(2020年8月31日追記) 本記事執筆時に、Xbyakから関数呼び出しができない、グローバル変数にアクセスできないと誤解していましたが、普通にできるようです。詳細は光成さんのXbyakのノウハウを参照してください。
はじめに
JITアセンブラXbyakに興味を持つような人は、プログラムの高速化に興味があり、かつアセンブリを知っているような人であろう。
さて、数値計算屋1もプログラムの高速化には興味があることが多い。特に昨今はSIMDレジスタの有効活用が性能に直結することもあって、アセンブリを確認したりインラインアセンブラや組み込み関数を使った高速化をする人も多いだろう。
Xbyakは、関数一つがニーモニック一つに対応しているという点で組み込み関数と似たような使い勝手が期待できる。しかし、組み込み関数を使ったプログラムがコンパイル時に決定されるのに対して、XbyakはJITアセンブラなので、プログラムが決定されるのは実行時である。これが結構「使用感」の違いを生む。
以下、数値計算屋がXbyakを使ってみてハマったポイントを紹介したい。
関数の引数と返り値
インラインアセンブリを使う場合、関数の引数と返り値についてはコンパイラがよしなにやってくれるので気にしなくて良い。例えば引数として整数が与えられ、それをincしてから返す関数をインラインアセンブラで書くならこんな感じで書ける。
int func(int a) {
int r;
__asm__(
"mov %1, %%eax\n\t"
"inc %%eax\n\t"
"mov %%eax, %0\n\t"
: "=m"(r)
: "m"(a));
return r;
}
しかし、Xbyakで引数を扱う場合には、どの引数がどのように渡されるか、返り値はどのように返されるかを知らないとコードが組めない。
とりあえず返り値は簡単だ。C/C++の関数は返り値を一つしか返せず、数値計算屋が返すのは整数か実数かどちらかだろう。整数はeax
、実数はxmm0
を返すと覚えておけばとりあえず問題ない。問題は引数だ。
関数呼び出しにおいて、関数の引数がどのような形で渡されるかはABI (Application Binary Interface)の「呼び出し規約」で決まっている。
例えばx86_64において、
int func(int , int , int , int );
なんて関数があった時、Linuxでは引数がedi
,esi
,edx
, ecx
という順番に値が入ってくる。しかし、Windowsでは違ったりする。インラインアセンブラや組み込み関数を使っている時にはそんなことを知らなくても良かったが、Xbyakを使うなら意識しなければならない。Xbyakにはこのような差異を吸収するXbyak::util::StackFrame
などの仕組みが用意されているが、とりあえず数値計算屋の主戦場はLinuxであろうし、WindowsでもWSLで開発すればABIはSystem V ABIに従うので、当面はWindowsは忘れて良いだろう。
しかし、いずれにせよLinuxのSystem V ABIは覚えなくてはならない。
整数を二つ引数にとって整数を一つ返す関数なら、edi
とesi
に値が入ってきて、eax
に結果を入れてret
すれば良いので、例えば二つの整数の和を返す関数はXbyakで以下のように書ける。
#include <cstdio>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct AddInt : Xbyak::CodeGenerator {
AddInt() {
mov(eax, edi);
add(eax, esi);
ret();
}
};
int main() {
AddInt a;
auto f = a.getCode<int (*)(int, int)>();
printf("%d\n", f(1, 2));
}
ここで注意したいのは、コードを生成する関数(コンストラクタ)と、生成する関数のシグネチャは全く関係がないことだ。あくまで生成する関数のシグネチャは、getCode
のテンプレート引数で決まる。
一応gdbで動作確認をしておこう。-g
つきでコンパイルして、gdbで実行し、printf
のところにブレークポイントを置く。
$ g++ -g add_int.cpp
$ gdb ./a.out
(gdb) b 15
Breakpoint 1 at 0x1a7a: file add_int.cpp, line 15.
