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日本コンピューター産業の父「池田敏雄」から見る黎明期コンピューターの歩み

Last updated at Posted at 2018-12-31

はじめに

11月14日は、池田敏雄さんの命日になります。
Amazonプライム・ビデオに「プロジェクト X 挑戦者たち」が追加されていたので、すごい久しぶりに「国産コンピューター ゼロからの大逆転」を観てみました。

簡単に説明すると主人公である池田敏雄氏が開発当初はIBMのコンピューターと国産コンピューターでは像と蚊くらいの性能差があったが、並外れた才能や努力と運命的な出会いで最終的にはIBMのコンピューターの性能を追い越した物語である。非常に残念なのは完成したのが池田氏の死の1週間後であった。

※プロジェクト Xは事実の取捨選択というノンフィクションで通常許される範囲を超えて脚色が行われています。
例えば昭和27年(1952)のアメリカ大統領選挙のアイゼンハワーの当選を開票僅か7%でコンピューターが的中させた。 小林はこれだ!と思った。コンピューター開発を池田に託し昭和27年夏に熱海の保養所で合宿。でも大統領選挙は昭和27年11月なのよね。

黎明期のコンピューターで特にメインフレーム関連となると、現行のパーソナルコンピューターしか知らない人にはわかりにくい状態です。
そこで、池田敏雄氏が向き合っていた時代のコンピューターを池田氏の歩みを追いながら時系列で綴ってみました。年表は末尾に記載しております。

この記事を読んでからプロジェクトXを観てもいいし、観終わってから読んでもいいです。

生誕、学生時代

1923年池田敏雄氏は東京都・両国に誕生した。
幼少の頃はガキ大将であり、スポーツも万能だった。
中学では数学会誌の問題を解いてしまう程、数学の才能は際だっていた。
1941年浦和高校に入学、バスケットと共に囲碁とクラシック音楽が池田氏の凝り性リストに加えられた。囲碁は5段までになった(その後、6段になる)。
1人で論理的に熟考するようなことを好んだという。

新人、若手時代

池田氏(23歳)が1946年終戦の翌年に東京工業大学電気工学科を9月に卒業し、12月に富士通信機製造株式会社(1967年に富士通と改名)に入社した頃、アメリカやイギリスで初期コンピューターが大学や研究所などで使われ始めた。

入社後に技術部交換機課に配属されるが「こんなことはつまらない」とサボるなどするため2年目から機構研究室(室長は小林大祐氏(35歳))に移動、1947年秋にプロジェクトXで語られた会社を揺るがす大事件があった。GHQに納入した電話機で「雑音がする、欠陥商品だ」と抗議があり原因はわからず生産は中止となる。専門家がハードのエラーによって発生すると考えていたが、池田氏は非常に複雑な微分方程式をたて解いた結果、ダイヤルが100回転するたびに構造上必ず1度雑音が起こると理論的に避けられない現象だと証明した。ロジック面のみならず、こうした非常に高い数学的処理能力もあわせ持っていた。
この事件をきっかけに問題社員だった池田氏を小林氏が見込むことになる。

池田氏は電話機のダイヤル回転運動の数値解析を実証する道具としてバノレス・カウンターを独自に作成した、これが後の電話交換器のリレーを用いる計算機の基礎となった。

4年後の1950年6月に朝鮮戦争の勃発によって、アメリカ軍からの日本国内の各種企業に対する発注が急増、この結果工業生産が急速に回復し、好景気となった。その頃アメリカではレミントンランド社 1 (現Unisys)が商用コンピューターUNIVAC Ⅰ2を販売し先駆的なコンピューター市場でのトップリーダーの地位となっていた。

コンピューター開発初期

1951年に池田氏(28歳)が計算機に興味を抱いた頃に塩川新助氏(戦前から2進法による計算機を提唱していた研究者)氏(49歳)が社内(1951年に親会社の富士電機から富士通に転入)におり、この頃から池田氏のまわりにコンピューターに情熱を燃やす若いエンジニアたちが集まりはじめた。
その頃に戦前から統計機・集計機を通じて日本のコンピューター前史を切り開いてきた山下英男東大教授から依頼を受けて、1951年にリレー式統計集計機を開発、都庁に納入している。
この頃は朝鮮戦争特需により東証は売買計算が手で間に合わなくなり機械化(パンチカードシステム)の導入を検討、それを聞きつけた山下英男東大教授が富士通開発課の課長の小林大祐氏にリレーによる株式取引高精算装置の開発を打診した。

