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「失敗を恐れない場をつくる」ことは、絶対に失敗できない? 勇気だけではどうにもならない、ファシリテーターのジレンマ

Last updated at Posted at 2026-01-21

「失敗を恐れない場をつくる」という目的にこだわるあまり、その場をつくること自体の失敗を、強く恐れている。

そういう自己矛盾を、目撃することがあります。

——いや、ありました、だな。
最近は目撃していません。(たまたま)

ただ、目撃したときに感じた違和感、ざらついた気持ちが忘れられません。
いつ思い出しても、昨日のことのようなのです。

そこまで記憶に残り続けているのは、私の中でそれが、いつか答えを出さなくてはならない重要な問いだったからなのだろうと思っています。

そもそも、ファシリテーターの覚悟だけの問題ですか?

すごく今更で恐縮ですが。

自身が組織図上の、何らかの評価を受ける立場にいるとしたら、

  • 失敗を許容する場づくりをそれ自体の失敗も恐れずに行うことの深淵に迫る

って、そもそも無理筋ですよね。

できるとしても、いくつかの前提条件の成立が必要です。

  • 組織全体で明瞭にグランドルール相当の発信をし続けている
  • それが建前だけじゃないことを、組織のメンバーが実感としてわかっている
  • もっと生々しく言えば、実際に評価の出力として、その一貫性が確認されている

のような。

別の視点で言えば、これをお膳立てなくできる素養がある人は、ほぼ確実に「異端」です。

そういう人は、統計的に100人に2~3人いればよい方で、いたとしても実際にそういう資質の人に限って、ファシリテーション役が回ってこないかもしれません。

小さな「イノベーションのジレンマ」により「異端」は良い運営のためにはじかれがちです。
例外もあるでしょうが、今回は「異端」で突破するケースはちょっと、置いておきましょう。

評価される体制の世界で、直面するジレンマ

私は、どちらかというとこれまで「心理的安全性」「ファシリテーション」を語るとき、既に覚悟を決めた後に起きる問題とか、「異端」に踏み込んだ後で出会う世界の話ばかりしてきました。

評価される体制の世界で、直面するジレンマのことを知らなかったわけではありません。

だけど、もしかしたら無意識のうちに無視してきたのかもしれない。あるいは、そこは既に誰かに語られているから、と油断してきたのかもしれません。

だけど、よく考えたらやはりそれ以前に起きるジレンマも、そんなに単純じゃない。
ここを考えてこなかったのは、これもまた偏りだったのかもしれません。

今改めて、当たり前だと思い込んでいたことも含めて、解きほぐしてみたいと思います。

安全な場所から「自分がやった方がよい」を責める声

評価される体制の世界で、ファシリテーターが制御を手放せないのは、リーダーがメンバーに仕事を任せるときに直面する葛藤と似ています。

教科書は伝えます。それでも任せるのだと。
そして結果にだけ責任を持てと。

でも、それだけです。
だからリーダーは悩み続けるし、身動き取れなくなる。

そしていつもの答えにたどり着きます。

「自分がやった方がよい」

リーダーの陥りがちな罠は、よくあるリーダー論では簡単に否定されます。

たいていのリーダーシップ研修の1頁目では、

「自分がやった方がよい」から脱却しましょう

と声高に語られます。…とても安全な場所から。

むしろこの言葉こそ、使い古され一周して、もはや「思考停止」を誘発してしまっているとさえ思えます。

「自分がやった方がよい」

これは、リーダーに勇気がないから、で済む問題なのでしょうか。

真摯にリーダーの道を模索している具体的な人の姿を解像度高く想像するとき、そんな単純ではないというのが実感です。

一定の覚悟を決めてもなおリーダーが任せきれないとしたら、おそらくそれは「メンバーとの関係が壊れるから」ではない。それは、まだ勇気で乗り越えやすいことだからです。
では、リーダーは本当は何を恐れて…いや、脅えているのか。

勇気を出した結果、結果が伴わなければ、高確率で「背中から撃たれる」。
その構図が、あまりにも理不尽すぎるからです。

メンバーの誹りは引き受けても、評価の「暴力」は耐えがたい

たとえば、大事なメンバーの可能性や未来のために、誠意をもって向き合う。

その中で言いにくいことを伝えた結果、メンバーの未熟も一因となって、苦労も理解されず軽蔑されることもあるかもしれません。でも、リーダーとしての権限を与えられている以上、これはまだ自分の責任として受け入れられる道理があります。覚悟をする意味もあります。

