はじめに
X線連星やブラックホールのX線観測に興味ある人向けに、時空・粒子・プラズマ・降着円盤・観測量などについて解説してみました。
ブラックホールのX線観測で「まだわかってないこと」については下記を参照ください。
1. ブラックホール連星とは何か
観測しているのはブラックホールそのものではない
ブラックホールX線連星とは、ブラックホールと普通の恒星が互いの重力で結びついた連星系である。片方はブラックホールであり、もう片方は太陽のような通常の恒星、あるいはそれより重い大質量星である。伴星の表面や恒星風からガスが流れ出し、その一部がブラックホールの重力に捕まり、ブラックホールへ向かって落ち込んでいく。この落ち込むガスが高温になり、強いX線を出す。
ここで最初に、非常に大事なことを確認しておきたい。
私たちは、ブラックホールそのものを直接見ているわけではない。
ブラックホールの本質は、事象の地平面の存在である。事象の地平面とは、いったん内側に入ると光すら外へ出られない境界である。したがって、ブラックホールの「表面」が光って見えるわけではない。ブラックホールそのものは、少なくとも通常の意味では、外部へ光を放出しない。
では、なぜブラックホール連星はX線で明るいのか。それは、光っているのがブラックホールではなく、ブラックホールの周囲にある物質だからである。ブラックホールの近くでは、重力場が非常に強い。そこへガスが落ち込むと、重力エネルギーが熱や運動エネルギーに変わり、さらに放射へ変換される。結果として、降着円盤、高温コロナ、円盤風、ジェットなどが光る。
つまり、観測しているのは
ブラックホールそのもの
ではなく、
ブラックホールの強い重力場に置かれた物質と放射の応答
である。
この区別は、ブラックホール連星研究を理解する上で非常に重要である。たとえば、X線スペクトルに見える熱的成分は、ブラックホールの温度ではなく、降着円盤の温度を反映している。鉄輝線の広がりは、ブラックホールそのものの発光ではなく、ブラックホール近傍の円盤表面から出た光が、強重力場と高速回転の影響を受けた結果である。QPO と呼ばれる準周期的な時間変動も、ブラックホールが振動しているというより、ブラックホール近傍の降着流や放射領域が特徴的な時間スケールで変動していると考える方が自然である。
このため、ブラックホールX線連星を理解するには、単に「ブラックホールとは何か」を知るだけでは不十分である。必要なのは、次のような階層を順番に理解することである。
一般相対論
↓
ブラックホール時空
↓
連星軌道
↓
降着するガスの流体力学
↓
プラズマと磁場
↓
放射過程
↓
望遠鏡と検出器の応答
↓
観測データ
私たちが最終的に手にするのは、検出器に記録された光子の情報である。そこから、ブラックホールの質量、スピン、円盤内縁半径、降着率、風の速度、ジェットのパワーなどを推定する。その推論の途中には、必ず物理モデルと近似が入る。
したがって、ブラックホールX線連星研究とは、直接見えない強重力時空を、その周囲のプラズマと放射の応答を通じて読み解く学問である、と言える。
2. 一般相対論の最小限
アインシュタイン方程式、時空、測地線
ブラックホールを理解するための基礎理論は一般相対論である。一般相対論を学ぶとき、多くの人はまず「重力は力ではなく、時空の曲がりである」という説明を聞く。しかし、この言葉だけでは、ブラックホール連星の観測とどうつながるのかは分かりにくい。ここでは、一般相対論の細部に立ち入るのではなく、ブラックホール近傍のガスや光の運動を理解するために、最低限どのような考え方が必要になるのかを整理する。
ニュートン力学では、重力は質量と質量の間に働く力として書かれる。質量 $M$ の天体の周りに質量 $m$ の物体があり、両者の距離が $r$ であるとき、両者の間に働く重力の大きさは
F = \frac{GMm}{r^2}
である。ここで、$F$ は重力の大きさ、$G$ は万有引力定数、$M$ と $m$ はそれぞれ二つの物体の質量、$r$ は二つの物体の間の距離である。この式は非常に強力である。実際、連星軌道や外側の降着円盤の運動を考えるときには、ニュートン力学的な見方でも多くのことが分かる。軌道周期と距離の関係、ケプラー運動、連星質量関数などは、まずニュートン力学から理解できる。
しかし、ブラックホール近傍では、重力場が非常に強くなる。そこでは、光の進路が曲がるだけでなく、時間の進み方も場所によって変わる。ブラックホールに近い場所ほど、遠方の観測者から見ると時間の進み方が遅くなり、そこから出た光は重力赤方偏移を受ける。このような現象は、重力を単なる力として扱うニュートン力学だけでは正しく記述できない。
一般相対論では、重力は時空の幾何として表される。ここでいう「時空」とは、三次元空間に時間を加えた四次元の舞台である。物体の位置は、たとえば
x^\mu = (ct, x, y, z)
のように表される。ここで $t$ は時刻、$x,y,z$ は空間座標、$c$ は光速である。上付きの添字 $\mu$ は、時間成分と三つの空間成分をまとめて表すための記号であり、典型的には $\mu=0,1,2,3$ を走る。つまり、$x^\mu$ は「四次元時空の中の位置」を表す量である。
このように、一般相対論では多くの量が添字を持つ。たとえば、時空の距離の測り方は計量テンソル $g_{\mu\nu}$ で表される。これは、平らな空間でいう「ものさし」に相当する量である。ただし、一般相対論では、このものさし自体が場所によって変わる。つまり、同じ座標差であっても、時空の曲がり方によって、実際の距離や時間間隔の意味が変わる。
物質とエネルギーが時空を曲げ、その曲がった時空の中を物体や光が進む。この関係を表す基本方程式が、アインシュタイン方程式である。
G_{\mu\nu}
+
\Lambda g_{\mu\nu}
=
\frac{8\pi G}{c^4}
T_{\mu\nu}
この式は、「ジー・ミュー・ニュー、プラス、ラムダ、ジー・ミュー・ニュー、イコール、ハチパイ・ジー・オーバー・シーの四乗、ティー・ミュー・ニュー」と読む。ここで $G_{\mu\nu}$ はアインシュタインテンソルと呼ばれ、時空の曲がり方を表す量である。$g_{\mu\nu}$ は計量テンソル、$\Lambda$ は宇宙項、$T_{\mu\nu}$ はエネルギー運動量テンソルである。$T_{\mu\nu}$ は、物質や放射がどこにどれだけ存在し、どの方向にどれだけ運動量や圧力を持っているかを表す。
添字が二つ付いているのは、この式が一つの数の等式ではなく、時空の各方向同士の関係をまとめた式だからである。$\mu$ と $\nu$ はそれぞれ $0,1,2,3$ の値をとるので、見かけ上は $4\times4$ 個の成分を持つ式である。つまり、アインシュタイン方程式は単に「重力の強さ」を一つの数で与える式ではなく、時間方向と空間方向を含む時空全体の幾何を決める方程式である。
この式の左辺は時空の幾何を表し、右辺は物質やエネルギーの分布を表している。したがって、アインシュタイン方程式の心は、次のように言える。
物質とエネルギーが、時空の曲がり方を決める。
曲がった時空が、物質と光の進み方を決める。
この方程式は難しいので、解けなくても大丈夫です(すぐに解けない。例えば、球対称時空の解を初めに導いたのはアインシュタイン自身ではなく、シュワルツシルトさん。)。ブラックホール連星の観測を理解する上では、まず次のような流れを押さえるとよい。
アインシュタイン方程式
→ ブラックホールの周囲の時空を決める
→ その時空の中でガスや光がどう運動するかを決める
→ その結果として、観測されるスペクトルや時間変動が変わる
