷移が物理的に予想されるか?
- スペクトル分解能・S/N に対して、こんなに細かく線を区別できるのか?
- reduced $\chi^2$ が変に小さすぎないか(過剰フィットの可能性)
このケースではむしろ、
「残差に 6–7 keV 付近の構造があり、単一ガウシアンでは不十分らしい」→ より物理的な reflection モデルや photoionized plasma モデルを試す動機になる
といったヒントとして扱うのが安全で、
3 本の線が“実在する”と主張するのは危険
です。
4.3 ケースC:別の物理モデルでも同じくらいの (\chi^2) が出てしまう
別の人が、同じデータを
model constant*tbabs*(diskbb + powerlaw + edge)
でフィットして、reduced $\chi^2$ = 1.03 を出してきたとします。
このとき、
-
diskbbの $kT_{in}$ ≈ 0.8 keV -
edgeが 7.1 keV、光学的厚み τ ≈ 0.1
などになっていると、
「こっちの方がわずかに $\chi^2$ が良いから、ディスクが見えた!」
と言いたくなるかもしれません。
ここで考えるべきは、
- その天体の他の状態・他の観測と比べて、その disk 温度・半径は妥当か?
-
edgeをgaussianにしてもほとんど $\chi^2$ が変わらないのでは? - 別のエネルギーバンド(例:0.3–2 keV)では、このディスク成分がちゃんと見えるのか?
ポイント:
「ほぼ同じ $\chi^2$ のモデルが複数存在する」=「このデータだけでは物理が一意に決まらない」
ということを示しているだけで、
「diskbb+edge モデルが唯一正しい」とまでは言えません。
4.4 ケースD:パラメータが明らかに非物理なとき
例:熱プラズマモデルで
model tbabs*apec
をフィットして、
-
reduced $\chi^2$ = 0.95
-
しかしパラメータが
- kT = 20 keV(その天体では明らかに高すぎる)
- 金属量 (Z = 0.01 $Z_\odot$)(宇宙論的にも銀河としても低すぎる)
という結果になったとします。
このとき、
- 統計的には「良いフィット」でも、
- 他の観測・理論と明らかに矛盾
なので、「apec の形状を使って近似しただけで、パラメータは物理的な意味を持たない」 と割り切るべきです。
実際によくやるのは、
- $kT$ や $Z$ に物理的にあり得る範囲の制限をかける
- それでもフィットが破綻するなら「そもそもこのモデルが不適切」と判断する
といったアプローチです。
5. チェックリスト:「このフィット、どこまで信じていい?」
最後に、実際に XSPEC でフィットしたあとに見るべきポイントを、チェックリストとしてまとめます。
5.1 Step 1:統計的に変なところはないか?
- reduced $\chi^2$ はだいたい 0.8〜1.2 くらいか?
- 残差プロットに、はっきりしたうねりや系統誤差が見えないか?
- ビンあたりカウントが少ないのに $\chi^2$ を使っていないか?(必要なら C-stat を検討、ただし、C-statも物理の正しさは保証しない。)
5.2 Step 2:パラメータは物理的に妥当か?
- 温度、密度、金属量、$N_{\rm H}$、スピンなどが、「その天体として」現実的か?
- パラメータが上限(下限)に張り付いていないか?
- そこから導かれる光度・半径・質量・速度が、スケールとして「あり得る」か?
5.3 Step 3:別のモデルや別データと比べて一貫しているか?
- 似た $\chi^2$ を出す別モデルはないか?(縮退)
- むやみにコンポーネントを増やしていないか?(過学習)
- 別の観測(他の衛星、他の状態、他波長)と一貫した物理像が描けるか?
