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ソフトウェアエンジニアという人種(または私という一人)についてつらつらと思ふ

Last updated at Posted at 2021-12-14

ご挨拶

こんにちは、READYFOR でエンジニアをしています @otaizo です。
この記事は READYFORアドベントカレンダー2021 、14日目の記事です。

はじめに(前振り)

愚文を少々・・・
コンピュータソフトウェアをつくる人、いわゆる「ソフトウェアエンジニア」という職業について、およそ35年の歳つきが流れました。
思い起こせば鼻腔を膨らませて意気揚々と“世界を変えてやるんだ”と勇ましく社会に出てから、僅かな成功と、その何倍もの挫折とを経ながら、私は今もソフトウェアをつくる人でいます。
その間には、今となっては、「革命」ともいえるような途轍もないソフトウェア界での変化もありました。インターネットとブラウザの登場はいま考えると「あぁ、あれはこういう未来をつくる事になる始まりだったのかぁ・・・」と幾分感傷的にさえ思うこともありました。

今日は、そんな私におこったソフトウェアの技術的なあれやこれやはそっと作業台の隅に寄せ置いて、エンジニアという、多分多くのそうでない人にとっては一種独特のものの考え方や生き方をしているように見える人種について、私なりに辿り着いた「思ふところ」をつらつらと書いてみたいと思います。
私ごときが大上段に「エンジニアとは、かくありき!」と言えるはずなどありませんので、これはあくまでも「私の思うところ」であり、それはすなわち私の経験/体験を省みた独りよがりな自己反省文の域を超えません。要するに「妄想」の類だと思われまので、その辺りのところは何卒ご容赦ください。
あまり、いえ、相当にこの場には場違いの文章になるのではないかと危惧していますが、いつもの年よりも激動度の高かったこの年の瀬のアドベンドカレンダー記事の中で、ちょっとした息抜きと思っていただけたらありがたいです。

フンド ノ カワヲ ワタレ

私はいつも抗っていました。他の人が、ソフトウェア上でのひとつのアイデアをみんなの前で意気揚々と開陳したとき、チームでつくるソフトウェアに採用すべき技術的な方針を、数ある候補の中から民主主義的に選択しようとしたとき、ある問題を解くのに、すでに確立された「定理」ともいうべきアルゴリズムを疑うことなく使う実装を見たとき、などなどに接するたびに。抗うだけではなく、それは怒っていたようにも思います。時として口角泡をとばして知らず知らずのうちに大きな声で槍の先で突き刺すが如き勢いを持って対していたことしばしばでした。今となって思えば、「議論」や「論戦」というよりは、もうただ「攻撃ー打ちまかした方が勝ち」だけだったような気さえしています。もちろん,エンジニアですから、無謀無策に勢いだけで攻めることはありませんでした。何が「正しいのか?」、「どんな技術的バックグランドに裏打ちされているのか?」、「どうしてこちらではダメなのか?」、「それは古臭くないか?」、「それから何を学べるのか?」、といったことを懸命に調べ、それらを武器として「論破」することが良いことなんだ、という攻撃でした。でも、それが「エンジニア」という職業の「あるべき姿」だったと考えていたことは確かです。それが「切磋琢磨」だと思っていました。

ショギョウ ハ ムジョウ

世は無常、ある時の真理は別の時にはそうではなくなる、いえ、ある時の真理は「そのときの精一杯の真理」であって、それより後の時には以前以上に精一杯度がパワーアップされたアップグレード版真理が颯爽とあわられる、ということを何度も目の当たりにしてきて、「あの時の自分は何をよりどころとしていたのだろう?」「私がよって立つ地盤はかくも変わりやすいものなのか」と感じるわけです。精神が不安定な時などは「穴があったら入りたい」と思うこともしばしばです。

私は、“エンジニアはサイエンティストではない”、と思うわけです。「技術者」であって「科学者」ではない、真理を追い求めてはいけない、と。少し前の時代でいう「職人」という言葉が一番よく本質を表しているような気がします。そこには「技(ワザ)」や「芸(ゲイ)」を極めるための「競争」や「論争」「切磋琢磨」、もしくは「伝承」や「共有」はあっても「何が正しいか」ということを争うのはちょっと身分違いな気がするのです。
真理を求めることをやってはいけない、というつもりは毛頭ありません。自分にとって「正しい」と思える基礎の上に「技術」が積み上げられていくわけで、その根っこの部分はむしろ熱い情熱を持って追い求めるに十分の価値と根拠があります。ただし、静かに追い求めるのが良いのでは、と思うわけです。
繰り返しますが、決して自虐視点ではありません。エンジニアとして私がみたい景色・世界は「物事の心理が解明された様」ではなく「技術が創り上げた役に立つ様」なんだと気がついた次第です。(なんと、ン十年もかかってかい!というのはサテ置いておいて・・・)

オコラズ シカシ オコレ

そう、私は「誰かに」「何かに」、「外に向かって」怒っていました。その原因がそうした私の外にある「誰か」「何か」といった「自分ではないナニモノか」ででもあるかのように。
・・・・・違ったんですね。「慍る」という字があります。これも「おこる(もしくは「いかる」)」と読みます。「怒る」が外向きのベクトル(荒ぶった感情だったり、きつい言葉だったり)をビシビシ出しまくってある意味「責め立てる」様に使われるのに対して、「慍る」は、自分の内側に対して「怒り」の感情を向けること、今の状況を自分の責任のもとに責める様をいうそうです。技術を磨く道(=エンジニアの道)において、他の人と違った、往々にして「自分には到底受け入れらない」様に思える考えだったり視点に接したとき、「それは間違っている!」とか「それは馬鹿げている!」と(正直に言えば、こんな直接的な言い方はしませんよ。たいがいは「それはどうかなぁ?」とか「賛成はできないなぁ」といったソフトな言い回しになりますが、奥底では結構辛辣だったりしてることがしばしばです)「怒る」のではなく「慍る」ことにしたい、と思うのです。

謝文(おわりにかえて)

やはり、取り止めのない、無価値な駄文になりました。ご容赦ください。
もし、ここまで読んでくださったとしたならば、感謝感激です。最大限の感謝をどう伝えて良いかわかりません。また、貴重なお時間を浪費させてしまったことを深くお詫びいたします。

明日は、我らが PDM lauraさんのお話ですので損はさせません! お楽しみに

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