(gdb) r
Starting program: /mnt/c/Users/watanabe/Desktop/github/qiita/xbyak2/a.out
Breakpoint 1, main () at add_int.cpp:15
15 printf("%d\n", f(1, 2));
この状態でlayout asm
してアセンブリを見る。
callq *%rax
がXbyakが作った関数の呼び出しだ。その直前で、edi
に1が、esi
に2が入っていることがわかる。これがf(1, 2)
の部分だ。ここからsi
を何度か入力して、Xbyakの作った関数に入ろう。
mov %edi, %eax
add %esi, %eax
retq
と、そのままのアセンブリになっており、eax
にedi
とesi
の和が入っていることがわかる。eax
が関数f
の返り値として扱われるので、その後のprintf
では「3」と表示される。
一応実数の和も試しておこう。こんな関数を作りたいとする。
double f(double a, double b){
return a + b;
}
引数は順番にxmm0
, xmm1
に入れられて来て、返り値はxmm0
を使うので、単にxmm0
とxmm1
の和をxmm0
に入れてret
すれば良い。こんなコードになるだろう。
#include <cstdio>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct AddDouble : Xbyak::CodeGenerator {
AddDouble() {
addsd(xmm0, xmm1);
ret();
}
};
int main() {
AddDouble a;
auto f = a.getCode<double (*)(double, double)>();
printf("%f\n", f(1.2, 3.4));
}
実行すると、結果は期待通り4.6
になる。
$ g++ add_double.cpp
$ ./a.out
4.600000
配列を渡したり、整数と浮動小数を混ぜて渡したり、たくさんの引数を渡したりした場合、ABIの呼び出し規約を見てどの引数がどのレジスタに入ってくるかを確認する必要がある。また、レジスタが足りなければスタックに入れられてくるので、それも対応しなければならない。
定数の代入
レジスタに値を代入したい時、整数ならmov
に即値を渡すことができる。eax
に1を代入したければ
mov(eax, 1)
とすればOKだ。これはインラインアセンブラでも手間は変わらない。しかし、実数の代入は面倒だ。x86では実数はxmm
レジスタで扱うが、xmm
への即値代入命令は無いので、一度メモリに展開して、メモリからコピーしなければならない。
例えば、こんな関数を作りたいとする。
double pi(void){
return 3.141592;
}
これを実現するには、単にxmm0
に3.141592
を代入してやれば良い。ちょっと面倒だが、インラインアセンブラを使えばこんな感じになるだろう。
#include <cstdio>
#include <x86intrin.h>
double pi(void) {
__m128d xmm = {3.141592, 0.0};
__asm__(
"movups %0, %%xmm0\n\t"
:
: "m"(xmm));
}
int main() {
printf("%f\n", pi());
}
歴史的な理由でx86には64bitのネイティブな浮動小数点レジスタが無く、128bitのxmmレジスタを使うため、代入も__m128d
などの型を持った変数を使う必要があるが、そんなに面倒ではない。
また、このような拡張命令を使わずとも、グローバル変数からコピーしてやるという手もある。
#include <cstdio>
#include <x86intrin.h>
double my_pi = 3.141592;
double pi(void) {
__asm__("movupd my_pi(%rip), %xmm0");
}
int main() {
printf("%f\n", pi());
}
こういうことができるのは、コンパイラがコンパイル時にグローバル変数のアドレスがわかるからだが、Xbyakは純粋にC++の関数として実装されているため、こういう「ズル」はできない。 すみません、Xbyakから普通にグローバル変数にアクセスできるので、以下のような面倒なことをする必要はありません。
したがって、xmmレジスタに値を代入したければ、スタック上にデータを作ってからmovsd
するしかない。スタックをいじるからには、スタックポインタだのベースポインタだのを考える必要がある。あまり自信がないが、こんな感じになるだろうか。
#include <cstdio>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct Code : Xbyak::CodeGenerator {
Code() {
push(rbp);
mov(rbp, rsp);
sub(rsp, 0x8);
mov(rax, 0x400921fafc8b007a);
mov(ptr[rsp], rax);
movsd(xmm0, ptr[rsp]);
mov(rsp, rbp);
pop(rbp);
ret();
}
};
int main() {
Code c;
auto f = c.getCode<double (*)()>();
printf("%f\n", f());
}
$ g++ pi_xbyak1.cpp
$ ./a.out
3.141592
倍精度実数の3.141592
は、バイト列で表すと0x400921fafc8b007a
だ。これをrax
に突っ込んで、それをスタックにコピー、そのアドレスをxmm0
にコピーすることでxmm0 = 3.141592
を実現している。
さすがに実数のバイト列をいちいち計算するのは面倒なので、こんな補助関数を作るんですかね?
