※なぜ「自然言語処理」タグを付けたのか? それは、どっかの誰かに、ら抜き検出&叱責機みたいなものを軽々しい気持ちで作ってほしくないからだ。ら抜き検出&激励機ならいいけどね。また、そういう業界の人に届いてほしい知見だからだ。自然言語処理というジャンルでは、品詞とか構文解析とか文法の知識が基礎として必須なのだ。ここで話すのは、主に文法めいた内容だ。
※このテーマ自体はITとの関係性が薄く、どちらかと言うとNoteやブログに書くべき案件だという事は承知だが、表などを使う関係上、手軽に表などを書けるMarkdownが使える素晴らしきQiitaシステムを活かしたい・Noteに垢を登録したくない・Webに知見を書き残したい等の理由から、ここに書き残すよ。それに、私は過去にもIT関係ない話題までふんだんに詰め込んだ記事を書いてるから。
要約
ら抜き言葉は、正しい。
なぜなら、ら抜き言葉が生まれる事は理にかなっていると言えるからである。
より具体的に言うと、「ら抜き言葉」とは、可能動詞の一種である。
ら抜き言葉には濡れ衣が着せられている!
そこで、全国のら抜きラーを救いたい!
なぜ、ら抜き言葉は許容範囲と言えるのかを、書き残す(`・ω・´)
???「ら抜き警察だ!」
いや、わしは今日から、ら抜き警察警察になる! (※ネタ。本当になる気はない。)
事前知識・問題の整理
まず、以下の表を見て、事前知識を整理しておくよ。
現状の国語では、以下のように定められている:
活用の型 | 原形 | れる/られる | 可能動詞 |
---|---|---|---|
サ行変格活用 | する | さ+れる | できる |
カ行五段活用 | 歩く | 歩か+れる | 歩ける |
カ行五段活用 | 行く | 行か+れる | 行ける |
ラ行五段活用 | 走る | 走ら+れる | 走れる |
カ行変格活用 | 来る | 来+られる | (存在しないとされている) |
マ行上一段活用 | 見る | 見+られる | (存在しないとされている) |
バ行下一段活用 | 食べる | 食べ+られる | (存在しないとされている) |
昔習った国語の復習だと思って、これらを分析してみよう。
まず、動詞には色んなタイプの「活用」(語形変化)をするものがある事が分かる。「サ変」(サ行変格活用の略)とか「カ変」(同)とか習ったよね。懐かしい。
そして、これらは活用の種類(型)によって、「れる」が付くタイプの動詞と、「られる」が付くタイプの動詞に分類できる事も分かる。これでは長いので、以降、
「れる」が付くタイプの動詞を**「れる」型動詞**、「られる」が付くタイプの動詞を**「られる」型動詞**と呼ぶ事にするよ。上の表では、
- 上4つのする・歩く・行く・走るが「れる」型動詞、
- 下3つの来る・見る・食べるが「られる」型動詞だ。
※「走られる」の「ら」は、活用語尾であって、「られる」の一部ではないよ。「ない」を付けた時に「~らない」となる時の「ら」が活用語尾で、「~らない」とはならない時が、「られる」の一部だよ。例えば、「走る」は「走らない」となるので、この「ら」は活用語尾。一方、「見る」は「見ない」となり、「見らない」とは言わないので、「見られる」の「ら」は活用語尾ではなく、「られる」の一部だと分かる。これ、ひっかけ問題の定番だったなあ、懐かしい(´・ω・`)
事前知識が整ったところで、
ふと、上の表の右端の列に目をやってみよう。
ん?可能動詞?? 知ってはいるつもりだが、
改めてよく考えると、謎な存在だな。お主、何者なんだ。
しかも、下の方にズラズラと書かれている「(存在しないとされている)」って何やねん。
この謎は、後で解く事になる。
まず、「れる/られる」の謎を解く事が先だ。これを解かない限り、可能動詞の謎は解けないからだ。
では、今回の主役の1つ、「れる/られる」に登場していただこう。
れる/られるとは
これは、助動詞と言われるものの1つ。
まあ、動詞にセットでくっつくおまけみたいなものだと思えばいい。
セットでくっついて、意味合いを追加するのだ。
では、どんな意味合いを追加するんだろうか? 昔習った事を思い出してみよう。
れる/られるには、
- 受け身 「ジャイアンにおもちゃを奪われる」「女子からジロジロ見られる」