6. まとめ
本記事のポイントを一文でまとめると:
カイ2乗が良いことは、「そのモデルがデータと矛盾していない」という最低限の条件にすぎず、「そのモデルが物理的に正しい」ことの保証ではない。
したがって、
-
単に「形を近似したい」だけなら、フィットの良さだけを気にすればよい場合もある。
-
しかし、物理量を語りたいなら、
- モデルの物理的妥当性
- パラメータの現実性
- 他の観測・理論との整合性
を必ずセットで確認する必要があります。
初学者の方には、
「良いフィットは“スタートライン”であって、“ゴール”ではない」
という感覚を持ってもらえると、統計を「答えを出してくれる魔法」ではなく、「仮説をチェックするための道具」として使えるようになるはずです。
上級者向けの詳細解説
ここからは、先ほどの「カイ2乗フィット入門」の裏側を、もう少し理屈寄りに整理します。
最初に強調しておきたいゴールはこれです。
実験物理では、どんな統計手法を使ったかよりも、系統誤差(装置の癖・信号処理の歪み・サンプルバイアス)をどこまで理解しているかの方が、最後の勝負所でははるかに重要になる。
そのうえで、各項目を見ていきます。
1. カイ2乗とは何か?
教科書的には
\chi^2(\theta)=\sum_i \frac{\bigl(d_i - m_i(\theta)\bigr)^2}{\sigma_i^2}
ですが、本質的には 「ガウス雑音を仮定したときのマイナス2倍対数尤度」 です。
-
観測 $d_i$ がモデル $m_i(\theta)$ のまわりにガウス分布 $N(m_i(\theta), \sigma_i^2)$ に従うと仮定すると、
-
尤度は
L(\theta) \propto \prod_i \exp\left[-\frac{(d_i-m_i(\theta))^2}{2\sigma_i^2}\right] -
これの $-2\log L$ をとると、定数項を除いて $\chi^2(\theta)$ が出てくる。
つまり、$\chi^2$ 最小化 ≒ ガウス雑音を仮定した最尤推定。
そして
- 「真のモデル」が正しく、
- 誤差 $\sigma_i$ が正しく、
- 雑音も独立なガウス分布
というかなり理想化された条件のもとでは、
\chi^2_{\rm min} \sim \chi^2_{\nu}
(自由度 $\nu = N_{\rm data} - N_{\rm param}$ のカイ2乗分布)にしたがうので、
- $\chi^2_{\rm min}/\nu \approx 1$ なら「まあおかしくない」
- 極端に大きい/小さいと「どこか仮定が壊れている」
と判断する…というロジックになります。
ポイントは:
$\chi^2$ は「どの統計モデル(尤度)を仮定したか」を数値化しているにすぎない。
その仮定(ガウス雑音・正しい誤差・独立性…)が壊れていれば、$\chi^2$ の分布に関する議論も全部あやしくなる。
2. 検定とは何か?
「検定」は一言でいうと
「ある仮説 $H_0$ のもとで、このデータは“珍しすぎる”か?」を数値化する儀式
です。
カイ2乗検定の場合、
- 帰無仮説 $H_0$:
「このモデル(+最良パラメータ)が本当に正しい。
かつ、誤差の仮定(ガウス・独立・$\sigma_i$ が正しい)も成立している」 - 検定統計量:
$\chi^2_{\rm min}$ - p 値:
「$H_0$ が正しいときに、これ以上の $\chi^2$ が出る確率」
となります。
ここでよく混同されるのは、
p 値が小さい → 「このモデルは真ではなさそう」
p 値が大きい → 「このモデルが真である」ことは分からない(単に「否定できていない」だけ)
という非対称性です。
実際のデータ解析では、
- 「真のモデル」を含まない不完全なモデル族しか持っていない
- 系統誤差もある程度は混ざっている
- 雑音も理想のガウスからはずれている
のが普通なので、カイ2乗検定は
この程度のズレなら、実務的には許容範囲か?
をざっくり判断するための「健康診断」くらいに捉えるのが現実的です。
3. 古典統計とベイズ統計とは何か?
