村田製作所の挑戦から考える「知の循環」とAIエージェント時代の組織設計
生成AIの企業導入では、議事録、要約、資料作成、情報検索といった業務効率化が注目されやすい。これらは重要な出発点である。
しかし、生成AIやAIエージェントの本当の可能性は、個人の作業時間を削減することだけではない。組織に眠る知識を発見し、共有し、組み合わせ、新しい価値へ変える。部門を越えた対話を増やし、意思決定の速度と質を高める。人と仕事、権限と責任の関係を組み替える。AIは、企業の知識創造プロセスと組織構造を変える可能性を持つ。
AI Agent Day Summer 2026では、村田製作所データ戦略推進部の内海克也氏が「生成AI時代における組織変革と知の循環-村田製作所の挑戦-」をテーマに登壇した。イベントでも、社内ナレッジを組織として活用する「知の循環」と、意思決定を競争優位へつなげる取り組みが論点として紹介されている。
本稿では、この講演をIT技術者の視点で読み替える。焦点はAIツールの利用率ではない。知識が流れる組織をどう作るか、AIエージェントへどこまで権限を委任するか、誰がその設計に責任を持つかである。
生成AIは、企業の知的生産性を変える
企業には、構造化データだけでは表せない情報が大量に存在する。
- 製品・製造・品質に関する技術知識
- 顧客や市場に関する観察
- 過去の障害、失敗、例外対応
- 専門家の判断基準と勘所
- 会議や対話で生まれた気づき
- 文書化されていない暗黙知
村田製作所は、現場データを継続的に収集・整理・活用し、新しい知見を生む循環をデータサイエンスの強みとして位置づけている。Data Science Technology また、現場の設備保全記録を生成AIで前処理し、熟練者の知見を再利用可能にする取り組みも公開している。Smart Technology
重要なのは、文書をAIへ読ませること自体ではない。知識を検索可能にし、適切な権限で利用し、出所と更新状況を追跡し、業務の中で再利用できる状態へ変えることである。
この状態ができれば、AIは単なる文章生成器から、組織の知的生産性を支える基盤へ変わる。知的生産性とは、短時間で多くの資料を作る能力ではない。必要な知識を組み合わせ、より良い判断を行い、新しい価値を生む能力である。
水平型のAI活用から、垂直型の業務変革へ
講演では、社内向け生成AI基盤「Murata Core」が紹介された。利用規模や削減時間などの数値は講演紹介値であり、公開資料で確認できる数値ではないが、全社共通のAI環境を整備する意義は明確である。
全社共通AIは、部門を問わず使える「水平型」のユースケースに向く。
- 議事録、要約、翻訳、文書の下書き
- 社内情報の検索
- 調査と情報整理
- 個人の定型業務の補助
水平型の活用は、AIに慣れる機会を作り、個人の仕事を軽くする。一方で、一人の資料作成が速くなっても、意思決定や事業成果が同じ割合で改善するとは限らない。
企業価値へつなげるには、特定の業務プロセス全体を変える「垂直型」のユースケースが必要になる。
| 水平型 | 垂直型 |
|---|---|
| 個人の作業を支援する | 事業・業務プロセスを再設計する |
| 幅広く展開しやすい | 対象業務を絞り、深く設計する |
| 効果は時間短縮で測りやすい | 効果は品質、リードタイム、顧客価値、利益へ現れる |
| 主にチャット・検索・下書き | データ、システム、権限、承認、監査まで接続する |
製品開発、品質問題への対応、需要予測から生産計画、顧客提案から受注、技術知識の継承といった領域では、AIを一つの画面へ追加するのでは足りない。人間とAIの役割、参照データ、例外処理、意思決定の流れを作り直す必要がある。
AIエージェント化は、三段階で考える
AI活用を一気に完全自動化へ進める必要はない。次のように自律度を分けると、何を設計すべきかが明確になる。
| 段階 | AIの役割 | 人間の役割 | 主な設計課題 |
|---|---|---|---|
| 1. RAG・チャット | 情報を検索し、根拠付きで提示する | 問い、評価、判断 | ナレッジ品質、アクセス制御、出典表示 |
| 2. AIアシスタント | 定型作業や業務フローの一部を実施する | 承認、修正、例外処理 | 入出力、品質基準、承認手順 |
| 3. AIエージェント | 目的に沿って複数の情報取得・判断・操作を行う | 監督、重要判断、責任 | 権限、監査、停止、復旧、責任分界 |
第3段階では、AIは人間から一回ずつ指示されるツールではなく、業務を実行する主体に近づく。ここで初めて、リスクは「誤った回答」から「誤った行動」へ大きく変わる。
生成AIは「知の循環」を高速化できる
