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コミュニケーションロボットについて社会文化的に分析した博士論文のざっくりしたまとめ

Last updated at Posted at 2022-02-28

ごあいさつ

ご無沙汰しております。2017-18年にはコミュニケーションロボット界隈の皆様には大変お世話になりました。コロナ禍など予期せぬ事態も色々あり大変な日々をお過ごしな方も多いと思いますが(私も色々ありました)博士論文がようやく完成し、昨年(2021年)の10月末に無事口頭審査を通過し、12月に学位授与となりました。

Facebookでもご報告させて頂きましたが、ここで(ようやく)博士論文のまとめを皆様にお届けしたいと思います。(qiitaが発表プラットフォームとして不適切でしたら移動しますのでご指摘頂ければ幸いです)

研究の変化

博士論文は、最初にぼんやりと考えていたものとはだいぶ違うものになりました。当初は、2016年のペッパーで印象づけられたコミュニケーションロボットが多く市場に広がろうとしているのは、「技術は何らかの問題を解決するために登場する」という前提を元に、何を解決しようとしているのだろう?という問いからアプローチを始めました。皆様とお話しさせて頂く中で、少子高齢化という現象が、労働力減少、そして孤独の問題として実際に逼迫しているのではないかと実感しました。

問題を特定すると、「なぜそれが解決策になるのか?」という疑問が湧いてきます。これはとくに、北米のオーディエンス(主に人文社会科学系の学者たち)を説得するには難しい問題でした。動物ならまだしも、なぜロボットなのか?とか、機械が人間の孤独を癒やすことなどできるのか?とか、フレンドリーに話しかけてくるロボットなんて不気味じゃないのか、とか。こういった声に対する答えを探す過程で、私は日本に帰るたび感じる「なんとなく共有されてる暗黙の了解」を、何度も説明していることに気づきました。

日本におけるロボットは、単なる人間を模した機械ではない。その元となる存在は人間ではなく、ロボットというキャラクターである。

もちろん、突然「キャラクター」とか言っても、技術や機械やロボットのことで頭がいっぱいの聞き手は混乱します。そこで私が引き合いに出し続けたのが、「鉄腕アトム」でした。皆様とお話しさせて頂いた時も、「アトムみたいな」という表現はよく出てきましたし、誰も(私も)とくに変だとも不思議だとも思わない、ある意味「当たり前」の存在。この「当たり前」がどのようにして今のような「当たり前」になったのか、を探る。それが、私の博士論文となりました。タイトルは

COMMUNICATION ROBOT: ANIMATING A TECHNOLOGICAL SOLUTION IN TWENTY-FIRST CENTURY JAPAN

です。簡単に訳すと「コミュニケーションロボット:21世紀日本における技術的解決策にかかけられた『生命を吹き込む魔法』」となります。どういうことかは、以下の博士論文の構成を通じて説明します。

その前に注意点:ここに書いたのはざっくりしたまとめですので、事例や詳細を端折っている部分がかなりあります。それを踏まえて読んで頂ければ幸いです。

章構成

第一章: 少子高齢化・孤独・労働力減少という問題に、ロボットはひとつの解決策を提示しているが、なぜ・どのようにして、ロボットは解決策たり得る存在になったのか?(問題提起)

  • 2010年代半ばにコミュニケーションロボットが登場した社会的背景を、「コミュニケーション不安」(90年代から続く若者論+2000年代末からの無縁社会論)と「人口・労働力減少」に分けて論じ、これらの社会的背景においてペッパーがどのような問題に貢献するとされていたかをまとめました。

一章では問題提起をし、各章の構成を簡単に紹介します。
二章と三章は、現代日本の多くの人がロボットを上記問題の解決策として比較的すんなり受け入れて(もちろん個別のケースやどのように、という部分で批判・反論があることは重々承知ですが)いることに対する仮説をふたつ、歴史的に辿っていきます。

第二章: 明治維新前後から現在に至るまで、技術・テクノロジーという概念は、欧米諸国とは違う導入・発展を遂げたため、必ずしも人間を疎外化 (alienate) する存在ではなかったのではないか。(仮説1)