厳密な定義は長くなるので、実験物理の文脈に絞ってざっくり対比してみます。
古典統計(頻度主義)
-
確率:
「無限回の繰り返し実験における頻度の極限」として定義。 -
パラメータ:
実在する“固定された値”。
確率的に揺れるのは「データ」であり、パラメータではない。 -
推定のゴール:
点推定(最尤推定等)+ 規則に基づく信頼区間(“95%CL で外れにくいルール”)。
ベイズ統計
-
確率:
「不確実性(belief)の定量化」。主観度合いを数理化したものとみなす。 -
パラメータ:
未知だが、我々の不確実性を表す「確率変数」として扱う。 -
推定のゴール:
事前分布 $p(\theta)$ + 尤度 $p(d|\theta)$ から、p(\theta|d) \propto p(d|\theta)p(\theta)を計算し、事後分布として「パラメータに対する不確実性の全体像」を得る。
実務上の感覚
-
データが十分に豊富で、尤度が鋭く尖っていて、事前分布が“ほどほどに広い”なら、
→ 古典統計の信頼区間と、ベイズの事後分布から作る区間はほぼ同じになります。
-
差が効いてくるのは、
- データが少ない
- 強い事前情報がある(or 入れざるを得ない)
- パラメータの物理的な制約(正値・上限など)が効いてくる
ときです。
ここで重要なのは、
どの枠組みを使っても、尤度モデル(=雑音や系統誤差の扱い)が間違っていれば、古典でもベイズでも「それなりに整ったウソ」が出てくる。
ということです。
4. best fit parameter と信頼区間、どっちが大事?
よくある誤解は、
「とりあえず best fit(最尤)値が分かれば十分」
ですが、物理パラメータを議論するときは 「最尤値」単体にはほとんど意味がありません。
なぜか?
-
尤度が偏っている/非対称なとき
- 例えば、あるパラメータに対して
「上側には長い裾が伸びているが、下側は急に切れている」といったケース。 - そういうとき、最尤値は典型値からズレているかもしれない。
- 例えば、あるパラメータに対して
-
縮退や多峰性があるとき
- 2 つ以上の局所極大を持つ尤度。
- 異なる物理解釈に対応する複数の極大が同程度の高さを持つこともある。
- 「一番高い山だけ」報告しても、「他に同じくらい高い山がある」ことを見落とす。
-
実験系の制約で「上限」「下限」が本質的な情報になるとき
- 例えば、γ線の線幅の上限、非熱的成分の上限など。
- この場合、「best fit がゼロに近い」という事実よりも、
「95% 上限はいくらか?」の方が物理的な意味を持つ。
では、信頼区間さえ出せば安心か?
ここで落とし穴になるのが 系統誤差 です。
-
信頼区間(あるいは事後分布)は、「モデルが正しい」ことを前提として計算される。
-
モデルの中に 系統誤差が入っていなければ、
- 誤差バーは過小評価される
- 最尤値も信頼区間も「見かけほどには信頼できない」
要は、
最尤値 vs 信頼区間の議論は、「モデルが十分に正しい」という土俵に乗って初めて意味がある。その土俵自体を揺らすのが系統誤差。
です。
5. MCMCを回せば良い統計的な評価になるのか?
近年は、
「とりあえず MCMC を回して、事後分布をサンプリングしました!」
という解析が増えていますが、ここでも本質はシンプルです。
MCMCが本当にやっていること
MCMC(Markov Chain Monte Carlo)が行うのは、非常に限定された以下のタスクです。
- あなたが与えた尤度(likelihood) 尤度 $p(\text{data}|\theta)$
- あなたが与えた事前分布(prior) 事後分布 $p(\theta)$
この 2つの情報だけ を使って定まる
p(\theta \mid \text{data}) \propto
p(\text{data}\mid\theta)~ p(\theta)
という 事後分布(posterior) を、数値的にサンプリングによって近似する ——それだけです。
つまり、
MCMC は「事後分布を数値的に近似する手段」にすぎず、その事後分布が“正しい”かどうかには一切責任を持たない。
典型的な落とし穴
-
尤度モデルが間違っている(系統誤差を無視している)
- その場合、MCMC は「間違った仮定の下でのサンプル」を返すだけ。
- 系統誤差無しの尤度を入れれば、事後分布もその仮定に従う。
-
事前分布の選び方に引きずられる
- データが弱いパラメータほど、事前の形に敏感になる。
- 「平らな事前」と言いつつ、実は変数変換に対して非不変だったりする(ジェフリーズ事前などの話)。
-
収束・混合(mixing)の問題
- 極小が複数あると、チェーンが片方の山しか見ていないのに「収束した」と誤認しやすい。
- そもそも実行時間の都合で、十分なサンプルが取れていないこともある。
メッセージ
MCMC は「よい統計モデルとよい実験理解」があって初めて威力を発揮する道具であって、MCMC を回した瞬間に「解析が偉くなる」わけではない。
6. 系統誤差の重要性、結局最後は系統誤差が鍵を握る
ここが一番伝えたいポイントです。
6.1 系統誤差とは何か?