ただ、組織構造上の評価者に「背中から撃たれる」理不尽さは、まったく質が違います。

  • 結果だけを拾われて、文脈も理解しない
  • そこから生まれる痛みはときに尊厳にすらかかわり、到底納得しがたく引き受け難い

これを回避するのは理屈ではない、生存本能です。

ここで問題なのは、実際に撃たれるかどうかではありません。
「撃たれるかもしれない」と合理的に想像できてしまう状況そのものが、すでに構造的に安全ではない、ということです。

評価される体制の世界のファシリテーターが、どうしてもあるラインまでは誘導してしまう問題も、同じ構造を持っているのです。

この構造を、

  • 板挟みの中で、純粋に期待されるアウトプットを出そうとしている

と、あえてマイルドに表現することもできます。

でも、その背景にあるものは、場を理解しない立場からの評価の「暴力」です。

「評価される立場」にあることで、どれほどファシリテーションの深い知識を付けたところで、制御を手放すことが難しくなるのです。

「背中から撃たれる」覚悟を、全員に求めることはできない

ようやくここまで考えるに至った私ですが、正直これまでは、

  • リーダーが「まかせる」をやりなさいと言われてもできないこと
  • ファシリテーターが制御しようとして泥沼になってしまったり、メンバーの成長を奪う場面

を、むしろ筆頭に立つ勢いで苦々しく眺めていたのかもしれません。

でも、たしかにそれは難しいのだろうから、ではどんな覚悟が必要なのか、それにばかり目を向けてきました。勇気を出すための方法を考えて、気づきがあるたびにアウトプットも重ねてきたわけです。

そして、伝わるようで伝わらない、曖昧な手ごたえに首をかしげても来ました。

既に言及した通り、そういう意味で私は「異端」だったのだなぁと思います。

ただ、一方で、自分自身がものすごく孤独な戦いをしている感覚もたしかにあって、だから、仕方がないのかもしれないともどこかでわかっていたし、簡単には勧められないとも思っていました。

今にして思えば、まさにこの「背中から撃たれる」覚悟を全員に押し付けられない……という直感がはたらいていたのだなとわかります。

そう、例えば自分がゴルゴ13だったとしても、むしろゴルゴ13だったら、全員ゴルゴ13になれとは言えないように。

「なぜそこまでしなくてはならないの?」からの循環参照

ここまで、考えすすんでしまったら。

もはや、簡単に、

「自分がやった方がよい」から脱却しましょう

なんて言葉を、一組織の評価の文脈に飲み込まれた、新しい(現場レベルの)リーダーに言うことはとてもできません。

いや、言ってもいいのですが、

  • それはなぜ?
  • 具体的に難しさをどう乗り越えてゆくの?
  • 「背中から撃たれる」覚悟をしなければならないのがリーダーだとしたら、なぜそこまでしなくてはならないの?
  • そんなにも割に合わないのに、なぜリーダーは現れるの? リーダーを追い求めるの?

と立ち上がる問いに対して、自分なりの答えを考えながら言わないと、それは虚ろな「思考停止」の圧力になります。

この問いに対し、知見たちが答えようとするとき、私たちは往々にして、無限ループバグのような事象を目撃します。

「なぜリーダーは覚悟しなくてはいけないの」
「それがまさにリーダーの仕事だからだ」

いや、だからそれが何で? と聞いているのですよ。循環参照しとるがな!

ファシリテーターの覚悟についても、ほぼ同じ構文で問いを立て、循環参照を観測することができるでしょう。

覚悟が必要だ、勇気を持て、腹をくくれ――けれど、「なぜそこまでしなくてはならないのか」という問いには、結局、答えきれないままです。

覚悟することに、そもそも理由はない

これはあくまでも現時点の仮説ですが、問いそのものが間違っているのかもしれません。

本当は「再現性」など容易く語れない、もっと原始の次元のこと、いわば哲学的な命題に対して、ムリヤリ近現代の価値観だけで、教科書的な定義づけをしようとするから、おかしくなるのです。