曲がった時空の中で、外力を受けない粒子や光は測地線を進む。測地線とは、曲がった時空における「まっすぐな道」である。平らな空間では、外力を受けない物体は直線運動をする。しかし、時空そのものが曲がっている場合には、「まっすぐ進む」とは、曲がった時空の幾何に従って進むことを意味する。その運動を表すのが測地線方程式である。
\frac{d^2 x^\mu}{d\lambda^2}
+
\Gamma^\mu_{\alpha\beta}
\frac{d x^\alpha}{d\lambda}
\frac{d x^\beta}{d\lambda}
=
0
この式は、「ラムダで二階微分した $x^\mu$ に、クリストッフェル記号と速度成分の積を足すとゼロになる」と読むとよい。ここで $x^\mu$ は粒子や光の時空内での位置、$\lambda$ はその軌道に沿って位置をたどるためのパラメータである。通常の粒子では固有時に対応する量を使うことが多く、光の場合には光の経路に沿った別のパラメータを用いる。$\Gamma^\mu_{\alpha\beta}$ はクリストッフェル記号と呼ばれ、計量テンソル $g_{\mu\nu}$ から決まる量である。大雑把に言えば、時空のものさしが場所によってどのように変化しているかを表している。
ここで、同じ添字が上下に一度ずつ現れた場合には、その添字について和を取る、という約束を使う。これをアインシュタインの縮約記法という。したがって、上の式では $\alpha$ と $\beta$ について、$0,1,2,3$ の全成分を足し合わせている。この記法のおかげで、四次元時空における複雑な運動方程式を、非常に短い形で書くことができる。
測地線方程式から、ブラックホール近傍で光が曲がること、円盤から出た光が重力赤方偏移を受けること、また安定な円軌道がある半径より内側では存在しなくなることなどが理解される。ブラックホールの周りの降着円盤を考えるとき、内側の円盤がどこまで存在できるか、そこから出た光がどのように観測者に届くか、スペクトル線がどのように広がって見えるかは、まさにこの時空の幾何と測地線の問題に深く関係している。
ただし、ここで注意が必要である。アインシュタイン方程式や測地線方程式は、X線スペクトルを直接与えるわけではない。X線を出すのは、時空そのものではなく、その中を動く高温プラズマである。したがって、ブラックホール連星の観測を理解するには、一般相対論の上に、流体力学、磁場、放射輸送、原子物理を重ねていく必要がある。
一般相対論は、ブラックホール連星を理解するための「舞台」を与える理論である。その舞台の上で、プラズマが流れ、磁場がエネルギーを運び、原子が光を吸収・放出し、その光が曲がった時空を通って観測者に届く。ブラックホール連星のX線観測とは、この一連の過程を、スペクトルと時間変動を通して読み解く試みである。
ブラックホール連星のX線観測は、物質に囲まれた現実のブラックホール時空を、光、プラズマ、磁場の応答を通して読み解く試みであり、その先には、強重力場の一般相対論、さらにはブラックホール蒸発を含む重力と量子論の接点を理解するという大きな目標がある。
3. コンパクト天体の構造
白色矮星、中性子星、TOV 方程式、ブラックホール形成
ブラックホールを理解するには、まず「星はどのように重力に耐えているのか」を考える必要がある。星は自分自身の重力によって縮もうとする。一方で、内部の圧力がそれを支えている。星の構造とは、基本的にはこの内向きの重力と外向きの圧力のつり合いの問題である。
太陽のような通常の恒星では、中心部で核融合が起こり、そのエネルギーによって高温のガス圧が保たれている。高温のガスは外向きの圧力を持ち、重力による収縮に抗う。これは、星が長い時間安定に輝く基本的な理由である。
しかし、核燃料を使い果たすと、熱圧だけでは重力を支えられなくなる。そこで重要になるのが、量子力学的な圧力である。白色矮星では、電子の縮退圧が星を支える。中性子星では、中性子の縮退圧に加えて、核力や高密度核物質の性質が重要になる。
ここで、電子と陽子の違いを確認しておくとよい。電子は非常に軽い粒子であり、陽子の質量は電子の約1836倍である。
\frac{m_p}{m_e} \simeq 1836
ここで $m_p$ は陽子の質量、$m_e$ は電子の質量である。この質量差は、天体物理では非常に重要である。温度が同じであれば、軽い電子の方が速く動く。プラズマ中で電磁波や熱伝導に敏感に応答するのも、主に軽い電子である。一方、質量の大部分は陽子や原子核が担っている。そのため、重力的な質量は主にイオンが担い、放射や電磁的応答には電子が大きく関わる。
白色矮星では、電子の量子力学的な縮退圧が重力を支える。しかし、質量が大きくなると電子縮退圧では支えきれなくなる。白色矮星には最大質量があり、これはチャンドラセカール限界と呼ばれる。その値はおおよそ
M_{\rm Ch} \simeq 1.4 M_\odot
である。ここで $M_\odot$ は太陽質量である。白色矮星がこの限界を超えると、電子縮退圧だけでは重力に耐えられず、さらに高密度な状態へ進む。
より重い天体では、中性子星が形成される。中性子星では、密度が原子核密度に近くなり、単純な理想気体や電子縮退圧だけでは構造を決められない。中性子の縮退圧、核力、場合によってはハイペロンやクォーク物質などの可能性も関係しうる。そのため、中性子星の構造を決めるには、高密度物質の状態方程式が本質的に重要になる。
一般相対論の枠組みで、球対称・静的なコンパクト星の構造を記述する式が、TOV 方程式である。TOV は Tolman--Oppenheimer--Volkoff の略であり、強い重力場の中で、圧力勾配がどのように重力を支えるかを表す式である。
\frac{dP}{dr}
=
-
\frac{G
\left[
\rho(r) + P(r)/c^2
\right]
\left[
m(r) + 4\pi r^3 P(r)/c^2
\right]
}
{
r^2
\left[
1 - 2Gm(r)/(rc^2)
\right]
}
また、半径 $r$ の内側に含まれる質量 $m(r)$ は
\frac{dm}{dr}
=
4\pi r^2 \rho(r)
で与えられる。
ここで、$P(r)$ は半径 $r$ における圧力、$\rho(r)$ は質量密度、$m(r)$ は半径 $r$ の内側に含まれる質量、$G$ は万有引力定数、$c$ は光速である。$dP/dr$ は、半径方向に圧力がどのように変化するかを表す。普通の星では、中心ほど圧力が高く、外側に行くほど圧力は低くなるので、$dP/dr$ は負になる。
この式は、ニュートン的な静水圧平衡
\frac{dP}{dr}
=
-
\frac{Gm(r)\rho(r)}{r^2}
の一般相対論版である。ニュートン力学では、重力を作る主な源は質量密度である。しかし一般相対論では、エネルギーだけでなく、圧力も時空を曲げる。TOV 方程式の中に
\rho(r) + \frac{P(r)}{c^2}
や
m(r) + \frac{4\pi r^3 P(r)}{c^2}
が現れるのはそのためである。これは、非常に高密度な天体では、圧力が単に重力に対抗するだけでなく、それ自身も重力源として働くことを意味している。
もう一つ重要なのは、式の分母に
1-\frac{2Gm(r)}{rc^2}
が現れることである。この形は、半径 $r$ がその内側の質量 $m(r)$ に対応するシュワルツシルト半径
r_s = \frac{2Gm(r)}{c^2}
に近づくと、一般相対論的効果が非常に強くなることを示している。つまり、コンパクト星では、単に「密度が高い」だけでなく、「時空の曲がりそのものが星の構造に強く影響する」のである。
