はじめに
以前に私は
という記事を書いているのですが、その上で
を読んでみて
よくあるパターンは、「心理的安全性」とは「居心地の良さ」である、という認識でしょうか。なんとなく似た意味にも感じますが、実際はまったく別物です。
というのを強調したくなるのはとても分かるのですが、「別物」と言い切ってしまう部分に、それこそ「モヤッとした」部分がありました。
(どちらかといえば私はこの記事に賛同するところが多いのですが、だからこそ感じた微妙で重要な部分での違和感)
それとつい最近、同僚と
- 心理的安全性が高ければ、全員が発言するようになるか?
というので意見を交わしたのですが、そこであったズレに先に感じた「モヤッと」と通じる部分がありました。
またその部分は、私が以前に書いた記事でも説明が足りてない、誤解を招きやすい部分かなと感じた点でもありました。
これらがこの記事を書いてみようと思った発端です。
心理的安全性と居心地の良さ
ということでの問いかけですが…
- 心理的安全性は居心地の良さではないのでしょうか?
私自身の理解としては…
- イコールではないが重要な関係がある
という理解です。
エドモンドソン自身、心理的安全性とインクルージョン、ビロンギングとの関係について
イクンルージョン(包摂)とビロンギング〔自分らしさを発揮しながら組織に関われる心地よさ〕を実現できている職場は、心理的に安全な職場である
として
心の底で不安を覚えていたら、居心地がよい(ビロンギング)とは感じにくい
というコメントを『恐れのない組織』の「心理的安全性に関する、よくある質問」の章でしています。
また、以前の目指したいゾーンという章で出した図表なのですが
図表のマトリックス部分は https://gentosha-go.com/articles/-/47746 の「[図表]心理的安全性x目標に対する責任感」からの引用になります。
もともとはエイミー・C・エドモンドソンの「The Competitive Imperative of Learning」に掲載されている図表の引用になり、笹野晋平氏が日本語訳したものになります。
と、縦軸が心理的安全性となっていて、心理的安全性だけが高い左上のゾーンは「快適 Comfort」なゾーンとなっています。
一方、職場でより目指したいゾーンとしている学習ゾーンは、別な横軸として「目標達成に対する責任感」が高いことが要素として加わってきています。
また、これは自作の図ですが心理的安全性が効果を出すサイクルとして
といったまとめを試みていました。
というように、心理的安全性は…
- 居心地の良さや安心・安全という感情が土台として存在することでリスクがとりやすい場、リスクをとっても居心地が悪くない場
ということで、居心地の良さも重要な要素を果たしているわけです。
つまり居心地の良さは心理的安全性において、「だけ」な存在ではないけど「重要」な存在、と私は理解しています。
定義に関するより詳しい説明は手前味噌ながら https://qiita.com/i9i/items/06f9326e365f442889ab#%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E3%81%A8%E8%83%8C%E6%99%AF%E5%86%8D%E5%85%A5%E9%96%80 を参考にしていただけたら…
とはいえ心理的安全性は居心地のよさ「だけ」ではない
これまたエドモンドソンの『恐れのない組織』からの引用になりますが、
心理的安全性とは、素直に発言したり懸念や疑問やアイデアを話したりすることによる対人関係のリスクを、人々が安心して取れる環境のことである
という定義が特徴的ですが、そういうリスクをとれる環境を指しているわけです。
つまり居心地が良いだけでなく、ある種それを壊すようなリスクを安心して取れる、つまり意訳すれば「空気を読まない・壊す発言をしても安心な環境」と言えるのではないでしょうか?
ということは、居心地の良さを土台としながらも、そこでいわゆる創造的破壊的を行うリスクをとれる環境なわけで、そういう文脈のもと
に書いてある
- 心理的安全性は「ゴール」ではない
- 心理的安全性は「意見の違い」を恐れない状態
というのは、「職場」という状況下においての強調点として私も賛同したいです。
心理的安全性が居心地の良さではない、と言いたくなる事情
これは端的に言えば
- 「心理的安全性」が企業文化の重要要素として語られている状況だから
だと私は考えています。
資本主義化での会社は利益を求める合目的性の高い存在です。
合目的性というある種「シビア」な状況に対して、心理的安全性とかいうある種「ヌルイ」要素がなぜ重要なのでしょうか?
