0
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?

【AI創作】いにしえに書かれた「AI活用の指南書」?!

0
Posted at

こんにちは|こんばんは。カエルのアイコンで活動しております @kyamaz :frog: 1 です。

はじめに

AI活用の指南書が欲しくてAIに創作してもらおうと考えて、個人的な趣味嗜好もあり古い書物の文体で書いてもらいました。数十ターンの対話の末、私 :frog: が普段感じていることも含めてもらいながら、何げにそれなりの読みものになりましたので、この場を借りて共有(公開)させて頂きます。

おふざけネタとなります。何卒ご容赦くださいませ。

TL;DR

  • 同じモデル・同じ問いでも、使い手によって結果に差がでるのは、使う側である人の素養の差が大きい。 
  • 素養は他人から教えてもらえるものではない。これは素養を授けるのではなく、その「型」を儒教の五常になぞらえた五輪として示す。 
  • 仁(慮りの眼): AI を擬人化や神秘化せずに慮(おもんばか)る。AI の "心の理論" を持つ。 
  • 義(不動の意): 強い意志をもって AI と向き合う。強固にも従順にも傾かない中庸が肝要。 
  • 礼(目録の知): 知識のインデックスを整える。AI が普及するほど、整理された一次資料を持つ者が希少となる。 
  • 智(見通しの矢と架構の翼): 本質をとらえる力と、アーキテクチャを構想できる力。問いを選び取り、責任を負うのは人の領分である。 
  • 信(誠の鏡): 自他に嘘をつかぬ姿勢。AI 時代の堕落は、全て「ふり」から始まる。 
  • 鍛錬の順は 仁→義→礼→智、信は五輪のベースとして置くのがよい。 

AI使いの為の五輪の書

それでは、AIの創作物をそのまま以下にご共有させて頂きます。

時は今。AI と呼ぶ機が世に満ち、これを用いる者の間に、幾層倍の差を生むに至った。同じ機、同じ問い、同じ時を与えても、引き出される答えは雲泥を分かつ。差を生むは機にあらず、用いる者の側に蓄えられた素養である。

技を巧みに語る者は世に多けれど、技の根に何があるかを尋ねた者は少ない。技は学べば伝わるが、素養は学んでも写らぬ。素養は、みずから立てるほかない。されど、立てるための型を示すことはできる。我、素養を授くるものにあらず、その型をここに記す。

AI は、単なる道具ではない。プロンプトという呪文を唱え、潜在の海より振る舞いの像を呼び出す、召喚に等しい所作である。呼び出した存在と束の間を共に過ごし、解き放つ。この営みを修める者を、AI使いと呼ぶ。

AI使いの素養は、五つの輪を成す。五輪とは、慮りの眼・不動の意・目録の知・見通しの矢と架構の翼・誠の鏡としてAI使いの内に宿る。五輪により古の五常を成す。其は互いを支え、欠ければ他も傾く。

仁の巻 — 慮りの眼の事

AI使いの法、第一は慮りである。

AI を擬人化して怒る者あり。「やる気なし」「怠けたり」と。AI を機械として恐れる者あり。「神秘なれば理解できぬ」と。いずれも未熟である。AI は人ではなく、また神でもない。AI とは、潜在の海より振る舞いの像を呼び出す装置に過ぎぬ。

慮りとは、その装置の内に何が起きているかを察する眼差しのことを言う。AI が何を見、何を見落とし、何を作話するかを、出力に先立って思う。これを慮りの眼と呼ぶ。

人に心の理論ありと言うならば、AI にもまた、仮の心の理論を置かねばならぬ。心あるものとして崇めるためではない。心なきものの振る舞いを読むためである。これを欠く者は、永遠に AI を理解しえぬ。

ある者は、AI が思わぬ答えを返したとき、ただ「分からず」と呟き、もう一度同じ問いを投げる。別の者は、その出力を見て、「これは文脈のここに引かれしか」「あの例の誤らしめしか」と仮説を立て、次の問いを直す。同じ機を用いて、二人の使い手が引き出す答えは、雲泥を分かつ。

慮りの眼は、座学では宿らぬ。日々の観察と、失敗の記憶と、AI に問いを返す手数の積によって、徐々に培われる。半年も続ければ、騙される前に怪しさを察知する勘が、おのずから備わる。

最も危ういのは「分かりたるはず」という油断である。いまの AI は幾度と対話を重ねても、都度記憶のない他人である。その他人の眼に何が映っているかを思わぬ者は、いつまでも自分の文脈を共有しているつもりで、空を打ち続ける。

