はじめに
このシリーズでは,投球における力学のメカニズム,たとえばなぜいつもバックスピンとなるのか?球種による回転のかけ方の違い.リリースのタイミングや制球などのメカニズム,ノビの力学などについて述べていく.
また,しばらくの間は,それを理解するための力学の基本事項についてまとめる.
いわゆるスポーツバイオメカニクスの世界だ.ただしバイオメカニクスの分野では,物理量間の量的な関係などを述べることが多く,メカニズムに切り込んだ研究は少ない.関係や特徴やがわかることはとても重要だが,ここでは,実際の投球の解析も用いながら,ボールの挙動を定めている「理(ことわり)」を理解することで投球メカニズムを明らかにしていきたい.
前置きが長くなった.ここから,投球の力学について述べていく.ボールに作用する力には,いろいろな分類があるが,ここでは少し変わっているが,投球の力学において意味の異なる二つの力に分解する方法を述べる.これは,投球の力学を理解するうえで,とても重要である.また,「最大外旋位〜リリース」間のボールの力学的挙動,特に回転運動について述べていく.
ボールに作用する力(投球方向に作用する力と向心力)
図1:ボールに作用する力と,ボールの角速度(投手から見て左前方から見た図)(1kHzサンプリング)
実際にファストボール(ストレート,約130km/h)を投球しているときの,ボールの軌道(赤点),
ボールの回転軸(ピンクの破線,線の長さはボールの回転速度(角速度)の大きさを示す)を示している.
右投げのピッチャーの左前方のやや上方から眺めた図で,実際にモーションキャプチャで計測したデータを
示している.1000Hzで計測されているので,点は1ms毎に示されている.
図1は,最大外旋位と呼ばれる最も肩関節が外旋している(腕が最も後ろに引っ張られている)位置からリリース間のボールの位置と角速度ベクトル(回転軸)を描いている.回転(角速度)の図中における表現方法については,後述の図5を参照されたい.
ボールが水色に位置にあるとき,ボールには黒色の破線の力が作用する.この力は2つの直交する力に分解でき,ここでは,投球方向(速度方向)に作用する力と向心力に分けている.その二つの力の合力(黒破線)が実際にボールに作用する力となる.
投球方向の力: ボールを加速する力
投球方向に作用する力は,まさにボールの加速に直接的に関与する力である.これは,ボールの速度(接線)方向に作用する力で,この矢印が長いほどボールはその瞬間それだけ加速する.
向心力: 回転を維持するための力
向心力は,ボールが回転運動(円運動)しているときに,ボールを回転させるために必要な力で,回転運動を維持するために必要な力である.回転の中心(曲率中心)に向かって,おおよそ下向きにボールを引っ張る力であり,遠心力の反作用の力である.ボールに紐をつけてくるくる回すことを想像してほしい.このとき糸に作用する張力(引っ張る力)のほとんどが向心力と考えて良い.張力には重力も含まれるが,向心力と比較すると無視できるほど小さい.
図2:糸でつないだボールをぶんぶんまわす.
もし,その糸が切れたら,ボールは外側に逸れていくのではなく,あくまでも接線(投球)方向に飛んでいく.このことからも回転運動を維持するための力であることを認識していただきたい.曲率中心については後半で少し述べるが,ボールの運動の回転中心と考えればよい.
向心力の大きさは,回転の中心(曲率中心)からボールまでの距離と,その中心から見た回転速度の二乗に比例する.
なお,「投球方向の力」と「向心力」の向きは直交している.
ここで注意していただきたいことは,ボールには投球方向の力と向心力の両方が作用するので,合力として斜め下方向に力が作用するということである.
投球時のボールの回転の挙動
図1ではすでに回転軸を示したが,回転の速度(角速度)を表記する方法について説明する.図3はネジの向きと回転の向きの関係を示す.
図3:右ネジの方向と回転方向
回転を表現する方法:矢印の方向を,右ネジが進む方向と考えれば,
右ネジの回転方向がボールの回転の向きを示すことになる.
回転を示す矢印をPythonの描画の都合でうまく描けないので,以下では細い線から太い線へ向かう方向が矢印の方向を示している.図1ではこの線の長さが,角速度の大きさを示している.ピンクの破線が長いほど,角速度は大きいことを示す.
さて,図1を真上から眺めると
図4:真上から見た図(ボールに作用する力ベクトルも黒線で示した)
図4のようになる.
下の図5はそれを真横から見ている.
図5:真横から見た図(リリース時.向心力は直交する投球方向の力よりも大きい)
図1と異なり,図4,5では,ボールに作用する力を,細い黒線で描いている(ただし回転制御フェーズのみ).力はかなり斜め下方に作用していることがわかるだろう.
