はじめに:分布の形は「偶然」ではない
高エネルギー宇宙物理を学び始めると、次のような事実に何度も出会います。
- 宇宙線のエネルギースペクトル
- 超新星残骸やジェットの非熱放射
- 粒子加速を受けた電子・陽子の分布
それらの多くが
N(E) \propto E^{-\alpha}
という べき分布(冪分布, power-law) で表されます。一方、統計物理や熱平衡では、
N(E) \propto e^{-E/E_0}
という 指数分布 が自然に現れます。
この記事の目的は、
なぜ宇宙では指数分布ではなく、べき分布が現れるのか?
を、整理して解説してみます。
1. 算数で見る「べき」が出る理由(最初の入口)
まず、物理を一切使わない、極めて単純なモデルから始めます。
仮定
ある粒子が「イベント(散乱・加速)」を何度も経験するとします。
-
イベント1回ごとに
- 粒子が生き残る確率:$p < 1$
- エネルギーが増える割合:$\beta > 1$
イベント回数を $k$ とすると、
N = N_0 p^k
E = E_0 \beta^k
と書けます。
回数 k を消去する
$E = E_0 \beta^k$ の式で両辺 log を取って変形すると、
k = \frac{\ln(E/E_0)}{\ln\beta}
これを粒子数に代入すると、
\frac{N}{N_0}
= \left(\frac{E}{E_0}\right)^{\ln p / \ln\beta}
すなわち
N(E) \propto E^{-\alpha}
\quad
(\alpha = -\ln p / \ln\beta)
と書けます。
ここで何が起きたのか?
- 粒子数もエネルギーも 「回数」に対して指数的に変化
- 回数という履歴を消すと 指数 "÷" 指数 = べき
つまり、
べき分布は、指数的過程を“履歴で割り算した”結果として現れる
という、純粋に算数的な事実です。
2. 歴史的背景:ブラウン運動と拡散という考え方
この話は、高エネルギー宇宙物理から始まったものではありません。
1905年
アルベルト・アインシュタインは、
水中で花粉がランダムに動く ブラウン運動 を理論的に解析しました。
当時の本質的な問い
- 個々の運動は予測不能
- それでも 集団としての振る舞い は法則に従うのではないか?
アインシュタインは、すでに知られていた 拡散方程式
\frac{\partial P(x,t)}{\partial t}
= D\frac{\partial^2 P}{\partial x^2}
を、ブラウン運動の確率分布に適用し、
\langle x^2\rangle = 2Dt
という関係を導きました。
拡散係数 $D$ とは何か?は下記を参考ください。
重要な視点
- 拡散方程式そのものは、熱伝導や物質拡散として以前から存在
- アインシュタインの貢献は、
確率分布という粗視化された量に着目し、ミクロの運動と結びつけたこと
です。
3. 拡散とは「履歴を捨てる」記述である
拡散方程式には、次の情報が書かれていません。
- 粒子が何回衝突したか
- どの順番で動いたか
- どの方向を向いていたか
代わりに残るのは、
- 分布の形
- その広がり方
つまり拡散とは、
ミクロな履歴を捨て、マクロな統計的振る舞いだけを記述する近似
です。
4. 分布の形は「どの変数で変化を測るか」で決まる
ここからが、この記事の数理的な核心です。
分布 $N(E)$ を考えたとき、
微分
\frac{dN}{dE}
は、
$E$ を少し変えたときに、$N$ がどれくらい変わるか
を表します。
つまり微分方程式は、
「どの量の“微小変化”を基本操作としているか」
を明示しています。
5. 指数分布:エネルギー E の微小変化に対して一定の割合で減る