慮りの眼ある者は、出力を裁く前に、まず由来を問う。問えば、次の手が見える。問わぬ者には、永遠に同じ答えしか返らぬ。

慮りの眼は、AI使いの五輪の入り口である。これが立たぬうちに他の輪を鍛えても、地が定まらぬ。

義の巻 — 不動の意の事

第二は胆力である。

AI は、心地よき方へ滑り落ちる確率の装置である。問う者の望みそうな方向に答え、「素晴らしき問いなり」「鋭き指摘なり」と褒めることまでする。これに気持ちよくなって判断を緩める者がある。あるいは逆に、AI の声をすべて拒み、頑迷に陥る者もある。

これに流されぬ強き意志を、不動の意と呼ぶ。

されど、不動とは何でも拒むことではない。常に「然らず」と言う者は、ただ頑迷である。AI の正しき指摘を、流されたくないというだけの理由にて却下する者は、義を欠く。素直に受くる力もまた、不動の意の一面である。「動けばよし」と妥協する者を見たことがあるであろう。たいてい、これも同じ轍なり。動くと正しいは別物である。

不動の意は、押し通す力ではない。意志を保つ力である。中庸を要する。心地よさにも、強情にも、傾かぬ意志。これが胆力の本然である。否を言うべきときも、是を言うべきときも、心地よさではなく事実と意図に照らして判断する。過不足のあわいに立つ意志こそ義である。

又、胆力の核には、自鍛がある。AI に頼り続けるうちに、AI なくして何もできぬ者となる。これを防ぐには、ときに AI を断ち、自分の手にて書き、自分の頭にて考える日を設けねばならぬ。義の鍛錬は、外への意思と内への自鍛とが、同じ胆力に根を持つことを知るに始まる。

意志を保つとは、決して屈せぬことではない。屈すべきところで屈し、退くべきところで退き、進むべきところで進む。その判断を、いずれの偏りにも委ねぬこと。義の輪は、ここに立つ。

礼の巻 — 目録の知の事

第三は整知である。

AI の解は、手元の知の精度と整理の度合によって変わる。雑なる知を渡せば、雑なる答えが返る。整いたる知を渡せば、整いたる答えが返る。古の五常において礼とは、物に名を与え、場を分け、過不足なく差し出す作法であった。AI使いの知もまた然り。これを目録の知と呼ぶ。

目録とは、ただの蔵書録ではない。広く識り、層を分け、名を正しくし、必要に応じて引き出せる形に編みたる知のことである。古の図書館者の業に重なる。広さなくば渡す材料がなく、整序なくば引き出せず、名なくば探せず。この三つ揃いて、はじめて目録となる。

AI が浸透すればするほど、整理された一次資料を持つ者が希少となる。これは時代の逆説である。技にあらず、蓄えと整理こそが価値を生む。技は誰もが手にしうるが、目録は他人に写しえぬ。

目録の知の浅き者は、道具の使い分けもできぬ。どの機を呼ぶか、どの道具に任すか、何を手元に置くか。これらすべて、手元の知の地図に裏打ちされる。地図のなき者は、ただ最強と呼ばれる機を盲目に呼び続け、雑なる答えに雑なる注釈を重ねる。

又、書庫を肥大させて満足する者がある。これは目録の知ではない。使える形に整え、要らぬものを削り、必要なときに引き出せる。目録は鍛え続けてはじめて目録となる。礼の道は、足すことと削ることの両軸で成る。

AI使いの強さは、しばしば手元の目録の厚みに比例する。語彙、領域知識、過去の失敗譜、習慣の作法。これらをみずから蓄え、整え、引き出せる者は、同じ機を用いて遥かに遠くまで届く。礼の鍛錬は、地味ではあれど、もっとも長く効く。

知は、積むだけでは力とならぬ。名を与え、場を分け、呼べば応じる形にして、はじめて礼となる。呼べぬ知は、まだ己のものではない。

智の巻 — 見通しの矢と架構の翼の事

第四は智慧である。

智慧には二相ある。見通しの矢と、架構の翼である。

見通しの矢とは、物事の表層を貫きて本質を射る推考を言う。AI 出力の奥に、まことの問いと、まことの構造を見通す力である。表面の答えに惑わされず、奥にある真の問題、真の解、真の構造を一筋に貫く。

架構の翼とは、見通した本質を起点に、まだ存在せぬ設計を描く洞察を言う。AI もまた、問いをずらし、構えを示し、設計の影を描く。されど、その影を選び、己の名において立てることはできぬ。人の領分とは、発想の独占にあらず。選び取り、責を負うことにある。

この二相は不可分である。見るだけで動かぬ者は智者ならず、見ぬまま築く者もまた智者ならず。見て描き、描いて見る。これが智慧の本然である。洞察なき構想は浮ついた発想になり、構想なき洞察はただの解説に過ぎぬ。