講演の中心概念は、知識を一度集めて終わりにせず、組織の中で循環させることである。知識創造論で知られるSECIモデルに沿って考えると、AIは次の各段階を支援できる。
| 知識創造の段階 | 人間が行うこと | AIが支援できること |
|---|---|---|
| 共同化 | 経験を共有し、対話する | 会話の記録、論点の可視化、必要な専門家の探索 |
| 表出化 | 勘所や判断理由を言葉・図・手順へ変える | 文字起こし、質問、要約、構造化、初稿作成 |
| 連結化 | 複数の知識を組み合わせ、体系化する | 関連文書の検索、比較、矛盾検出、関係性の提示 |
| 内面化 | 知識を学び、実務で使い、経験にする | ケース学習、個別の説明、振り返り、理解度確認 |
暗黙知を取り出す入口を作る
熟練者の知識は、本人にとって当たり前すぎて説明されないことがある。単に「手順を教えてください」と聞いても、判断の条件、例外、失敗を避ける理由は抜け落ちやすい。
AIはインタビューの補助者として、次のような問いを返せる。
- その判断を変える条件は何ですか
- 新人が間違えやすい点は何ですか
- その手順を適用できない例外はありますか
- なぜその順番で確認する必要がありますか
- どの時点で上位者や専門部署へ相談しますか
ただし、AIが自動で正しい知識へ変換できるわけではない。知識の作成者、監修者、適用範囲、更新日、承認状態を持たせ、人間が内容を確かめる必要がある。
知識の「関係」を見つける
形式知化した文書を増やすだけでは、知識は使われない。AIの価値は、過去の品質問題と現在の設計条件、別拠点の障害と類似する現象、顧客要望と技術制約など、部門を越えた関係を見つけることにもある。
このときAIの出力を決定として扱わない。関係性の候補、根拠、確認すべき不足情報を提示させ、人間が専門知識と現場文脈で評価する。知識の循環を高速化するとは、AIに知識創造を丸投げすることではなく、人間の対話と検証の質を高めることである。
会議とワークプレイスを「目線合わせ」から価値創造へ変える
多くの会議では、経緯説明、資料の読み上げ、前提知識の共有に時間が使われる。本質的な論点へ入る前に、会議が終わることも少なくない。
AIを会議の前後へ組み込めば、参加者ごとに必要な前提を事前に提供できる。
- 会議の目的と決めるべきこと
- 過去の経緯と未解決事項
- 関連資料、最新データ、用語の説明
- 参加者ごとに確認すべき論点
- 会議後の決定、担当、根拠、次のアクション
会議中も、AIが必要な根拠や過去事例を示せる。ただし、会議参加者をAIが置き換えるのではない。人間が情報共有から解放され、意見の違い、顧客への影響、リスク、創造的な選択肢を議論する時間を増やすことが目的である。
この考え方は、物理的なオフィスだけでなく、プロジェクト、オンラインコミュニティ、一時的な部門横断チーム、AIとの対話空間を含む「ワークプレイス」の再設計につながる。必要な知識と人が課題ごとに結びつく組織ほど、変化に対してしなやかになれる。
「Need to Know」と「Need to Share」を両立させる
AIが組織の知識を横断して利用するには、セキュリティと知識共有の緊張関係を解かなければならない。
Need to Know、すなわち業務上必要な人だけが情報へアクセスするという考え方は、機密性の確保に不可欠である。しかし、これだけを極端に適用すれば、重要な知識が個人や部門に閉じ込められ、価値創造に必要な協働が止まる。
必要なのは、機密情報を無制限に共有することではない。「誰が、どの目的で、どの情報を、どの操作まで利用できるか」を明らかにし、価値創造に必要な範囲で知識を流せるようにすることだ。
| 設計対象 | 決めること |
|---|---|
| 情報分類 | 機密区分、個人情報、技術情報、公開可否 |
| 利用目的 | 検索、要約、分析、提案、実行のどれに使うか |
| アクセス | 人間とAIエージェントが読める範囲 |
| 出力制御 | 引用、要約、持ち出し、対外送信の可否 |
| 知識品質 | 所有者、監修者、更新日、有効期限、承認状態 |
| 監査 | 何を参照し、誰が使い、何を出力・実行したか |
知識共有の設計は、AI基盤の補助機能ではない。組織の知的資産を守りながら再利用するための、中心的なアーキテクチャである。
AIエージェント導入は、権限委任の設計である
AIエージェントが業務システムを操作するようになると、最重要の問いは「どのモデルを選ぶか」ではなくなる。
誰が、何を、どこまで、どの根拠で、どの手続きにより実行してよいか。
AIに対しても、人間の担当者と同じように権限委任を設計する必要がある。
- どのデータへアクセスできるか
- どのシステムを読み取り・更新できるか
- どの金額・重要度まで自律実行できるか