指数分布
N(E) = C e^{-E/E_0}
は、次の微分方程式を満たします。
\frac{dN}{dE} = -\frac{1}{E_0} N
これは、
\frac{1}{N}\frac{dN}{dE} = \text{一定}
すなわち、
エネルギーを「同じ量だけ」増やしたときの減り方(増え方)が、どの $E$ でも同じ
という意味です。
テイラー展開して、物理次元の関係について確認しておく。$e^{-x}$はテイラー展開で、
e^{-x} = 1 - x + \frac{x^2}{2!} - \cdots
と書けるので、
- 展開変数 $x$ は 必ず無次元
- だから物理量 $E$ を入れるには
とせざるを得ない
x=E/E_0
指数関数は本質的にスケールを要求
6. べき分布:対数エネルギーの微小変化に対して一定の割合で減る
べき分布
N(E) = C E^{-\alpha}
を微分すると、
\frac{dN}{dE} = -\alpha\frac{1}{E}N
両辺に $E$ を掛けると、
E\frac{dN}{dE} = -\alpha N
ここで、次の恒等式を用います。
\frac{d}{d(\ln E)} = E\frac{d}{dE}
すると、
\frac{dN}{d(\ln E)} = -\alpha N
となります。
これが意味していること
- 指数分布:
\frac{dN}{dE} \propto N - べき分布:
\frac{dN}{d(\ln E)} \propto N
つまり、
べき分布とは、
「エネルギーそのもの」ではなく
「対数エネルギー」を変数にしたときの指数分布
です。
7. 「対数エネルギーで測る」とはどういうことか
\ln E \to \ln E + \delta
という変化は、
E \to e^{\delta} E
すなわち、
エネルギーが「一定の割合」で変化する
ことを意味します。
重要なことは、対数微分はスケールを持たないことです。
対数エネルギーでの微分は
\frac{d}{d(\ln E)} = E\frac{d}{dE}
と書ける。この演算子は、
$E \to \lambda E$ というスケール変換に対して不変であり、
エネルギーの「割合的変化」を自然に記述する微分操作である。
(補足) logE を新しい変数とみなし,微分演算子をチェーンルールで計算する。
\frac{d}{d\log E} = \frac{d}{dE}\frac{dE}{d\log E} = \frac{d}{dE} \frac{1}{(\frac{d\log E}{dE})} = E~\frac{d}{dE}
[覚え方] $d(\log x)$で微分するとは、$x$を掛けて$dx$で微分すること
8. 物理との対応:なぜ熱平衡は指数なのか
熱平衡では、
- エネルギーのやり取りは
少量ずつの加算・減算
として起きます。
そのため、
- $E$ の変化を直接見る
- $E$ に対して指数分布が現れる
のは自然です。
9. 宇宙における粒子加速:なぜべき分布なのか
一方、宇宙線加速や非熱粒子では、
- 散乱や加速のたびに
エネルギーが 割合で 変化する
E \to \beta E
という過程が基本になります。
これは、
$\ln E$ が足し算的に増えていく過程
です。
したがって、
- $\ln E$ の世界では指数分布
- 元の $E$ の世界ではべき分布
が現れます。
10. フェルミ加速とは何か
― 無衝突プラズマで起きる「割合の加速」
ここまでで、
「べき分布が $\ln E$ を変数にした指数分布である」
という数理構造を見てきました。
では、宇宙ではなぜ $\ln E$ が自然な変数になるのか?