- 可能 「ここからバスで10分で行かれる距離」「やっとみんなに見せられる作品が完成した」
- 尊敬 「貴方は素敵な小説を書かれるんですね」「天皇皇后両陛下は本日、被災地を訪ねられた。」
- 自発 「不思議と、懐かしい記憶が思い出された。」
主にこの4つの意味がある。
特に、一番上の「受け身」がポピュラーだ。
一番下は、特定のナレーション以外でほぼ使う機会が無い。
「尊敬」は、天皇のニュース御用達って感じのイメージ。
4つのうち、「可能」は、それなりに使う気がするが… おや?ここに謎が1つ隠れているようだ。
「れる」からは、「可能」の意味が失われかけている
国語の勉強では、
れる/られるには、受け身・可能・尊敬・自発の4つの意味があります。
と習う。あたかも、「れる」も「られる」も全く同等の意味を持っていて、同じような使われ方をする、と。
しかし、あなたは気付いているだろうか。
現代の日本語では、「れる」から「可能」の意味が消えかけているという驚愕の事実に・・・
確かに上の例では、「ここから10分で行かれる」というれっきとした「れる」の「可能」の用例を示した。
でも、そんなまさか、騙されたと思って、以下を確認してほしい。
印刷する・歩く・走るは、「れる」型動詞だ。
そして、これらの動詞に「れる」を付ける事で、「可能」の意味の文を作ってみたのだが、
作ってみた👇以下の文👇を読んでみて、何か気づく事は無いか?
- この高性能プリンタを使えば、一度に大量の書類を印刷される。
- ケガが治ったので、やっと自分の脚で歩かれるようになった!
- 太郎君は、50mを6秒台で走られる。
おやおや? 「れる」を使っているはずなのに、「可能」のニュアンスはどこへやら。
プリンタの文は、「書類を印刷される」を「書類が印刷される」に修正して、
無性に「受け身」の意味の文に作り替えたくなっただろう?
脚のケガの文では、「自分の脚で歩かれる」にめちゃくちゃ違和感があるだろう?
無性に、「自分の脚で歩ける」に修正したくなっただろう?
50m走の文では、あたかも太郎君が偉い人かのように解釈できないか?
そう、天皇の文と一緒で、「れる」を「尊敬」の意味として解釈したくなってしまうのだ。
なぜ、こんな事になるのか。
答えは簡単、現代日本語ではもはや、「れる」が「可能」の意味として使われる事は殆ど無くなったからに他ならない。
そもそも、1つの助動詞が4つも意味を持っていたら、どの意味なのかいちいち文脈から推測しなきゃならない。
そんなの面倒臭いよね。
だからみんな、「れる」から「可能」の意味を無意識に消す事で、意味の選択肢を4つから3つへ減らすような使い方をするようになったのだ。(しかも、尊敬と自発はあまり使われない用法のため、事実上、「受け身」一択に近い。)
でもなぜか例外的に、「10分で行かれる」の場合だけは、辛うじて「可能」の意味が生き残っているのだ。
※ただ、この「行かれる」すらかなりマニアックなもので、「行ける」の方が沢山使われている事は言うまでもない。
可能動詞とは
上記に、「自分の脚で歩ける」「行ける」という語句が登場したが、この「歩ける」「行ける」とは何だろうか。
ここで、可能動詞の登場である。
スクロールするのも面倒なので、今一度、冒頭の表をここで見てみよう:
活用の型 | 原形 | れる/られる | 可能動詞 |
---|---|---|---|
サ行変格活用 | する | さ+れる | できる |
カ行五段活用 | 歩く | 歩か+れる | 歩ける |
カ行五段活用 | 行く | 行か+れる | 行ける |
ラ行五段活用 | 走る | 走ら+れる | 走れる |
カ行変格活用 | 来る | 来+られる | (存在しないとされている) |
マ行上一段活用 | 見る | 見+られる | (存在しないとされている) |
バ行下一段活用 | 食べる | 食べ+られる | (存在しないとされている) |
「する」に対する「できる」。
「歩く」に対する「歩ける」。
「行く」に対する「行ける」。
これらが、可能動詞だ。
なぜ、何もない所に突如、可能動詞というものが出現したのか?
別に、「れる/られる」にも「可能」の意味があるのだから、わざわざ同じ意味を表す新しい動詞を誕生させなくたっていいじゃないか。なぜ、可能動詞などというものが誕生したんだ?