TOV 方程式を解くためには、状態方程式
P=P(\rho)
が必要である。これは、密度 $\rho$ が与えられたときに圧力 $P$ がどのように決まるかを表す関係である。白色矮星では電子縮退圧から比較的よく分かるが、中性子星では原子核密度を超える物質の性質が関わるため、状態方程式には不定性が残っている。そのため、中性子星の最大質量は、現在でも高密度物理と天体観測を結ぶ重要な研究課題である。
ここで重要なのは、TOV 方程式から中性子星の最大質量が決まる、という点である。ある状態方程式を仮定し、中心密度を変えながら TOV 方程式を解くと、中性子星として安定に存在できる質量と半径の系列が得られる。しかし、質量を増やしていくと、あるところで安定な解が存在しなくなる。この最大質量を TOV 限界と呼ぶ。
TOV 限界の値は、仮定する状態方程式によって変わる。しかし、通常の中性子星として考えられる最大質量は、おおよそ太陽質量の数倍程度であり、典型的には $2M_\odot$ から $3M_\odot$ 程度が重要な目安になる。したがって、観測されたコンパクト天体の質量が
M \gtrsim 3M_\odot
である場合、それを通常の中性子星として支えることは非常に難しい。このため、3太陽質量程度を大きく超えるコンパクト天体は、ブラックホール候補と考えられる。これは単なる経験則ではなく、一般相対論的な静水圧平衡、すなわち TOV 方程式と高密度物質の状態方程式から来る考え方である。
ただし、この「3太陽質量」という値は、厳密な自然定数ではない。チャンドラセカール限界のように比較的明確な値として決まるものではなく、高密度核物質の状態方程式に依存する。したがって、より正確には、
中性子星として支えられる最大質量には上限があり、
その上限を明らかに超えるコンパクト天体はブラックホールと考えられる。
という理解が大切である。
一方、ブラックホールは、圧力で支えられた物質天体ではない。少なくとも外部から見る限り、ブラックホールは「物質の表面を持つ星」というより、「事象の地平面を持つ時空構造」である。TOV 方程式はブラックホール内部を記述するための式ではない。むしろ、
物質が重力に抗して、星として静水圧平衡を保てるかどうかを調べる式
である。
もし、どのような状態方程式を仮定しても、ある質量以上で安定な静水圧平衡が存在しないなら、その先には重力崩壊とブラックホール形成がある。白色矮星にはチャンドラセカール限界があり、中性子星には TOV 限界がある。そして、それらの限界を超えてなお重力を支えられない場合、星はもはや「物質の圧力で支えられた天体」ではなくなり、ブラックホールという時空構造へと移行する。
この意味で、ブラックホールは単に「とても重い星」ではない。ブラックホールとは、物質が作る圧力では重力を支えきれなくなった先に現れる、一般相対論的な時空の状態である。ブラックホール連星で観測される数太陽質量以上の暗いコンパクト天体がブラックホール候補と呼ばれる背景には、この TOV 方程式による中性子星最大質量の考え方がある。
4. ブラックホール時空
Schwarzschild、Kerr、事象の地平面、ISCO
ブラックホールの外側の時空を記述する最も基本的な解は、シュワルツシルト解である。これは、球対称で、回転せず、電荷を持たない質量 $M$ が作る真空時空である。
ds^2
=
-
\left(
1-\frac{2GM}{rc^2}
\right)c^2dt^2
+
\left(
1-\frac{2GM}{rc^2}
\right)^{-1}dr^2
+
r^2d\Omega^2
ここで $ds^2$ は時空の間隔を表す量である。$t$ は時間、$r$ は中心からの半径、$G$ は万有引力定数、$c$ は光速、$M$ は中心天体の質量である。また、$d\Omega^2$ は角度方向の成分をまとめた記号であり、球座標では
d\Omega^2 = d\theta^2 + \sin^2\theta \, d\phi^2
と書ける。つまり、シュワルツシルト解は、時間方向、半径方向、角度方向の距離の測り方が、重力によってどのように変わるかを表している。
この式でまず注目すべきなのは、係数の中に
1-\frac{2GM}{rc^2}
が現れていることである。この中に出てくる
r_s=\frac{2GM}{c^2}
をシュワルツシルト半径という。ここで $r_s$ は「アール・エス」と読み、質量 $M$ に対応するブラックホールの事象の地平面の半径を表す。事象の地平面とは、その内側からは光でさえ外へ戻れなくなる境界である。
シュワルツシルト半径は、質量をブラックホールの大きさに換算する式でもある。太陽質量を $M_\odot$ とすると、
r_s
=
\frac{2GM}{c^2}
\simeq
2.95\,{\rm km}
\left(
\frac{M}{M_\odot}
\right)
である。つまり、1太陽質量のブラックホールがあれば、そのシュワルツシルト半径は約3 kmである。10太陽質量のブラックホールなら約30 km、100太陽質量なら約300 kmになる。ブラックホールの特徴的な半径は質量に比例して大きくなる。
この「1太陽質量で約3 km」という数字は非常に重要である。太陽そのものの半径は約70万 kmであるが、同じ質量を半径約3 km以内に押し込めると、事象の地平面が形成される。したがって、ブラックホールとは単に「質量が大きい天体」ではなく、質量が極端に小さな半径の中に集中し、光さえ脱出できない時空構造を作ったものである。
シュワルツシルト解の式に戻ると、半径 $r$ がシュワルツシルト半径 $r_s=2GM/c^2$ に近づくと、
1-\frac{2GM}{rc^2}
\to 0
となる。このため、時間成分や半径方向の成分の振る舞いが遠方とは大きく変わる。遠方の観測者から見ると、事象の地平面に近づく物体の時間は遅れて見え、そこから出る光は重力赤方偏移を受ける。
ただし、シュワルツシルト座標で係数が特異に見えることは、必ずしもそこで物理量が無限大になることを意味しない。$r=r_s$ は座標の取り方に由来する特別な面であり、物理的には事象の地平面に対応する。一方、$r=0$ は真の特異点であり、古典的な一般相対論では曲率が発散する場所である。
ブラックホールの外側では、物質がなくても時空は曲がっている。つまり、ブラックホール外部の重力場は、中心にある質量によって決まる真空解である。この意味で、ブラックホールは通常の星とはかなり異なる。通常の星では、内部の密度や圧力分布が重要である。しかしブラックホールの外部時空は、理想化すれば質量、角運動量、電荷によって特徴づけられる。
実際の天体ブラックホールは、多くの場合、回転していると考えられる。回転するブラックホールを記述するのが Kerr 解である。Kerr ブラックホールは、質量 $M$ と角運動量 $J$ を持つ。無次元スピンは
a_\ast=\frac{cJ}{GM^2}
で定義される。ここで $J$ はブラックホールの角運動量である。$a_\ast$ は「エー・スター」または「無次元スピン」と呼ばれ、ブラックホールがどれくらい速く回転しているかを表す量である。おおまかには、$a_\ast=0$ が非回転ブラックホール、$a_\ast$ が 1 に近いほど高速回転するブラックホールを表す。
回転するブラックホールでは、時空そのものが回転方向に引きずられる。これをフレームドラッギングという。これは、単に物体が回っているというだけでなく、時空の幾何そのものが角運動量を持つ、という一般相対論的な現象である。