1952年7月にはプロジェクトXで語られた熱海の保養所(喜望峰)でコンピューター開発合宿(2週間)を3人(池田、山本、山口)行う。しかし見込みが甘く、結局終わらずに会社に戻ってきて1カ月近く設計の続きを行う、その後山本卓眞氏の2階の空室で3週間ぐらい再び3人で合宿、塩川氏は顧問格でときどき合宿に顔を出していた。
池田氏は5000を超える演算回路を1人で設計、山本氏がそれをまとめ上げていく役割だった。翌年の1953年3月には試作機(2進化10進法のマシンで株式取引高精算用計算機と呼称)が完成した。
その間の1952年11月4日のアメリカ大統領選挙でUNIVAC Ⅰがアイゼンハワーの当選を開票僅か7%で的中させたとのニュースがあり、コンピューターの明るい未来を予感させた。

池田氏が開発したコンピューターは分類速度が遅かったことと原因不明のエラー(後に接触不良と判明)でたびたび停止するなどして東証への受注には至らなかった。東証と野村證券は日本初の商用コンピューターUNIVAC120を採用し1955年に稼働した。
池田氏たちのコンピューター熱は一層強くなった。
池田氏はコンピューター開発事業の継続を強く望むが、当時の富士通の規模からいったら厳しかった。当時の社長である高純一氏と碁を打つ仲だったため、IBMの日本の売上げを調べて10%を取りたいからやらせてくれないかと説得し、自ら社長決裁をもらった。

1954年に31歳となった池田氏は静(しず)と結婚、5月に日本初の実用リレー式計算機FACOM 100の開発を開始、10月に完成させた。噂を聞き訪ねて来たのは物理学者湯川秀樹博士だった。ノーベル賞を取った中間子理論の動きを解析する難問を抱えており、「人手では2年はかかる多重積分を3日で解いた」と高く評価した。
1956年には最初の商用コンピューターでリレー式科学用商用機FACOM 128Aを開発し、文部省をはじめ30台以上を売り上げた。

IBMの台頭

パンチカードシステム(PCS)でトップシェアの事務機器メーカーであったIBMが本格的にコンピューター事業を開始したのは、科学計算用に設計されたIBM-701(1952年に完成、1953年4月発表)からである。UNIVAC Iに続く2番目の商用コンピューターであるが性能面では劣っていた。UNIVAC Iの入力方式は磁気テープ方式で自動的にデータ処理をしていたのに対し、 701の入力方式はIBM社が得意とするパンチカード方式であったため入力操作にオペレータを必要とした。
この年、 IBM社の社長に就任したトーマス・ワトソン・ジュニアは、コンピューター分野の激烈なビジネス競争に全社を挙げて打って出る決心を固めた。
翌年の1953年には、IBM最初の量産機であり磁気ドラムメモリを採用したIBM -650と磁気テープメモリ方式の事務用大型コンピューターIBM-701を相次いで発表した。
IBMはコンピューター開発の参入には遅れたものの、参入すると素早く着手し、事務機器メーカーで構築した強い販売網と営業力で1956年にはコンピューター業界のトップになっていた。その後、1959年のIBM 7070 と IBM 1401 により、その地位を確立した。

世人はIBMの圧倒的な地位を「白雪姫と七人の小人たち」と呼んだ。白雪姫はIBM、七人の小人たちはスペリー・ランド(のちにユニバック)、ハネウェル、バロース、NCR、GE、RCA、CDCを指していた。1970年代になると、GEとRCAが脱落した。

日本独自の第一世代コンピューター

1955年以降アメリカではトランジスタを採用したコンピューターを販売していく中で、日本では1954年に後藤英一(東大)氏が発明したパラメトロンを採用したコンピューターを販売する。1957年から1960年頃までと短命であったが、当時の大学でコンピューターを利用可能にした意義はあった。

日本独自のコンピューター素子を生んだ男、後藤英一
トランジスタに比べて価格が圧倒的に安かったパラメトロンであったが、速度が遅かったため海外ではさほど話題にならなかった。
トランジスタコンピューターのクロックが1メガヘルツなのに対して、パラメトロンコンピューターはせいぜい10〜30キロヘルツ程度だった。
日本の企業は予算をかけてトランジスタコンピューターの開発へと舵を切る。

課長時代

1958年池田氏(35歳)は電子技術部電算機課長に就任し、30人の部下が出来た。

巨大な象、IBMとの闘い

IBMとの演算速度の差は、はるか遠い100倍。
自宅でアイディアを練るため欠勤が多く、とんかつ屋「あたりや」がプロジェクトルームとなった。これはプロジェクトXで語られていた部分である。当時は日給月給制で給料を満足にもらえないこともあり、それではかわいそうだと人事部を説得し例外で月給扱いとなった。

