この記事は、ある意味ひとつ前の記事の続きかもしれないし、そうではないかもしれません。
続きというよりは、もっと「そもそも」の話なのかもしれないから。
"本当の違和感"を救う旅は、ある場所にたどり着いた
改めて、少しひとつ前の記事の内容をふりかえります。
実践の場でぶち当たる「心理的安全性」の実現のむずかしさ、誤解のされやすさについて、ずっともやもやしていたことがあって、ある程度の言葉にしました。未だに十分ではありませんが、それも含めて、大事なことをかなり自分の中では整理できたのです。
ああ、よかった。
いままで「ここ語られてないんじゃないの?」って思っていた現場の"本当の違和感"の一端に一応の光を当てられた。めでたしめでたし。こうして現場は「健全な衝突」に向き合う力を得ましたとさ……。
いや、これフラグですよね。
絶対、この後にもっとヤバい真のラスボスみたいなやつがいるでしょ。
あるいは、条件解放されて2週目で違う展開になるとかでしょ。
そんな予感がしつつも、つかの間の平和を楽しんで(まぁつまり、記事が読まれていくのを見守って)いたのです。
だが、やはり(私の思索上の)平和な日々は、長くは続かなかったのであった。
「心理的安全性」は、誤解されたり、実現がむずかしいことが問題なのか?
ここまで光を当ててきたそのむずかしさは、ある前提がある上でのむずかしさでした。
- 「心理的安全性」はこれからの人と人の間の創造的な対話に必要なもの
- だけど、誤解されたり、実現がむずかしいことがある
その上で、そのむずかしさとは、単に衝突につながる違和感の差し出すこと自体がむずかしいのではなく、それが場に出ても、まるめられてしまうことにあるのではないか、というお話をしてきました。
その事実と向き合うため、もっとわかりにくいことや、居心地が悪いことをそのまま受け入れることが必要ではないか、ということですね。
でも、その前提はそもそも正しい…いや、妥当なのでしょうか。
「そもそも、なんで『健全な衝突』が必要なの?」
本当に表に現れていない声は、じつはものすごくシンプルなのではないでしょうか?
そしてそれは、小さいのではなく、むしろ当然のように大きすぎて、大きすぎるがゆえに聞こえないこの声なのではないでしょうか?
言い換えれば、こういうことです。
「『心理的安全性』って、別に要らなくない?」
そう。
「『心理的安全性』ってナニ?」ではない。
「『心理的安全性』って、ぬるま湯じゃないの」とも違う。
「知ってるよ。『心理的安全性』って『健全な衝突』が起きるようなこと、なんだよね?
むしろ、知ってるから不思議なんだよ。そんなモノがどうして必要なの?」
これこそが、真のラスボスなのではないのか。
これは、私がそう思うだけなのかもしれません。
でも、よく、正しく、名著として説明された王道の「心理的安全性」論や、その流れをくむ物語を読むたびに、強く、普遍的で、これは必要だと感じる一方で、なにかものすごく基本的なことが無視され続けている感じがしてきました。それこそが、この真のラスボスの存在でした。
知見たちは、一見この問いに答えようとしている
まず思い浮かぶのは、「恐れに満ちた組織」による歴史的な事件や事故の事例を紐解き、その背後・事件や事故の真因が「心理的安全性」の欠如であるという物語です。だから、そういう事件や事故を起こさないために「心理的安全性」を体得する必要があるんだ、ということになります。
これらの物語は、人間が陥りやすい現状維持バイアスなど、落とし穴の理論と重なり合って、たしかにぐうの音も出ない説得力があるはず、と感じるでしょう。
だけど、それは「自分たちの物語」になっていない。
私たちは、スペースシャトルの爆発や、巨大企業の不正といった「歴史的な惨劇」を知識として知っています。でも、今の目の前のチームで、誰かが小さな違和感を飲み込んだからといって、明日ロケットが爆発するわけではありません。
いや、より正確に言えば、じつは意外とそういうこともありえるのですが、そんな風に毎日感じながら業務にあたるように、人間の脳はできていません。
多くの人にとって、その「恐ろしい事例」は「どこか遠い世界の」「運の悪い人たち」の物語です。
東日本大震災すら、もうさほどピンとこない世代が登場しています…が、本質はそこではありません。私たちの世界で、日常と非日常の間には、線がくっきりと引かれていて、意図的に観察しない限り気づくこともできないのです。これも一種の正常性バイアスとして説明されています。
「そんな大ごとにはならないよ」
「うちはうまくやってるし、みんな仲がいいし、大丈夫」
「『心理的安全性』に対する、正しい理解があったとしても、そんなの関係ねぇ。
日常と非日常の間にある強固なバリアに弾き返されてしまいます。
「心理的安全性」は、まず先に「必要な人」だけに響く
こんな悪いことが起きるよ、という説得がうまくいかない相手を揺らすためのもう一つの切り口として、「心理的安全性」とイノベーションとの関係もよく語られます。
つまり、
- イノベーションを生み出す組織には「心理的安全性」があるんだよ
- イノベーションないと困りますよね。ほら、VUCAだし
みたいなお話です。
ここまでの流れから、なにを言い出すかややバレている気もするのですが、これに対しては、さらに根本的なそもそもがあります。
「『イノベーション』って、別に要らなくない?」
いや、でもVUCAだよ、時代はね、ほらほらVってなんだっけ、ええと、そうそう不確実だよね、くらいの聞きかじりの軽い理論武装では吹き飛びます。
「そうは言ってもさ、うちの業界はそんなにすぐには変わらないよ」