回転は、最内安定円軌道、すなわち ISCO の位置も変える。ISCO は innermost stable circular orbit の略であり("イスコ"と呼ぶ)、「安定な円軌道が存在できる最も内側の半径」を意味する。非回転ブラックホール、すなわちシュワルツシルトブラックホールでは、
R_{\rm ISCO}=6\frac{GM}{c^2}
である。ここで
\frac{GM}{c^2}
は重力半径と呼ばれる長さの単位であり、シュワルツシルト半径の半分である。
r_s = 2\frac{GM}{c^2}
したがって、非回転ブラックホールでは
R_{\rm ISCO}=3r_s
となる。1太陽質量あたりでは、$r_s \simeq 3,{\rm km}$ なので、
R_{\rm ISCO}
\simeq
9\,{\rm km}
\left(
\frac{M}{M_\odot}
\right)
である。つまり、10太陽質量の非回転ブラックホールなら、シュワルツシルト半径は約30 km、ISCO は約90 kmになる。
順行回転する Kerr ブラックホールでは、ISCO はより内側へ移動する。すると、降着円盤はより深い重力ポテンシャルまで入り込めるため、より高温になり、より効率よくエネルギーを放射できる。一方、逆行軌道では ISCO は外側へ移動する。つまり、ISCO の位置はブラックホールのスピンと円盤の回転方向に強く依存する。
このため、ISCO はブラックホールX線連星の観測解釈において極めて重要である。円盤の内縁が ISCO に一致すると仮定すれば、円盤スペクトルや反射スペクトルからブラックホールスピンを推定できる。たとえば、円盤がどこまで内側に伸びているか、鉄輝線がどれくらい重力赤方偏移や相対論的ドップラー効果で広がっているかは、ブラックホール近傍の時空構造を反映している。
しかし、ここに大きな注意点がある。私たちは ISCO を直接見ているわけではない。観測しているのは、円盤から来る光である。そこから円盤内縁半径を推定し、その内縁半径が ISCO に等しいと仮定して、スピンを推定している。
つまり、
一般相対論は ISCO の位置を与える。
観測は円盤からの放射を与える。
ISCO と観測をつなぐのは、降着円盤モデルである。
この「間にモデルが入る」という点を理解することが、ブラックホール観測を正しく読むために非常に重要である。
ブラックホール時空の基本的なスケールは、まず
r_s
\simeq
3\,{\rm km}
\left(
\frac{M}{M_\odot}
\right)
という非常に簡単な式でつかめる。この数 km から数十 km 程度の時空の近傍で、ガスが高速で回転し、光が曲げられ、時間が遅れ、スペクトル線が広がる。ブラックホールX線連星の観測とは、この小さく強い重力場の情報を、遠く離れた場所に届くX線から読み解く試みである。
5. 連星軌道と質量測定
質量関数、視線速度、傾斜角
ブラックホールの存在を示す最も基本的な方法は、X線スペクトルの形だけを見ることではない。むしろ、連星系の中で「見える星」がどのように運動しているかを測り、そこから「見えない相手」の質量を推定することが重要である。
ここでまず意識すべきことは、ドップラー効果を測っている光を、誰が出しているのかである。ブラックホール自身は光を出さない。X線連星で明るく見えているX線の多くは、ブラックホール近傍の降着円盤やコロナから来る。一方、連星軌道の質量測定で古典的に使われるのは、多くの場合、伴星から来る可視光または赤外線のスペクトルである。
連星系では、ブラックホールと伴星は互いの共通重心の周りを回っている。伴星の可視光・赤外線スペクトルを観測すると、伴星大気に由来する吸収線が周期的に赤方偏移したり青方偏移したりすることがある。これは、伴星が私たちから遠ざかったり近づいたりしているためである。この吸収線(または輝線が出ることもある)の周期的なドップラー変化から、伴星の視線速度曲線を得ることができる。
したがって、古典的な質量測定で見ているのは、基本的には次の流れである。
伴星が出している可視光・赤外線の吸収線・輝
→ 伴星の軌道運動
→ 見えないコンパクト天体の質量
視線速度変化から、軌道周期 $P$ と速度半振幅 $K_2$ が得られる。ここで添字の 2 は、通常、伴星を表す。つまり $K_2$ は、ブラックホールの速度ではなく、伴星の視線速度の振幅である。
円軌道を仮定すると、伴星の速度半振幅は
K_2
=
\frac{2\pi a_2 \sin i}{P}
と書ける。ここで $a_2$ は伴星が共通重心の周りを回る軌道半径、$i$ は軌道傾斜角、$P$ は軌道周期である。$i=90^\circ$ は軌道面をほぼ真横から見ている場合、$i=0^\circ$ は軌道を正面から見ている場合に対応する。視線速度として観測できるのは軌道速度そのものではなく、私たちの視線方向に射影された成分なので、$\sin i$ が現れる。
この視線速度から、質量関数
f(M)
=
\frac{P K_2^3}{2\pi G}
=
\frac{M_{\rm BH}\sin^3 i}{(1+q)^2}
が得られる。ここで、$M_{\rm BH}$ はブラックホールの質量、$G$ は万有引力定数、$q=M_2/M_{\rm BH}$ は質量比、$M_2$ は伴星の質量である。
この式は、少し不思議に見えるかもしれない。左辺は観測量 $P$ と $K_2$ だけから計算できる量である。一方、右辺には本当に知りたいブラックホール質量 $M_{\rm BH}$、軌道傾斜角 $i$、質量比 $q$ が含まれている。つまり、質量関数とは、観測された伴星の運動を、見えないコンパクト天体の質量に結びつけるための量である。
この式が非常に強い理由は、観測できる $P$ と $K_2$ だけから、見えない天体の質量下限が得られることである。なぜなら、
\sin i \leq 1,
\qquad
(1+q)^2>1
なので、
M_{\rm BH}>f(M)
となるからである。つまり、傾斜角や伴星質量が完全には分からなくても、質量関数そのものが見えない天体の最小質量を与える。(つまり、質量関数は質量の絶対値ではなく下限値を与える。)
これは、ブラックホール連星研究において非常に大切な点である。ブラックホールらしいX線スペクトルが見えるからブラックホールだ、というわけではない。見えない天体の質量が、中性子星として支えられる最大質量を十分に超えていることが、ブラックホール同定の強い根拠になる。たとえば、質量関数だけで数太陽質量を超えていれば、その見えない天体を通常の中性子星として解釈することは難しくなる。
ただし、ここで注意すべきことがある。視線速度を測るには、どの場所から出た線を使っているのかを明確にしなければならない。質量関数に必要なのは、伴星の重心運動を表す速度振幅 $K_2$ である。しかし、観測されるスペクトル線が必ずしも伴星全体から一様に出ているとは限らない。
X線連星では、コンパクト天体の近くから強いX線が出ており、そのX線が伴星の片側を照射する。すると、伴星のうちコンパクト天体に面した側だけで、吸収線が弱くなったり、蛍光線や再放射の輝線が強くなったりする。この場合、観測している光は伴星の中心からではなく、伴星表面の一部から主に出ていることになる。
そのため、測定された視線速度の振幅は、伴星重心の真の速度振幅 $K_2$ と少しずれることがある。このずれを補正する考え方が、しばしば $K$ 補正と呼ばれる。
この違いは小さな技術的問題に見えるかもしれないが、質量関数では速度振幅が三乗で効く。
f(M)
=
\frac{P K_2^3}{2\pi G}
