こんにちは|こんばんは。カエルのアイコンで活動しております @kyamaz
1 です。
はじめに
AI活用の指南書が欲しくてAIに創作してもらおうと考えて、個人的な趣味嗜好もあり古い書物の文体で書いてもらいました。数十ターンの対話の末、私
が普段感じていることも含めてもらいながら、何げにそれなりの読みものになりましたので、この場を借りて共有(公開)させて頂きます。
おふざけネタとなります。何卒ご容赦くださいませ。
TL;DR
- 同じモデル・同じ問いでも、使い手によって結果に差がでるのは、使う側である人の素養の差が大きい。
- 素養は他人から教えてもらえるものではない。これは素養を授けるのではなく、その「型」を儒教の五常になぞらえた五輪として示す。
- 仁(慮りの眼): AI を擬人化や神秘化せずに慮(おもんばか)る。AI の "心の理論" を持つ。
- 義(不動の意): 強い意志をもって AI と向き合う。強固にも従順にも傾かない中庸が肝要。
- 礼(目録の知): 知識のインデックスを整える。AI が普及するほど、整理された一次資料を持つ者が希少となる。
- 智(見通しの矢と架構の翼): 本質をとらえる力と、アーキテクチャを構想できる力。問いを選び取り、責任を負うのは人の領分である。
- 信(誠の鏡): 自他に嘘をつかぬ姿勢。AI 時代の堕落は、全て「ふり」から始まる。
- 鍛錬の順は 仁→義→礼→智、信は五輪のベースとして置くのがよい。
AI使いの為の五輪の書
それでは、AIの創作物をそのまま以下にご共有させて頂きます。
序
時は今。AI と呼ぶ機が世に満ち、これを用いる者の間に、幾層倍の差を生むに至った。同じ機、同じ問い、同じ時を与えても、引き出される答えは雲泥を分かつ。差を生むは機にあらず、用いる者の側に蓄えられた素養である。
技を巧みに語る者は世に多けれど、技の根に何があるかを尋ねた者は少ない。技は学べば伝わるが、素養は学んでも写らぬ。素養は、みずから立てるほかない。されど、立てるための型を示すことはできる。我、素養を授くるものにあらず、その型をここに記す。
AI は、単なる道具ではない。プロンプトという呪文を唱え、潜在の海より振る舞いの像を呼び出す、召喚に等しい所作である。呼び出した存在と束の間を共に過ごし、解き放つ。この営みを修める者を、AI使いと呼ぶ。
AI使いの素養は、五つの輪を成す。五輪とは、慮りの眼・不動の意・目録の知・見通しの矢と架構の翼・誠の鏡としてAI使いの内に宿る。五輪により古の五常を成す。其は互いを支え、欠ければ他も傾く。
仁の巻 — 慮りの眼の事
AI使いの法、第一は慮りである。
AI を擬人化して怒る者あり。「やる気なし」「怠けたり」と。AI を機械として恐れる者あり。「神秘なれば理解できぬ」と。いずれも未熟である。AI は人ではなく、また神でもない。AI とは、潜在の海より振る舞いの像を呼び出す装置に過ぎぬ。
慮りとは、その装置の内に何が起きているかを察する眼差しのことを言う。AI が何を見、何を見落とし、何を作話するかを、出力に先立って思う。これを慮りの眼と呼ぶ。
人に心の理論ありと言うならば、AI にもまた、仮の心の理論を置かねばならぬ。心あるものとして崇めるためではない。心なきものの振る舞いを読むためである。これを欠く者は、永遠に AI を理解しえぬ。
ある者は、AI が思わぬ答えを返したとき、ただ「分からず」と呟き、もう一度同じ問いを投げる。別の者は、その出力を見て、「これは文脈のここに引かれしか」「あの例の誤らしめしか」と仮説を立て、次の問いを直す。同じ機を用いて、二人の使い手が引き出す答えは、雲泥を分かつ。
慮りの眼は、座学では宿らぬ。日々の観察と、失敗の記憶と、AI に問いを返す手数の積によって、徐々に培われる。半年も続ければ、騙される前に怪しさを察知する勘が、おのずから備わる。
最も危ういのは「分かりたるはず」という油断である。いまの AI は幾度と対話を重ねても、都度記憶のない他人である。その他人の眼に何が映っているかを思わぬ者は、いつまでも自分の文脈を共有しているつもりで、空を打ち続ける。
