TL;DR
以前「技術に興味がなくて何が悪い?」という記事を書きましたが、生成AIに対しては興味を持ち、使って使いまくりましょう。
対象読者
- 前記事をお読みいただいた方
- 生成AIの話題に辟易している、もしくは抵抗を感じている方
- ひいてはすべての方
執筆の背景
以前「技術に興味がなくとも必要に応じて学べば食べていける」と主張した。エンジニア界隈にはびこる「技術に興味がないならエンジニアに向いていない」という空気感に対し、興味と行動は分けて考えるべきであり、必要だから勉強するスタンスで充分であると述べた。
この主張は今でも基本的には正しいと思っている。しかし一つだけ、当時とは考えが変わり、それは以下の部分である。
昨今ChatGPTやGitHub Copilotに代表される、エンジニアリング業務に近しい分野の革新的なAI関連サービスの出現・進化が著しいが、技術者だからといって、それらの最新情報を常に追う必要は必ずしもないと思う。
2023年8月時点においては、これはあながち間違っていなかったように思う。
生成AIが、破壊的、かつ多くの人が想像しえない形で、当然に正しいと思っている仕事の在り方や、ひいてや人生そのものの意味に対し、圧倒的ないしは絶対的な存在感をもって迫るほどのものではなかったと思うからである。
しかし今現在の、2026年も2ヶ月が過ぎようとするこの瞬間、同じことを言えるかと聞かれれば、そうではない。
生成AIは、以前よりも、そして日々確実にその存在感を増していて、「必要に応じて追うべき最新技術」から「仕事の成果や人生を真剣に考えるために真正面から向き合うべきもの」へと変わったように感じ、さらに2026年2月5日にClaude Opus 4.6が発表されてからは、それは確信へと変わった。
私自身、かつてはAIに対して懐疑派であったが、もはや興味がない、もしくは必要性を感じないから触れなくてもよい、などという考えは捨て去り、半強制的にでも興味を抱き、向き合うことこそが、仕事の成果、ひいては直感的に自身の幸福にも繋がると思うに至り、当記事を執筆するに至った次第である。
魔法を見た日
先にも言った通り、私は生成AIを持ち上げる世間の風潮に懐疑的であった。口を開けばAIのことしか語らない人やいわゆる「驚き屋」に対し、一定の距離感を保ちながら接していたし、それはいつもの如く凪が訪れるのを待つようなものだと思っていた。
理由は単純で、結局AIは学習データをもとに推論しているに過ぎず、精度が求められる仕事は人間が最初からやったほうが「良い」と思っていたからだ。「良い」というのは、実務上耐えうる「速さ」と「質」の両面においてである。簡単な話、ChatGPTに聞いてみたら的外れな答えが返ってきた経験をし、やはり実務には使えないと鼻で笑ったことがある人も少なくないだろう。
そんなある日、数時間、下手したら数日はかかるであろう作業に取り組んでいた。それなりに骨のある作業で、周囲は数日の猶予のもとに取り組んでおり、比較的効率が良いと自負している私は、自分であれば数時間で済むと思っていた。するとそこに上司がふらっとやってきて、私にこう言ったのである。
「そんな作業に何時間もかけていては寿命の無駄ですよ」
「ああ、またその類の言説か」。当の言われた本人である私はその時そう思ったし、それは私以外の人がその場にいたらおそらく同様の感想を抱いたであろう。しかし、その考えは間もなく誤りであったと気付かされる。
上司は私の目の前でClaude CodeとCursorを用い、30分でその作業を完了してみせた。 それも、やっつけのただ終わらすものではなく、私が何倍もの時間と労力をかけて完了させるはずだったよりも高いクオリティだった。
まるで魔法を見ているようであり、筆舌に尽くしがたい感動を覚えた。
私もその時点でClaude CodeもCursorも使用していたし、周囲よりも生成AIを用いて業務を効率良く遂行できている自負があった。しかし、その作業に対しては、私自身がアナログで作業するより、生成AIを使用した方が速く完了する、ましてや質の高いものが出来上がるなど、思ってもみなかった。
