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心理的安全性が高いはずの場で、なぜ“本当の違和感”は消えていくのか

Last updated at Posted at 2026-01-05

はじめに

この記事は、「心理的安全性」を否定するものではありません。
また、よくある「ぬるま湯ではなく、健全な衝突だ」という議論とも少し異なります。

「心理的安全性」という言葉を真摯に考え抜き、フカボリし続ける場づくりやコミュニティに対して、私は強くシンパシーを感じています。
それでも、そうした場であるがゆえに、むしろ消えてしまう“本当の違和感”があることに気づきました。

この記事では、結論を急がずに、その構造を丁寧に整理してみます。

かつてKPTで感じた、小さな分断の話

過去に公開した記事で、KPTをテーマにふりかえりについて書いたことがあります。

熱心に取り組む人と、そうでもない、あるいは純粋にこれから知ろうとする人の間に、本人たちが意図しない形で距離や前提の差が生まれても、熱心な人は熱心な人同士で語り続けやすいので、気づかないうちに分断が広がっていく――そんな現象についてです。
当時は「エコーチェンバー」という言葉も今ほどには使われていなかったと思います。
ある意味、そういう構造を書いた記事でした。

その後、さらに続きともいえる記事を書いていますが、ここでは熱量というよりも、既にある経験の違いから解像度の違いでどうしても起きることに注目していました。

同じ構造を、越境について語る場面や、過去の現場でも見た

最近、越境の領域でも、これまで書いてきたものとよく似た構造が起きていると気づきました。

この文脈で感じた違和感は、少し説明が必要かもしれません。

越境を語る場ではしばしば、越境する人が「HOME」と呼ばれる元の領域で、十分に守られ、承認され、資源を持っていることが暗黙の前提になっています。
その上で、一時的にマイノリティになる場へ出ていき、そこで得た気づきをHOMEに持ち帰る、という物語です。

しかし、現実に越境を必要としている人の中には、そもそもHOMEとされる場所で強いマイノリティ性を感じている人もいます。そうした人にとって越境は、HOMEと外部を二項対立で捉え直すためのものではありません。

むしろ、もう一段俯瞰した視座に立つことで、HOMEと呼ばれているものも、別の世界とされるものも、どちらも局所的で小さな世界にすぎないと発見するための行為です。

けれども、現在主流になっている越境の語りの多くは、この視点をほとんど前提にしていません。その結果、越境の場そのものが、語れる違和感と語りにくい違和感を無意識のうちに分けてしまっているように感じます。

さらに、先日のLT会後の雑談で、過去のある現場で感じた違和感について話していたことで、その現場で当時感じていながら、どうしても差し出すことができなかった違和感までが思い出されました。

それは単なる現場の課題ではなく、「よかれと思って設計された場」ほど起きやすい、もっとメタな構造の問題でした。

KPTによるふりかえりの話と、越境における気づき、そして違和感を飲み込んだ現場の記憶。すべてに共通するのは、ある文脈で何度も語り合うことで強化され、一定のコンテクストが共有された場では、意図せず新たに“見えないもの”が生まれる構造です。

「言えているはずなのに、言えない」場が生まれる理由

心理的安全性を意図的に設計した現場では、こうした違和感がよりはっきりと現れることがあります。

アジャイルを推進している現場などでは特に、知見を結集しながら、そうした場を継続的につくろうとする努力が行われています。事実、私自身もそうした現場にいました。先ほど触れた話も、この現場での体験に基づくものです。

そこでは、

「そもそもこれ、なんのためにやってるんですか?」

のような「ちょっとヤバいこと」が言える空気は、たしかにあったのだと思います。

なぜなら、心理的安全性やアジャイルの価値を忘れないために、有名な宣言をふりかえりの前に必ずみんなで確認したり、見た目の生産性を度外視してでも、必要とあらばさらにふりかえりの場を設けたり、学びの機会をつくったりと、とにかく熱心でした。

その結果として、その現場には「エイミー・C・エドモンドソン」という名前を聞いたことがない人はいない、というくらいには、教科書的な心理的安全性の理解が共有されていたと思います。

ここまでやられて、教科書で語られる心理的安全性がわからなかったら、さすがにこちらの理解の問題だろう、と思うほどです。

「ちょっとヤバいこと」を言っても、

「それを差し出してくれてありがとうございます!」

と受け止めたい、と語るスクラムマスターがいて、それに率直に共感を示す人たちもいました。
時には、吐き出すことを目的にした「象・死んだ魚・嘔吐」のようなふりかえりを試すこともありましたし、ポジティブな人だけでなく、良い意味でネガティブな視点を持つ人もいました。

それでも、本当に投げたい違和感は、なぜか投げきれないまま残り続けていました。

そして次第に気づいたのです。

その「受け止めようとする努力」そのものが、別の閉塞感を生んでいるのかもしれない、という皮肉な構造に。

場の中で模索する人たちがどれだけ頑張っていても、受け止めきれない現実があります。
そこでは、一見受け入れられたはずの違和感が、その文脈に沿うように回収されてしまう――そんな無意識の構造が生まれるのです。