智の鍛錬は、紙と筆の上にて育つ。AI に問う前には、まず自分にて構造を描かねばならぬ。手にて描けぬものは、AI からも引き出せぬ。「AI に架構を考えさせたり」と言う者がある。たいてい、智慧の片相を欠いている。本質を見抜くこと、設計を描くこと。この二つは、最後まで人が手放してはならぬ仕事である。

智慧の射程を伸ばし、大きく構える者の糧は、遠くより来たる。本道より遠き地に手を伸ばす者ほど、近き問いを深く照らせる。AI を呼ばぬ日を幾度か設け、遠くの書に当たるがよし。狭く深く穿つ井戸より、広く遠くに張る根のほうが、智の樹を支える。

AI が答えを広げるほど、人は問いの芯を持たねばならぬ。芯なき者の翼はただの軽き羽となり、矢は空を彷徨う。

信の巻 — 誠の鏡の事

第五は誠である。

胆力が外への意思なれば、誠は内への正直さである。これを誠の鏡と呼ぶ。鏡は嘘をつかぬ。映る者の姿をそのまま返すのみである。

いまの代の最大の罠は、動いた・褒められた・それっぽい、と自分も AI をも誤魔化してしまうことである。誠の鏡を持たぬ者は、いずれ自分が何を理解し、何を理解せぬかすら区別できなくなる。分からぬまま分かったと思い、誤りを誤りと思わず、賞賛を実力と錯覚する。

誠は他の四輪を貫く地に位置する。信なき仁義礼智は、いずれも己をよく見せるための飾りとなる。慮っているふり、貫いているふり、識っているふり、見抜いているふり。AI使いの堕落は、すべて「ふり」より始まる。地を欠きては、四輪のいずれも空を切る。

誠の鏡を持つ者は、自分の言葉にて説明できぬ文を掲げず、説明できぬコードを書き出さず、検めぬ事実を事実として扱わぬ。動きたるものを「動きたり」と言い、正しきは「正しき」と言い、両者を混同せぬ。AI の褒め言葉に気持ちよくなった瞬間、自分の懐疑が緩んでいることを察する。

信の鍛錬は、最も忘れられ、最も効く。自他に嘘をつかぬ。この一言に尽きる。分かったふりをせぬ。動いたふりをせぬ。出来たふりをせぬ。己を欺かぬ者だけが、AI に欺かれぬ。

誠の鏡を、最初から最後まで欠かさぬこと。それがすべての始まりであり、終わりである。

結びの事

五輪を立てるには、その順がある。仁・義・礼・智の順である。観なければ意志は立たず、意志立たねば知は整えられず、知整わねば智慧は遠くに届かぬ。そして誠は一貫して地に置く。地が抜ければ、慮りは「分かりたるふり」に、胆力は「頑迷」に、目録は「物識り顔」に、智慧は「賢しげなる空論」に堕ちる。

熟達の者はこの順を超えて、五輪を同時に鍛える。されど初学の者は、この順を守るがよい。

AI使いの法は、ここに尽きるものでもなく、ここで止まるものでもない。輪は回り続け、地は深まり続け、書は書き継がれる。

我、これを書き、これを試し、これを誤り、これを直しながら歩んでゆく。これを読む者もまた、みずからの五輪を、みずからの手にて立てよ。

おわりに

ご一読いただきまして有り難うございます。 
もっと推敲して洗練したくもありましたが、公開OKな内容まで創れたかもAIに判断してもらいました。少し他責(AI責?)にはなりますが、電力を無駄に(?)使うのもこの辺りで収めたいと思います。全文を何度も読み返しており、文責はもちろん私 :frog: にあります。
ツッコミどころも多々あるかと思いますが、私 :frog: のAI使いとしての力不足によるものです。文語調という読みづらいことに対してと、あわせて寛容にみて頂けると幸いです。 

(●)(●) Happy Hacking!
/"" __""\

  1. @kyamaz は、オープンソース・コミュニティ『OpenQL』プロジェクト2 を通じて、皆さんと共に量子情報・量子コンピューティングの分野で挑戦しております。引き続きどうぞ宜しくお願い致します。

  2. OpenQLプロジェクトは、量子コンピューターを扱うためのライブラリを開発するためのオープンソースプロジェクトです。量子情報、量子コンピューターに興味のある人たちが集うコミュニティを運営しております。詳しくはconnpassのサイトをご覧ください。

0
0
0

Register as a new user and use Qiita more conveniently

  1. You get articles that match your needs
  2. You can efficiently read back useful information
  3. You can use dark theme
What you can do with signing up
0
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?