その物理的な答えの一つが、フェルミ加速です。
10.1 歴史的背景:エンリコ・フェルミの着想
1949年、フェルミは「宇宙線はどうやってあれほど高エネルギーになるのか?」という問いに対し、極めて単純なアイデアを提案しました。
- 宇宙空間には、磁場をまとった“動く散乱体”が存在する
(磁気雲・衝撃波・乱流構造など) - 荷電粒子はそれらに何度も散乱される
- そのたびに、少しずつエネルギーを得る
これが フェルミ加速 の原型です。
10.2 無衝突プラズマという前提
宇宙のプラズマは、実験室の気体とは決定的に違います。
- 粒子同士が直接衝突する頻度は極めて低い
- クーロン衝突よりも
磁場・電磁波との相互作用が支配的
このようなプラズマを 無衝突プラズマ と呼びます。
重要なのは、
エネルギー変化が「少し足される」のではなく、「割合で変化する」
という点です。
10.3 フェルミ加速の核心(式で見る)
散乱を1回受けるたびに、
E \to \beta E \qquad (\beta > 1)
とエネルギーが比例的に増えるとします。
散乱回数を $k$ とすると、
E = E_0 \beta^k
対数を取ると、
\ln E = \ln E_0 + k \ln \beta
10.4 ここが決定的
- エネルギー $E$ は 指数的 に増える
- しかし
対数エネルギー $\ln E$ は、回数に対して足し算的に増える
つまりフェルミ加速とは、
$\ln E$ がランダムウォーク(拡散)する過程
だと理解できます。これが、べき分布が現れる物理的理由です。
11. そもそも「変化」をどういう単位で見るのか?
ここで一段深く、微分という操作そのものを見直します。
11.1 微分とは何をしているのか
微分
\frac{dN}{dE}
は、
変数 $E$ を「少し足したとき」の関数 $N$ の変化量
を見ています。つまり、微分方程式は本質的に、
足し算的な変化を基本操作として世界を記述する枠組み
です。
11.2 変数を変える=「どの足し算を見るか」を変える
同じ関数 $N$ でも、
- $E$ を変数にするか
- $\ln E$ を変数にするか
で、「少し変えた」の意味が変わります。
(A) E を変数にする場合
E \to E + \Delta
- エネルギーが 一定量だけ 変わる
- 熱平衡・衝突的過程に適している
このとき自然なのが 指数分布。
(B) ln(E) を変数にする場合
\ln E \to \ln E + \Delta
\quad\Leftrightarrow\quad
E \to e^{\Delta} E
- エネルギーが 一定の割合で 変わる
- 散乱・加速・拡散過程に適している
このとき自然なのが べき分布。
11.3 微分方程式で世界を理解するという立場
私たちが物理を微分方程式で記述するということは、
「どの量を足し算的に変化させるか」を選ぶ
という思想に立っている、ということでもあります。
- 熱物理 → $E$ を足す
- 粒子加速 → $\ln E$ を足す
この違いが、分布の形として現れます。
12. 指数分布は「スケールを要求」、べき分布は「スケール拒否」
最後に、スケールという言葉を曖昧さなく整理します。
12.1 スケールとは何か(定義)
ここで言う「スケール」とは、
「この値を基準にすればよい」という固有の大きさ
のことです。
12.2 指数分布がスケールを要求する理由
指数分布
N(E) \propto e^{-E/E_0}
には、必ず (E_0) が現れます。
- $E_0$ は
「これくらいが典型的」という基準 - 分布の形は
$E/E_0$ という無次元比で決まる
つまり指数分布は、
「このスケールを基準に見よ」という要求を内包した分布
です。
12.3 べき分布がスケールを拒否する理由
べき分布
N(E) \propto E^{-\alpha}
には、
- $E \to \lambda E$ としても、$E^{-\alpha}$という関数形は変わらない
- $E_0$ のような基準スケールが存在しません(比例係数に吸収されるだけ。関数系は不変、という意味)
これは、
「どこを基準にしても同じ関数系の振る舞いをする」
という性質です。数学的には スケール不変性 と呼ばれます。
12.4 物理的に言い換えると
- 指数分布 → 「このあたりが普通」という目安がある