ざっくり言うと、
「たくさんデータを集めても平均してゼロにならない偏り」
です。
統計誤差(ランダム誤差)は、データを増やせば $\propto 1/\sqrt{N}$ で下がりますが、
- エネルギーキャリブレーションのずれ
- 有効面積(ARF)の誤差
- PSF の裾のモデリングミス
- バックグラウンドモデリングの仮定
- トリガーや選別ロジックのバイアス
- 補正しきれてないアナログ回路のオフセットや温度依存
- デジタル信号処理(フィルタ・FFT・ウィンドウ)の癖
などは、データ数を増やしても勝手には消えてくれません。
6.2 なぜ「最後は系統誤差が支配する」のか?
実験が進歩すると、
- 観測時間を伸ばす
- 検出器性能が上がる
ことで、統計誤差はどんどん小さくできます。
しかし、その結果あぶり出されるのは
「装置の癖」「解析パイプラインの癖」
です。
- エネルギー分解能の僅かな非ガウス性
- デッドタイム補正のわずかな不正確さ
- スペクトル再構成アルゴリズムのバイアス
- 位置依存の感度ムラ、温度依存のドリフト
こうしたものは、統計学ではなく「実験装置そのものの理解」 がないとモデリングできません。
6.3 実験物理に強いグループは何をしているか?
本当に強い実験屋は、たいてい次のようなことを真面目にやっています:
-
キャリブレーションの徹底
- 既知の線源・既知の信号を入れて応答を測る
- 温度依存性・位置依存性・時間依存性をマッピングする
-
フェイクデータ注入(injection tests)
-
シミュレーションや人工信号を生データや解析パイプラインに流し込んで、
- ちゃんと回収できるか?
- バイアスなく推定できているか?
- (参考) 重力波、超伝導のプロセスが強いチームでは、偽信号や誤りある設計図の検証力をチェックするために、関係者に内緒で擬似信号を入れることもあります。
-
-
クロスチェック
- 複数の独立な解析コード・独立な人・独立なデータセットで同じ物理量を推定し、整合性を確認する。
-
“null test”
- 本来なら信号が出ないはずのモード・エネルギーバンド・時間帯で解析し、「何も出ないこと」を確認する。
- そこで有意なシグナルが立つなら、「装置 or 解析の癖」を疑う。
-
シンプルなモデルと比較
-
やたら凝ったモデルでフィットする前に、
- もっと単純なモデルとの差を評価し、
- その差が「統計的にも物理的にも意味があるか」を見極める。
-
ここで使っているのは、半分は統計ですが、もう半分は
「この装置・この実験・このパイプラインは、どういうときに何をしてしまうのか?」
という装置物理・信号処理の深い理解の構築です。
6.4 まとめ:統計と系統誤差の関係
最後に、一文でまとめると:
統計学は、「与えられた統計モデルの中で」どれだけ丁寧に不確実性を扱えるかを教えてくれる。しかし、実験物理の成否を分けるのは、「そもそもその統計モデルが現実をどこまで忠実に映しているか」、つまり系統誤差をどこまで理解して潰せているかである。
-
良いフィットルーティン(最尤・MCMC・VI…)は重要な道具ですが、
-
「道具の選び方」よりも、
- ノイズ源の分類と掌握
- 装置応答の深い理解
- パイプラインの癖の把握
など、データだけではなく実験全体の深い理解が、研究の信頼性に与える影響が大きいでしょう。
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