ソフトウェアを作るという行為が、根本的に変わりつつあるんじゃないかということ。
きっかけは些細なことだった。知り合いの非エンジニアが、AIと対話しながら自分用の業務ツールを作ったという話を聞いた。「え、あの人が?」という驚きと同時に、ああ、これもう始まってるんだなという感覚があった。
「建築」の時代が長かった
ソフトウェア開発は、ずっと「建築」に喩えられてきた。設計図があって、基礎工事をして、上モノを組み上げていく。アーキテクチャなんてそのまんまの言葉を使ってるし、実際そういうものだった。
建築には当然、専門知識がいる。構造計算もできない素人にビルは建てられない。同じように、プログラミング言語を知らない人にソフトウェアは作れなかった。だから何年もかけて技術を身につけた「エンジニア」が必要だったし、そのこと自体に疑いはなかった。
ただ、最近思うのは、この比喩はもう賞味期限が切れかけてるんじゃないかということだ。
これ、料理に近くないか
2025年あたりからAIのコード生成がかなり実用的になって、「こういうの作りたいんだけど」と自然言語で伝えると、まあまあ動くものが出てくるようになった。完璧じゃない。でも出発点としては全然使える。
この状況を見ていて、ふと思った。これ、料理じゃん。
料理って別に特別なスキルじゃない。毎日、世界中で何十億人もの人がふつうにやってる。レシピを見ながら作ればだいたい形になるし、冷蔵庫の余りもので適当に作ってもそれなりに食べられる。プロの料理人じゃなくても、晩ごはんくらいは作れる。
ソフトウェアも、そっちに向かってる気がする。
なぜ「料理」がしっくりくるのか
建築と料理って何が違うかというと、失敗したときのダメージだと思う。
建築は失敗できない。ビルが崩れたら人が死ぬ。だから資格制度があって、厳密な基準があって、長い教育が必要になる。当たり前だ。
一方、料理は失敗してもまあ大丈夫。焦がしたらもう一回焼けばいい。味が薄かったら醤油を足せばいい。最悪、コンビニに行けばいい。
で、冷静に考えるとソフトウェアって本質的には料理側なんだよね。コンパイルエラーが出ても誰も死なないし、バグがあったら直せばいい。デプロイしてから「やっぱ違うな」と思ったら戻せばいい。
なのに長いこと建築みたいに扱われてきたのは、単純に「作るのがめちゃくちゃ難しかった」からだ。作ること自体のハードルが高すぎて、まるで専門家しか触れない領域のように見えていた。
AIがその「難しさ」を急速に下げている今、ソフトウェアは本来の姿に戻りつつあるんだと思う。気軽に作って、試して、ダメだったらやり直す。それでいいじゃん、という世界。
素材はもうスーパーに並んでる
料理の比喩をもうちょっと続けてみる。
昔はソフトウェアを作ろうと思ったら、小麦の栽培から始めるようなものだった。データベースを自分で立てて、認証の仕組みを一から書いて、サーバーの面倒を見て。それだけで気が遠くなる。
今は違う。Stripeを使えば決済が入る。Firebaseで認証ができる。Cloudflareにデプロイすれば世界中からアクセスできる。素材はもうスーパーの棚に並んでいて、カゴに入れるだけでいい。
レシピも変わった。昔のレシピはUML図とか詳細設計書とか、読むだけで疲れるものだった。今は「ユーザーがログインしたらダッシュボード出して、左にメニュー置いて」くらいの雑な日本語でいい。AIがなんとかしてくれる。
道具としてのAIは、切れ味のいい包丁みたいなもので、素材をレシピ通りに加工してくれる。道具がよければ、料理人の腕はそこまで問われない。
で、いちばん大事なのは料理人——つまりアイデアを持ってる人だ。コードが書けなくても、「何を作りたいか」がわかっていれば、もうキッチンに立てる。
家庭料理が誕生する
ここで一個、大事な話がある。