uint64_t double_byte(double x) {
unsigned char *b = (unsigned char *)(&x);
uint64_t v = 0;
for (int i = 0; i < 8; i++) {
v <<= 8;
v += b[7 - i];
}
return v;
}
これを使うと、さっきのコードはこんな感じになる。
#include <cstdint>
#include <cstdio>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct Code : Xbyak::CodeGenerator {
uint64_t double_byte(double x) {
unsigned char *b = (unsigned char *)(&x);
uint64_t v = 0;
for (int i = 0; i < 8; i++) {
v <<= 8;
v += b[7 - i];
}
return v;
}
Code() {
push(rbp);
mov(rbp, rsp);
sub(rsp, 0x8);
//mov(rax, 0x400921fafc8b007a);
mov(rax, double_byte(3.141592));
mov(ptr[rsp], rax);
movsd(xmm0, ptr[rsp]);
mov(rsp, rbp);
pop(rbp);
ret();
}
};
int main() {
Code c;
auto f = c.getCode<double (*)()>();
printf("%f\n", f());
}
結果は同じだ。
関数の返り値の決め方
Xbyakでは、関数の引数や返り値はGetCode::CodeGenerator
のテンプレート引数として決まる。なので、同じ関数を異なる引数を持つ関数として使うことができる。
#include <cstdint>
#include <cstdio>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct Code : Xbyak::CodeGenerator {
uint64_t double_byte(double x) {
unsigned char *b = (unsigned char *)(&x);
uint64_t v = 0;
for (int i = 0; i < 8; i++) {
v <<= 8;
v += b[7 - i];
}
return v;
}
Code() {
push(rbp);
mov(rbp, rsp);
sub(rsp, 0x8);
mov(rax, double_byte(4.56));
mov(ptr[rsp], rax);
movsd(xmm0, ptr[rsp]);
mov(eax, 123);
mov(rsp, rbp);
pop(rbp);
ret();
}
};
int main() {
Code c;
auto f1 = c.getCode<int (*)()>();
auto f2 = c.getCode<double (*)()>();
printf("f1() = %d\n", f1());
printf("f2() = %f\n", f2());
}
f1
とf2
は、Code
の同じインスタンスc
から作られているが、片方は返り値をint
、もう片方はdouble
と定義されている。関数の中身でeax
に123を、xmm0
に4.56
を代入しているので、getCode
のテンプレート引数によりどちらが返り値として使われるかが変わる。
$ g++ rvalue.cpp
$ ./a.out
f1() = 123
f2() = 4.560000
「だからどうした」と言われると困るのだが、組み込み関数だのインラインアセンブラだのを使ってきた人間からすると、「関数のシグネチャすら動的に決まる」というのに驚いたので書いてみました。
レジスタの中身の確認
(2020年8月31日追記) 以下はXbyakからグローバル変数が触れず、関数も呼べないと思って書いたものですが、普通に触ったり呼び出したりできました。なので、レジスタの中身を見るのにこんな面倒なことをする必要はありません。
SIMD化をしていると、「いまこの瞬間のレジスタの中身」が知りたいことが良くある。AVX2で普通にSIMD化するなら__m256d
型の変数を使うのだろうが、これは配列のようにインデックスアクセスができるので、print文デバッグが容易だ。
個人的にはこんな関数でymmレジスタの中身を表示させている。
void print_m256d(__m256d v) {
printf("%f %f %f %f\n", v[3], v[2], v[1], v[0]);
}
こんな風に使う。
#include <cstdio>
