1. 導入
Webサービスへのログインで、「パスキーを使ってサインイン」という表示を見かける機会が増えてきました。指紋や顔、端末のPINを使ってログインでき、パスワードを入力する必要がありません。
2022年にはApple・Google・Microsoftが、FIDO AllianceとW3Cが策定したパスワードレス認証への対応拡大を共同で発表しました。その後、GitHubやAmazon、金融サービスなどにもパスキー対応が広がっています。
前回の記事「eSIMはなぜ今になって広まったのか」では、電話番号を乗っ取るSIMスワップ詐欺について触れました。SIMスワップがSMS認証やアカウント復旧経路の弱点を突く攻撃なのに対し、パスキーは、盗まれたり使い回されたりする「パスワード」に依存しないログインを実現しようとする仕組みです。
では、パスキーは何が安全なのでしょうか。そして、本当にパスワードは消えつつあるのでしょうか。
2. この記事はこんな方におすすめ
- 「パスキー」という言葉は知っているが、仕組みまでは説明できない方
- パスワードとの違いや、何が安全になるのか知りたい方
- パスキーへ移行するべきか迷っている方
3. 内容
パスワードが抱えていた根本的な弱点
パスワードは、利用者が覚えている「秘密の文字列」を入力し、サービス側がそれを正しいものか検証する仕組みです。
適切に設計されたサービスでは、パスワードそのものを平文で保存するのではなく、saltを付けてハッシュ化した情報などを保存します。それでもデータベースが漏洩すると、弱いパスワードはオフラインで推測される可能性があります。
さらに大きな問題がフィッシングです。利用者が本物そっくりの偽ログイン画面にパスワードを入力すると、その文字列を攻撃者にそのまま渡してしまいます。複雑なパスワードを使っても、使い回しを避けても、「利用者が秘密を入力する」という仕組み自体は変わりません。
パスキーは何が違うのか
パスキーでは、公開鍵暗号方式を利用します。パスキーを作成すると、「秘密鍵」と「公開鍵」のペアが生成されます。サービス側に登録されるのは公開鍵で、ログインに必要な秘密鍵をサービスへ送ることはありません。
ログイン時には、サービスが一度限りの「チャレンジ」を送ります。端末側は秘密鍵を使ってそれに署名し、サービス側は登録されている公開鍵で署名が正しいことを確認します。つまり、ログイン時にサービスとの間を「使い回せる秘密」が行き来しません。
ここで注意したいのが、秘密鍵の保存方法です。端末に固定されるパスキーでは秘密鍵をその端末から取り出せない設計にできます。一方、現在一般的な「同期型パスキー」では、暗号化された認証鍵がiCloudキーチェーンやGoogle Password Managerなどを介して、本人のほかの端末へ安全に同期されます。したがって、「秘密鍵は端末の外に一切出ない」という説明は正確ではありません。より正確には、秘密鍵はログイン先のサービスには渡らず、同期する場合も暗号化された状態でパスキープロバイダーによって管理されるという仕組みです。
サービス側が持つ公開鍵だけでは署名を作れないため、認証情報のデータベースが流出しても、パスワードのようにその情報だけを使ってログインすることはできません。
なぜフィッシングに強いのか
パスキーの大きな特徴が、フィッシング耐性です。WebAuthnでは、認証情報が特定のWebサイト(RP ID)に結び付いています。そのため、攻撃者が本物そっくりの別ドメインを用意しても、本物のサービス向けパスキーをその偽サイトで使うことはできません。利用者が「どのサイトにパスワードを入力してよいか」を見分けることに、安全性を依存しなくてよいわけです。
ただし、「パスキーならフィッシングが原理的に不可能」という意味ではありません。弱いアカウント復旧手段が残っていれば、攻撃者はそちらを狙えます。端末そのものの乗っ取りや、認証後のセッションを奪う攻撃も、パスキーだけでは防げません。正確には、パスキーは「偽サイトに認証情報を渡してしまう」という従来型のフィッシングに非常に強い認証方式です。
なお、指紋・顔認証・端末PINそのものがパスキーというわけではありません。これらは端末上で「このパスキーを使ってよい」と承認するための手段です。生体情報そのものがログイン先のサービスへ送られるわけではありません。
パスキーはどこから生まれたのか
パスキーの土台となっているのが、FIDO AllianceとW3Cが策定してきたFIDO2です。FIDO2は主に、Webサービスから公開鍵認証を利用するためのWebAuthnと、クライアント端末と外部Authenticatorとの通信を定めるCTAPから構成されています。
その前身には、2014年に仕様が公開されたFIDO U2Fがあります。U2FはUSBなどのセキュリティキーを、パスワードに追加する「第2要素」として利用する仕組みでした。その後、FIDO2によってOS内蔵のAuthenticatorやパスワードレス認証にも利用範囲が広がりました。FIDO2は2018年に大きな標準化上の節目を迎え、WebAuthnは2019年3月にW3C Recommendationとなりました。
そして2022年5月、Apple・Google・MicrosoftはFIDO標準への対応を拡大する方針を共同発表します。同年のWWDCでAppleが「passkeys」を大きく打ち出し、GoogleもAndroidとChromeで対応を進め、MicrosoftもWindowsでの対応を進めました。
つまりパスキーは、2022年に突然生まれた技術ではありません。10年近く積み重ねられてきた公開鍵認証を、スマートフォンやPCで誰でも使える形にしたものと考える方が実態に近いでしょう。
パスワードはもう不要なのか
ここまで見ると、パスワードをすべてパスキーへ置き換えればよいように思えます。しかし、実際の移行はそれほど単純ではありません。
多くのサービスでは現在も、パスキーとパスワードを併用できます。これは移行期の使いやすさを考えれば当然ですが、パスワードやSMS、弱い本人確認だけで同じアカウントへアクセス・復旧できるのであれば、攻撃者はより弱い経路を狙えます。