- どの条件で人間の承認を必要とするか
- 情報不足や矛盾があるとき、誰へ引き継ぐか
- 問題が起きたとき、誰が停止し、どう復旧するか
- 実行履歴をどう記録し、後から説明するか
組織図ではなく、価値を生むプロセスから設計する
営業、製造、品質、調達ごとに別々のAIを作るだけでは、部門ごとの個別最適を速くする恐れがある。AIエージェントの設計単位は、組織図ではなく、顧客や事業に価値を生む業務プロセスで考えるべきだ。
たとえば受注から納品までを対象にするなら、顧客要求、見積もり、生産能力、納期、価格承認、契約、製造、出荷を一連の流れとして扱う。その中で、AIが情報を集められる部分、人間が判断する部分、承認や例外処理が必要な部分を分ける。
部門横断の最適化を目指すなら、データ所有者、業務責任者、AI運用者、セキュリティ、法務を初期設計から同じテーブルへ載せる必要がある。
責任は「実行責任」から「設計責任」へ広がる
従来の業務では、実行した人が責任の中心だった。誰が入力し、誰が承認し、誰が顧客へ連絡したかを記録すれば、ある程度は責任を追えた。
AIエージェントが実行を担うと、実行者だけを見ても十分ではない。重要になるのは、次の設計上の問いである。
- 誰がAIへ権限を与えたのか
- 誰が業務ルールと承認条件を定義したのか
- 誰が使用するデータとアクセス範囲を決めたのか
- 誰が品質評価と監視方法を定めたのか
- 誰が異常時の停止・訂正・復旧を設計したのか
この「設計責任」は、IT部門だけの責任ではない。業務プロセス、データ、権限、人事制度、顧客への説明、法務、セキュリティが関係する。AIが実行を担うほど、経営・事業・IT・人事・統制部門が共同で責任構造を設計する必要がある。
知の循環をエンジニアリングする
暗黙知を文章化し、RAGへ登録するだけでは、組織知にはならない。情報が古い、所有者が不明、類似文書が重複している、適用場面が分からない、アクセス権が曖昧といった問題が残るからだ。
知の循環をエンジニアリングするとは、知識の生成、整理、評価、共有、更新、廃止を業務として設計することである。
| ライフサイクル | 設計すること |
|---|---|
| 取得 | どの業務・会話・記録から知識を取得するか |
| 構造化 | 対象、条件、判断、行動、理由、例外をどう記述するか |
| レビュー | 誰が内容、適用範囲、機密性を確認するか |
| 公開 | 誰がどの目的で利用できるか |
| 利用 | どの業務フロー・エージェントから参照するか |
| 改善 | 未回答、誤回答、低評価、例外処理をどう反映するか |
| 廃止 | 古い知識をいつ無効化し、履歴をどう残すか |
村田製作所が公開する取り組みでも、現場記録の表記ゆれを生成AIで前処理し、現場からのフィードバックを継続的に取り込んで改善している。これは、AIの精度をモデル任せにせず、知識と運用の循環として扱う発想に近い。Smart Technology
IT技術者が今から設計すべきこと
AIエージェント時代へ向けて、IT技術者は次の順序で準備を進めたい。
- 知識の所在を把握する:重要な文書、データ、暗黙知、専門家、更新責任者を洗い出す。
- 業務プロセスを可視化する:組織図ではなく、価値が生まれる一連の流れ、入力、出力、例外、承認を描く。
- 限定した垂直ユースケースを選ぶ:正しい成果を評価でき、誤作動の影響を限定できる業務から始める。
- 人間とAIの権限を分ける:検索、下書き、更新、送信、承認、実行を一つの権限にしない。
- 根拠と監査を実装する:参照データ、モデル出力、ツール呼び出し、人間の承認、最終アクションを追跡可能にする。
- 停止と復旧を先に決める:誤動作、データ矛盾、権限逸脱が起きたときに、止め、調べ、訂正し、再開できるようにする。
- 知識更新を日常業務へ組み込む:障害対応、会議、顧客対応の振り返りを、次のナレッジ更新へつなげる。
まとめ――AIによって「知が流れる組織」を作る
生成AIの導入初期には、削減時間や利用率が重要な指標になる。しかし、AIの価値は、個人の作業を速くすることだけでは測れない。
必要な知識へ到達できるか。過去の失敗を再利用できるか。部門を越えて課題を解けるか。意思決定の根拠を確認できるか。新しい価値を生み出せるか。変化に応じて、知識と組織を更新し続けられるか。これらが、AI時代の企業の知的生産性を決める。
AIエージェントへ業務の実行を任せるなら、責任の中心は「誰が実行したか」だけではなく、「誰がその権限・ルール・監視・停止方法を設計したか」へ広がる。
生成AIは、単に作業を速くする道具ではない。知識を循環させ、人とAIが協働し、硬直した組織をしなやかに変える組織変革のエンジンである。
作成日: 2026年7月24日