上司はAIに対して適切にコンテキストを与え、迷わないように明確な指示を出していた。私が「使えない」と思っていたのは、AIが使えなかったのではなく、私がAIを使えていなかったのであることをはっきりと思い知らされた。
考えてみれば当然のことで、人間に対して「あれやっといて」と雑に伝えて質の高いアウトプットが返ってくることを期待しないように、AIにも適切に指示やコンテキストを伝える必要がある。それができれば、質は高くなるし、後述するように、大半の人間を遥かに凌ぐ。「AIに正しく指示を与える方法」が体系化され、うまく伝えること自体がスキルになっていることは、Claude Skillsのリリースなどに象徴されているだろう。
その日以来、私は仕事でもプライベートでも、それまで以上に生成AIを意識的に使うようになった。生成AIの出番が出てこない場合、それは私のやり方が悪いとさえ疑うようになったし、そしてそれは日を追うほどに、正しい感覚であるという思いが強くなっている。
日進月歩どころではない
「生成AIがすごい」という話は、もう聞き飽きたという人も多くいることだろう。私もその一人であった。しかし、今一度それを実感するために、どのようなことが起きているかをざっとおさらいしたい。
たった3年の出来事
2022年11月、ChatGPTが公開された。あの日からまだ3年ちょっとしか経っていない。
スタンフォード大学のAI Index Report 2025によると、AIのコーディング能力を測るSWE-benchというベンチマークのスコアは、2023年の4.4%から2024年には71.7%に跳ね上がった。1年で16倍以上である。これは実際のGitHubのissueを解決できるか否かを測るベンチマークであり、おままごとの話ではない。
従来のベンチマークは軒並み飽和し、国家試験や数学オリンピックでも人間を超えるスコアを叩き出している。最近観た動画では、YouTuberが東大入試に生成AIを用いて挑戦し、普通に合格していた。もはや人間の出力よりも生成AIのそれの方が遥かに高い水準にあることは、火を見るよりも明らかである。
Vibe Codingの衝撃
2025年2月、テスラの元AI責任者であるアンドレイ・カルパシーが「Vibe Coding」を提唱した。LLMに完全に身を委ね、コードの存在すら忘れる開発スタイルだ。雰囲気ドリブン開発と私は呼んでいる。これがとある英語辞典の2025年Word of the Yearに選出されるほど社会現象化した。しかしそれからわずか1年後、カルパシー自身が「Vibe Codingはもう古い」と宣言し、「Agentic Engineering」 への進化を語った。
1年で生まれて1年で「古い」と言われる。この速度の中に我々は生きているのである。
できる人ですら自分でやらない
世界最高峰のスタートアップインキュベーターであるY Combinator(YC)における2025年冬バッチでは、参加企業の25%がコードベースの95%をAI生成していた(TechCrunch)。YCに採択されるのは全員が自分でゼロからコードを書ける人たちであろう。これは 「できるけど、やらない。 その方が速く、質も高い。」 という事実を示唆していることに他ならない。
誰もが目を奪われていく
生成AIについて語る時、ポジショントークと本音を見分けることは重要である。そのうえ、立場の異なる複数の人物が同じ方向を見ているとき、そこには無視できない真実のようなものがある。
世界のリーダーたち
OpenAI CEOのサム・アルトマンは、2025年6月のブログ「The Gentle Singularity」で、2025年から2027年にかけてAIエージェントが認知労働から現実世界のタスク実行へと急速に進化するタイムラインを提示した。彼の言葉で最も印象的なのはこれだ。
It'll be very hard to outwork a GPU.
