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「AIが作ったか」より「AIを使って何を作ったか」なんだと思う

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Last updated at Posted at 2026-06-07

この記事は、2026年6月時点での自分の考えを整理したものです。
世の中の意見や別の立場を否定したいわけではなく、あくまで今の自分にはこう見えている、という話として書いています。

生成AIや創作を取り巻く状況は変化が速いので、今後の経験や環境によって、自分の考え方も変わっていくと思っています。

はじめに

自分はプログラマーです。

最近は、プログラミングにAIエージェントをかなり使っています。
そして、かなり便利に使わせてもらっている感覚があります。

コードを書いてもらったり、既存コードを読んでもらったり、エラー原因を探してもらったり。
テストを回してもらい、修正案まで出してもらうこともあります。

こういう使い方は、自分の中ではかなり自然になってきました。

プログラマーの世界では、AIを使うこと自体は、少しずつ特別なことではなくなってきているように見えます。
もちろん現場によって制約はありますが、少なくとも「AIを使ったから価値が下がる」とだけ見る空気は、だいぶ薄くなってきている気がします。

一方で、生成AIを使って文章を書く、画像を作る、音楽を作る、映像を作る、という話になると、少し違う空気を感じることがあります。

この記事を書こうと思った最初のきっかけは、かなり素朴な違和感でした。

AIはプログラミングは得意だけど、正解のないものは苦手なのかもしれない。

最初は、そんなふうに感じていました。

ただ、考えていくうちに、少し違う気もしてきました。

AIが正解のないものを苦手としているというより、自分の側に「何を良いと判断するのか」という答えや評価軸がなかっただけなのかもしれない。

プログラミングでは、動くかどうか、テストが通るか、期待した動作になるかを確認できます。
でも文章や画像や音楽や映像では、何をもって「これでいい」とするのかが、急に曖昧になります。

その感覚が、この記事の出発点です。

そしてもう一つ、AIを使ったというだけで、成果物そのものを見る前に評価が下がる空気にも違和感があります。

「AIに作らせただけ」と見られる。
そこに人間の手間や判断があったとしても、軽く見られてしまう。

そういう場面が、まだあるように感じます。

もちろん、創作物には権利や作風、学習元、作家性など、プログラミングとは違う難しさがあります。
そこを雑に無視してよいとは思っていません。

ただ、自分がAIを使ってプログラミングしている立場から見ると、AIを使ったという理由だけで、その人の試行錯誤や判断までなかったことにしてしまうのは、少し違う気がしています。

この記事では、プログラミングでAIを使うことと、文章や絵や音楽や映像をAIで作ることの違いについて、今の自分の考えを整理してみます。

そして最終的には、「AIが作ったか」だけではなく、「AIを使って何を作ったか」「そこに人間が何を見て、何を判断したのか」を見たい という話をしたいと思います。

プログラミングは、結果を確認しやすい

プログラミングとAIの相性が良いと感じる理由の一つは、結果を確認しやすいことです。

コードは、動かせます。

テストもできますし、ビルドもできます。
エラーが出れば気づけますし、画面やログで確認することもできます。
仕様に合っているかも、ある程度は検証できます。

もちろん、すべてが簡単に確認できるわけではありません。

セキュリティ、保守性、パフォーマンス、設計の妥当性など、慎重に見るべきところはあります。
動いたから正しい、という話でもありません。

それでも、少なくとも「動くかどうか」「期待した結果になるかどうか」を確認する手段があります。

ここが大きいと思っています。

AIがコードを書いたとしても、人間はその結果を動かして確認できます。
テストが落ちれば直せますし、画面が崩れていれば分かります。
仕様と違えば、また指示を出して調整できます。