「少なくとも、自分が現役でいるあと10年、20年は、今のやり方で逃げ切れるでしょ」
世界がどう変わろうと、自分たちの事業領域にある「自分たちの寿命」というモノサシで見れば、危機は常に矮小化されます。 100年後の組織の存続よりも、今日1日の平穏。 10年後のイノベーションよりも、今期のボーナス。ダイエットは明日から。
そして、一番大事なことは、これ、もし仮にVUCAという考えについて、もっと完璧に事例を示して正攻法で伝えても、本当の問題はたぶんそこじゃないってことなんです。いや、もちろんそれはそれで大事ですけども。
そこに横たわる、根本的な非対称性
「健全な衝突」を通じてイノベーションを。 そう叫ぶ側と、それを聞いている側の間には、埋めようのない「切実さの非対称性」があります。
そもそも、歴史的に見てもイノベーションの源泉は、構造的に抑圧された側や周辺化された声、既存の優位性に馴染めない人々から生まれることが多いと言われています。なぜなら、彼らにとって現状はすでに不快で、リスクを孕んだ場所だからです。 彼らにとって現状を変えるための「健全な衝突」は、必須の「生存条件」です。
一方で、現状の構造において「安全で安心しきっている」マジョリティ側には、この「変えざるを得ない切実さ」がありません。
マジョリティにとっては、たぶん本当はこうです。
| イノベーション | 健全な衝突 |
|---|---|
| あったらいいけど、なくても困らない。 | 知っている。理屈はわかる。 |
| そのために今の「安定(=偽物の心理的安全性)」を乱されるのは、ただのコスト。 | わざわざ自分から不快な思いをしてまで、なぜ積極的に求めなきゃいけないの? |
結局のところ、マジョリティ側が「『心理的安全性』のために『健全な衝突』が必要だ」と頭で理解しても、心底からそれを欲することができないのは、彼らにとってはイノベーションが必須の「生存条件」ではないからです。
これは悪意とか想像力の問題というよりも、構造的な宿命で、社会的なバイアスです。いや、たしかにそこに想像力の欠如度合いの多寡はあるかもしれませんが、完全にゼロにするのは個人の努力だけではどうにもならない領域です。
お互いに、違う地平で「サボって」いる
この非対称性を前にして、さらに、ある事実に気づかざるを得ません。 マジョリティ側が「今の安定」という特権に浸り、他者の切実な生存条件に目を向けることを「サボって」いる(ように見える)のと同時に、「心理的安全性」の切実さを伝える側もまた、別の形の「サボり」をしていたのではないか、ということです。
「『正しい理屈(正論)』を、誠実に、熱心に伝えれば、相手もいつか自分と同じように『切実さ』を持ってくれるはずだ」
これは、ある種の「楽観」という名のサボりです。 相手にとって、その「健全な衝突」を受け入れるインセンティブが構造的にゼロに近いという絶望的な事実を直視せず、自分たちの『正しい理屈(正論)』が共通言語になると信じ込んでしまっている。相手が立っている「舗装された、平穏な地面」の強固さを侮っている。
「私はあちら側だ」と言い切れる人は、一人もいない
そして、この問題をもっとややこしく、かつ逃げ場のないものにしているのは、「自分はマジョリティではない」と断言できる人間は、理論上、この世に構造的に一人も存在しないということです。
あるチームでは「既存の構造に抗い、違和感を叫ぶ切実な当事者」であるあなたも、家に帰れば、あるいは別のプロジェクトでは、誰かの切実な声を「今のままでいいじゃん」と無自覚に踏み潰すマジョリティの側に立っているかもしれない。
マジョリティ性とは、個人の属性というよりは、その「場」との相対的な関係性の中に現れる「影」のようなものです。もちろん個々に見れば、一定の傾斜がある実情はあるかもしれません。が、ここではその問題は分けて考えたいと思います。
「私は理解している」 「私は『心理的安全性』を大切にしている」 そう思っている瞬間にこそ、私たちは自分が「今、たまたま息がしやすい場所」にいる特権性を忘れ、誰かの「生存条件」としての声をノイズとして処理し始めてしまう。
「あちら側の鈍感な人たち」なんて、どこにもいない。 いるのは、「ある瞬間には切実で、ある瞬間には驚くほど残酷に享受している」私たちという不完全な人間だけなのです。
シュレディンガーの猫みたいに、私たちは、この非対称性のどちら側にもいて、自分でふたを開けてみないと本当はどちらにいるのかすら危ういのです。
さて、どうしようか
このことに気づいてしまったら、もう「『正しい理屈(正論)』で相手を説得し、組織を改造する」という無謀で傲慢な戦いは続けられません。
伝える側は、「自分の言葉は、相手にとっては何の切実さもない『空虚なノイズ』でしかないかもしれない」という絶望を認めること。 そして受け取る側(マジョリティとしての自分)は、「自分たちの見ている景色は、かなり特殊で、誰かの犠牲の上に成り立つ『無風地帯』なのかもしれない」という薄気味悪さを抱えること。
お互いに「サボっていた自分たち」を白状し合って、この埋めようのない非対称性の前で、一度立ち止まって肩をすくめるしかないのです。
「心理的安全性」を、何かを解決するための銀の弾丸のように扱うのをやめること。 代わりに、この「救いようのない断絶」や「自分の加害者性」という、居心地の悪すぎる事実をそのままテーブルの上に置いて、そこから一言ずつ言葉を紡ぎ始めること。
それこそが、本当の意味での「安全性」への第一歩……かもしれません。苦みばしった道ですけれども。
でもほら、オトナになると、苦いものっておいしくなるよね!
(追記)
続編みたいな記事を書きました。よろしければこちらもどうぞ。