図1,4,5のピンクの破線は実際のボールの角速度ベクトル(回転速度)を図3の方法,つまり,ボールの回転軸(線の方向)と回転の速さ(線の長さ)を示している,すこしわかりにくいがこの線の太い方の向きに対して右ネジを回す方向に,ボールは回転することを示している(図4参照).
たとえば,最大外旋位のあたりでは手全体でボールを握っていて,ボールは緩やかなトップスピンの状態で,ネジの向きは,反対に右から左を向いている.一方,リリースのときは右ネジの向きは,投球方向を向いておおよそ左から右に向いているので,バックスピンをしていることを示している.バックスピン開始のとき,回転軸がもし投球方向を向いて左右の水平軸となる純粋なバックスピンからトップスピンへ移行するときは,角速度は0となり,軸は消失するが,実際には図1,4,5のように移行する.
薄い青色で示しているボールの位置あたりにある位置では,回転軸の向きがかわっている.これは回転の速度も小さく(線の長さが短い)なっている.これがバックスピンの開始するタイミングで,恐らく「母指がボールから離れ始める」位置である.
ただし,バックスピンを起こす力は,図の「動力学的回転開始」と書いている時点から,バックスピンを起こす力が作用し始めている.実際にバックスピンの回転が開始(「運動学的回転開始」と呼ぶ.各図の水色のボールの位置の時点に相当)するには5msほど時間がかかっていることにも注意したい.
ちなみに
こんな感じの8個ぐらい反射マーカを貼付し,剛体としてのボールの運動を計測している.
中心(重心)は非線形系の最小二乗法,ボールの姿勢は特異値分解を用いている.緻密な解析には,これらの精度が重要だが,さらなる改良を検討している.
力学の詳細:並進と回転(曲率中心)
以下はバイオメカニクスを学ぶ人に必要な内容で,力学的な理解をさらに深めるために必要な情報であるので,投球のメカニズムだけを理解した方は読み飛ばしてもよいだろう.
曲率中心
図6:曲率中心Cと曲率半径R
図7:投球中のボールの曲率中心の変化
最大外旋位近くではボールの曲率中心(回転の中心)は肩付近にあるが,次第に遠くなり回転の中心は
左下の床近くまで伸びていく.基本的には右投手の場合,右肩から体幹付近の下に位置していく.
球種でも全く異なるので,球種による違いをさとられない投球の練習にも使える情報だ.
力強い投球をする場合は,リリース近くまで半径が短めで,急激に曲率半径が伸びていく.
ボールの運動を一つの回転運動だけで記述したいとき,曲率中心まわりの回転運動でボールの運動を記述することができる.ただし,等速円運動をしていないかぎり,その中心は時々刻々移動する.
このときボールと曲率中心の距離を,曲率半径Rと呼ぶ(図6参照).道路標識でよく見かけるRのことである.Rが大きいほど半径が大きいのでそれは緩やかなカーブで,Rが小さいほど半径が短いのできついカーブとなる.直線運動をしているときは,半径は無限大となる.
投球では半径は,時間経過とともに徐々に長くなる傾向にある(図7).上腕の内旋運動をしっかり利用している投げ方の場合,曲率中心はよりボールの下に位置していく.
投球におけるボールの曲率中心の位置は,どこを中心にボールを回転しているかを示している.必ず,身体が形成する空間内になるとは限らないが,どこを中心にしてボールを回転させているかを示している.
さて,投球方向に作用す力は,その半径方向と直交する方向である(図1参照).
このように曲率中心を使って,ボールに作用する力を接線方向(投球方向)の力と,向心力に分解していあげれば,投球方向に加速する力と,回転を維持するための力に分解することができ,その意味がわかりやすくなる.
なお,曲率中心を計算しなくても,ニュートンの法則からボールに作用する力を,ボールの重心の二階微分と,重力加速度を考慮すればボールに作用する力が計算でき,そこから接線方向の力を引き算すれば,向心力は計算できる.
ただし,曲率中心の位置は物理的に特別な意味を持ち,その変化を観察することで,図7のように,その投球の特徴を示すことができる.選手間ではかなりその変化パターンは異なり特徴を示すし,選手の個人内でも調子の善し悪しの微妙な変化を観察することができる.3次元で投球の微妙な特徴を可視化するには非常に優れた方法である.お試しあれ.
肩の曲率中心も投球の物理的意味を持つ情報だ.末端に限らず,身体運動の各位置の意味を浮き彫りにする.
剛体の運動の意味を知りたい場合は,瞬間回転軸を描くとよいだろう.
曲率中心の数学的な詳細は,note記事「Sports Biomechanics Geek #7 〜多関節運動の代表値 曲率の力学〜」を参照されたい.