だから、プログラミングにAIを使うことは、自分の中ではかなり受け入れやすいです。

AIが書いたコードを、人間が成果物として確認する。
そのサイクルが回しやすいからです。

表現物は、最初から人間が受け取る

一方で、文章、画像、音楽、映像は少し違います。

これらは、最初から人間が受け取るものです。

文章なら読者が読み、画像なら見る人が受け取ります。
音楽なら聴く人が感じますし、映像なら見る人の感情や理解に直接入ってきます。

つまり、成果物の表面そのものが、人間の判断対象になります。

プログラミングでも、最終的には人間が使う画面やサービスになります。
ただ、プログラムの内部実装は、ユーザーからは見えません。

ユーザーが直接触れるのは、アプリの動き、画面、操作感、導線、表示される文言などです。

よく考えると、自分がAIエージェントで開発しているときも、人間が直接判断する部分は、完全にはAIに任せていない気がします。

たとえば、UIの導線、画面の見やすさ、ボタンの配置、入力フォームの分かりやすさ、エラーメッセージの温度感、使っていて迷わないか。

このあたりは、AIに案を出してもらうことはあります。
でも最終的に、

こっちの方が人間にとって扱いやすそうだな

と判断しているのは、自分です。

AIは候補を出してくれます。
でも、その候補が人間にとって本当に自然かどうかは、最後に自分の感覚で見ています。

そう考えると、文章や画像や音楽や映像のようなものは、最初からその「人間が判断する部分」が成果物の中心にあります。

だから、プログラミングでAIを使うことと、表現物をAIで作ることは、似ているようで少し違うと思っています。

整理すると、今の自分には次のように見えています。

観点 プログラミング 文章・画像・音楽・映像
確認方法 動作確認、テスト、ビルド、ログ 人間の感覚、文脈、印象、違和感
成果物の見え方 内部実装は直接見えにくい 表面そのものを人間が受け取る
正解の置き方 仕様や期待動作に近づけやすい 正解が一つに決まりにくい
人間の役割 目的、仕様、検証、リスク判断 意図、選別、表現の責任、受け取られ方
注意点 セキュリティ、保守性、設計 作風、権利、文脈、こだわりの有無

どちらが上とか下とかではありません。

ただ、AIを使ったときに人間が見る場所や、慎重になる場所が違うのだと思います。

「AIに作らせる」という言い方は少し雑かもしれない

生成AIで文章や画像や音楽や映像を作る話をするときに、

AIに作らせる

という言い方があります。

自分もつい使ってしまうことがあります。
ただ、最近はこの言い方が少し雑かもしれないと感じています。

たしかに、AIが出力している部分はあります。
文章や画像、音、映像を生成してくれるのはAIです。

でも、人間の意図した出力に近づけるには、かなり試行錯誤があると思うんですよね。

何を作りたいのか。
どういう雰囲気にしたいのか。
どこまで具体的に指示するのか。
出てきたものの何が違うのか。
どこを残し、どこを捨てるのか。
どこまで直せば自分の作品として出せるのか。

このあたりを考えながら使っている人は、かなりいると思います。

AIが出力したものでも、何を選び、何を捨て、どこまで自分のものとして引き受けたのか で、意味はかなり変わると思っています。

そういう使い方をしている人に対して、ただ「AIに作らせただけ」と見るのは、少し違う気がしています。

それは、プログラマーがAIエージェントにコードを書いてもらっているときにも近いです。

AIがコードを書いてくれるとしても、何を作るのかを考え、仕様を伝え、動かして確認し、違うところを直し、最終的に責任を持つのは人間です。

そこには人間の判断があります。

文章や画像や音楽や映像でも、同じように人間の判断が入っているなら、それはただの自動生成とは少し違うものに見えます。

だから、自分は「AIが作ったか」だけではなく、AIを使って何を作ったのか を見たいです。

そして、そこに人間がどんな意図や判断を入れたのかも見たいと思っています。

苦手なことをAIに手伝ってもらう価値

自分が特に良いなと思うのは、自分の苦手な部分をAIに手伝ってもらう使い方です。

たとえば、頭の中に作りたい世界観がある。
でも絵は描けない。
伝えたいことはあるけれど、文章にするのが苦手。
映像で表現したいものはあるけれど、撮影や編集の技術がない。
音楽のイメージはあるけれど、作曲や編曲ができない。