  • 欧米では産業革命と共に機械が人間のあり方を根本的に変えてしまうのではないかという恐怖があり(ラッダイト運動など)、機械の非人間性が強調されたが、日本では上記のように技術は人間み・人間性と深く結びつけられ、別の発展を遂げた。
  • 技術・テクノロジーはまず「概念」として鎖国中にも書物の形で日本にもたらされた。(Morris-Suzukiによると開国後渡米して視察した工場で「モノとして見るのははじめてだが概念はよく知っているので驚かなかった」と(いう感じのことを)福沢諭吉も言ったそうです)
  • 資源の限られた日本において、とくに戦時中「技術」は「(人間の)努力」の賜物とされた(零戦など)
  • 手先指先を使う「モノ作り」には、工業機械にはない「人間性」が付与されており、「技術」は「非人間的」とされていない。(ロボコンなどの思想に現れています)
  • ペッパーの開発においても、「コミュニケーション」「人を楽しませる」という方向性が決まってから、今の形へ向けて開発が行われた。

この章は最後のペッパーの開発の部分を除くと先行研究を主に構成されていて、かなり駆け足にまとめた歴史であることを自覚しています。日本向けに博士論文を書き直す場合、ここは大きな加筆修正が必要でしょう)

第三章: 現在私達が持つ「ロボット」のイメージは、実際の技術・道具・商品よりも、漫画・アニメなどの大衆文化の中で描かれた「ロボット」のイメージに基づくのではないか。(仮説2)

  • 「ロボット」という単語は1923年のカレル・チャペックによる R.U.R. (Rossumovi univerzální roboti / Rossum's Universal Robot) という戯曲に基づき、日本では1924年に「人造人間」と訳されて東京で上演された。
  • 近代化・機械化が進み戦争へと向かう日本において1930年代半ばまでは盛んに議論されたが、戦争技術として実用的ではないと判断されるとブームは終了。その後漫画や科学小説などエンターテインメントの中に「ロボット」は残った。
  • それらロボットが登場する作品を読んで育った手塚治虫(1929年生まれ)にとって、漫画の題材としてSFを描くことは戦後GHQの検閲下でも可能だった(戦時中に彼や他の漫画家が題材としていたようなチャンバラものは敗戦後検閲された)
  • 日本における「ロボット」のイメージは、「鉄腕アトム」(とそのプロトタイプ)や「ドラえもん」などの「ロボットらしくなさ」を中心に成立している。
  • 手塚治虫は「鉄腕アトム」の元となった(プロトタイプの)ロボットキャラクターのひとつである「ピーコ」が登場する『火星博士』において、ロボットを作った博士に「命令だけを聞くA型ロボット」「自我や意志を持ち善悪の区別ができるB型ロボット」の二種類があることを説明させている。日本における「ロボット」のイメージは、B型(後々の「ロボットらしくなさ」に繋がる)を中心とした上で、A型の宿命(命令を聞く機械)から逃れることができないというジレンマから成り立っている。
  • ペッパーの発表会やCMやでも鉄腕アトムへの言及や、このふたつのイメージが混在している。