なんど考え直しても、ここを丁寧に順を追って説明することができないので、一旦飛躍して私が至った結論を書きます。

本当の姿はおそらくこうです。

  • リーダー(あるいはファシリテーター)が覚悟することにそもそも理由はない
  • というか、因果が逆、あるいは、そういうもの
  • 覚悟してしまったものがリーダーになる

その構造は、しいていえば「生き物はなぜ生きるのか」という問いに理由を与えようとするのと、どこか似ています。
理由があって生きているのではなく、生きてしまっている、という事実が先にある。

宇宙や生命の神秘はいつか歴史の中でもっと解明されるかもしれません。
しかし解明しきるには人間の一生はちっぽけで、歴史による種の研鑽はまだ足りない。
それは大きすぎ、同時に小さすぎるから。

つきうごかされ、場から勝手に押し出される

覚悟のありかは、そういうもっと根源的な、人間の生命としての根幹から湧き出ていて、定義したら途端に嘘になり陳腐化してしまう。

しいて、言いすぎない言葉で語るなら、覚悟とはつきうごかされるものである。
そしてリーダーやファシリテーターは、場から勝手に押し出されて現れてしまう存在なのです。

別の言い方をすれば、覚悟の源泉とは結局のところ「属人性」にある、ともいえます。

但しそれは、必ずしも先天的ななにかではなく、もっと環境に揺さぶられる中で、自然と割り当てられてしまうもの…といった方がよいでしょう。

なお、この突き動かされたリーダーやファシリテーターの中には、先ほど脇に置いた「異端」も、わずかに混ざっています。ただ、それがイコールでもノットイコールでもありません。異端であってもなくても、割り当てられるときには等しく割り当てられてしまう、というだけのことです。

「私がやりたいからやる」「放っておけないから動く」

突き詰めれば、覚悟とは計算の結果ではなく、反射に近い。

「私がやりたいからやる」
「この場を放っておけないから、動く」

そんな個人の内側から溢れる、理屈以前の衝動が最初の火種になります。

  • ある場が、ある瞬間、致命的に“誰かを必要としている”とき
  • 生命の普遍的な構造として、その欠損に応答する因子が、場の中から不意に立ち上がってしまう
  • その因子が、たまたま「私」という形をとることがある

ただ、それだけのことなのです。

この視点に立てば、ファシリテーターのジレンマを「スマートに乗り越える方法」など存在しないことがわかります。

それは技術や心構えで解決できる種類の矛盾ではなく、生きることそのものが孕む、剥き出しの不条理だからです。

それでも、必要とされる場には、“乗り越えてしまう誰か”が現れます。 その誰かは、意志の力で選ばれるのではなく、状況への切実な応答として、なかば自動的に立ち上がってしまう存在です。

  • もし、その“誰か”が自分であるなら、撃たれることを承知で進むしかないでしょうが、それは勇気や覚悟があったからではなく、進むしかないからです
  • もし、隣の人がそうであるなら、自分は「二人目に踊る人」(ファーストフォロワー)として、その背中を支えましょう

あらかじめ正しい答えを探して立ち止まるより、その「応答」の動きに、躊躇なく身を投じることで、「失敗を恐れない場をつくる」可能性が開きます。

リーダー論・ファシリテーション論の役割

  • 全員になれとは言えない
  • けれど、なってしまうとしたら「ならずにはおれない」のでどうしようもない
  • 覚悟は勝手に立ち上がってしまい、再現性のある形であらかじめ持ってから挑むことはそもそもできない

それが一人ひとりのリーダーやファシリテーターの、実際のはじまりの姿に近い…ということになりました。

もしも、そうなのだとしたら。

リーダー論とは、本来、そうして“なってしまった誰か”が、逃げ場のない孤独の中で手探りをするとき、かつて同じ地獄を通った誰かが残した「痕跡」を、手掛かりとして差し出す営みではないでしょうか。

ファシリテーション論もまた、同じです。

「こうすれば成功する」というマニュアルではなく、“ファシリテーターになってしまった誰か”が、理不尽に「背中から撃たれ」そうな夜に、暗闇を照らす灯火。

そのために、未来へ向けて、手掛かりを残していく。

だからこそ、「成功させるための正解」を語るのではなく、「いつか誰かの手掛かりになるかもしれないから、この痛みを残しておく」という姿勢こそが、自然で誠実な結論になります。

逆に言えば、せいぜいそれしかできることはないのかもしれないと思うのです。

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