その背景としてエドモンドソンは
産業革命において成長のエンジンになったのが標準化(労働者が動労者部隊となり、「唯一裁量の方法」のみを使ってほぼすべての作業を行う)であったように、現代において成長を推進するのは、発想と創意あふれるアイデアだ。人々は知恵を出し、協力して、問題を解決したり、絶えず変化する仕事をやり遂げたりしなければならない。組織は、長く成功するために、価値創造の新たな方法を探さなければならないし、探し続けなければならない。
という時代背景を出してきます。
そのような状況にあって
知識労働者が真価を発揮するためには、人々が「知識を共有したい」と思える職場が必要
とし、そのための重要要素として心理的安全性が調査の結果として浮かび上がってきた、と言っています。
(これらは『恐れのない組織』の「はじめに」からの引用)
つまり最終的に持っていきたい方向はこのような方向なわけです。
「職場」における心理的安全性を語るときには、いやらしい言い方をすればですが、こういう利益を出すための要素が強調されがちになるのもしょうがないとも言えます。
この辺り、合目的な集団である会社における心理的安全性の重要性のバランスが難しいところだと私は思っています。
もしそんなこと言ってたら会社の存続や利益がとれないのであれば心理的安全性なんて無視されてしまうことでしょう。
一労働者側からすればそんな会社は積極的に辞めるという選択肢もあります(転職という選択肢が無い環境なら労働争議になるのでしょうが…)。
一方で、もし合目的じゃない集団(家族や恋人といった)、つまり目的よりも存在自体を重要とする集団においての心理的安全性を考えると、それは「居心地の良さ」みたいなものの重要性が強調されることになるでしょう。
とはいえさらにいえば、家族や恋人といった集団を合目的な集団と捉える人もいるわけで、そういう人にとってはその目的の方が優先されるのでしょうが… 😥
心理的安全性が高ければ全員が発言をするのか?
そうした上で心理的安全性問答の1例になるのが、同僚から投げかけられた表題の問いかけとなります。
これも結論から言えば、心理的安全性「だけ」ではムリ、となります。
先にも引用したエドモンドソンの『恐れのない組織』からの心理的安全性に関する定義の一節である
心理的安全性とは、素直に発言したり懸念や疑問やアイデアを話したりすることによる対人関係のリスクを、人々が安心して取れる環境のことである
にあるように、心理的安全性はあくまでそういう「環境」でしかないのです。
そういう傾向、つまり全体でみれば発言を増やす傾向になる可能性が高く、発言を誘う重要な要素ではあっても、それだけでその結果をだせるものではないわけです。
つまり、これまた常套句ですが
- 心理的安全性は銀の弾丸ではない
わけです。
心理的安全性が高ければ発言「しやすく」なりはします。
ただ、そこにおいて個々人が最終的に発言「する」かどうかは最終的には個人の判断になります。
前回の私の記事であればスパイト行動についての考察で触れた部分ではあるのですが、集団は善意だけで成り立っているわけではないので、善意だけを信じるわけにはいかなです。
端的な悪意だけじゃなくて中立な人も多いですし、ゲーム理論的にそれが得となる状況になったからといって、誰もが最適行動を取る訳では無いです(ある程度の傾向性を強めることは出来ても)。
さらに理論と違い開放的な条件の会社組織では参加者それぞれのゲームの理解自体が違います(利得表を一つに固定できない)。
そういう場面では、学習や誘導や広報、(様々な意味での)報酬体系の整備といったあの手この手なからめ手が必要なんじゃないでしょうか?
(その結果として心理的安全性はより高まる場合もあると思いますが、必ずしも一致しないパワーゲーム的様相があると思います。そういったのは私自身は苦手ですがね!🤣)
また、発言が苦手、得意じゃない人まで発言を強制する訳にもいかないと思います(苦手や得意じゃない理由は様々)。
あと、そもそも全員が発言しなくちゃいけないのか? というのもあると思います。
価値観や行動の強制は、それこそ心理的安全性を下げがちな行動や文化になりがちだとは私は思います。
そう考えると、あるいはそもそも発言ではなくもっと別な場をつくったり、仕組みだったりというのが必要という見方もあります。
そういうある種ダイバーシティ的な対応というのも心理的安全性を高めるものだと私は考えます。
最後に
といったことを書こうという気になった一番の要因は、
- 心理的安全性が合目的や利益を中心として語られがちという傾向をちょっと嫌だな、と思う部分があったのだな
と書いてみてあらためて気づきましたw
まじめな話でいえば、前回の記事では搾取・疎外、生存と文化 と題して書いてみましたが、会社を「文化」の場として捉えた場合に「心理的安全性」が果たす役割とか、心理的安全性は会社や職場よりも広く社会的場でも重要な要素だと私は考えています。
(必ずしも一致するわけではないですが文化ドリブンなんて考え方もありますし)
そして心理的安全性が重要と扱われるような環境は、ある意味とても贅沢で壊れやすいものではないでしょうか?
だからこそ大切に維持したいものだと私は思っています。
一方で開き直った言い方をしたら…
- 会社の居心地が良くて何が悪いの?w
とかねw
(もちろんここでも「だけ」じゃないのが重要ではありますがね😉)
こうなってくると会社は何のため・誰のためにあるのか論争になってきて、またちょっと話題がずれて来るので、この記事はここまでで突然終わります。