技書博のアドカレを見かけたので書いてみた。10日目の記事になります。
Too Long Didn't Read
- AIのおかげで10年ぶりに小説を書くことができた。もう少ししたら漫画や映画も作れそう
- 物語は一つの媒体に過ぎないと気付いて物語執筆からは遠ざかっていたが、「これは物語として表現したい」と思うものをまた見付けられたのが良かった
- 内に秘めて育ててきたものはちゃんとあるけど、表現技術が上手くなかったり時間が無かったりして諦めていた人が、AIの力を借りて表舞台へ出られるようになったら、表現の世界は一歩進化していくのではないか
10年ぶりの小説を書いて思ったこと
若い頃にちょっと物語を書いていた。が、自分が表現したかったことは物語では表現できないとか、物語を物語たらしめている部分に自分は興味がない、ということに気付いて書くのをやめた。で、次に創作欲を満たすべく流れ着いたのが技術同人誌である。これはしっくりきた。ところで、何作か作ったところで、小説というものがいかに読まれないか、技術同人誌はそれに比べるといかに読まれるかを知った。いち技術者として、仕事に関係ある書籍や、仕事をする上での好奇心をちょっと広げてくれるようなものにはやはり確かに興味を持ってしまうし、自分もそのような知的好奇心を満たすようなものを提供できたらいいなと考えた。
しかし技術同人誌と小説とは交わらない集合ではなかった。ある技術同人誌を書いていた時に、その紙面に書くためのあるアイデアが湧いた。しかしそのアイデアは発想が突飛すぎるためその本にはマッチせず紙面に起こせなかった。「これはまさに物語で書くべきアイデアなのではないか?」 そう思ったのだ。物語を書く意味の一つは、突飛な設定、突飛な世界観、突飛なキャラクターなどをうんと膨らませて書ける点である。現実の複雑な面白さに気付いてからは物語の世界からは遠ざかっていた自分だったが、そうやって「物語」を相対化した後でもなお「これは物語として書くべきだ」というアイデアを一つ見つけられた。そしてそれは印刷して技書博で頒布して何名かの方に面白がっていただいた。技術職していても小説は作れる。
書いた小説の話をする。これは自分が好きな物語のいくつかにリスペクトを乗せた作品である。本編はその足元に及ばなくても、根底に流れるテーマは共通させたつもりである。自分は90年代後期のコンテンツが好きなのだが、それから30年近くの時間が経過しており、いま物語に熱中する世代からすれば古典と化しているだろう。そういったものを現代の文脈で作り直すことにチャレンジできたことへの充実を感じる。一方で、自分は文章を上手に書くことができないし、物語論も知識として知ってはいるものの、それを実際の物語に落とし込んで表現することができないことは感じていた。が、今回AIに小説を書かせてみたのだが(Claude Code. メモリに設定を入れつつ書く。どのモデルを使ったかは忘れた)、普通に自分より上手く面白く書くことができていると感じた。自分は自分が持っているアイデアを注入して、それを物語として補間する役割をAIに担ってもらい、時にAIが出してきた文章から逆にアイデアを練り直しながら物語を完成できた。
まぁ表現が上手い文章と言うものは、それはそれで好きなのだが、表現が決してうまくなくても、ある個人が、ある一つの事象についてDeep Diveして、世界中の関連事例をインプットして、時間をかけて考えた結果、たどり着いたある程度ソリッドな回答をもっと読んでみたいのである。それは表現のうまさとは全く別軸であると考える。従来、小説や漫画や映像や物語と言うものは、そこに面白いエンタメ性を含ませられる人でないと参入できない領域であった。しかしそのコモディティなエンタメ性はAIに任せてつつ真に表現したいことを表現できる可能性が広がったように思う。だから、上質な表現技法を持っていなくても、伝えたいメッセージやうちに秘めた面白いアイディアを外に出すことができるようになった。これは一種の進歩であると私は考えているし、さらに表現と言うものが一歩先に進むのではないかと考えている。
書いたもの