以上の仮説を踏まえると、現代のペッパーの使われ方が理解できるのではないでしょうか。
四章と五章は、現代のコミュニケーションロボット、ペッパーについてです。

第四章: ペッパーはいかに労働力減少に対する解決策として提示され、使われているか。

  • 労働力減少に対する解決策として、ペッパーは実際の現場で使われることを期待されながらも、必ずペッパーのメディア言説では、(主にペッパー自身によるパフォーマンスで)「まだあまり何も出来ない」ことが強調される。
  • これはつまり、ペッパーが「有用」(useful) であるためには、その有用さに対する「期待値を下げる」(=期待値コントロール)ことが重要になっていることを示している。
  • 多くの場合、「ロボット」と聞いてイメージ・期待されるのはアニメや漫画に登場する「未来のロボット」。実際、ペッパーが発表された当初も、「未来」が手に届くところまで来た、というような表現が多くなされた。けれど鉄腕アトムやドラえもんのようなフィクションのロボットと比較すると、現在すでに存在する現実の技術・テクノロジーで構成されたペッパーは、アトムやドラえもんと同じように人間とかかわることはできない。(一緒にご飯を食べたり、車を持ち上げて子供を救ったり、空を飛んだり等)
  • この期待値のギャップを埋めることが、期待値コントロール (expectation management) である。
  • 期待値コントロールにおいて重要なもう1つの点は、漫画・アニメに登場する「未来のロボット」を到達点とした時間と共に進歩がすすむという前提を守ること。「今できないことも、(人やもしかしたらロボット自身がが願い続ければ)いつかできるようになる」という希望を守り、現在と未来を切り離さないことである。

この未来像というのが60年代から変わってないんじゃないかという批判は結構あって、この研究を発展させるには避けて通れない問題だなあと思っています

ここまで見てきて、とくに4章での「ペッパー自身によるパフォーマンス」とか「ロボット自身が願い続ければ」という表現に疑問を抱く人も多いはずです(少なくとも北米のオーディエンスはそこを突っ込みます)。

ペッパーは一番最初の発表の時から、まるで生きていて自分の意思があるかのようにメディアに登場してました。そのことを知っている人は、あまり疑問に思わないかもしれませんが、ここに私は日本のロボットの特徴があるのではないかと考えました。つまり:

Ch. 5:ペッパーはautonomous(自律した)ロボットのようにメディアに登場するけれど、その実際はanimated(生き生きとする活力を与えられた・生命を吹き込まれた)ロボットなのではないか。

  • ペッパーだけでない人とコミュニケーションをすることを目的に作られたロボットは、登場・発表の際にロボットそのものだけでなく、関連する動画や文章が多く公開され、その内容はそのロボットに"illusion of life"(生命の幻影・生命を吹き込む魔法)を付与するものである(Cynthia BreazealのCogやKismet、Joseph BatesのWoggleなど、機械と人間のかかわりについて論じてきた文化人類学者Lucy Suchmanが記録しています)
  • ここで、日本のロボットが漫画・アニメという媒体を通じて作られたロボット・キャラクターに基づいているのは重要。なぜなら、ロボットに付与される"illusion of life"は、鉄腕アトムを生み出した手塚治虫が大きく影響を受けたディズニーが生き生きとして共感できるキャラクターを作るために使った技法なのである。
  • "animation" とは、人間以外の本来意識・意思・感情などがないとされている(または人間ほど複雑な意識を持たないとされている)無機物や動物などが「まるで人間のようにふるまっている(ように見える)」ことを説明するのに優れた概念で、文化人類学者のTeri Silvioが "performance"(演技・演劇)という20世紀を風靡した概念を補完するものとして提唱。ものすごくざっくり説明すると、パフォーマンスで人が行う演劇によって引き起こされる感動の説明はできる(役者の身体・内面・感情等と、演じる役という仮面の解釈やそのギャップの作用等)。けれど「一人の生身の人間」が中心となるこの理論を、多くの人が力や技巧を合わせて達成する人形劇や動く絵であるアニメ・アニメーションにそのまま応用することはできない。アニメーションは「多くの人によってひとつのものが、または一人の人が多くのものに命(活力・生命力)を与え生き生きさせる(ように見せる)」ことを表す。
  • つまりペッパーは、機械としてのロボットである以前に、ロボットというキャラクターなのである。
  • (ロボット=キャラクター論は、私がまさにこの博士論文を書いているさなかにオーストラリアの文化学者Yuji Sone氏に同じ点を発表されてしまったのですが、アニメーションではなく別方向からの議論だったので、Silvio氏を援用したanimated robotの部分が私の貢献ということになります)

ここでようやく北米のオーディエンスが期待している内容に足を踏み入れることができるのですが、なんせもうこの時点でかなりページ数を使っています(し時間も限られています)。なので次の章はここから考えられる論点に関するまとまりきっていない読み、解釈であり、まとまった結論という形にはなっていません。