したがって、$K_2$ を少し間違えるだけでも、質量関数の推定に無視できない影響が出る。ブラックホール質量を議論するときには、「どの波長の光を見ているか」だけでなく、「その光を出している場所が伴星の重心運動を正しく代表しているか」を確認する必要がある。
通常の質量関数測定では、伴星の可視光・赤外線スペクトルから視線速度曲線を求める。一方で、XRISM衛星のような高分解能X線分光によって、伴星表面で生じた狭い Fe K$\alpha$ 蛍光線のドップラー変化からも、質量関数を制限できる可能性がある。例えば、X線照射された伴星表面からの狭い Fe K$\alpha$ 線を分離できれば、可視光測定が難しい天体でも質量関数を測れる可能性がある。
この場合に測っているのは、次のような流れである。
中心のX線源からの光
→ 伴星表面を照射
→ 伴星表面で Fe Kα 蛍光X線が出る
→ そのX線輝線のドップラー変化を測る
→ 伴星の軌道運動を推定する
これは可視光・赤外線が使いにくい、強く隠されたX線連星では有望な方法になりうる。特に、可視光では伴星が暗い、星間吸収が強い、あるいは降着円盤の光が支配的で伴星の吸収線が見えにくい場合には、X線の高分解能分光が新しい手段になる可能性がある。
しかし、X線で視線速度を測る場合には、線の起源を特定することがさらに重要になる。Fe K$\alpha$ 線には、内側降着円盤から来る幅広い成分、伴星表面から来る狭い成分、恒星風や円盤外縁から来る成分が混ざる可能性がある。内側降着円盤から出た線であれば、測っているのはブラックホール近傍の高速運動や相対論的効果であり、伴星の重心運動ではない。恒星風から出た線であれば、測っているのは風の運動を含んだ速度であり、これも単純な伴星軌道速度ではない。
したがって、X線の線を使う場合には、次の点を常に確認する必要がある。
その線は伴星表面から出ているのか。
降着円盤から出ているのか。
円盤風や恒星風から出ているのか。
線の中心エネルギー変化は、軌道運動によるドップラー変化なのか。
電離状態や線プロファイルの変化ではないのか。
伴星由来の狭い Fe K$\alpha$ 線を使う方法には、内側円盤由来の広い成分から狭い線を分離できるか、恒星風や円盤構造による複雑な速度成分をどう扱うか、という caveat があると述べられている。また、期待される Fe K$\alpha$ 線の等価幅や、XRISM のようなマイクロカロリメータで達成しうる速度精度をシミュレーションし、十分な軌道位相のカバーがあれば視線速度曲線を作れる可能性を検討している。
このように、質量関数はブラックホール同定において比較的直接性の高い観測量である。なぜなら、それは強重力場の複雑な放射モデルそのものではなく、連星の軌道力学に基づいているからである。ただし、その直接性は、「測っているスペクトル線が、どの天体成分の運動を表しているか」を正しく理解して初めて成り立つ。
まとめると、連星軌道からの質量測定では、
何の光を見ているのか。
その光はどこで作られたのか。
その場所の運動は、伴星重心の運動を表しているのか。
を常に意識する必要がある。古典的な可視光・赤外線の伴星吸収線は、伴星の軌道運動を測る最も基本的な方法である。一方、高分解能X線分光による Fe K$\alpha$ 蛍光線の視線速度測定は、可視光では難しい系に対して新しい質量測定の道を開く可能性がある。ただしその場合には、線の起源を誤らないことが、質量関数を正しく読むための鍵になる。
6. 降着円盤の保存則
質量保存、角運動量保存、エネルギー保存
ブラックホール連星がX線で明るい理由は、伴星から流れ込んだガスがブラックホールへ向かって落ちる過程で、重力エネルギーを解放するからである。この流れを理解するには、まず流体の保存則から出発する必要がある。
質量保存は、
\frac{\partial \rho}{\partial t}
+
\nabla\cdot(\rho\mathbf{v})
=
0
である。これは、ある場所の密度が変化するなら、それは物質が流れ込んだか、流れ出したかによる、という式である。
運動量保存は、ニュートン近似では概念的に
\rho
\left(
\frac{\partial \mathbf{v}}{\partial t}
+
\mathbf{v}\cdot\nabla\mathbf{v}
\right)
=
-\nabla P
-\rho\nabla\Phi
+
\mathbf{F}_{\rm visc}
+
\mathbf{F}_{\rm mag}
+
\mathbf{F}_{\rm rad}
のように書ける。ここで、圧力勾配、重力、粘性、磁場、放射力がガスの運動に関わる。
大事なのは、ガスは単に「重力に引かれて落ちる」のではないということである。伴星から流れ込むガスは角運動量を持っている。角運動量を持つ物体は、中心へまっすぐ落ちるのではなく、回転しながら運動する。そのため、ガスはブラックホールの周囲に円盤を作る。
ガスが内側へ落ちるには、角運動量を失わなければならない。角運動量は外側へ運ばれ、質量は内側へ流れる。この交換がなければ、降着は進まない。
したがって、降着円盤の本質は、
質量は内側へ流れ、角運動量は外側へ運ばれる。
である。エネルギー保存も重要である。ガスがブラックホールへ近づくと、重力エネルギーが解放される。そのエネルギーは、ガスを加熱したり、放射として出たり、磁場やジェットに運ばれたりする。
概念的には、
重力エネルギー
→ 熱エネルギー
→ 放射
→ あるいは移流・風・ジェット
という変換が起こる。
ここで、ブラックホール連星が「宇宙の発電機」のように見える理由が分かる。ブラックホールそのものがエネルギーを作っているのではなく、重力によって落ち込む物質が、その位置エネルギーを別の形に変換しているのである。
7. 標準降着円盤
ハード、ソフト、硬い、軟かい、という謎のジャーゴンについての注意点だけ先に。
宇宙X線天文学で用いられる「ハード(hard,硬)」や「ソフト(soft, 軟)」という言葉は、物質の硬さや柔らかさを意味するのではなく、スペクトル中でどのエネルギー帯のX線が優勢かを表す経験的な表現である。一般に、高エネルギー側(数十 keV など)の光子が相対的に多いスペクトルを「ハード」、低エネルギー側(1 keV 付近など)の光子が多いスペクトルを「ソフト」と呼ぶ。これは歴史的には、高エネルギーX線ほど物質を透過しやすく「硬い X 線(hard X-ray)」と呼ばれたことに由来している。数学的には、例えばべき乗スペクトル $N(E)\propto E^{-\Gamma}$ において、指数 $\Gamma$ が小さいほど高エネルギー成分が減衰しにくく「ハード」、大きいほど低エネルギー優勢となり「ソフト」と呼ばれる。したがって、hard/soft は絶対的な分類ではなく、「スペクトルがどちら側のエネルギーに重みを持つか」を相対的に表現した言葉である。分かりにくいが、よく使われる。
α 粘性、温度分布、熱的スペクトル、熱平衡
ブラックホールX線連星のソフト状態を理解するうえで、標準降着円盤は最も基本的なモデルである。これは、円盤が幾何学的に薄く、光学的に厚く、各半径でほぼ熱平衡にあると仮定するモデルである。
まず「幾何学的に薄い」とは、円盤の厚み $H$ が半径 $R$ に比べて十分小さいという意味である。
\frac{H}{R}\ll 1
このとき、円盤は薄い板のように近似できる。もちろん実際の円盤には厚みがあり、磁場も乱流もある。しかし、大局的なスペクトルを考えるときには、まず半径方向の構造に注目することができる。
円盤の厚みは、鉛直方向の重力と圧力の釣り合いから見積もることができる。
H\sim\frac{c_s}{\Omega_K}
ここで、$c_s$ は音速、$\Omega_K$ はケプラー角速度である。