料理には家庭料理とレストランがある。家庭料理は自分や家族のために作るやつ。見た目とか気にしないし、完璧じゃなくてもいい。冷蔵庫にあるもので適当に作って、おいしければOK。
レストランは別の話。不特定多数のお客さんに出すから、品質の安定、衛生管理、オペレーションの効率化、いろいろ求められる。プロの仕事だ。
ソフトウェアもこの区別が重要になると思っていて、AIの時代にドカンと増えるのは間違いなく「家庭料理」のほうだ。自分用のちょっとした自動化スクリプト。チーム内だけで使う簡易ツール。週末に作る趣味アプリ。
何百万人が使うプロダクションシステム——セキュリティ、パフォーマンス、可用性、法規制——は引き続き「レストラン」であり、プロが必要だ。それは変わらない。
でもさ、世界で消費される食事のうち、レストランで作られるものってどのくらいだろう。ほとんど家庭料理だよね。ソフトウェアも、たぶんそうなっていく。今までは「レストランの食事」しか存在しなかった世界に、「家庭料理」が一気に現れる。
コードが書けるかより、味がわかるか
「なんかちょっと物足りないな」「ここに酸味があったらいいのに」「火を入れすぎた、次は気をつけよう」。この判断ができるかどうかで、同じレシピでも全然違うものができる。
ソフトウェアも同じ方向に行ってる。AIがコードを書いてくれる世界で問われるのは、「コードが書けるか」じゃなくて、 「いいソフトウェアがわかるか」だ。
この画面遷移、なんか気持ち悪くないか。このボタン、押しにくくないか。この機能、本当に要るのか。ユーザーは何に困ってるんだっけ。
こういう「味見」ができる人が、いいソフトウェアを作れる。そしてこの能力は、プログラミングとはほとんど関係がない。むしろ、ふだんからいろんなアプリを使っていて、「ここが使いやすい」「ここがダメ」と感じてきた人のほうが有利かもしれない。
レシピが共有される世界
料理の文化って、レシピの共有で発展してきた。誰かがうまい組み合わせを見つけて、それを言葉にして、別の誰かがアレンジして、さらに広がっていく。
ソフトウェアでもそれが起きると思う。ただし共有されるのはGitHubのリポジトリやnpmパッケージじゃなくて、自然言語で書かれた「レシピ」だ。
「Notionみたいなアプリの作り方」「個人ブログの始め方」「家計簿アプリのレシピ」。料理本みたいにソフトウェアのレシピ本が出る世界、わりとすぐ来るんじゃないかな。
プロがいらなくなるわけじゃない
ここまで書くと「じゃあエンジニアいらなくなるの?」みたいな話になりがちなので、先に言っておく。ならない。
誰でも卵焼きは作れる。でもミシュランの三つ星は無理だ。家庭料理がどれだけ普及しても、レストランはなくならなかった。むしろ逆で、みんなが料理するようになったことで「食」への関心が高まって、レストラン産業はもっと成長した。
ソフトウェアもそうなるはずだ。みんなが小さなアプリを作るようになれば、「ソフトウェアってこういうことができるのか」という理解が広がって、もっと高度なものへの需要が生まれる。プロのエンジニアの価値は、なくなるどころか上がる。
ただ、求められるものは変わるだろうなとは思う。「コードが書ける」だけの価値は下がっていって、代わりに「何を作るべきか判断できる」「複雑なシステムを俯瞰できる」みたいな、料理長的な能力が重要になっていく。
終わりに
ソフトウェアは料理になる。
それは「誰でもできるから価値が下がる」という話じゃない。料理がそうであるように、誰でもキッチンに立てるようになる、という話だ。
家庭料理を楽しむ人が増えて、プロのシェフはもっと腕を磨いて、食文化全体が豊かになった。ソフトウェアでも同じことが起きるんだと思う。
必要なのはプログラミングの知識じゃなくて、味覚だ。「自分は何がほしいのか」「これ使いやすいか」「なんか違うな」。その感覚がある人は、もうキッチンに立てる。