この時期、すでに他社ではトランジスタ式計算機を発表してきていた。

1961年2月に富士通初のトランジスタ式計算機FACOM 222を完成させる。
演算速度は以前の100倍、ついにIBMに肩を並べる。

IBM System/360

1964年4月にIBMがSystem/360を発表した。これはトランジスタからIC(集積回路)に進化させた上にコンピューター・アーキテクチャと実装を明確に区別した。
System/360の登場以前のコンピューターは、専用機として利用されていた。コンピューターで専用業務以外の処理を行いたい場合、行いたい処理専用のコンピューターを利用しなければならなかった。
このように同じハードウェア上でソフトウェアによりシステムを切り替えることは画期的であった。System/360の開発には50億ドルが費やされた。
設計責任者はジーン・アムダールで、後に池田氏とタッグを組むことになる。

System/360の大ヒットにより、1バイト=8ビットが標準となる。
1バイトが8bitに定まったのは2008年

部長時代

1966年池田氏(43歳)はソフトウェア開発部長に就任した。
同年に東京大学大型計算機センターへのコンピューター納入合戦で池田さんがチーフになって売り込んだFACOM 230-50が日立のHITACに敗れる。
日立の採用について東大側は、『研究用のソフトには国際互換性が必要だ。だからOSはIBMとの互換性がないと困る。富士通が独自に開発したOSは、あまりにIBMとかけ離れすぎている』とコメント。
この事が池田氏が国際標準であるIBM System/360との互換性を追求すると決意したきっかけになる。
1967年に富士通信機製造株式会社から富士通株式会社に改名する。
1968年日本初の全面的にICを採用したFACOM 230-60が完成する。世界に先駆けマルチプロセッサ(2CPU)方式を採用、前機種のFACOM230-50に比べ4〜10倍の性能を有するばかりでなくオンラインデータ処理機能が一段と強化、同社コンピューターの大型機としての地位を築き、130台以上が出荷された。
これにより富士通は日本のコンピューターメーカーでシェア1位となった。ちなみに外資系メーカーを含めた国内トップシェアは日本IBM社。

アムダール博士と初会談

1964年にアムダール博士はSystem/360の開発を一段落し、その後はIBM Fellowのポジションに昇格、1966年末に開設されたスーパーコンピューターを開発するためのプロジェクトACS(Advanced Computing Systems) Laboratoryのトップとなっていた。

1969年、IBM System/360の設計をしたアムダール博士が「IBM社を辞めて思い通りのコンピューターを作ってみたい」ということを、ヘッドハンティングや技術提携を斡旋するリットン・インダストリ社の知り合いに漏らした。その情報がロサンゼルスに駐在していた富士通の鵜飼直哉氏の耳に入る。鵜飼氏はこの情報を本社の尾見半左右氏に報らせ、まず尾見氏がロサンゼルスに飛んでアムダール博士と面会。帰国して池田氏にも会うことをすすめた。
同年の春に池田氏(45歳)はメンロパークにあるパロアルト研究所にてアムダール博士と初会談。初対面でほれ込み、『富士通のアドバイザーになってくれ』とその場で頼み込んだが『私はまだIBMの人間ですから』とやんわり断った。

同年5月アムダール博士はスーパーコンピューターでSystem/360との互換性を保ったAEC/360を提案するもACS-1に破れる。8月にはACS Laboratoryが解散された。このころから椎間板ヘルニアで9ヵ月あまりも入院しており、動けるようになったのは1970年に入ってからであった。9月にはIBMを再び退職する
業界に痕跡を残して消えたメーカー IBMとHPC市場でガチンコ勝負を繰り広げたAmdahl

IBM社が独占禁止法違反で提訴

1969年1月17日に司法省によりIBM社が独占禁止法違反で提訴された。
IBM のシェアが70%前後であったため司法省と独占禁止法で争っていた。独占禁止法は抱き合わせ販売を禁止しており、IBM がソフトウェアやサービスをハードウェアと一括してリースしているのは独占禁止法に違反するとして、リース会社から訴因の1つとしていたが、原告の財政問題により裁判にいたらなかった。
これに端を発し、ハードウェア、ソフトウェア、サービス、教育を分離しそれぞれに価格を付けるアンバンドリングを発表した。しかし、この時点では OSは分離されていなかった
その後にOSの無償利用が可能となったことで、互換機を使用するユーザーはIBM からソフトウェアのサービスのみを受ければよい事となった。
米国では成功しなかった IBM 互換機であるが、日本では成功を収めた。互換機メーカーが成功した理由の1つに OSが無償で利用可能であったことが挙げられる。