こういうときに、AIが苦手な部分を補ってくれることで、今まで発表できなかったものを形にできることがあります。

これは、かなり大きい変化だと思っています。

一人ではできなかったことが、AIを使うことでできるようになる。
自分の得意な部分と、AIに助けてもらう部分を組み合わせて、何かを外に出せるようになる。

そこには、かなり前向きな価値があると思います。

自分も文章を書くときに、自分の考え方や表現ルールをまとめて、AIに整理を手伝ってもらっています。

これは、自分の中にある考えを、より読みやすい形にするための使い方です。

そう考えると、画像や音楽や映像でAIを使っている人の中にも、似たような人がいると思います。

自分のやりたいことがあって、でも苦手な技術領域もある。
だからAIに手伝ってもらい、これまで出せなかったものを出せるようになる。

この使い方には、自分はかなりリスペクトがあります。

AIを使ったというだけで評価を下げてしまうと、そういう試行錯誤や、形にするまでの手間まで見えなくなってしまう気がします。

そこは、少しもったいないと思っています。

オープンソースと同じ感覚では見られない

ここで、プログラミングの世界との違いとして、オープンソースの文化もあると思っています。

プログラミングでは、他の人が書いたコードを読むことがあります。
ライブラリを使うことがあります。
サンプルコードを参考にすることもあります。

これは、かなり普通のことです。

ただ、その背景には、ライセンスや公開の前提があります。

もちろん、オープンソースだから何でも自由にしてよい、という話ではありません。
ライセンスを守る必要がありますし、作者への敬意もあります。

それでも、少なくとも多くの場合、

こういう条件なら使ってよいですよ

という形で公開されています。

この前提があるから、プログラミングでは「他人のコードを使う」「既存の実装を参考にする」ことが文化として成立しているのだと思います。

一方で、文章、画像、音楽、映像、作風のようなものは、必ずしも同じ前提で公開されているわけではありません。

誰かが公開した絵や文章や音楽は、見てもらうために出されていることは多いです。
でも、それを学習元や素材として自由に使ってよい、という意味で出されているとは限りません。

ここを、プログラミングの感覚と同じように扱うと、少しずれが出る気がします。

コードの世界には、使ってよい条件を明示する文化があります。
でも、創作物の世界では、鑑賞されることと、素材として使われることは同じではない。

この違いは、けっこう大きいと思っています。

だから、自分が「すでに強く認識されている作風やブランドに寄せすぎるような使い方」に違和感を持つのは、AIそのものへの拒否というより、この前提の違いが大きいのかもしれません。