#include <x86intrin.h>
void print_m256d(__m256d v) {
printf("%f %f %f %f\n", v[3], v[2], v[1], v[0]);
}
int main() {
__m256d v = _mm256_set_pd(4.0, 3.0, 2.0, 1.0);
print_m256d(v);
}
$ g++ -march=native register.cpp
$ ./a.out
4.000000 3.000000 2.000000 1.000000
さて、Xbyakでは、作ろうとしている関数のレジスタの値を、作っている関数(Xbyak::CodeGeneratorを継承したクラスのコンストラクタ)の中のローカル変数に取り出すことができない。また、Xbyakから すみません。関数をcallできなかったのはシェアードライブラリがLoadされてなかったためでした。printf
をcallできないので(多分)、ymmの中身を直接浮動小数点数として表示することは困難だ。
なので、Xbyakからymmレジスタの中身をソース上からprint文デバッグしたければ、
- 関数の返り値にして一つ一つ確認する
- 関数の引数に配列を渡して、そいつに値を代入して、後から確認する
のどちらかになろうかと思う(デバッガ使え、という話もありますが・・・)。
後者の方針で、たとえばymm0
の値を見たい時、関数の引数としてdouble [4]
を渡して、そいつに値を代入することで後で中身を確認するようなコードはこんな感じになるんですかね。
#include <cstdio>
#include <x86intrin.h>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct Code : Xbyak::CodeGenerator {
Code() {
vmovups(ptr[rdi], xmm0);
vextractf128(xmm0, ymm0, 0x1);
vmovups(ptr[rdi + 16], xmm0);
ret();
}
};
int main() {
double x[4] = {};
__m256d v = _mm256_set_pd(4.0, 3.0, 2.0, 1.0);
Code c;
auto f = c.getCode<void (*)(__m256d, double *)>();
f(v, x);
printf("%f %f %f %f\n", x[3], x[2], x[1], x[0]);
}
これは引数として__m256d
、つまりYMMレジスタを受け取り、その中身を第二引数に渡したdouble
の配列にバラしてもらう関数だ。
コンパイル、実行してみよう。
$ g++ -march=native show_ymm.cpp
$ ./a.out
4.000000 3.000000 2.000000 1.000000
できてそうですね。せっかくなのでvpermpd
を使ってymm0
の中身をひっくり返してみましょうか。
#include <cstdio>
#include <x86intrin.h>
#include <xbyak/xbyak.h>
struct Code : Xbyak::CodeGenerator {
Code() {
vpermpd(ymm0, ymm0, 0 * 64 + 1 * 16 + 2 * 4 + 3 * 1);
vmovups(ptr[rdi], xmm0);
vextractf128(xmm0, ymm0, 0x1);
vmovups(ptr[rdi + 16], xmm0);
ret();
}
};
int main() {
double x[4] = {};
__m256d v = _mm256_set_pd(4.0, 3.0, 2.0, 1.0);
Code c;
auto f = c.getCode<void (*)(__m256d, double *)>();
f(v, x);
printf("%f %f %f %f\n", x[3], x[2], x[1], x[0]);
}
$ g++ -march=native show_ymm2.cpp
$ ./a.out
1.000000 2.000000 3.000000 4.000000
ちゃんとひっくり返った。できているようだ。
まとめ
Xbyakの説明というよりは、ほぼアセンブリの説明になってしまった。それなりにSIMD化とかしてアセンブリを見ていたつもりだったが、Xbyakを使ってみて「自分が全然アセンブリを知らない」ことがわかった。WindowsとLinuxで呼び出し規約が違うなんて知らなかったよ。
-
以下、「数値計算屋」という大きな主語を多用するが、本稿では単に僕のことを指し、数値計算屋全体がこうだ、と言いいたいわけではない。 ↩