ビジネスコンピュータの変移 - pdf

余談だが、IBMはこの頃からMS-DOSの件といいOSの重要性に気が付いていないんだよね。

取締役時代

1970年池田氏(47歳)は取締役に就任した。
日立のHITACに敗れたことから、それまでの独自規格のコンピューターからIBM互換機へ転換を行った。社内でも賛否が分かれたが、日本のコンピューター貿易が自由化される見通しとなりIBMへの対抗策として決定された。

この頃にはコンピューター部門売上が富士通全体売上の50%を超えるようになっていた。

日立と電算機分野で業務提携

1971年10月にIBM互換路線に最も近い存在だった日立と電算機分野で業務提携。日立と組むことは、池田氏が通産省の平松守彦氏に強く主張した。

コンピューター業界6社をグループ化し、巨額資金を集中投入することでIBMに対抗できる国産コンピューターを開発することが通産省の意向とされた。これを受け、企業側もグループ化を受け入れざるを得なくなった。
そのグループは、日立・富士通グループ、日本電気・東芝グループ、三菱・沖グループである。
三大コンピューターグループ

IBM System/370

1970年6月にIBM社は System/370を発表。System/360 との互換性を保ちつつ性能を向上、商用として初めての仮想記憶を実現した。

1970年アムダール博士は、System/370の開発中にLSIを用いたいという自身の提案が却下されると9月にIBMを再び退社、カリフォルニア州サニーベールにアムダール社を創設した。その後に集まった社員はIBMを辞めたスタッフが中心となる。
業界に痕跡を残して消えたメーカー IBMとHPC市場でガチンコ勝負を繰り広げたAmdahl

ちなみにOracleの創業者であるラリー・エリソンは1973年28歳でアムダール社に就職、仕事で日本に出張し、その余暇に京都へ出掛けて日本の伝統文化に触れ、強い感銘を受けた。
ラリー・エリソン(Larry Ellison)―― オラクル会長兼CEO

コンピューター貿易の自由化

1971年1月に日本政府が電子計算機の自由化方針を決定。このため技術力、販売力、資金力等で圧倒的に優位なIBM社等の外国企業と対等の立場で激しい競争を強いられることとなった。
富士通アーカイブズ(第八回)~国際互換路線への転換~ - pdf

アムダール社に資本参加

1971年10月に富士通はアムダール社と基本契約を締結。次世代コンピューター開発(LSI)に対し販売権を得ることを条件に十数億円の出資を行なう。当時の富士通の売り上げが確か1500億円程度で池田氏が社内の反対意見を説き伏せ提携を実現させた。
12月には鵜飼直哉氏が富士通側の現地責任者としてアムダール社に赴任。35人の若手を送り込む、業界初の日米共同開発が始まる。

常務取締役時代

1972年池田氏(49歳)は常務取締役就任した。

1974年3月富士通は当初はアムダール社に経営には関与せずに資金と技術ライセンスで協力する予定だったが、開発開始から2年が経ち開発が遅れて資金不足になると計画の見直しを要求(開発費用が総額300億円、その金額は富士通の資本金に匹敵)。
プロジェクトXでも語られていたが、アムダール社は経営介入に反発、富士通の本社にアムダール博士とその社員が乗り込んできた。
池田氏が社長に直訴、説得が受け入れられ共同開発が再開も許された時間は9ヶ月。4月には池田氏がアムダール社の役員となり日米を往復して問題の対処を行った。

倒れる

1974年11月14日池田氏(51歳)、カナダの取引先の社長を羽田空港に迎え握手して手を離した瞬間に倒れた、くも膜下出血のため4日後に意識不明のまま逝去。

IBMに勝利

池田氏の死の1週間後に世に送り出された世界初の全面LSI採用でSystem/370互換機のFACOM M-190が完成した。
System/370より2倍ないし3倍の能力を持った低価格マシンで、以後5年間で500台以上を売り上げた。

専務取締役時代

富士通は功績を讃え異例の追贈で専務取締役就任した。
アムダール博士は葬儀の際に池田氏の妻にアムダール社の株を贈りました。

1976年に富士通のコンピューターの開発に大きく貢献した池田敏雄の功績を記念して池田記念室が富士通の沼津工場内に開設された。
http://www.fujitsu.com/jp/about/plus/museum/ikeda/

