先日、私が運営しているチームにおいて少々思うところがありまして。
吐き出されていないなにかがある!
そう、チームに漂う漠然とした停滞を感じていました。
そんな状況を打破するため 「とにかくていねいに雑談する会」 を開催しました。
その場でふと、以前からぼんやり感じていた違和感の片鱗に触れた気がしました。それは、ふりかえり手法として知られる「象・死んだ魚・嘔吐」に関することです。
「象・死んだ魚・嘔吐」にはバイアスがある?
この手法の価値はそれなりには理解しているつもりです。過去に実際に参加した場でも一定の成果が出ていました。インパクトのある世界観も最高で、すてきな記事があればむしろ無責任といえるほどくり返し紹介もしてきました。
ただ、他方でどこか引っかかっていたのです。
- なんとなくの違和感(かなり感覚的なもの)
- 自覚すらできない小さな棘…
今回、ようやく見えてきたそれは、
あまりにも 「人はそう仕向けないと吐き出せない」 という前提に
(ある種、無批判に)立ちすぎていないだろうか?
という気づきでした。
いわば、そこに強烈なバイアスがあるのではないか、と。
採用しなかった「象、死んだ魚、嘔吐」
とりあえずメンバーに招集をかけて、どんな場をつくろうか前日まで考え続けていました。
「象、死んだ魚、嘔吐」は、いわゆる「吐き出す」系のふりかえりの中では、もっとも名の知れた手法のひとつだと思います。当然、いちどは脳裏に浮かびました。
今回、やりたいことと一見近い。
やはり基本に忠実に、この手法を採用してみるのも一案だろうか…?
しかし、
それは違うかもしれないよ
と、もう一人の私がささやきます。
- そもそも吐き出したいものは本当にネガティブなものなのだろうか?
- いや、それすら何も見えていない
- ネガティブかポジティブかすらわからないドロドロとしたマグマだまりのようなもの
- それを抉り出すのに「象、死んだ魚、嘔吐」はふさわしいのだろうか?
私は「象、死んだ魚、嘔吐」を採用しないと決めました。最後は直感です。
かわりに、やったことと
- 最初にとにかく雑談だと強く宣言したり
- 自分からはいわゆるアクションプランへの誘導を意図的に避けたり
- やんわりと「外し」「ずらし」の発言を差し込んだり
徹底的に地慣らしし、さらにその場で起きることの観察や声掛けをとにかく愚直に、ていねいに行いました。
そして、結果は出ました。
たくさんの吐き出された言葉を見届け、私は冒頭の気づきにたどり着きました。
違和感の正体が霧の外に
冒頭でも少し触れましたが「象、死んだ魚、嘔吐」のふりかえりの場には以前参加したことがあります。ファシリテーターではなく、メンバーとして、です。参加者のふりかえりへの前のめり度が高かったこともあり、一定の成果は出ていたように思います。
なるほど、効果的に使えば効果は抜群だ――
そんな当たり前の構文すら、頭に浮かびました。
他方で、すこし小骨の刺さったような違和感も残りました。
「象、死んだ魚、嘔吐」の場そのものに対して、何か嘔吐すべきものがあるような…
そして今回。
当時感じていた違和感の正体が、霧の外に姿を現したような気がしたのです。
「ていねいな場づくり」への逆説的な問い
そもそも、本当にネガティブな感情は、そんなに吐き出しにくいものなのでしょうか? そう決めつけて場づくりをすることで、かえってバイアスを強めてしまってはいないでしょうか。
「象、死んだ魚、嘔吐」はその骨組みから何度も訴えます。
ここまでしないと、おまえ、言いにくいだろう?
たしかに、ほとんどの場合にそれはそうかもしれません。
だけど一方で、なんだかとてつもなく 「大きなお世話」 のような…。
お前がそんな風に訳知り顔でいうから、余計にそちらへと誘導されるんじゃないのか?
- ある意味、よく考え抜かれすぎた
- あまりにも、理論で組み立てられた
- 「善意の」「正しすぎる」その足場かけ
- それは、適用する場によってはかえって弾力を失わせてしまう危うさもあるのではないか
そんな気づきが残りました。
吐き出すことはむしろ本能ではないか?
「象、死んだ魚、嘔吐」の根底にあるアプローチには、どことなく西洋的な、論理の強さを感じます。
構造化された問いによって、辛さや違和感を「適切に」吐き出すことを促す。
それはとてもよくできた設計であり、場の安全性を担保する工夫でもあります。
しかし、
- 辛いと吐き出すこと
- 危険なときに叫ぶこと
- 誰かに助けを求めること
それは本来、生き物の本能のひとつではないでしょうか。
とくに、社会を構成するタイプの種ならなおさら。
私たちは、いわゆるオトナになる過程で、いろいろな経験で脳を最適化しつづけ、なにかに慣れさせてゆきます。それは社会を機能させるためにはとても大切で必要なことです。
しかし代償として生来の本能的な感覚を麻痺させ、失ってしまっている。ならば、その失っているものを一瞬だけ解放し、取り戻すような場をつくれれば。
- 「自然と」
- 「ぽろっと」
- 「油断して」
- 「ふとした瞬間に」
むしろ当たり前のように、息を吐くように。
ヒトは本音をこぼしてしまうものなのではないでしょうか?
もっと自然に、もっと柔らかく
もちろん、場にもよります。
やはり「象、死んだ魚、嘔吐」が有効な場面は圧倒的に多いとは思います。
しかし、KPTが別にふりかえりの王というわけではないように、いついかなる状況でも「象、死んだ魚、嘔吐」が「吐き出す」最適解とは限らない。
構造や手法に依存しすぎなくても、ただそこに本能を思い出す土壌や余白が十分にあれば。
「吐き出す」という行為はもっと自然に、もっと柔らかく起こるのではないか――そんなことをじんわりと考え始めております。