普通に考えると、そう思うだろう。
ここで、先ほどの「れる」から「可能」の意味が失われかけている件が関わってくる。
そう、今や、「れる」を使って「可能」の文を作る事は、ほぼ不可能なのだ。
どんなに頑張って作文しても、上記の3例のように、「受け身」「尊敬」など別の意味の方で解釈させる力が働いてしまい、「可能」の意味の文になってくれないのだ。
では、どうやって「可能」の文を作ればいい? 代替策は無いのか?
そこで活躍するのが、可能動詞なのだ。
この可能動詞は、4つもの意味を持った「れる/られる」とは違い、意味は「可能」一択だ。
しかも、「れる」を付けるよりも、字数が少なくて済む場合が多い。 なんてお手軽で便利なんだろう!!!
この手軽さが受け、今や殆どの日本人が可能動詞を使うようになった。
その結果、「れる」が「可能」の意味で使われる事はどんどん減ってゆき、しまいには… である。
そう、
「れる」から「可能」の意味を奪った犯人は、可能動詞なのだ。
この**「可能動詞」というのは、学問上正式に、存在が認められている**。
だって、国語で習うでしょう?
特に、「できる」なんかは完全に不規則な形をしている上に、完全に現代日本語の一大重要部を占めているので、
可能動詞として存在を認めざるを得ない。
でも、ここに1つの不合理を指摘したい。
「可能動詞」とかいう中途半端な存在
これまでの顛末を知っていれば、可能動詞は**「れる」型動詞に対して存在している事が分かるはずだ。
つまり、
「れる」から可能の意味が失われた代わりに、「れる」型動詞に対して、可能動詞が用意**された。
それは、上の表を見てもよく分かる。
だが、「られる」についてはどうだろうか。
実は、「られる」からはまだ「可能」の意味が失われていないのだ。
先程も出した 「やっとみんなに見せられる作品が完成した」 という例文に、特に違和感は無い。
「みんなに見せる事ができる」と言い換える事ができる。
可能動詞は、「れる」では表現不可能になった「可能」の意味を実現するための救済策として、機能している。
そのため、「れる」型動詞には可能動詞が存在する。
一方、特に救済策の必要がない「られる」型動詞については、可能動詞の存在が認められていない。
例を使って説明しよう。
「走る」に「れる」を付けて「走られる」にしても「可能」の意味になってくれないから、救済策として、「走れる」という可能動詞の存在を認める事になった。
一方、「食べる」に「られる」を付けて「食べられる」としても、「可能」と解釈できる余地が残されている。そのため、「食べる」には可能動詞の存在が認められていない。
これが、上記表の「(存在しないとされている)」の意味だ。
可能動詞は、一部の動詞に対してしか存在できない、限定的で中途半端な存在なのだ。
鋭い人は、ここで話が繋がったと思う。
今、日本語に何が起きているのか。
ら抜き言葉の正体は、「られる」型動詞の「可能動詞」である
本来、4つもの意味(メジャーな意味に絞っても「受け身」「可能」の最低2つ)を持っていた「れる」。
それが不便だから、せめて「可能」の意味を別語として独立させて可能動詞とし、「れる」はほぼ「受け身」専用とした。
これは、言語の変化としてとても自然な事だし、理にかなっている。
でも、なぜかこの変化は「れる」でしか起こっていない。
「られる」でも同様の変化が起こってもいいのに、それが起こらず、
「られる」の過剰な多義性は、未だに残っている。
しかし、若者にとっては**「られる」とて例外ではない**。
「可能」の「れる」が(意味が多すぎて)使いづらいなら、「可能」の「られる」だって同じように使いづらいのだ。
「食べられる」だって、文脈次第では「受け身」なのか「可能」なのか判定しづらい時がある。
- ブタは食べられる
という文があったとして、
「人間に食べられる」という「受け身」の文なのか、
「ブタは(エサとして何かを)食べる事ができる」もしくは「(人間が)ブタ料理を食べる事ができる」などといった「可能」の文なのか。
どっちだい?
ここでやっとこさ本題、ら抜き言葉の登場である。
- ブタは食べれる
と言ってしまえば、一発で「可能」の意味だとハッキリ定まる。
確かにこれでも、「ブタのエサ」なのか「人間にとってのブタ料理」なのかははっきりしないが、少なくとも当初よりも意味の候補を減らせている。
そしてゆくゆくは「られる」からも「可能」の意味を抜いていって、
「れる」の場合と同様に、「られる」と来たらまず「受け身」のニュアンスが連想されるようにし、「『可能』の意味の作文をするなら、普通は『られる』ではなくら抜き言葉の方を使うのが当たり前」、という風潮を広めておけば、「ブタは食べられる」という文が出た時に「あ、受け身の方の意味なんだな」と意味を絞りやすくなる。
若者がら抜き言葉を使うのは、こうした非常に理にかなった理由があるのだ。
あれ?これって、「可能動詞」と同じ事をしていると思わないかい?