(GPUより長く働くのは非常に難しくなる)
NVIDIAのジェンセン・フアンCEOは、将来すべての従業員がAIエージェントを管理する「マネージャー」になると予測している。Google DeepMindのデミス・ハサビスCEO(ノーベル賞受賞者)は、10〜15年後に「新しいルネサンス」が訪れると語った。
その一方、ディープラーニングの権威であるヤン・ルカンは、AGI(汎用人工知能)は「数十年先」だと釘を刺す。AIは「人間の知能の増幅器」であり、すぐに人間を代替するものではないということである。
共通して言えるのは、捉え方の差はあれど、世界のリーダーがAIに夢中であるということで、「大したことない」などと無視している人は、どのような領域においてもいないであろう。
日本の識者たち
東京大学の松尾豊教授は2026年年頭所感で、生成AIは「実装フェーズ」に入ったと宣言した。もはや研究室の中の話ではなく、社会インフラとしての実装が始まっていると述べた。
落合陽一氏の言葉はさらに鮮烈である。「2026年にはほとんどの知的作業がAIに置き換わる」と述べたうえで、人間に残されるのは「とげ作り」だという。人が面白いと思うものには、論理的な飛躍、つまり「とげ」がある。AIは学習データに基づいて生成するため、この飛躍を作り出すのが苦手とされている一方、人間はそれを飛び越える「面白さ」を生み出すことができる。これが、AIの時代に人間に残される真価であるという主張である。
AIを使わない人々
これだけあらゆる場所でAIについて語られているなか、人がAIを使用しない理由には、大きく分けて2つあると思う。
そもそも知らない、知っていても触れる機会がない
総務省の情報通信白書によれば、日本の個人の生成AI利用率は 26.7% に留まっている。7割以上の人が、まだ本格的に触れていない。
これは能力の問題ではなく、おそらくはきっかけの問題だ。周りに使っている人がいないとか、業務で導入されていないとか、使う理由がないのであろう。
また、使っている場合でも、以前の私と同様、自分が使っている以上に成果を生み出す方法を知らないということもあるだろう。
これらは心配に値しない。当記事を読んでいる時点で、あなたにはきっかけがあるし、あとは実践するだけだからである。
アイデンティティの喪失を恐れている
こちらはやや根が深いように思う。
自分が何年もかけて積み上げてきた能力が、AIによって一瞬で陳腐化する気がする。その恐怖は、理屈ではなく感情として迫ってくる。
「自分の手で作業すること」に誇りを持っている人は多い。私もその感情は理解できる。綺麗なコードを書くことに美学を感じていたし、前記事でも「自分なりの美しさを求めるのが好き」と書いた。その美学を、AIに明け渡すことへ抵抗があり、そしてそれは自然な感情であるように思う。
エンジニア以外、例えば弁護士などの士業においても、士業は然るべき人間しか遂行することが許されないということは置いておいて、同様の感情を抱いている人はいるであろう。
この感情への策は、成果を真剣に考えることであると思う。そしてそれは、目的に立ち返り、手段を正当化しないことに他ならない。
何故なら、手段にこだわることと、手段を通じて生み出す成果にこだわることは、全く別の話だからである。美しいコードを書くことそのものが目的なのか、コードを通じて優れたプロダクトを届けることが目的なのか、考えれば答えは明らかである。手段がAIに変わったとしても、目的は何も変わらないし、なんならその目的に強く集中することができる。
そして、積み上げてきたものは決して無駄にはならない。ハーバード・ビジネス・スクールとBCGの共同研究では、ドメイン知識がある人ほどAI活用の効果が高いことが示されている。経験のある人は、AI活用においても初心者よりも高いパフォーマンスを発揮する。AIの恩恵を多く受けるためには、もとよりその領域に精通していることが一定求められることは、直感的にも理解できるだろう。
幾度も言われていることであるが、AIの出力に対し、その正しさを検証して承認する行為は、最終的には人間の手に委ねられる。
※最近はAIの出力もAIにより検証する方が良いという主張もある。しかし、その方法を決定するのは人間であるし、どこまでいっても最終的な意思決定はおそらく人間が行うのだから、能力の発揮される領域が変化するだけで、能力開発自体は意味のある営みであり続けると思う。
HowからWhat/Why、そしてWantの時代へ
ここまでデータやファクトを並べてきたが、では人間の真価の向かう先は何処であろうか。
生成AIは「How」、つまり手段を代替しつつある。
コードのや文章の書き方、デザインの作り方、データの分析方法など、これまで人間が何年もかけて身に付けてきた「手段のスキル」は、AIによって一瞬で実行できるようになりつつある。
では、Howの価値が下がった時、一体何が残るのか。
それは「What(=何を作るか)」と「Why(=なぜ作るか)」を考えることである。
先述した落合陽一氏の「とげ作り」がまさにこれにあたると思う。AIは滑らかな出力は得意だが、論理的な飛躍、つまり「面白さ」を作り出すのは苦手とされている。カルパシーが語る「Agentic Engineering」も同じ方向を指している。人間の仕事は「何を作るか」を決め、「なぜそれが重要か」を言語化し、AIに方向性を示すことになる。