違和感が「糧」や「美談」にされてしまう構造

先ほどの越境の枠組みで考えてみましょう。

ある場でマイノリティ的立場にある人が、礼節や気遣い、あるいは最低限の安全のために、

「この部分については評価しています」
「感謝しています」

といった言葉を、仕方なく差し出す瞬間があります。「嘘ではないけれど、言わざるを得ないから絞り出している言葉」である可能性もあるのです。

しかし、場によっては、純粋な善意や承認の気持ちから、

「その気づきが素晴らしい」
「そう思えるならきっとうまくいきますね!」

と答えてしまうことがあります。その瞬間、場は温かく承認されているように見えます。

注意深く見ると、本人の胸にある本来の違和感や葛藤は、そのまま受け取られてはいません。むしろ逆の意味で「美談」として消費されてしまいます。

しかも、そこには悪意はありません。必死に相手を理解し、敬意を払おうとする誠実な努力が作用した結果です。
また、そもそもそう受け止める自由もある、ということも忘れてはなりません。

ただ、この場で実は消えていく“本当の違和感”があったとしても、それに気づきにくいということも事実です。
こうした現象は、ある視点に純度の高い善意が生んでしまう残酷な構造であり、場にとって盲点になっています。

中途半端な心理的安全性の場では、衝突は表面上歓迎されているように見えます。しかし、実際には投げられた違和感や衝突の中身は、そのまま、意味付けされずに受け取られることはほとんどありません。

無意識のうちに、場に合った言葉――「それってこういう学びですね」「その違いにも価値がありますね」といったフレーズ――に翻訳されてしまうのです。その結果、衝突は一見受け入れられたように見えても、本人が伝えたかった本質は置き去りにされます。

違和感はしばしば「糧」として回収されますが、それは本人の意図とは異なる形で消費されるのです。

起きていることは「思考停止」ではない

違和感をそのまま受け止めるということは、言葉や行動の背後にある未知のコンテクストまで含めて受け止めることを意味します。

しかし現実には、多くの人は無意識に自分や場の文脈に翻訳してしまいます。その結果、せっかく根本から差し出された違和感がすり替えられ、表面的には受け止められたように見えても、差し出した側からすると「考えずに受け流された」「思考停止している」ように感じられることがあります。

けれど実際には、受け止める側も必死に考えています。翻訳は構造上の限界であり、決して単なる怠慢や無関心ではありません。
このように、表面的には思考停止のように見える行動も、実際には多面的で複雑な構造と思いから行われているのです。

「健全な衝突」とは何か?

中途半端に整えられた心理的安全性の場では、衝突は一見歓迎されているように見えます。
言葉のやり取りや議論は表面的には衝突しており、参加者も意見を出している。

しかし、先ほど述べた通り、本当に伝えたい違和感は翻訳され、消費されてしまうことがあります。

では、本当に「健全な衝突」とは何でしょうか。

それは、表面的な言葉のやり取りや結論の衝突そのものではありません。むしろ重要なのは、次のような微妙なバランスです。

  • 解決ありきで衝突を歓迎せず、ただ衝突そのものがそこにあることを歓迎すること
  • 結論を急がず、結果として学びが生まれてもよいが、無理に学びにしないこと
  • わからないまま、わかりあえないままであることも受け入れること

こうした行為は、場やチームの成熟度を示すサインでもあります。衝突を急いで解決するのではなく、置いておくことで、後から気づきや学びとして機能するのです。

つまり、健全な衝突とは「衝突を完全に処理すること」ではなく、差し出されたものをそのまま受け止め、必要以上に翻訳せず、余白を残すことによって初めて生まれるものだといえます。

衝突を置いておくことは、決して怠慢ではありません。むしろ、そこには経験と判断に基づく責任があり、その余白こそが場の力になります。

表面的にはどうなっていれば成立したのか見えにくいかもしれませんが、差し出された違和感がそのまま消費されず、場に残り続けることが、衝突を健全に保つ鍵なのです。

そのような場をつくるための、ファシリテーターの「絶望のおすそ分け」

昨年末のファシリテーションアドベントカレンダーで、私は、ファシリテーターとして持ちたい姿勢の一つを「絶望のおすそ分け」と表現しました。これは、場を誘導せず、差し出された違和感を翻訳せずに受け止めるための、根本的な態度につながる道筋の話でもありました。

ファシリテーションに挑戦すればするほど、私たちはわからなさの深淵に直面します。
経験を重ねるほど臆病さに気づくこともあるでしょう。
どんなスキルやノウハウも、この「わからなさとの対峙」という終わりのない旅の一部にすぎません。

重要なのは、ファシリテーターが「答えに誘導しない」「差し出された違和感を翻訳せず受け止める」姿勢を保つことです。その姿勢こそが、場やチームに、余白を残した衝突を受け止める文化をつくります。

しかし、この姿勢を本当に保つのは簡単ではありません。待ち続け、誘導しないためには、まず自分自身の絶望やわからなさに耐えられることが前提です。ファシリテーションは常に「永遠にわからない」ものであり、そのわからなさに耐えられなければ、無意識に場を翻訳してしまい、本来の違和感を消費させてしまいます。

だからこそ、熟練したファシリテーターは、すぐに使えるノウハウを伝えるだけでなく、自分が体験したわからなさや絶望を、次のファシリテーターにおすそ分けするのです。それは単なる体験談ではなく、「絶望や不安に耐えられる力」を後に続く者に受け渡す行為でもあります。

結局、待てるファシリテーター、誘導しないファシリテーターであるためには、まず自分の絶望やわからなさに耐えられることが、最も根本的な条件なのです。

おわりに

ここまで考えても答えはまだありません。
でも、むしろ、この違和感を消さずに置いておくこと自体が、場を変える力になります。

この問いを投げ続ける自分を、我ながら面倒くさいと苦笑しながらも、手放すことはきっとないでしょう。

(追記)

続編みたいな記事を書きました。よろしければこちらもどうぞ。

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