ここでのアプローチ方法
「はじめに」でも述べたが,バイオメカニクスの分野で統計的な分析が多い.しかし,それは「たまたまそう見えているだけ」ということもある.複雑な解析を利用することもあるだろう,しかし,そこで力学は使って分析を行っていても,結局,量と量との関係性を述べる統計の世界だ.特徴がわかることはとても重要だ.しかし,それがボールの挙動を定めている「理(ことわり)」を理解することにつながらないケースも多い.
神経科学は,脳の中で何を行っているかをうかがい知るために,統計や量的な解析に頼るしかないだろう.しかし,身体運動は力学法則が厳密に成り立っている.理論的なアプローチが可能なのだから,分析だけではなく,もっと数理を活用することが懸命だ.ここではそのようなアプローチを示すことで,皆様のお役に立てるように努めたい.
なお,過去に書いた記事は,少し専門的であったので,ここでは,できるだけわかりやすく述べていきたいが,どうしても数理について述べるので,数学の力で説明することがあるかもしれない.その際はご容赦いただきたい.
数学的・物理的必然性
ここでは,基本的には精密な計測・解析データに基づき,単なるそれらの統計や物理量と物理量の関係だけから述べるのではなく,可能な限り数学的必然性(ロボティクスの杉原知道先生の言葉 1)に基づいたメカニズムについて述べていきたい.
ボールは自由に制御できるわけではない.スピンをかけたいから,下向きに簡単に力を作用できるわけではない.ボールから指を離せば回転し始めたり,リリースするわけではない.幾何学的・解剖学的な拘束や,力学拘束や幾何学拘束にかなり束縛されながら運動を行っている.たとえば球速を増加させようとすると,制球力が衰えるなど,ことは簡単でない.ただし,そのような理を理解せずとも,ヒトはその自由のなさ(束縛)を反対に活用しながら,あっさりと投球を行っている.下手ではあっても多くの人はボールを投げることは可能だ.しかし,ロボットにそれを実現させようとすると,それなりに大変だ.投球と呼べるような運動を数理的に理解し実現するのは,なかなか難しい課題である.
このような何か(たとえば速度)を増やそうとすると,何か(たとえば正確性)が劣るようになってしまうという構造(拘束)は,身体運動にとっては矛盾を引き起こす.そのバランスを取りながら,両方とも解決することが身体運動で求めらる.
そして,このような束縛は多くの場合,身体の「末端」や,末端での「道具と身体間」で拘束することが多い.そのような拘束を守らなければ運動がそもそも成立しない.したがって,その力学拘束を「身体全体に分配」する強い拘束が支配する.バイオメカニクスでは末端への伝達という逆方向の視点が中心で,その視点が欠けてしまうことが多い.
そのような理解は,単に投球や野球の理解だけにとどまらず,きっと他の運動の理解にも役立つことだろう.「理(ことわり)」に基づいてれば,どこまで言えるか,それが当てはまるか,理論的な正しさの範囲も教えてくれる.また,そのような理解はロボットなどの強化学習や機械学習では実現できないような運動の実現にも役立つだろう.
また,スポーツのような運動は身体運動の特徴を「顕在化」する.スポーツのような運動は,日常行うような運動ではないが,身体からするとスポーツは特別な制御を必要とする運動ではない.スポーツをするときに脳の回路が入れ替わったり,神経系が特別な制御を行うわけではない.あくまでも日常の身体運動の延長である.スポーツのような運動を通して,我々が行う運動のメカニズムを顕在化させることは,身体運動の理解のために,それはとても良い題材となる.
おわりに
次回は,力の作用点について投球の力学の基礎(2) -ボールに作用する力と力の作用線:剛体の回転の力学-で述べる.
ボールのダイナミクスの記述のために,ボールに作用する力とトルクがわかれば,剛体の運動を記述するうえで必要十分である.しかし,ボールの力学的挙動を理解するためには,力とトルクそのものでは,意味がわかりにく.そこで,曲率中心がわかればボールの運動の特徴が理解しやすい(?)ように,力の作用点を算出することで,ボールのダイナミクスがよく理解できる.たとえば,ストレートは転がりを活用して投げているなど.いったん転がりと理解できれば,それをどのように活用すれば,より良い投球の力学的戦略や,ノビという問題も見えてくる.
なお,この一連の記事で述べるボールの回転メカニズムは,バスケットボールや他の球技でも共通する重要な内容を含んでいる.それぞれに球技に合わせて考えていただければと思う.
参考文献
1. 杉原知道,ロボット工学に基づく二足歩行制御の構成論的理解(第75回 ロボット工学セミナー 歩行の生理学/力学/制御理論と歩行支援ロボティクス),2012
2. 太田,福田,那須,木村,力の作用点による投球の回転制御の解析, 第45回バイオメカニズム学術講演会(SOBIM2024)2024.12 発表予定