その後

1975年6月富士通が製造しアムダールブランドとしたAmdahl 470-V6の最初の2台は、NASAゴダート宇宙研究センター(シリアル番号00001)とシガン大学(シリアル番号00002)に納入された。
1976年富士通のFACOM M-190の1号機は日揮株式会社に納入、Mシリーズは富士通と日立製作所が共同開発したシリーズとなる。
1979年富士通はコンピューター売上高で日本IBM社を抜き、ついに国内トップへと躍進した。
1997年富士通はアムダール社を吸収した。
2015年11月10日にアムダール博士(92歳)で亡くなった。
汎用大型計算機の米アムダール創業者、92歳で死去

最後に

中島みゆきさんの「ヘッドライト テールライト」を脳内再生・・・「語り継ぐ人もなく吹きすさぶ風の中へ・・・ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない♪」

数学が出来る人は良いエンジニアになれるという信念を貰いました。
普通のソフトウェアを作る上では高度な数学は使用することはありません。
なぜ「+1」や「-1」をするのか

機械学習がブームになり数学というテーマの勉強会も行われるようになりました。
普通のプログラマーとの差別化という意味でも、今後の数学を重視する傾向は増えていくでしょう。

キーワード

論理素子

世代 特徴
第一世代 真空管/リレー回路/パラメトロン
第二世代 トランジスタ
第三世代 IC(集積回路)
第四世代 LSI(大規模集積回路:1000〜10万個)
VLSI(超大規模集積回路:10万個以上)

パラメトロンは、東京大学大学院の大学院生であった後藤英一氏が発明した論理素子で、真空管に比べ価格が非常に安くリレーと比べて高速動作が可能だったことから、当時は真空管やトランジスタの使用量を大幅に削減してコンピュータを構成できるとして、多数のコンピュータが日本で建造されたが採用期間は3年弱と短い。

