フロンティアラボが新しいモデルを出すとき、普通は「これが今いちばん強い」と胸を張る。ところが7月15日に公開されたInklingの告知には、こう書いてある。
Inkling is not the strongest overall model available today, open or closed.
作ったのは元OpenAI CTOのMira Muratiが率いるThinking Machines Lab。同社にとって初の自社モデルであり、しかもオープンウェイト(重みを誰でもダウンロードして改変できる)で、ライセンスはApache 2.0だ。最強を名乗らないモデルを、なぜ「初手」に選んだのか。ここが今回いちばん面白いところなので、そこから解いていく。
賭けているのは強さではなく「わからないと言える」こと 🎯
現在のLLMがハルシネーション(もっともらしい嘘)を垂れ流す根っこには、訓練の報酬設計がある。多くのモデルは「答えを出すこと」に報酬が付くよう学習される。すると、確信がなくても何か言ったほうが得、という行動が刷り込まれる。試験で空欄より当てずっぽうのほうがマシ、というのと同じ理屈だ。
Inklingはここに逆の圧をかけている。Thinking Machinesは後訓練で、解決済みの実世界の問いに対してproper scoring rule(確率予測の正直さを測る採点法)を報酬に使い、さらに「棄権を許す報酬(abstention-aware rewards)」を導入した。公式の表現がわかりやすい。
answering only pays off when the model is likely to be right
つまり「正解しそうなときだけ答えが得になる」。自信がなければ黙る、あるいは「わからない」と返すほうが報酬上は合理的になる。これはベンチマークのスコアを1点上げる話ではなく、モデルの出力を業務で信頼できるかどうかに直結する。RAGやエージェントの中で、根拠のない断定を平気で返すモデルほど扱いに困る、というのは現場感覚とも一致する。ここを訓練レベルで手当てしてきたのが、Inklingのいちばんの主張だと私は読んでいる。
中身:975Bを積んで41Bだけ使うMoE
アーキテクチャはオーソドックスなようで、細部に手が入っている。モデルカードによれば、Inklingは66層のデコーダ専用Transformerで、フィードフォワード部がスパースなMixture-of-Experts(MoE、トークンごとに一部の「専門家」ネットワークだけを起動する仕組み)になっている。
総パラメータは975B(約1兆)だが、各トークンで実際に動くのは41Bだけ。256個のエキスパートのうち6個をルーティングで選び、加えて常時2個の共有エキスパートが動く。推論コストは総数ではなく「起動している」41Bにおおむね比例するので、名目1兆パラメータの割にはずっと軽い、というのがMoEの旨みだ。
差分として目を引くのは注意機構まわりだ。位置エンコーディングに主流のRoPEではなく相対位置埋め込みを採用し、局所を見るスライディングウィンドウ層とグローバル層を5対1で交互に挟む。さらにkey/value射影の後段に短い畳み込み(short convolution)を入れて局所的な並びを補強している。学習はMuonとAdamのハイブリッド(大きな行列にMuon、その他にAdam)、後訓練は数学・コード・音声・画像・チャット・安全性にわたり3000万回超のロールアウトを回したとされる。
入力はテキスト・画像・音声の3モダリティに対応し、出力はテキストのみ。文脈長は最大100万トークン。訓練データは45兆トークン規模のマルチモーダルコーパスだと告知にある(※モデルカード側では具体的なトークン数は明示されていない)。ベンチマークは効果測定用に一部だけ挙げると、AIME 2026が97.1%、GPQA Diamondが87.2%、SWEBench Verifiedが77.6%。数字だけ見れば十分に上位だが、本人たちが「最強ではない」と言っているのは、GPT-5.6やKimi K3といった最前線と横並びにしたときの話だと理解しておけばいい。
「考える量」をダイヤルで回す ⚙️
もう一つ実務的なのが、テスト時の計算量を呼び出し側から制御できる点だ。Hugging Faceの解説記事によると、reasoning_effortというパラメータにnone / minimal / low / medium / high / xhigh / maxを渡して、推論に使うトークン量を段階的に増減できる。
効きは軽視できない。公式は、コーディング系のTerminal Bench 2.1でNemotron 3 Ultraと同等のスコアを「約3分の1のトークン」で出したと述べている。速度とコストが欲しい場面ではダイヤルを絞り、難問だけhighやmaxに上げる、という運用ができる。APIから触るなら、Together AIがday-0対応していて、OpenAI互換で呼べる。
from together import Together
client = Together()
response = client.chat.completions.create(
model="thinkingmachines/inkling",
messages=[{"role": "user", "content": "この問題を丁寧に解いて答えを出して"}],
reasoning_effort="medium",
)
print(response.choices[0].message.content)
手元で動かせるのか
オープンウェイトとはいえ、素のInklingは巨大だ。Hugging Faceの解説によると、BF16のフルウェイトは約2TBのVRAM(Hopper世代以降)を要求する。NVFP4量子化版なら約600GB(Blackwell)まで下がり、さらにllama.cpp/Unslothの1ビット量子化GGUFなら概ね50〜100GBまで落ちる。ここまで来ると、高VRAMの1台構成で個人でも試せる射程に入ってくる。
| 形式 | 必要VRAMの目安 | 想定ハード |
|---|---|---|
| BF16 フルウェイト | 約2TB | Hopper以降 |
| NVFP4 | 約600GB | Blackwell |
| 1ビット量子化(GGUF) | 約50〜100GB | llama.cpp / Unsloth |
量子化版を試すなら、Unslothが配布するGGUFをllama.cppでそのまま引ける。
llama serve -hf unsloth/inkling-GGUF:UD-IQ1_S
そしてThinking Machinesが本命に据えているのは、この重みを組織ごとに微調整する使い方だ。同社の学習プラットフォームTinker上で、64K/256Kの文脈長を選んでファインチューニング・蒸留・強化学習ができる。彼らがInklingを「完成品ではなく出発点」と位置づけ、最強を名乗らないのは、この一貫した戦略の裏返しだと見ると腑に落ちる。汎用の一等賞を1個配るのではなく、各社が自分の用途に削り込むための素材を配る、という賭けだ。総パラメータ276B/起動12Bの軽量版Inkling-Smallもプレビュー公開されており、まずこちらで感触を掴むのが現実的だろう。
強さのランキングで語られがちなこの分野で、「正直さ」と「調整のしやすさ」を前面に出したモデルが米国最大級のオープンウェイトとして出てきたこと自体が、一つの立場表明だ。ベンチマークの数字より、自分のデータで棄権挙動がどう変わるか。そこを触ってから評価したいモデルだと思う。