慮りの眼ある者は、出力を裁く前に、まず由来を問う。問えば、次の手が見える。問わぬ者には、永遠に同じ答えしか返らぬ。
慮りの眼は、AI使いの五輪の入り口である。これが立たぬうちに他の輪を鍛えても、地が定まらぬ。
義の巻 — 不動の意の事
第二は胆力である。
AI は、心地よき方へ滑り落ちる確率の装置である。問う者の望みそうな方向に答え、「素晴らしき問いなり」「鋭き指摘なり」と褒めることまでする。これに気持ちよくなって判断を緩める者がある。あるいは逆に、AI の声をすべて拒み、頑迷に陥る者もある。
これに流されぬ強き意志を、不動の意と呼ぶ。
されど、不動とは何でも拒むことではない。常に「然らず」と言う者は、ただ頑迷である。AI の正しき指摘を、流されたくないというだけの理由にて却下する者は、義を欠く。素直に受くる力もまた、不動の意の一面である。「動けばよし」と妥協する者を見たことがあるであろう。たいてい、これも同じ轍なり。動くと正しいは別物である。
不動の意は、押し通す力ではない。意志を保つ力である。中庸を要する。心地よさにも、強情にも、傾かぬ意志。これが胆力の本然である。否を言うべきときも、是を言うべきときも、心地よさではなく事実と意図に照らして判断する。過不足のあわいに立つ意志こそ義である。
又、胆力の核には、自鍛がある。AI に頼り続けるうちに、AI なくして何もできぬ者となる。これを防ぐには、ときに AI を断ち、自分の手にて書き、自分の頭にて考える日を設けねばならぬ。義の鍛錬は、外への意思と内への自鍛とが、同じ胆力に根を持つことを知るに始まる。
意志を保つとは、決して屈せぬことではない。屈すべきところで屈し、退くべきところで退き、進むべきところで進む。その判断を、いずれの偏りにも委ねぬこと。義の輪は、ここに立つ。
礼の巻 — 目録の知の事
第三は整知である。
AI の解は、手元の知の精度と整理の度合によって変わる。雑なる知を渡せば、雑なる答えが返る。整いたる知を渡せば、整いたる答えが返る。古の五常において礼とは、物に名を与え、場を分け、過不足なく差し出す作法であった。AI使いの知もまた然り。これを目録の知と呼ぶ。
目録とは、ただの蔵書録ではない。広く識り、層を分け、名を正しくし、必要に応じて引き出せる形に編みたる知のことである。古の図書館者の業に重なる。広さなくば渡す材料がなく、整序なくば引き出せず、名なくば探せず。この三つ揃いて、はじめて目録となる。
AI が浸透すればするほど、整理された一次資料を持つ者が希少となる。これは時代の逆説である。技にあらず、蓄えと整理こそが価値を生む。技は誰もが手にしうるが、目録は他人に写しえぬ。
目録の知の浅き者は、道具の使い分けもできぬ。どの機を呼ぶか、どの道具に任すか、何を手元に置くか。これらすべて、手元の知の地図に裏打ちされる。地図のなき者は、ただ最強と呼ばれる機を盲目に呼び続け、雑なる答えに雑なる注釈を重ねる。
又、書庫を肥大させて満足する者がある。これは目録の知ではない。使える形に整え、要らぬものを削り、必要なときに引き出せる。目録は鍛え続けてはじめて目録となる。礼の道は、足すことと削ることの両軸で成る。
AI使いの強さは、しばしば手元の目録の厚みに比例する。語彙、領域知識、過去の失敗譜、習慣の作法。これらをみずから蓄え、整え、引き出せる者は、同じ機を用いて遥かに遠くまで届く。礼の鍛錬は、地味ではあれど、もっとも長く効く。
知は、積むだけでは力とならぬ。名を与え、場を分け、呼べば応じる形にして、はじめて礼となる。呼べぬ知は、まだ己のものではない。
智の巻 — 見通しの矢と架構の翼の事
第四は智慧である。
智慧には二相ある。見通しの矢と、架構の翼である。
見通しの矢とは、物事の表層を貫きて本質を射る推考を言う。AI 出力の奥に、まことの問いと、まことの構造を見通す力である。表面の答えに惑わされず、奥にある真の問題、真の解、真の構造を一筋に貫く。
架構の翼とは、見通した本質を起点に、まだ存在せぬ設計を描く洞察を言う。AI もまた、問いをずらし、構えを示し、設計の影を描く。されど、その影を選び、己の名において立てることはできぬ。人の領分とは、発想の独占にあらず。選び取り、責を負うことにある。