\Omega_K=\sqrt{\frac{GM}{R^3}}
したがって、
\frac{H}{R}\sim\frac{c_s}{v_K}
となる。音速が軌道速度より十分小さい場合、円盤は薄くなる。
次に「光学的に厚い」とは、光子が円盤内部で何度も吸収・散乱されてから外へ出てくるという意味である。光学的に厚い物質では、内部の放射場は局所的に熱平衡に近づき、黒体放射に近いスペクトルを出す。
ここで「熱平衡」という言葉も説明しておく必要がある。熱平衡とは、粒子同士の衝突や放射との相互作用が十分に起こり、温度という一つの量で系のエネルギー分布を表せる状態である。完全な熱平衡では、粒子の速度分布は Maxwell 分布になり、放射は黒体放射になる。
ただし、天体プラズマでは完全な熱平衡でない場合も多い。特にブラックホール近傍の高温・低密度プラズマでは、電子とイオンが同じ温度を持たないことがある。これが二温度プラズマの話につながる。
標準降着円盤では、各半径で解放されたエネルギーがその場で放射されると仮定する。このとき、円盤表面から出る放射フラックスは
F(R)
=
\frac{3GM\dot{M}}{8\pi R^3}
\left[
1-
\left(
\frac{R_{\rm in}}{R}
\right)^{1/2}
\right]
である。これを黒体放射
F(R)=\sigma T_{\rm eff}^4(R)
と結びつけると、
T_{\rm eff}(R)
=
\left\{
\frac{3GM\dot{M}}{8\pi\sigma R^3}
\left[
1-
\left(
\frac{R_{\rm in}}{R}
\right)^{1/2}
\right]
\right\}^{1/4}
となる。
この式は、非常に大事である。なぜなら、ブラックホール質量、降着率、円盤内縁半径が、観測されるX線スペクトルの温度に結びつくからである。
しかし、ここで得られる温度は「有効温度」である。実際の円盤大気では、電子散乱や吸収過程によって、観測される色温度は有効温度より高く見えることがある。そのため、スペクトルフィットでは色補正係数が必要になる。
したがって、標準薄円盤の近似の心は次のように言える。
複雑な三次元磁気流体をすべて解く代わりに、
薄く、光学的に厚く、局所熱平衡に近い円盤として扱い、
半径ごとの温度分布から熱的スペクトルを理解する。
8. ハード状態とコロナ
逆コンプトン散乱、光学的厚さ、電子温度、二温度プラズマ
ブラックホールX線連星には、標準薄円盤だけでは説明できない状態がある。特にハード状態では、スペクトルは柔らかい熱的成分ではなく、硬いX線のべき型成分が支配的になる。
この硬いX線は、高温電子による逆コンプトン散乱で作られると考えられている。
コンプトン散乱とは、光子が電子に散乱される過程である。通常のコンプトン散乱では、高エネルギー光子が電子にエネルギーを渡して低エネルギー側へ移る。一方、逆コンプトン散乱では、熱い電子が低エネルギー光子にエネルギーを与え、光子を高エネルギー側へ押し上げる。
この過程の強さは、Compton $y$ パラメータで概略的に表される。
y
\sim
\frac{4kT_e}{m_e c^2}
\max(\tau,\tau^2)
ここで、$T_e$ は電子温度、$\tau$ は電子散乱の光学的厚さである。
この式には、二つの要素が含まれている。
一つ目は、電子がどれくらい熱いかである。電子温度が高いほど、一回の散乱で光子が得るエネルギーは大きい。
二つ目は、光子が何回くらい散乱されるかである。光学的厚さが小さければ、光子はあまり散乱されずに外へ出る。光学的厚さが大きければ、光子は何度も散乱される。
ここで「光学的厚さ」という言葉も説明しておきたい。光学的厚さ $\tau$ は、光子が媒質中を進むときにどれくらい相互作用を受けるかを表す量である。
τ << 1:光学的に薄い。光子はほとんど相互作用せずに抜ける。
τ >> 1:光学的に厚い。光子は何度も散乱・吸収される。
標準薄円盤は光学的に厚い。一方、ハード状態の高温コロナや内側高温流は、光学的に薄い、あるいは中程度の光学的厚さを持つと考えられる。
ここで二温度プラズマが重要になる。プラズマとは、電子とイオンが電離して自由に動き回っている状態である。普通の気体では、粒子同士の衝突が十分に多ければ、電子もイオンも同じ温度になる。しかし、ブラックホール近傍の高温・低密度プラズマでは、電子とイオンのエネルギー交換が十分に速くない場合がある。
電子は軽く、放射と強く相互作用する。一方、イオンは重く、熱エネルギーの大部分を持つことができるが、放射効率は低い。陽子は電子の約1836倍重いため、同じ温度でもエネルギー分布や応答の仕方が大きく異なる。
このため、イオン温度 $T_i$ と電子温度 $T_e$ が異なる状態があり得る。
T_i \neq T_e
これが二温度プラズマである。
二温度プラズマでは、イオンが非常に高温でも、電子が受け取るエネルギーが限られていれば、放射として出るエネルギーは少なくなる。このような流れでは、重力エネルギーの一部が放射されずにブラックホールへ運ばれる、すなわち移流されることがある。これは低光度ハード状態や放射効率の低い降着流を考える上で重要である。
したがって、ハード状態は単に「スペクトルが硬い状態」ではない。物理的には、
薄い円盤だけではなく、
高温で希薄なプラズマ、
二温度構造、
逆コンプトン散乱、
磁場、
場合によってはジェット基部
が関与する状態である。
観測される硬X線スペクトルから、電子温度や光学的厚さを推定できる。しかし、コロナの幾何、加熱機構、電子とイオンの結合、磁場の役割は直接見えるわけではない。ここでも、観測量と物理量の間にはモデルが入る。
9. 反射・吸収・風
Fe K 線、電離パラメータ、速度場
ブラックホール近傍の高温コロナから出た硬X線は、降着円盤表面を照らす。照らされた円盤表面では、光電吸収、蛍光放射、コンプトン散乱が起こり、反射スペクトルが形成される。
反射スペクトルの中で特に重要なのが Fe K 線である。鉄は宇宙に比較的多く存在し、X線帯域に強い遷移を持つため、ブラックホール近傍の診断に非常に有用である。
鉄輝線は、原子物理としては特定のエネルギーに出る。しかし、ブラックホール近傍の円盤から出ると、その線は単純な細い線にはならない。円盤は高速で回転しているため、近づく側では青方偏移し、遠ざかる側では赤方偏移する。さらに、ブラックホール近傍では重力赤方偏移が起こる。光の進路も曲がる。
その結果、Fe K 線は広がり、非対称な形になる。この形から、円盤の内縁半径、傾斜角、場合によってはブラックホールスピンを推定する。
ただし、反射スペクトルの解釈には多くの仮定が入る。円盤表面の密度、電離状態、元素組成、照射するコロナの形、円盤の厚み、乱流速度、相対論的光線追跡などが関係する。したがって、広がった鉄線が見えたからといって、スピンが一意に決まるわけではない。
一方、吸収線は外向きの流れを調べる手段である。ブラックホール連星では、円盤から風が吹いている場合がある。特に高傾斜角、つまり円盤を横から見るような系では、視線上に円盤風が入り、高電離鉄の吸収線が見えることがある。
吸収線の中心エネルギーがずれていれば、視線方向の速度を推定できる。
\frac{\Delta E}{E}
\simeq
\frac{v}{c}
また、ガスの電離状態は電離パラメータ
\xi=\frac{L}{nr^2}
で表される。ここで、$L$ は電離光度、$n$ はガス密度、$r$ は光源からの距離である。