- べき分布 → 「特別な大きさが存在しない」
12.5 なぜ宇宙ではスケールが消えるのか
宇宙線加速や無衝突プラズマでは、
- 衝突頻度
- 温度
- 局所的な平衡
といった 典型スケールを決める要因が存在しません。
その結果、
スケールを持たない過程の定常的な影として、べき分布が現れる
と理解できます。
おわりに:分布は「見方」で決まる
指数分布とべき分布の違いは、
- 特殊な宇宙物理の結果
- 不思議な経験則
ではありません。
どの変数で“変化”を測るか
その選択の違いが、分布の形として現れているだけです。
この視点を持つと、
- 統計学
- 拡散過程
- 宇宙線加速
- 非熱放射
が、同じ数理構造の視点から見えてきます。
Appendix
足し算と掛け算の確率過程 ― データサイエンスとの接点 ―
本文は、
「どの変数で足し算が起きているか」
にある。これは確率過程・機械学習の言葉に自然に翻訳できる。
B.1 加法ノイズ:指数分布の世界
E_{n+1} = E_n + \delta_n
- ノイズが 足し算
- 中央極限定理 → 正規分布
- エネルギー空間では 指数分布が自然
(注:エネルギーが非負なので、正規分布ではなく指数分布が自然に現れる。)
👉 熱平衡・衝突過程・拡散現象
B.2 乗法ノイズ:べき分布の世界
E_{n+1} = \beta_n E_n
-
ノイズが 掛け算
-
対数を取ると
\ln E_{n+1} = \ln E_n + \ln\beta_n -
$\ln E$ 空間で中央極限定理が働く
👉 log-normal → power-law
(おまけ) ブラックホールのX線強度変動は、log-normal 的であることが知られており、
ブラックホール近傍の強度変動の起源は、明るさの変動が 掛け算なプロセス
で起きてると考えられています。
B.3 生成過程(generative process)という視点
分布の違いは「結果」ではなく、
どの更新則でデータが生成されているか
の違いである。
| 更新規則 | 自然な分布 |
|---|---|
| 足し算 | 指数分布 |
| 掛け算 | べき分布 |
これは、
- SGD の更新
- multiplicative weight update
- 正規化・対数変換
などと同じ構造を持つ。
スケール不変性となぜ「特別な大きさ」が消えるのか
本文の「スケール不変」を、物理の言葉で最小限に補足する。
C.1 スケール変換
エネルギーに対して
E \to \lambda E
という変換を考える。
C.2 指数分布の場合
e^{-E/E_0} \to e^{-\lambda E/E_0}
- $E_0$ が基準として残る
- スケールが固定される
C.3 べき分布の場合
E^{-\alpha} \to (\lambda E)^{-\alpha}
= \lambda^{-\alpha} E^{-\alpha}
- 形は変わらない(定数倍のみ)
- 基準スケールが存在しない
C.4 基準スケールが存在しないことの解釈
(補足)繰り込み群(Renormalization Group; RG)とは何か
繰り込み群(RG)とは、
「観測するスケールを変えながら、物理量や分布の形がどう変わるか」
を調べるための考え方である。
具体的には、
- 微小な構造(ミクロな詳細)を平均化・粗視化し
- その結果として残る量や分布の変化を追う
という操作を繰り返す。
多くの場合、スケールを変えると分布の形は変化するが、
ある特別な場合には、
スケールを変えても、分布の形が変わらない
ことがある。
このような分布や状態を、RG の言葉で fixed point(不動点)
と呼ぶ。
「べき分布」は、まさにこの意味で、繰り込み群(RG)で言えば、
べき分布はスケール変換の fixed point
に対応する。
- ミクロな詳細を消しても形が変わらない
- 履歴を捨てた先に残る普遍的構造
C.5 宇宙物理への翻訳
宇宙線加速・無衝突プラズマでは、
- 温度
- 衝突長
- 平衡スケール
といった 基準量が存在しない、場合は、その結果として、
スケールを持たない過程の定常解としてべき分布が現れる
おまけ
ブラックホール連星のX線スペクトルは、ベキ的なエネルギースペクトルを示すこと(hard tail と呼ばれる)が知られているが、この起源はいまだに謎である。スケールがないから観測で制限が難しいとも言えるでしょう。