記憶装置

年表

年齢 出来事
1923 8 富士通:古河電気工業とドイツの電機メーカーであるシーメンス社が発電機と電動機を日本で国産化するため合弁会社として、富士電機製造株式会社を設立。「富」は古河グループの「ふ」、「士」はシーメンス社(ドイツ語では「ジーメンス」社)の「じ」に由来
1923 8 0歳 東京市本所区(後に墨田区)東両国に生誕、実家は薬種商を経営
1941 4 18歳 旧制浦和高等学校理科乙類(後の埼玉大学)入学
1942 アメリカでABC(アタナソフ、ベリー)を発表。世界最初のコンピューター
1943 4 20歳 東京工業大学電気工学科入学
1946 9 23歳 東京工業大学電気工学科卒業
1946 12 23歳 富士通:富士通信機製造株式会社(1967年に富士通と改名)に入社、技術部交換機課に配属
1946 アメリカでENIAC(モークリー、エッカート)を発表。最初のノイマン型コンピューター、プログラム内蔵方式
1947 24歳 機構研究室(室長は小林大祐氏)に移動
1949 イギリスでEDSAC(ウィルクス、ケンブリッジ大学)を発表。以降のコンピュータの基礎となったコンピューター
1950 27歳 論文「ダイヤル運動の解析」を富士通発行の学術雑誌に掲載
1950 6 朝鮮戦争による特需景気が起こる。特需による経済の活性化を受け、後に東証が機械化を検討するきっかけとなる
1950 UNIVAC I(レミントンランド社:現Unisys)を発表。アメリカ初の商用コンピューター、最終的には47台販売
1951 2 イギリスのフェランティ社:世界初の商用コンピューターFerranti Mark Iを完成、マンチェスター大学に納入。伝統的なビジネス環境と保守的な産業界がコンピューターを受入れようとはせず、その後のコンピューターは米国主導で発展していくこととなる
1951 3 レミントンランド社:米国勢調査局にUNIVAC Iを納入
1951 富士通:2進法による計算機研究者の塩川新助氏が親会社の富士電機から富士通へ転入
1951 12 レミントンランド社:UNIVAC 1101(ERA 1101)を発表。アメリカで最初のノイマン型コンピュータ。Task 13として設計により13を二進法で表記して1101となった
1952 29歳 東証が機械化を検討し、富士通にリレーによる株式取引高精算装置の開発が打診も採用には至らなかった。東証はUNIVAC120を採用し、1955年に稼働
1952 4 IBM社:IBM最初の商用計算機IBM 701を株主に発表、世間には1953年4月に発表
1952 7 29歳 技術部調査課勤務、コンピュータ関係の調査開始。熱海の保養所(喜望峰で)でコンピュータ開発合宿
1952 11 11月4日にアメリカ大統領選でUNIVAC Iは午後九時にはアイゼンハワーの地滑り的勝利を予想し結果を命中させた。実際とは4票違いだった。
1953 2 レミントンランド社:UNIVAC 1101の後継UNIVAC 1103を発表。科学技術計算市場で IBM 701と競合。両者の計算性能はほぼ同等もIBMの方が入出力装置が高性能だった
1953 3 30歳 東証に打診された試作機(2進化10進法のマシンで株式取引高精算用計算機と呼称)が完成したが、受注には至らなかった
1953 7 IBM社:IBM最初の量産機であり、磁気ドラムメモリを採用したIBM 650発表、演算部は真空管式。浮動小数点演算は仮数部8桁、指数部2桁の25進法を採用
1953 9 IBM社:二進化十進文字数字方式、磁気テープを採用した事務データ処理用のIBM702を発表
1954 31歳 会社の後輩だった静と結婚
1954 後藤英一(東大):パラメトロンを発明
1954 IBMのジョン・バッカスにより数値計算用プログラミング言語FORTRANを考案
1954 5 31歳 富士通:日本初の実用リレー式計算機FACOM 100の開発を開始
1954 10 31歳 富士通:日本初の実用リレー式計算機FACOM 100を完成。湯川秀樹氏が「人手では2年はかかる多重積分を3日で解いた」と高く評価
1954 10 IBM社:浮動小数点数演算ハードウェア(性能は毎秒1万2000回の浮動小数点の加算が可能)を量産機として世界初採用、磁気コアメモリも採用したIBM 704を発表、演算部は真空管式。このIBM 704のためにFortranとLispが開発されたことでも有名
1955 レミントンランド社:UNIVAC120を東証と野村證券に日本初の商用コンピューターとして稼働
1955 レミントンランド社:スペリー社がレミントンランド社と合併、スペリーランド社と改称
1955 IBM社:商用機として初のトランジスタ式コンピューターIBM608を発表
1956 IBM社:磁気ディスク装置IBM350を搭載した305RAMACを発表
1956 9 33歳 富士通:最初の商用コンピューターでリレー式科学用商用機FACOM 128Aの1号機が文部省統計数理研究所へ納入された、文部省をはじめ30台以上を売り上げた
1957 1 IBM社:商用で初のエミュレーター機能(IBM704向け)をもつIBM709を発表
1957 3 電電公社:日本初のパラメトロン式計算機MUSASINO-1を完成、名前の由来は通研のあった武蔵野から
1957 4 IBM 704用に世界初の高級汎用プログラミング言語FORTRANの最初のコンパイラがリリース
1957 12 日立:同社初のパラメトロン式計算機HIPAC MK-1を完成
1958 ジョン・マッカーシーによりプログラム言語LISPを考案
1958 3 日本電気:同社初のパラメトロン式計算機NEAC-1101を完成。32ビットワード、浮動小数点方式