この式は、初学者向けにも非常に教育的である。観測から $\xi$ が分かると、ガスがどれくらい強く電離されているかが分かる。しかし、$\xi$ は $L/(nr^2)$ で決まるため、密度 $n$ と距離 $r$ は縮退している。つまり、電離状態だけから風の位置を一意に決めることはできない。
したがって、円盤風の質量流出率を求めるには、吸収線の強度、速度、電離状態に加えて、密度、幾何、被覆率などの仮定が必要になる。
ここでも、観測量と物理量の間には翻訳の層がある。
吸収線のエネルギーシフト
→ 速度
線強度・線比
→ 柱密度・電離状態
電離パラメータ
→ L/(nr^2)
風の位置・質量流出率
→ 追加のモデル仮定が必要
10. 時間変動
ケプラー周波数、QPO、パワースペクトル
ブラックホール近傍は非常に小さいため、通常のX線観測では空間的に直接分解できない。しかし、空間を直接見られなくても、時間変動を見ることで大きさや運動を推定できる。
半径 $R$ におけるケプラー角速度は
\Omega_K=\sqrt{\frac{GM}{R^3}}
であり、周波数で書けば
\nu_K=
\frac{1}{2\pi}
\sqrt{\frac{GM}{R^3}}
となる。
この式は、時間と空間を結びつける非常に重要な式である。周波数が高い変動は、一般に小さな半径、つまりブラックホールに近い領域と関係している可能性がある。一方、低周波の変動は、より外側の円盤や大きな構造の変化に対応するかもしれない。
観測では、光度曲線をフーリエ解析し、パワースペクトルを作る。パワースペクトルには、広帯域雑音や、特定の周波数付近にピークを持つ準周期的振動、QPO、が現れることがある。
ここで「準周期的」とは、完全に同じ周期で繰り返すわけではないが、ある程度決まった時間スケールで変動が強くなる、という意味である。完全な時計のような周期信号ではなく、乱流的な降着流の中に特徴的な振動や歳差運動が混ざっていると考えるとよい。
ただし、QPO 周波数をそのままケプラー周波数と同一視できるとは限らない。低周波QPOは、内側高温流の歳差運動、円盤不安定性、放射領域の幾何変化など、複数のモデルで説明されている。高周波QPOも、相対論的軌道周波数、共鳴、ディスク振動など、解釈には幅がある。
したがって、時間変動解析では、
観測量:パワースペクトルのピーク
基本スケール:ケプラー周波数、熱時間、粘性時間
物理解釈:軌道運動、振動、歳差、伝播する揺らぎ
注意点:どの物理に対応するかはモデル依存
という整理が重要である。
時間変動は、スペクトルとは違う情報を与える。スペクトルは「どのエネルギーの光がどれだけ来たか」を教える。一方、タイミング解析は「どの時間スケールで変動しているか」を教える。ブラックホール近傍を直接撮像できない場合、この時間情報は空間構造を推定するための重要な手がかりになる。
(専門家向け) 時間領域解析と周波数領域解析は相補的である
ブラックホール連星のX線変動を調べるときには、大きく分けて二つの見方がある。一つは、光度曲線を時間の流れに沿って眺め、個々の増光・減光・ディップ・フレアのような変動構造に注目する方法である。もう一つは、光度曲線をフーリエ変換し、どの時間スケールの変動がどの程度含まれているかを周波数空間で調べる方法である。前者は時間領域解析、後者は周波数領域解析と呼ぶことができる。これらはどちらか一方が正しいという関係ではなく、同じ変動現象を異なる角度から見る相補的な方法である。
時間領域解析では、「いつ、どのような変化が起きたのか」に注目する。たとえば、光度曲線中に短い増光が現れたとき、その前後でスペクトルが硬くなるのか、軟らかくなるのか、吸収線が強くなるのか、反射成分が遅れて現れるのか、といった問いを直接立てることができる。このように、個々の変動構造を切り出して、その平均的な時間発展やスペクトル変化を調べる方法は、しばしばショット解析とも呼ばれる。ただし、ここでいう「ショット」は、光子統計に由来する shot noise そのものを意味しているわけではない。むしろ、光度曲線中に見られる一つ一つの特徴的な変動構造を指していると理解するとよい。
この方法の重要な点は、時間領域でもスペクトル変動を解析できることである。個々の変動構造をピーク時刻や立ち上がり時刻などでそろえ、その前後の時間帯ごとにスペクトルを作れば、増光のどの段階で高エネルギー成分が強くなるのか、硬度がどのように変化するのか、コンプトン化成分のパラメータがどのように変化するのかを調べることができる。これは単に光度曲線の形を見る解析ではなく、「時間発展するスペクトル」を直接測る解析である。たとえば Cyg X-1 の低/硬状態では、このような解析により、強度変化と硬度変化が必ずしも同じ時間対称性を持たず、硬度やコンプトン化パラメータが増光の前後で非対称に変化することが示されている。
この辺りの話は、昔の天文月報です。
一方で、ブラックホール連星の変動は、必ずしも一つ一つの構造としてきれいに分離できるとは限らない。光度曲線には、長い時間スケールのゆっくりした変動、数秒程度の変動、0.1秒以下の速い変動、さらにQPOのような準周期的な変動が、同時に重なっていることが多い。このような場合、時間領域だけを見ていると、どの変動成分がどの物理過程に対応しているのかを分離することが難しくなる。
そこで有効になるのが、フーリエ空間を用いた周波数領域解析である。フーリエ解析では、光度曲線を「時間とともに変化する明るさ」としてではなく、「さまざまな周波数成分の重ね合わせ」として見る。低い周波数は長い時間スケールの変動に対応し、高い周波数は短い時間スケールの変動に対応する。つまり、周波数解析は、複雑な光度曲線を時間スケールごとに分解するための道具である。
この考え方をスペクトル解析に拡張したものが、frequency-resolved spectroscopy である。通常の時間平均スペクトルでは、ほとんど変動しない成分、ゆっくり変動する成分、速く変動する成分がすべて混ざっている。frequency-resolved spectroscopy では、特定の周波数帯域で変動している成分に注目し、その変動成分のエネルギースペクトルを調べる。これにより、低周波で主に変動している成分と、高周波で主に変動している成分が同じスペクトルを持つのか、それとも異なるスペクトルを持つのかを調べることができる。
ただし、frequency-resolved spectroscopy だけが「スペクトル変動を見る方法」ではない。時間領域解析でも、変動構造の前後や位相ごとのスペクトルを作ることで、スペクトル変動を直接調べることができる。両者の違いは、スペクトルを見るか見ないかではない。違いは、スペクトル変動を「個々の変動構造の時間発展」として見るのか、それとも「周波数帯域ごとの変動成分」として見るのかにある。
時間領域解析では、「一つの増光構造の中で、スペクトルはどの順番で変化するのか」「ピークの前後で硬X線成分は対称に変化するのか」「スペクトルパラメータは増光前から徐々に変わるのか」といった問いを立てやすい。一方、周波数領域解析では、「速い変動を担っている成分はどのスペクトルを持つのか」「遅い変動を担っている成分は円盤成分を含むのか」「QPOに対応するスペクトルは、広帯域ノイズや時間平均スペクトルと異なるのか」といった問いを立てやすい。
ここで、数学的な注意も重要である。理想的な数学では、連続時間で、無限に長く、ノイズのない信号が与えられていれば、時間領域の信号と周波数領域の信号はフーリエ変換によって一対一に対応する。この場合、時間領域で見るか周波数領域で見るかは、同じ情報を異なる基底で表しているだけである。
