はじめに
A11y Tokyo Meetup の 4本足のパートナー“聴導犬”と考えるアクセシビリティ に参加しました。
補助犬という言葉自体は知っていましたし、盲導犬・介助犬・聴導犬がいることも頭では分かっていたつもりでした。ですが、実際に当事者の方の話を聞くと、私が理解していたのはごく表面的なものだったと痛感しました。
特に印象に残ったのは、これは「犬の話」ではなく、障害のある人が社会の中で当たり前に移動し、暮らし、参加するための権利の話 だということです。そこに気づけたことが、今回の参加でいちばん大きな学びでした。
この記事では、イベントに参加して私が驚いたこと、考えたこと、そして開発者としてこの経験をどう受け止めたいかを書いてみます。
イベントであらためて知ったこと
今回のイベントでは、補助犬が盲導犬・介助犬・聴導犬の総称であること、そして聴導犬がどのように聴覚障害のある人の生活を支えているのかが語られていました。
私は特に、聴導犬の存在が思っていた以上に社会で知られていない ことに強く意識が向きました。盲導犬は比較的イメージしやすい一方で、聴導犬については「名前は聞いたことがある」くらいの人も多いのではないでしょうか。
また、日本では補助犬に関する法律が以前から存在しているにもかかわらず、いまもなお入店拒否のような出来事が起こることがある、という話も重く受け止めました。制度があることと、社会の側がそれを理解して受け止めていることは、まったく別なのだと感じます。
ここを直視しないと、アクセシビリティの議論はすぐに「制度はある」「ルールはある」で止まってしまいます。ですが、本当に問われるのは、その先の運用と理解なのだと思いました。
いちばん衝撃を受けたこと
私が特に衝撃を受けたのは、日本で実際に活動している補助犬がとても少ない という現実でした。
日本補助犬情報センター の公開情報では、補助犬の実働数は 876頭で、その内訳は 盲導犬 768頭、介助犬 56頭、聴導犬 52頭 です(2025年10月1日現在。盲導犬は2025年3月31日時点)。
数字で見ると、私が街中で補助犬に出会う機会がほとんどないのも無理はないと感じます。盲導犬ですら街中で頻繁に見かけるわけではなく、白杖を使っている方を見かける機会のほうが多いのも、考えてみれば自然なことなのだと腑に落ちました。
私はこれまで、「なぜ補助犬をあまり見かけないのだろう」と深く考えたことがありませんでした。しかし、そもそもの絶対数が少なければ、接する機会も少ない。接する機会が少なければ、社会の理解も育ちにくい。この循環があるのだと思います。
この気づきがあったことで、「知られていないのは関心が低いから」ではなく、知られる機会そのものが非常に少ない のだと見方が変わりました。
なぜ理解が進みにくいのか
今回の話を聞きながら、私は理解が進みにくい理由は大きく 3 つあるように感じました。
1. そもそもの数が少なく、接点が生まれにくい
補助犬の絶対数が少なければ、多くの人は実際に出会う機会を持てません。経験がなければ、どう接すればよいか分からないのはある意味当然です。
そして「分からない」は、ときに「断る」「避ける」につながってしまいます。悪意というより、未知に対する萎縮が拒否の形で現れてしまうのだと思います。
2. なぜ補助犬が必要なのかが伝わっていない
補助犬を「一緒にいる犬」とだけ見てしまうと、本質を見失います。補助犬はペットではなく、障害のある人の生活を支えるパートナーです。
この前提が伝わっていなければ、「なぜ同伴が必要なのか」「なぜ受け入れなければいけないのか」が理解されません。見た目だけでは必要性が分からない場合もあるからこそ、表面的な印象だけで判断しない理解が必要なのだと感じました。
3. 関係する法律そのものが十分に知られていない
今回の話から、身体障害者補助犬法や障害者差別解消法 の認知がまだ十分ではないこともあらためて感じました。
私は今回の内容を、合理的配慮という観点とも強く結びつけながら聞いていました。補助犬の受け入れは「特別扱い」ではなく、障害のある人が社会参加するための前提を整えることです。つまり、権利保障の話であり、合理的配慮の話でもあります。