そこで比較がてら、可能動詞(=「れる」の場合)の例も出してみよう。
- ブタは喜ばれる
という文から「可能」の意味を削除してやる事で、
「(ブタを贈り物として贈るなどした時に)喜んでもらえる」という意味の「受け身」だとハッキリ定まる。
「喜ばれる」の「れる」には、もはや「可能」の意味など無いのだ。
一方、「可能」の意味にしたいのなら、「れる」の代わりに可能動詞を使って、
- ブタは喜べる
と言えば良い。こうすれば、「ブタという動物には喜ぶ事のできる能力が備わっている」のような意味に定まるだろう。
「れる」からは既に「可能」の意味がほぼ抜け落ちているので、
「れる」と来たらまず「受け身」のニュアンスが連想され、「『可能』の意味の作文をするなら、普通は『れる』ではなく可能動詞の方を使うのが当たり前」、という風潮が既に形成されている。
「可能」なのか「受け身」なのかを明確にする過程で、学術的に正式に存在が認められるに至った「可能動詞」。
それなのに、どうして「れる」型動詞の可能動詞は認めておいて、
上記のような全く同様の理由を持っているはずの「られる」型動詞には可能動詞の存在を認めないのかい?
そこに、不合理があるのだ。
可能動詞の存在は「れる」型動詞に限られ、「られる」型動詞には認められないべき、とする必然性は、どこにもないのである。
本来あるべき全貌
活用の型 | 原形 | れる/られる | 可能動詞 |
---|---|---|---|
サ行変格活用 | する | さ+れる | できる |
カ行五段活用 | 歩く | 歩か+れる | 歩ける |
カ行五段活用 | 行く | 行か+れる | 行ける |
ラ行五段活用 | 走る | 走ら+れる | 走れる |
カ行変格活用 | 来る | 来+られる | 来れる |
マ行上一段活用 | 見る | 見+られる | 見れる |
バ行下一段活用 | 食べる | 食べ+られる | 食べれる |
当初の表で「(存在しないとされている)」と書かれていた欄には、
今巷で「ら抜き言葉」と呼ばれているラインナップが収まっている。
そう、「ら抜き言葉」とは、可能動詞の一種だったのである。
そして、「ら抜き言葉」の「ら」とは、「られる」の「ら」の事だったのである。
人々は無意識のうちに、「られる」から「ら」を抜く事で、存在しなかった可能動詞を新たに作っていたのである。
ちょうど、「歩かれる」から「歩ける」を作り出し、「走られる」から「走れる」を作り出してきたのと同じように、「食べられる」から「食べれる」を作り出したのだ。
方法としては、「アエウ」段音を「エウ」段音に変換したのである。
こうして、「れる」型動詞の時と全く同じプロセスを踏んで新たな動詞を作ったというのに、
なぜ片や認められ、片や「ら抜き」としてバツを付けられねばならぬのか?
そこに不合理がある、と言うのだ。
「(存在しないとされている)」などという馬鹿げた意地は、この世に必要ないのである。
ここまで読んで、まだら抜き言葉に反旗を翻したいかい?
それはただの頑固な原理主義者であり、教鞭を執った頭の固い既得権益であり、漢字テスト(後述)と一緒である。
余談
話は逸れるが、先生や学会が正しいと言い張るものに疑問を持つ事は大事なのだ。
もっと言うと、「そういう決まりだから」というだけの理由で順守が強要されていて、
しかも多くの人々がそれに疑問も持たずに盲信している場合、誰かが疑問を持って指摘する事が大事なのだ。
それ繋がりで、ああ^~ こういうの大好きなんじゃ^~
漢字テストのふしぎ
個人的には、敬語やビジネス語の強要・身だしなみチェック校則などにも同じものを感じる。理不尽なものを我慢し続けられるほど、メンタルが強い人ばかりではない。こうした理不尽を放置・順守し続けていると、そのうち誰かが自殺したり非行に走る。決まりをただ理不尽に順守させ続けるのは、メンタルヘルス・人権上の問題があるのだ。
ら抜きも許そう。やはり人間に必要なのは罰ではなく許容なのだ。