ただし、「パスワードが残っているだけでパスキーの意味がなくなる」と考えるのも正しくありません。利用者が普段のログインでパスキーを使えば、パスワードを入力する機会が減り、フィッシングで盗まれる機会も減ります。問題は、パスキーより弱い認証・復旧経路が最終的な抜け道として残っている場合、アカウント全体の安全性はその弱い経路にも左右されることです。
そのため現在の課題は、単に「パスキー対応サイトを増やす」ことだけではなく、アカウント復旧や予備の認証方法まで含めて、安全にパスワード依存を減らしていくことに移っています。
パスキーの「引っ越し」も可能になり始めた
パスキーには長らく、パスワードマネージャーやプラットフォームをまたいだ移行が分かりにくいという問題がありました。しかし、この点も2025〜2026年に大きく動いています。
FIDO Allianceは、パスワードやパスキーなどをCredential Manager間で移行するためのCredential Exchange Format(CXF)を策定しており、CXF 1.0は2025年8月にProposed Standardとなり、2026年3月にはErrata(正誤・修正版)が公開されています。
AppleはiOS・iPadOS・macOS・visionOS 26で、対応するCredential Manager間の安全なパスキー移行に対応しています。
Googleも2026年9月、Androidでパスワードやパスキーをパスワードマネージャー間で直接移行できる仕組みを公開しました。AndroidのCredentials Transfer APIはFIDOのCXFをデータ形式として利用しており、Google Password Manager、1Password、Bitwarden、Dashlaneなどが対応しています。なお、CXFが「交換するデータの形式」を定めるのに対し、その転送を安全に行う手順を定めるCXP(Credential Exchange Protocol)は、2026年9月時点でもまだWorking Draftの段階です。
つまり、「AppleやGoogleのパスワードマネージャーに保存したパスキーを、別のパスワードマネージャーへ移せない」という問題は、少なくとも対応サービス間では解消され始めています。もちろん、すべての端末やパスワードマネージャーが同じように対応しているわけではなく、移行期であることには変わりありません。
それでも残る課題
2025年に公開されたパスキー研究の文献レビューでは、普及上の課題として、アカウント復旧、共有・委任、そして利用者の理解不足などが挙げられています。移行性についてはCXF/CXPの整備でかなり改善が進みましたが、復旧や共有は今も重要なテーマです。
特にアカウント復旧は厄介です。パスキーで入口を強固にしても、「パスキーをなくしました」という手続きがSMSやメールだけで突破できれば、攻撃者は入口ではなく復旧手続きを狙います。これは前回の記事で扱ったSIMスワップともつながります。認証方式を強くすると、攻撃者はその認証を正面から破るのではなく、その周囲にある弱い手続きを狙うからです。
4. まとめ
パスキーは、利用者が秘密の文字列を入力するパスワード認証から、公開鍵暗号を利用した認証へ移行する仕組みです。パスワードのようにログイン用の秘密をサービスへ送らず、認証情報がサービスのドメインに結び付くため、サービス側の認証情報漏洩や従来型フィッシングへの耐性を大きく高められます。
そして2026年現在、パスキーはもはや一部のサービスだけが試している技術ではありません。FIDO Allianceは2026年5月、世界で推計約50億個のパスキーが利用されていると発表しました。また、同時に公表した10か国11,000人を対象とする消費者調査では、75%が少なくとも1つのアカウントでパスキーを有効化していました。対応サービスと利用者は急速に増え、異なるパスワードマネージャー間の移行も始まっています。
それでも、パスワードがすぐに消えるとは言い切れません。理由はパスキーそのものではなく、アカウント復旧や古い端末への対応など、パスワードを残しておく必要がある周辺部分にあります。
調べる中で印象的だったのは、パスワードをなくすために必要なのは「パスワードより安全な技術を作ること」だけではないという点です。入口をパスキーに変えても、復旧手続きに弱い認証が残れば、攻撃者はそちらへ移ります。パスワードが本当に消える日は、パスキーが普及した日ではなく、パスワードに頼っている最後の抜け道まで置き換えられた日なのかもしれませんね。
参考
- FIDO Credential Exchange Specifications - FIDO Alliance
- Apple, Google and Microsoft Commit to Expanded Support for FIDO Standard - FIDO Alliance
- Web Authentication: An API for accessing Public Key Credentials Level 1 - W3C Recommendation
- What's new in passkeys - WWDC25 - Apple Developer
- Switching password managers is easy and safe on Android - Google
- Five Billion Passkeys: FIDO Alliance Reports Mainstream Global Usage on World Passkey Day 2026 - FIDO Alliance
- Credential transfer - Android Developers
- Syncable Authenticators - NIST SP 800-63B-4
- Challenges and Potential Improvements for Passkey Adoption—A Literature Review with a User-Centric Perspective - MDPI