制度や法律の名前だけを知るのではなく、それが誰のために、何を守るためにあるのか まで理解されて初めて、現場での対応は変わるのだと思います。
これは犬の権利の話ではなく、人権の話
今回、私の中でいちばん大きかったのはこの整理でした。
補助犬の話は、つい「犬を受け入れましょう」という話に見えてしまうことがあります。でも本質はそこではありません。補助犬を伴う人が、店に入り、移動し、サービスを利用し、社会の一員として当たり前に暮らすための話です。
つまり、これは犬の権利の話ではなく、人権の話 です。
この視点に立つと、「犬がかわいそうだから受け入れる」「いいことだから協力する」という善意ベースの話では足りないことが分かります。そうではなく、拒まれないことが本来の前提 であるべきです。
私はこの点を、アクセシビリティの議論全体にも重ねて受け取りました。アクセシビリティは親切や配慮のオプションではなく、社会参加の基盤なのだと思います。
日常の中でどう関わるか
イベントの中で印象に残ったのは、視覚障害や聴覚障害のある方を見かけたときの向き合い方について、よく見て、気にかけつつ、過剰には手を出さない。そして危険が差し迫っているときは声をかける という考え方でした。
私はこの話を聞いて、少し安心しました。というのも、私自身が普段なんとなく大事にしていた態度と大きくずれていなかったからです。
すぐに手を貸そうとすることが、いつでも正しいわけではありません。本人のやり方やペースがありますし、こちらの善意が相手の自律を奪ってしまうこともあります。一方で、危険が目前にあるなら、ためらわず声を出す必要があります。
この「見守る」と「必要なときには介入する」のバランスは、とても難しいです。ですが、その難しさから目をそらさず、相手を一人の主体として尊重することが大事なのだと感じました。
こうした日常での距離感の話は、結局のところ「相手を勝手に決めつけない」という態度の話でもあります。私はそれが、そのまま開発の姿勢にもつながると感じました。
この経験を開発者と Web にどうつなげるか
ここからは、開発者として考えたことです。
補助犬の話を聞いていると、「知られていないこと」「想定されていないこと」は、それだけで社会参加の壁になるのだと実感します。これは Web やプロダクト開発でも同じではないでしょうか。
たとえば、開発側が想定している「普通の利用者像」が狭いと、それ以外の人は簡単にこぼれ落ちます。
- 音が聞こえる前提の通知
- 見えている前提の案内
- 一定の認知負荷に耐えられる前提の UI
- 困ったときに自分から助けを求められる前提の導線
こうした前提は、作っている側が意識しないまま入り込みます。そして、その前提から外れる人にとっては、利用できない・分からない・入りづらい体験になります。
補助犬への理解不足が「入店拒否」という形で現れるように、Web では「使えない」「たどり着けない」「申請できない」という形で排除が起こります。表面上はまったく違う現象に見えても、根っこには想像されなかった存在が置き去りにされる という共通点があります。
だから私は、アクセシビリティを技術的チェック項目としてだけではなく、誰を利用者として想定しているのかを問い直す営み として捉えたいと思いました。
おわりに
今回のイベントに参加して、補助犬について「知らなかったことを知れた」だけではなく、自分がアクセシビリティをどう捉えているかまで問い直されました。
補助犬が少ないこと。法律があっても拒否が起こること。理解不足の背景には、接点の少なさ、必要性への無理解、法律の認知不足があること。そのどれもが、社会の側にまだやるべきことが多いと示しているように思います。
そして何より、これは犬の話ではなく、人が社会の中で当然に生きるための権利の話でした。この視点を忘れないことが、アクセシビリティを考えるうえでの出発点なのだと思います。
開発者としても、一人の生活者としても、まずは知ること、想像すること、そして見かけたときに過不足なく関わること。その積み重ねが必要なのだと、静かに背筋が伸びる時間でした。
まずは、「知らないから想定しない」をやめることから始めたいと思います。