1958 日本電気:パラメトロン式計算機NEAC-1102(別名SENAC)を完成。48ビットワード、固定/浮動小数点方式、メモリは磁気ドラムメモリで1024ワード
1958 4 35歳 電子技術部電算機課長に就任
1958 9 日本電気:同社初のトランジスタ式計算機NEAC-2201完成
1958 9 35歳 富士通:パラメトロン式計算機の試作機FACOM 200完成
1958 9 IBM社:IBM7070(トランジスタ式)を発表
1958 11 日立:HIPAC MK-1の改良機HIPAC 101発表
1958 11 東北大、日本電気:パラメトロン式計算機NEAC-1102(別名SENAC-1)稼働
1958 12 IBM社:IBM7090(第2世代機)を発表
1958 12 沖電気:パラメトロン式計算機OPC-1を完成
1958 12 東芝:事務処理用トランジスタ式計算機TOSBAC 2100を完成
1959 事務処理用に開発されたプログラミング言語COBOL(コボル)を発表
1959 5 日立:同社初のトランジスタ式計算機HITAC 301発表
1959 5 日本電気:全トランジスタ式計算機NEAC-2203完成 電子工業振興協会へ納入
1959 10 IBM社:IBM 1401(第2世代機)を発表。コンピューターの普及に大きく貢献
1960 三菱電機:トランジスタ式計算機MELCOM1101完成
1960 三菱電機:パラメトロン式計算機MELCOM 3409を完成
1960 1 国鉄:オンラインリアルタイム処理の先駆的システムMARS-1営業開始
1960 4 情報処理学会設立
1960 4 近鉄:日本電気が納入した座席予約システムの稼動を開始
1960 7 37歳 電電公社、富士通:MUSASINO-1Bの商用機(FACOM 201)として富士通が製造し、東京理科大学に納入
1960 11 DEC社:同社の最初の機種PDP-1を開発し最初の顧客に納入、ハッカー文化を生み出した重要なコンピューターとして知られる
1960 12 国産コンピュータメーカーがIBMと基本特許契約
1961 1 IBM社:初のスーパーコンピュータ構築の試みIBM7030(別名Stretch)開発、1号機はマンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたアメリカの国立研究機関ロスアラモス国立研究所に納入
1961 2 38歳 富士通:同社初のトランジスタ式計算機FACOM 222完成
1961 38歳 「計数型計算機の方式に関する研究」で東京工大工学博士号を授与
1961 2 UNIVAC社:UNIVAC I, IIの後継機UNIVACⅢ(第2世代機)を発表
1961 3 日立:トランジスタ式事務用小型計算機HITAC 201完成
1961 4 日本電気:トランジスタ式計算機NEAC-2205発表
1961 5 日本電気:オフコンの先駆となる国産初の電子(パラメトロン式)会計機NEAC 1201完成
1961 5 沖電気:日本で最初に主記憶装置に磁気コアを全面的に採用したトランジスタ式計算機OKITAC 5090完成
1961 5 日立:RCAと技術提携
1961 8 日本電子計算機(JECC)設立
1961 9 日本電気:プログラム内臓方式オンライン・リアルタイム・コンピューターNEAC-2204を出荷
1961 11 松下通信:トランジスタ式小型計算機MADIC-IIA完成
1962 1 IBM社:科学技術計算用IBM 7094発表
1962 2 日本電気:磁気コアメモリを採用したNEAC-2230, 2206を発表
1962 3 三菱電機:TRWと技術提携
1962 4 39歳 電子技術部電子研究課長に就任
1962 6 日立:米RCA社製RCA301を国産化した中型事務用計算機HITAC 3010発表
1962 7 日本電気:Honeywellと技術提携
1962 9 39歳 通産省(現経産省)は富士通、沖電気、日本電気の3社に「電子計算機技術研究組合(FONTAC)」を結成。IBM 7090や7094レベル以上の国産コンピューターの開発を目標としたプロジェクトである
1962 39歳 電算機方式部次長兼プログラム課長に就任
1962 12 日立:国鉄座席予約システムMARS-101用中央処理装置HITAC 3030完成
1963 3 40歳 富士通:磁気コアメモリを導入したFACOM231完成
1963 4 日本電気:Honeywellよりの技術導入からなるNEAC-2400, 3400, 2800, 3800発表
1963 6 電電公社:料金計算用パラメトロン計算機CM-1を試作
1963 8 三菱電機:TRW 530を国産化したMELCOM 1530発表
1963 9 沖電気:スペリランド社と技術提携
1963 10 日立:オンラインリアルタイム処理機能を有するHITAC4010を発表
1963 沖電気:タイムシェアリングシステム対応の汎用機OKITAC 5090Hを開発
1963 40歳 富士通:国産コンピュータの輸出第一号となるパラメトロン式計算機FACOM212をフィリピン国防省とマニラ国税局に納入
1964 4 IBM社:コンピューター・アーキテクチャと実装を明確に区別した最初のコンピュータシリーズSystem/360発表。設計責任者はジーン・アムダール
1964 4 41歳 電算機技術部長兼プログラム課長に就任
1964 9 日本電気:パラメトロン式超小型電子計算機NEAC-1210を発表
1964 10 日本IBM:東京オリンピックにてオリンピック史上初のオンラインシステムが実現。IBM 1410 - IBM 1440コンビネーションのデュアルシステムを東京・千駄ヶ谷の日本青年館に設置して競技場13か所のIBM 1050データ通信システムを600~2400bpsの通信回線で結んだ