もしかすると、プログラミングと文章や画像や音楽や映像を、同じ土台で比べようとすること自体に無理があるのかもしれないです。

このあたりは、まだ自分の中でも整理中です。

AIを使ったかより、AIを使って何を作ったかを見たい

一方で、少し考えてしまう使い方もあります。

たとえば、すでに多くの人が知っている作風やブランドに強く寄せたり、有名な作品や作家の雰囲気をそのまま借りるように見えたりするものがあります。

長い時間をかけて積み上げられてきた表現を、自分のもののように見せることや、こだわりがないまま反応が取れそうなものを量産することには、やはり違和感があります。

これは、AIを使っているから悪いというより、何を元にして、どういう態度で作っているのかの話だと思います。

AIを使っていても、自分のやりたいことがある人はいます。
苦手な部分をAIに補ってもらって、自分の表現を作ろうとしている人もいます。

一方で、ただ流行っている形をなぞっているだけのものもあります。

たぶん、見る側はそこをなんとなく感じ取るのだと思います。

もちろん、外から見ただけでは分からないことも多いです。
だから、簡単に決めつけるのはよくないと思っています。

ただ、少なくとも自分は、AIを使っているかどうかだけで判断したくはありません。

その人がAIを使って何を作ったのか。
何を作りたかったのか。
どこにこだわったのか。
何を自分の責任として引き受けているのか。

そこを見たいと思っています。

プログラマーの世界では、AIを使うこと自体はだんだん前提に近づいています。
もちろん、どこまで使うか、どう確認するか、どこに責任を持つかは大事です。

でも、AIを使ったからといって、それだけで価値がなくなるわけではありません。

創作物でも、同じように見られる部分があるのではないかと思っています。

AIを使った。
だから軽い。

ではなく、

AIを使って、何を作ったのか。
どういう意図で作ったのか。
どこに人間の判断が入っているのか。

そこを見たいです。

プログラミングでも、見える部分は人間が見る

ここまで考えると、プログラミングと生成AIによる表現物は違うと言いつつ、完全に分かれているわけでもないと感じます。

プログラミングでも、人間が直接触れる部分はあります。

UI、操作導線、文言、デザイン、アニメーション、レスポンスの気持ちよさ。

このあたりは、単にテストが通ればよいという話ではありません。

人間にとって扱いやすいか。
見やすいか。
迷わないか。
不快ではないか。
安心して使えるか。

これは、人間の感覚で見る部分です。

AIエージェントに実装を頼んでも、最終的に画面を見て、

これはちょっと使いにくいな

と思ったら直します。

つまり、自分もAIを使って開発しているけれど、人間が判断する部分まで完全にAIへ渡しているわけではありません。

ここは、文章や画像や音楽や映像のAI利用を考えるときにもつながってきます。

AIに出力してもらうことはできる。
でも、それが人間にどう届くかは、人間が見たい。

この感覚は、自分の中ではかなり大事です。

AIで表現できる人へのリスペクト

生成AIで文章や画像や音楽や映像を作っている人たちに対して、自分は単純に否定的ではありません。

むしろ、自分のやりたいことをAIで形にしている人には、かなりリスペクトがあります。

AIを使っているから楽をしている、という見方だけでは見落とすものがあります。

何度も試して、細かく直して、出力されたものを大量に捨てているかもしれません。
自分のイメージと違うものに悩んだり、最後に出すかどうかで迷ったりしているかもしれません。

外から見えるのは、完成した一つの成果物だけです。

でも、その裏側には、AIを使っていても人間の時間や判断があると思います。

もちろん、全部がそうだとは言いません。
本当に雑に量産されているものもあると思います。

それでも、AI生成というラベルだけで、全部を軽く見るのは違う気がしています。

自分も、できればそういう使い方をしたいです。

自分の中にあるものを、AIに手伝ってもらいながら形にする。
苦手なところを補ってもらい、一人では届かなかった表現に近づく。

そういう使い方ができたら、AIはかなり良い道具になると思っています。

おわりに

プログラミングにAIを使うことと、文章や画像や音楽や映像をAIで作ることは、同じ「AI活用」ではあります。

でも、自分の中では少し違うものとして見えています。

プログラミングは、結果を動かして確認しやすく、内部実装はユーザーから直接見えない部分も多いです。

一方で、文章や画像や音楽や映像は、最初から人間が直接受け取るものです。
そこには、見た目、読み味、聞こえ方、感情の動き、違和感の有無が入ってきます。

だから、扱い方は少し慎重に考えたくなります。

ただ、それはAIで作った表現物を低く見たいという話ではありません。

むしろ、自分のやりたいことがあって、苦手な部分をAIに補ってもらいながら、何かを形にしている人にはリスペクトがあります。

一方で、すでに強く認識されている作風やブランドに寄せすぎる使い方や、こだわりのない量産には違和感があります。

プログラミングにはオープンソースのように、使ってよい条件を明示する文化があります。
でも、文章や画像や音楽や映像は、必ずしも同じ前提で公開されているわけではありません。

AIを使ったかどうかだけではなく、何を作ったのか、何を元にしているのか、どこを人間が判断しているのか、何を自分の責任として出しているのか。

そのあたりを見ながら考えたいです。

自分自身も、AIを使って文章を書いたり、考えを整理したりしています。

だからこそ、AIで表現することを雑に軽く見る側には回りたくないと思っています。

まだうまく言葉にしきれていない部分もあります。

でも今の自分は、「AIが作ったか」より「AIを使って何を作ったか」を見たい

そんなふうに考えています。

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