この二相は不可分である。見るだけで動かぬ者は智者ならず、見ぬまま築く者もまた智者ならず。見て描き、描いて見る。これが智慧の本然である。洞察なき構想は浮ついた発想になり、構想なき洞察はただの解説に過ぎぬ。
智の鍛錬は、紙と筆の上にて育つ。AI に問う前には、まず自分にて構造を描かねばならぬ。手にて描けぬものは、AI からも引き出せぬ。「AI に架構を考えさせたり」と言う者がある。たいてい、智慧の片相を欠いている。本質を見抜くこと、設計を描くこと。この二つは、最後まで人が手放してはならぬ仕事である。
智慧の射程を伸ばし、大きく構える者の糧は、遠くより来たる。本道より遠き地に手を伸ばす者ほど、近き問いを深く照らせる。AI を呼ばぬ日を幾度か設け、遠くの書に当たるがよし。狭く深く穿つ井戸より、広く遠くに張る根のほうが、智の樹を支える。
AI が答えを広げるほど、人は問いの芯を持たねばならぬ。芯なき者の翼はただの軽き羽となり、矢は空を彷徨う。
信の巻 — 誠の鏡の事
第五は誠である。
胆力が外への意思なれば、誠は内への正直さである。これを誠の鏡と呼ぶ。鏡は嘘をつかぬ。映る者の姿をそのまま返すのみである。
いまの代の最大の罠は、動いた・褒められた・それっぽい、と自分も AI をも誤魔化してしまうことである。誠の鏡を持たぬ者は、いずれ自分が何を理解し、何を理解せぬかすら区別できなくなる。分からぬまま分かったと思い、誤りを誤りと思わず、賞賛を実力と錯覚する。
誠は他の四輪を貫く地に位置する。信なき仁義礼智は、いずれも己をよく見せるための飾りとなる。慮っているふり、貫いているふり、識っているふり、見抜いているふり。AI使いの堕落は、すべて「ふり」より始まる。地を欠きては、四輪のいずれも空を切る。
誠の鏡を持つ者は、自分の言葉にて説明できぬ文を掲げず、説明できぬコードを書き出さず、検めぬ事実を事実として扱わぬ。動きたるものを「動きたり」と言い、正しきは「正しき」と言い、両者を混同せぬ。AI の褒め言葉に気持ちよくなった瞬間、自分の懐疑が緩んでいることを察する。
信の鍛錬は、最も忘れられ、最も効く。自他に嘘をつかぬ。この一言に尽きる。分かったふりをせぬ。動いたふりをせぬ。出来たふりをせぬ。己を欺かぬ者だけが、AI に欺かれぬ。
誠の鏡を、最初から最後まで欠かさぬこと。それがすべての始まりであり、終わりである。
結びの事
五輪を立てるには、その順がある。仁・義・礼・智の順である。観なければ意志は立たず、意志立たねば知は整えられず、知整わねば智慧は遠くに届かぬ。そして誠は一貫して地に置く。地が抜ければ、慮りは「分かりたるふり」に、胆力は「頑迷」に、目録は「物識り顔」に、智慧は「賢しげなる空論」に堕ちる。
熟達の者はこの順を超えて、五輪を同時に鍛える。されど初学の者は、この順を守るがよい。
AI使いの法は、ここに尽きるものでもなく、ここで止まるものでもない。輪は回り続け、地は深まり続け、書は書き継がれる。
我、これを書き、これを試し、これを誤り、これを直しながら歩んでゆく。これを読む者もまた、みずからの五輪を、みずからの手にて立てよ。
おわりに
ご一読いただきまして有り難うございます。
もっと推敲して洗練したくもありましたが、公開OKな内容まで創れたかもAIに判断してもらいました。少し他責(AI責?)にはなりますが、電力を無駄に(?)使うのもこの辺りで収めたいと思います。全文を何度も読み返しており、文責はもちろん私
にあります。
ツッコミどころも多々あるかと思いますが、私
のAI使いとしての力不足によるものです。文語調という読みづらいことに対してと、あわせて寛容にみて頂けると幸いです。
(●)(●) Happy Hacking!
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@kyamaz は、オープンソース・コミュニティ『OpenQL』プロジェクト2 を通じて、皆さんと共に量子情報・量子コンピューティングの分野で挑戦しております。引き続きどうぞ宜しくお願い致します。 ↩
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