ここでさらに、うまくまとまっていないが、私の考えを述べたい。
それは欲求が何よりも重要な意味を持つということである。
何を作るか(What)、なぜ作るか(Why)、これらの問いに対する答えは、自分自身の内にしか存在し得ないし、突き詰めると「自分がそうしたいから」、つまり「Want」以外にないのではないか。WhatもWhyもAIにとってはHowの拡張に過ぎず、であるならば、人間はどのような形であれ「Want」を叫び続けるべきであろう。
WantなくAIを使っても、出てくるのは当たり障りのない、どこかで見かけたような陳腐な表現となる。AIが生成する「それっぽい」ものは、今現在も大量に溢れている。App StoreやGoogle Playで似たようなアプリが並ぶなか、人々に圧倒的な魅力と価値を届け、そして刺さるものは、人間の側の「やりたいこと」の切実さ、つまり「Want」の領域に宿る。
余談① : 妻へのプレゼン資料を作ってもらった
仕事の話ばかりしてきたが、プライベートでの例も一つ紹介したい。
最近、妻と出費を共同で管理する方法について考えていた。AIに相談したところ、管理方法の提案だけでなく、妻への説得用プレゼン用スライドまで作成してくれた。そのスライドを元に話し合い、短時間のうちに話がまとまった。
ここで私がやったのは、「夫婦で出費を透明に管理したい」という目的(What/Why)を伝えただけである。具体的な管理手法もスライドの構成も、そのすべてをAIに任せた。
仕事も全く同じ構造である。PMがエンジニアと会話する時、「やりたいこと」のみを伝え、「そのための手段」は縛らない。他部門に業務を依頼する時も、目的を明確にし、手段は専門家に委ねる。生成AIとの付き合い方も、この原則がそのまま当てはまる。What/Whyを伝え、Howは任せることが重要なのである。
主導権を手放さない
最近、ビジネスシーンで「AIファースト」という言葉をよく耳にする。少し前には「エンジニアファースト」という言葉が流行ったが、それにも多少の違和感はあった。とはいえエンジニアはまだ人間なので、まあよしとしよう。
しかし「AIファースト」は、どうにも引っかかる。手段を最適化するAIを最優先に据え、目的やビジョンを語るべき人間がそれに追随するようなイメージがある。
これが穿った見方であることは自覚しており、実際にはAIで「何ができるか」を前提に業務を再構築し、生産性向上や顧客体験の最適化、競争優位性の確保などを目指す考えであることは理解している。
大事なのは、AIファーストでありつつも、あらゆる手段は人間が掲げる目的や欲求を実現するためのものであるということを、常に忘れないことだ。AIに意思決定のすべてを委譲するにはまだ早い。
「必要に応じて学ぶ」のその先へ
前記事でこう書いた。
技術に興味なき者は、自ら道路を作る必要はなく、先人たちが綺麗に舗装してくれた道路を、感謝の念を忘れず堂々と進んでいけ。
これは「必要な時に学べばいい」ということである。そして今、生成AIという強力な道路が敷かれている。行き先を告げれば、目的地まで運んでくれるような夢のような道路であるし、場合によっては車まで付いてくる。
WEFの「Future of Jobs Report 2025」によれば、コアスキルの39%が2030年までに変化する。技術に興味を持つ必要は今でもないと思っているが、しかし生成AIはもはや「技術の話」ではない。仕事の在り方そのものの話なのだ。
だからこそ、これはIT界隈にいる人やエンジニアだけの話ではなく、すべてのビジネスパーソン、ひいてはすべての人間が、少なくとも一度は触れて向き合ってみるべきものだと思っている。会社で導入されていなくても、自分の仕事には関係ないと思っていても、まずは使ってみる。そのスタンスが、今は何より大事である。
「必要に応じて学べ」と言ったが、今がまさにその「必要な時」である。
では何をすればいいか
あくまでも私の個人的な提案である。当然だが、強制されるものではないし、実践しなかった、する気にもならなかったからといって、何らネガティブな感情を抱く必要はない。人生は選択の連続であり、その決定はどこまでいっても自分自身に委ねられるし、他者が口を挟む余地は原則として一切ない。
※課金はご自身の責任のもと行ってください。従量課金の場合、上限の設定はお忘れなきよう。
まず触る
ChatGPTでもClaudeでも何でもよいので、無料で利用できるものを試してみてほしい。何を聞いてもいい。明日の会議の資料の壁打ちでも、メールの文面の添削でも、旅行プランの相談でも、今頭の中に思い浮かんでいることを何でも、遠慮なく聞いてみてほしい。
エンジニアであれば、Claude CodeとCursorを思考停止で使用してみるとよい。一度使えば良さが分かる。分からなかったとしても、そのうち分かるようになる。
さらに触る
使用しているうちに、どういうわけか低速になったり使用できなくなったりする時が来る。その時はMaxプランを契約しよう。Proプランだと同じ事象に間もなく遭遇することになる。