しかし、実際のX線天文データでは、この理想条件は満たされない。観測時間は有限であり、データは有限の時間分解能で離散的にサンプリングされ、各時間ビンのカウント数にはポアソン統計に由来する揺らぎが含まれる。有限の観測時間は、真の光度曲線に窓関数を掛けることに対応し、周波数空間ではパワーの漏れを生む。また、離散サンプリングにより、ナイキスト周波数より高い変動は正しく表現できず、場合によっては低周波側に折り返して見える。さらに、光子数が有限であるため、周波数空間にはポアソンノイズに由来する成分も現れる。
したがって、実データにおける時間領域解析と周波数領域解析は、完全に同じ情報を別表示しているだけではない。周波数解析で得られるパワースペクトルなどは、有限時間・離散サンプリング・統計ノイズを通して推定された量である。同様に、時間領域で個々の変動構造を切り出す解析でも、どの時間幅で切り出すか、どの基準時刻でそろえるか、どの程度のカウント統計があるかによって、得られる平均波形やスペクトル変化は影響を受ける。
このため、時間領域解析と周波数領域解析は、「理想的には同じ信号の異なる表現」でありながら、「実際の観測データでは異なる統計誤差と系統誤差を持つ相補的な推定方法」である、と理解するのがよい。片方で見えた特徴が、もう片方でどのように見えるかを確認することは、物理的解釈の信頼性を高める上で重要である。
要するに、個々の変動構造に注目する時間領域解析は、ブラックホール連星の変動を「一つ一つの現象」として見る方法である。一方、周波数領域解析は、その変動を「時間スケールごとの成分」に分けて見る方法である。どちらの方法でもスペクトル変動を調べることはできる。ただし、前者はスペクトルが時間の中でどのように変わるかを見やすく、後者はどの時間スケールの変動がどのスペクトル成分に対応するかを見やすい。
両者を組み合わせることで、単なる明るさの揺らぎとして見えていた光度曲線から、ブラックホール近傍の降着流構造、コンプトン化領域、反射成分、吸収体、あるいはジェットとの関係を、より立体的に読み解くことができる。時間領域と周波数領域は、対立する解析手法ではなく、ブラックホール連星の複雑な変動を理解するための二つの補い合う視点である。
11. ジェットと多波長観測
電波、赤外、X線のつながり
ブラックホール連星では、ガスが内側へ落ちるだけではない。一部のエネルギーや物質は、外向きの流れとして放出される。その代表がジェットである。
ジェットは、ブラックホール近傍から細く絞られた形で外へ噴き出すプラズマ流である。ジェット中では、相対論的な電子が磁場中で運動し、シンクロトロン放射を出す。この放射は主に電波で観測されるが、赤外やX線にまで寄与する場合もある。
ここで重要なのは、X線だけを見ていると、ブラックホール連星は「内側へ落ちる系」に見えることである。しかし電波を見ると、同じ系が「外側へ噴き出す系」でもあることが分かる。
つまり、ブラックホール連星では、重力エネルギーが複数の出口へ分配されている。
放射として出る
熱として蓄えられる
ブラックホールへ移流される
円盤風として出る
ジェットとして出る
この全体像を理解するためには、多波長観測が不可欠である。
X線:内側降着流、コロナ、反射、吸収
紫外・光学:外側円盤、伴星、X線再放射
赤外:外側円盤、ジェットの寄与
電波:シンクロトロンジェット
ハード状態では、定常的なコンパクトジェットが見られることが多い。一方、ソフト状態では電波ジェットが弱くなる、あるいは抑制されることがある。このことは、降着流の状態とジェット形成が密接に関係していることを示している。
ただし、電波フラックスからジェットパワーを直接測っているわけではない。ジェットの磁場、粒子分布、速度、開き角、ビーミング、距離などを仮定する必要がある。したがって、ジェットパワーもモデル依存の推定量である。
ここでも、ブラックホール連星研究の基本構造が現れる。
直接測れる量:電波フラックス
物理過程:シンクロトロン放射
推定量:磁場、粒子エネルギー、ジェットパワー
必要な仮定:幾何、速度、粒子分布、放射効率
12. 観測データとモデル推定
装置応答、統計、モデル依存性
理論では、天体から来る光子スペクトル $F(E)$ を考える。しかし、検出器が記録するのは $F(E)$ そのものではない。実際に得られるのは、エネルギーチャンネルごとのカウント数である。
概念的には、
C_i
=
\int R_i(E)A(E)F(E)\,dE
+
B_i
と書ける。ここで、
F(E):天体から来る光子スペクトル
A(E):望遠鏡の有効面積
R_i(E):検出器応答
B_i:バックグラウンド
C_i:観測されるカウント
である。
この式は、観測天文学の本質を非常によく表している。私たちは天体スペクトルを直接見ているのではない。望遠鏡と検出器の応答を通った後のカウント分布を見ている。
したがって、X線スペクトル解析では、
物理モデルから光子スペクトルを作る
→ 装置応答で畳み込む
→ 予測カウントを作る
→ 観測カウントと比較する
→ パラメータを推定する
という手順を取る。
ここで統計も重要になる。X線光子は一個一個数えるため、カウント数は基本的にポアソン統計に従う。カウントが十分多ければガウス近似が使える場合もあるが、低カウント領域ではポアソン性を正しく扱う必要がある。
このことは、物理パラメータの推定にも直結する。スペクトルフィットで得られる温度、光子指数、吸収柱密度、鉄線強度、円盤内縁半径、スピンなどは、単にデータから直接読んだ値ではない。
それらは、
観測カウント
+
装置応答
+
天体物理モデル
+
統計モデル
+
仮定
を通じて得られる推定量である。
ここで、直接測れる量と間接推定される量を分けておくとよい。
比較的直接測れる量は、
光子の到来時刻
検出器チャンネル
カウント数
天球上の位置
光学スペクトル線の波長シフト
電波フラックス
である。
一方、以下はモデル依存の推定量である。
ブラックホールスピン
円盤内縁半径
降着率
コロナのサイズ
電子温度
円盤風の質量流出率
ジェットパワー
QPO の発生半径
この区別を曖昧にすると、「スペクトルフィットでスピンが出たから、スピンを直接測った」と誤解してしまう。実際には、スピン推定には、円盤内縁が ISCO に一致するという仮定や、円盤モデル、反射モデル、距離、傾斜角などが関わる。
観測データは物理量そのものではない。観測データは、物理量を推定するための入り口である。
13. まとめ
直接測れる量と間接推定される量
ブラックホールX線連星は、単にブラックホールを含む連星ではない。それは、強重力場の中で物質がどのように運動し、角運動量を失い、重力エネルギーを解放し、熱、放射、磁場、風、ジェットへ変換するのかを調べる、宇宙に存在する実験室でもある。
この系を理解するには、いくつもの基礎物理が必要になる。
一般相対論
連星力学
流体力学
熱力学
プラズマ物理
磁気流体力学
放射過程
原子物理
統計推定
検出器物理
しかし、これらを単に並べるだけではとても分かりにくい。大事なのは、それらがどの順番で観測量につながるかを理解すること。直接見えないブラックホール時空を、その周囲のプラズマと放射の応答から読みとくことが目標である。
そして、最初に最も伝えるべきことは、観測量と物理量の間には必ずモデルがある、という点である。
観測量は、物理量そのものではない。
観測量は、物理量へ向かうための手がかりである。
この見方を持つと、X線スペクトル、光度曲線、QPO、鉄輝線、吸収線、電波ジェットは、バラバラの現象ではなくなる。それらはすべて、同じブラックホール連星という物理系を、異なる角度から見た投影で、それら全体を通して、実体に迫るのがブラックホール観測の醍醐味でもある。
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