1964 11 41歳 富士通、沖電気、日本電気:3社共同開発によるコンピュータFONTACが完成、CPUを担当した富士通はFONTAC Centralを一部改良し、FACOM 230-50として商用化
1965 1 電電公社:マルチジョブ並列処理を実現する大局課金用コンピューターCM-100完成
1965 1 日本IBM:日本初の銀行オンラインシステムが三井銀行で実現、東京オリンピックのシステムを転用。60支店に配置されたIBM 1060銀行専用端末とを結んだ構成
1966 4 43歳 ソフトウェア開発部長兼務に就任
1966 43歳 富士通:FACOM 230-50の1号機が労働省労働市場センターのデータ通信システムに採用され稼働
1966 43歳 富士通:東京大学大型計算機センターへのコンピューター納入合戦でFACOM 230-50が日立のHITACに敗れる
1967 4 44歳 大型電算機推進部長兼務に就任
1967 6 44歳 富士通:富士通信機製造株式会社から富士通株式会社に改名
1968 3 45歳 富士通:日本初の全面的にICを採用したFACOM 230-60が完成。世界に先駆けマルチプロセッサ(2CPU)方式を採用、同社コンピューターの大型機としての地位を築き、130台以上出荷
1968 4 45歳 電子工業部情報処理本部情報処理技術部長代理兼務に就任
1968 45歳 万国博推進部次長に就任
1968 45歳 富士通:日本のコンピューターメーカーでシェア1位、外資系メーカーを含めた国内トップシェアは日本IBM社
1969 1 IBM社:1月17日に司法省により独占禁止法違反で提訴。これによりハードウェアとソフトウェアを別々に売ることを強いられた
1969 46歳 メンロパークにあるパロアルト研究所にてアムダール博士と初会談
1969 5 アムダール博士がSystem/360との互換性を保ったAEC/360を提案するもACS-1に破れる
1970 4 47歳 取締役就任。それまでの独自規格のコンピューターからIBM互換機へ転換を行った
1970 6 IBM社:System/370を発表。System/360 との互換性を保ちつつ性能を向上、商用として初めての仮想記憶を実現
1970 9 アムダール博士:System/370の開発中にLSIを用いたいという自身の提案が却下されるとIBMを再び退社、カリフォルニア州サニーベールにアムダール社を創設
1970 47歳 富士通:コンピューター部門売上が富士通全体売上の50%を超える
1971 4 日本政府が電子計算機の自由化方針を決定。アメリカ大統領はニクソン氏、首相は佐藤栄作氏、通算大臣は田中角栄氏、課長は平松守彦氏。通産省は補助金を出す条件としてコンピュータ業界6社を3グループ化にするよう要望
1971 10 48歳 富士通:IBM互換路線に最も近い存在だった日立と電算機分野で業務提携。通産省はコンピュータ業界6社のグループ化に乗り出し、富士通と日立、日本電気と東芝、三菱電機と沖電気という3グループが10月から11月にかけて編成された
1971 48歳 富士通:アムダール社と基本契約を締結。次世代コンピューター開発(LSI)に対し販売権を得ることを条件に十数億円の出資を行なう。当時の富士通の売り上げが確か1500億円程度で池田氏が社内の反対意見を説き伏せ提携を実現
1971 12 48歳 富士通:鵜飼直哉氏が富士通側の現地責任者としてアムダール社に赴任。35人の若手を送り込む、業界初の日米共同開発が始まる
1972 4 49歳 常務取締役就任
1974 3 51歳 富士通:アムダール社は経営介入に反発、富士通の本社にアムダール博士とその社員が乗り込む。池田氏が社長に直訴、説得
1974 4 51歳 富士通:池田氏がアムダール社の役員となり日米を往復して問題を対処
1974 5 日本電気:ACOSシリーズ77としてシステム200、300、400の3機種を発表
1974 11 51歳 10日に羽田空港でカナダからのお客を出迎え握手をしている時に倒れた。4日後の14日にくも膜下出血のため意識不明のまま逝去、富士通は功績を讃え異例の追贈で専務取締役就任
1974 11 富士通:池田氏の死の1週間後に世界初の全面LSI採用でSystem/370互換機のFACOM M-190を完成、IBMに性能面で勝利
1974 12 アムダール社:池田氏の死の1カ月後にFACOM M-190の姉妹機Amdahl 470-V6が完成
1975 6 アムダール社:富士通が製造しアムダールブランドとしたAmdahl 470-V6の最初の2台は、NASAゴダート宇宙研究センター(シリアル番号00001)とシガン大学(シリアル番号00002)に納入
1976 富士通:FACOM M-190の1号機は日揮株式会社に納入、Mシリーズは富士通と日立製作所が共同開発したシリーズとなる
1976 富士通:富士通の沼津工場内に池田記念室を開設
1979 富士通:1979年度コンピューター売上高で日本IBM社を抜き、ついに国内トップへと躍進
1997 富士通:アムダール社を吸収
2015 11 10日にアムダール博士(92歳)が逝去

参照


  1. 1945年日本敗戦後の連合国軍最高司令官であったマッカーサー(Douglas MacArthur)は1951年朝鮮戦争のさなかに解任、その直後の1952年にレミントンランド(UNIVAC)の会長に就任した。 

  2. UNIVACとは、Universal Automatic Computer(万能自動計算機)を商標化したもの。 

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