Ch. 6: 日本におけるロボットが機械的なテクノロジーではなくアニメーションという技巧の産物だとしたら、それは社会においてどのような効果をもたらしているのか。

  • そもそもの話に戻ると、ロボットは労働力減少に対する解決策として期待されている。労働力減少に対して出ているロボット以外の対案として知られているのが移民誘致である。
  • この点から見ると、宇宙人ジョーンズシリーズでペッパーが出てきたCMは興味深い。宇宙人ジョーンズ(移民労働者役)は日本人労働者とあまりやりとりできていない(言葉が喋れない)。しかし、ペッパーだけが間に入って彼と会話している。同時にペッパーは一貫して労働に「役に立つことは何も出来ない」ことを強調している。つまり、機械ではなく「生命の魔法」としてのペッパーに期待される役割は、実際の労働で役に立つというよりも、「理解できない他者との間に入るバッファー」のような存在なのかもしれない。
  • たとえばこれは、「人とロボットの共生」「多文化共生」に見られる「共生」という共通キーワードからもいずれ考えてみたい。(軽く国会図書館検索をしたらどうやら「人とロボットの共生」の方が古いらしいんですけど、そう考えるとますます「共生」の意図・意義・効果が気になります)
  • けれど実際のペッパーの可能性は、ペッパーに「生命の魔法」を与える力を持つ人間(たち)の「鏡」として、私達自身のバイアスや先入観を映し出すことにあるのではないか。
  • 実際にほんの少しでもペッパーと触れ合い(色々な意味での)コミュニケーションを取ると、うまくいかないこともたくさんあることが解ります。ペッパーと言葉やジェスチャーでやりとりをしたり、ペッパーをひっくるめて他の人とやりとりをする前提で作品・アプリを作ろうとすると、それがどんな「未来」を生み出そうとしているのか、自問するきっかけになります。それらのプロセスそのものが、ペッパーの意義なのではないでしょうか。

第七章は全部を総まとめした結論章です。色々下に書いた書ききれなかったことを詰め込みました。

おわりに

最後はかなりの駆け足で終わった感ですが、これがざっくりとした博士論文の内容です。もちろん、人間と機械の哲学的存在論的な話とか実際の労働の形の変化における自動化の影響や意義や弊害とかコミュニケーションとはそもそも何かとかメディアとしてのロボットとかチューリングテストってそもそも前提がおかしくない?とか欧米における日本的なもののイメージとかペッパー以外のロボットには当てはまらないこともたくさんあるとかコロナ禍におけるロボットや技術とか、もっと調べたいことや話し足りないことは山ほどあるんですが、ひとまず時間制限が来たのでここで一区切りです。(全部でA4ダブルスペースで250ページ超になりました。長い。)そして何度も言うようですがここに書いたのはざっくりしたまとめですので、端折っている部分もかなりあります。論文そのものを見せろ!ということがありましたらご一報下さい。

これまで論文で扱ってきたのはSNSやlocative media(位置情報メディア)などインターネットを中心としたテクノロジーで、テレビや演劇はコミュニケーション学やメディア研究の中でも隣接分野であまり手を出してこなかったのですが、テレビやCM出演の多いペッパーを通じて結果的にテレビや演劇を扱うことになってかなり苦労しました(まだしています)。論文本体を読んで下さった方で何かコメントやアドバイスがあれば、ぜひnishimk@alumni.unc.eduまでご連絡頂ければと思います。

研究のペースより遙かに目まぐるしく世界は急展開しています。私達研究者は資料を集め、歴史的だったり比較的だったりする少し変わった視点から分析していくことしかできませんが、まだようやく序章を書き終えた気分でいますので、これからも考え続け・書き続けていきたいと思います。

長くなりましたがここまで読んで下さった方、どうもありがとうございました。

そしてたくさんお話しを聞かせて下さった皆様、本当にお世話になりました!これからもどうぞよろしくお願い致します!

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