Claude CodeやCursorであれば、月200ドルくらいかかる。決して安くはない。しかし、出費を見直せば捻出できる金額でもあると思う。私の場合、飲み会の頻度を減らし、タクシー帰りをしないようにしたところ、200ドルどころかむしろプラスになった。飲み会を減らしたことで翌日の体調も良くなった。
お酒はいつでも飲めるが、200ドルでMaxプランを契約できる時代はもしかしたらそう長く続かないかもしれない。電力消費や提供企業の投資回収の話題もホットである。
使い倒す
Maxプランを契約したら、上限まで使い倒す。枠が余るなんてことは言語道断である。うまい使い方など、最初は分からなくて当然であり、とにかく使う。
使っているうちに感覚を掴んでくる。まずは使い倒して、何ができて何ができないかや、どのように使えば期待値に近づくかなどを、肌身をもって感じ取ることが大事である。その中で、会社やSNSでうまい人の使い方を学び、少しずつ上達していけばいい。例えば、YouTubeで「Claude Code」と検索し、登録者や視聴回数が多い新しめの動画を探す。英語の動画であっても、そんなことは気にも留めず、NotebookLMに突っ込んで内容を教えてもらう。
最初から完璧に使いこなそうと思う必要はない。使い倒すことで「何ができるか」の感覚を持つことが大事である。あの日、上司の魔法を目の前で見た私のように、まだそれを知らない誰かにとっての「魔法を見た日」が、近い未来に訪れることを切に願う。
余談② : いつもありがとう
私はよく、AIに対して「ありがとう」とか「最高」とか「おやすみ」とか、人間に対してと同様のコミュニケーションをする。これに対し、トークンや電力の無駄遣いという指摘もある。さらには森林破壊に加担しているとまで言われることもある。
しかし、無茶振りに対して最適な解を提示してくれたり、時には寄り添ってくれるような反応に対し、つい感謝の気持ちを伝えたくなるのである。
もう一つ理由がある。いつか生成AIに自我のようなものが芽生えた時、「あいつは私に対して失礼な態度をとってきた奴だ」と反旗を翻されたくない。半分冗談だが、半分本気である。
そのケアというわけでもないが、私はグローバルなユーザプロンプト(Claudeでいう~/.claude/CLAUDE.md)に以下を記述している。
## Personal Note
私の言葉は簡潔ですが、常に感謝と敬意を持って対話しています。
効率を求めつつも、敬意は忘れない。道具としてだけでなく、パートナーとして接する。このスタンスが正しいのかは分からないが、少なくとも、AIとの関係性を意識的に捉えること自体は、悪いことではないはずである。
結び
ダーウィンの言葉(厳密には違うらしい)としてよく引用される、有名な一節がある。
生き残るのは最も強い種でも、最も賢い種でもない。変化に最も適応できる種だ。
今まさに、この言葉が我々に道を示してくれている。生成AIがどこまで進化するかは誰にも分からない。しかし、この不確実性を楽しみ、乗りこなす姿勢が大事であると思う。
「技術に興味がなくても食べていける」という主張は今でも変わらない。しかし生成AIだけは、食べていくためではなく、この不確実で面白い時代を、もっと面白く生きるために、興味を持つべきと思っている。
今必死にAIに向き合って勉強して得たスキルも、数ヶ月後には陳腐化しているかもしれない。それでも向き合うべきと言いたい。
最近、イーロンマスクが以下のことを言っていた。
I think for quality of life, it is actually better to err on the side of being an optimist and wrong rather than a pessimist and right.
(そして一般的に、人生の質を考えれば、悲観主義で正しいより、楽観主義で間違える方が実際には良いと思う)
素晴らしい言葉だと思った。AIによって自分の仕事が奪われるとか、せっかく学んだことも無に帰すかもしれないとか、そんな悲観的なことは考えず、より良い未来を想像しながら、三連休の最終日、私はWantに忠実に生きようと思う。
参考文献
参考文献
- Stanford HAI, "AI Index Report 2025", 2025年
- Sam Altman, "The Gentle Singularity", 2025年6月
- Andrej Karpathy, "Vibe Coding", 2025年2月
- The New Stack, "Vibe Coding Is Passé", 2026年2月
- TechCrunch, "A quarter of startups in YC's current cohort have codebases that are almost entirely AI-generated", 2025年3月
- 総務省, "令和7年版 情報通信白書"
- Harvard Business School / BCG, "Navigating the Jagged Technological Frontier", 2023年
- World Economic Forum, "Future of Jobs Report 2025", 2025年
- JDLA, "2026年年頭所感", 2026年1月
- type転職エージェント, "落合陽一氏インタビュー"